2007年8月15日 第61回「今月の言葉」
認知の歪み(7)

●(1)「認知の歪み」を連載していますが、あと1~2回お送りしてから、本来の「認知療法」における「認知の歪み」に入りたいと思っています。今回は、超有名な「龍安寺の石庭」についての驚くべき「認知の歪み(?)」をお届けしたいと思っています。
 以下は、すべて<「禅という名の日本丸」山田奨治著、弘文堂>からの引用です。
●(2)<「虎の子渡し」から「大我」>
 
 <静かに座って石庭と問答して下さい。・・・・・大海原に点在してふくいくたる香りの平和の島々が一連の雲峰を思わせ正面の油土塀とよく調和して宇宙天地の「大我」を現わし、石庭に対面する吾々「小我」のものは「大我」の静かで清く美しい真心に打たれ世の汚れた心を清められ石庭に接する前の吾々は仏性を得て心から洗い清められた喜びに浴する禅の極致をそのまゝ表現しております。・・・・・正に天下無比の石庭であって「石庭」と呼ぶよりはむしろ「無庭」「空庭」と名づけるべき庭であります。禅では一木一草ことごとく神であり仏の姿でありますが、この庭は余す所なく禅の神髄を教えております。>  京都・洛北にある大雲山龍安寺は、石庭で名高い。文字通り、「禅の庭」の代表として、内外から観光客がわんさと押し寄せている。
 冒頭に挙げた文章は、その龍安寺の石庭がみえる方丈に掲げられている、説明の言葉である。石庭についての、寺側の公式見解ともいうべきものだ。なるほど、石庭が「大我」ならば、わたしのような「小我」の者には、その真髄がわかるはずもない。
 龍安寺の石庭は悪い庭ではない。あれほど単純なものが、あれほど高名になった、実に興味深い庭だ。混んでいるときは最悪だが、観光客のいないオフ・シーズンの朝に、方丈の縁側にひとりで座って、そよそよと渡る風を感じ、小鳥のさえずりを聞きながら眺めていると、気持ちのよいものだ。しかし、そんな爽快感は、わが家のベランダにいても感じることはある。世界遺産の庭を独り占めしているという優越感を除けば、あの石庭が別格という感じは、どうしてもわかない。

●(3)ところで、江戸時代のひとは、龍安寺の石庭をどうみていたのだろうか。寛政年間に出版された、京都の代表的な庭園案内書の「都林泉名勝図会」(1799)(藤森注:著書にはここに図があります)をみると、この石庭はこんな風に紹介されている。

 <むかし細川勝元ここに別業をかまへ従せらるゝ時、書院より毎朝男山八幡宮を遥拝せんが為に庭中に樹を植ず。奇巌ばかりにて風光を催す。これを相阿弥の作りし也。名づけて虎の子わたしといふ。洛北名庭の第一なり。>

 この庭は、「虎の子渡し」のようだという。これが、18世紀末から19世紀ころの石庭の、代表的な紹介のされ方である(藤森注:ここをよく記憶しておいてください)。
 「虎の子渡し」は、中国の故事だ。函谷関あたりの弘農という土地で、虎が暴れてひとびとを困らせていた。そこへ、劉昆の徳政のおかげで、ついに暴れ虎は子を背負って河を渡り、どこかへ行ってしまった。「後漢書」に出てくる話である。

●(4)また、「広辞苑」に載っている「虎の子渡し」はこうだ。虎が子どもを三匹産むと、そのうち一匹は豹の子だという。親が見張っていないと、豹の子がほかの虎の子を食べてしまう。その虎の親子が水を渡らなくてはならなくなったが、一度に子どもを一匹ずつしか運べない。虎の子を豹の子に食べられないようにしながら三匹を渡すには、さてどうすればいいでしょうか。
 正解は、まず豹の子を渡す。つぎに虎の子を一匹渡して、帰りに豹の子を連れて戻る。そしてもう一匹の虎の子を渡す。最後に豹の子をもう一度渡す。そうすれば、虎の子は豹の子に食われない。
 どちらの話を採るにせよ、虎が子を背負って河を渡るさまを表現したのが、龍安寺の石庭「虎の子渡し」だという。
 「虎の子渡し」といういい方は、古くは1645年の「正保2年呈公庁記」という文献にみられるらしい。もちろん、石庭の石組みの呼び名として、「虎の子渡し」はいまでも通用している。

●(5)ここで考えてみたい。石庭のことを、「虎の子渡し」のようだというのと、「禅の真髄」や「大我」だというのとでは、その心持がまったく違いはしないだろうか。「都林泉名勝図会」から現代までの約200年のあいだに、龍安寺の石庭のみかたが変わってしまったのではないかと、疑いたくなる。
 龍安寺の石庭には謎がある。そもそもこの庭は、いつ誰の手によって作られたのか、はっきりしていない。それにもまして、なぜこの庭がきれいなのかということ自体が、謎なのである。
 結論から先にいってしまおう。龍安寺の石庭をめぐる言説は、1920年代以後、この作者論と美学論が車の両輪のようになって、動いてきた。戦後になってから、禅思想を交えた言説がそこに加わり、それが海外に喧伝されて、禅ブームに乗って外国人が押し寄せるようになった。そんな流れで、龍安寺の石庭は禅の悟りを表現しているといういい方が、やがて支配的になっていった。
 わたし(著者)は、石庭の作者が誰なのか、なぜそれがきれいなのかを解明することには、あまり興味がない。だから、わたしはこれらの二点について特別な意見を持っていないし、ましてや新説など期待しないで欲しい。むしろ、石庭の作者と美をめぐってどのような論争が繰り広げられたのか、石庭の禅的な説明が、いついかなる形で生まれていったのかを、知りたいと思っている。
 石庭は本当にきれいなのだろうか。きれいな訳は、どのように説明されてきたのだろうか。石庭の美が戦後の日本国民の「常識」と化していったなかで、その美の秘密を解きあかし、あるいはそこに禅をみいだそうとしたひとびとの、飽くなき試みと屍の数々・・・まずそれを振り返ってみたい。

●(6)<荒れていた石庭>
 今でこそ、龍安寺は石庭で世界に名をとどろかせているが、1950年頃までは、竹薮のなかにたたずむ、訪れるひとも稀な、ひっそりとした貧乏寺だった。門前を横切る観光道路もなく、雑木林の参道のずっと奥まったところに、龍安寺はあった。
 江戸時代から明治のなか頃までは決まった住職もおらず、妙心寺が寺を管理していた。明治維新で田畑や山林が国有化されたときには、境内の土地や寺宝を売って、寺を維持していたという。
 明治40年(1907)に、大崎龍淵が龍安寺の第12代の住職になった。先代の伯蒲和尚は桃山時代のひとで、大崎は約300年ぶりの常任の住職だった。明治・大正から昭和の終戦までの、経済的にはどん底の時代に、大崎は寺を守った。
 松倉紹英が第13代の住職になったのは、昭和23年(1948)のことだった。住職になった当時の龍安寺のことを、松倉は、「明治維新当時を偲ばせる程の惨憺たるもので、戦時下いつ空襲があるかも知れないというわけで雨漏りの修理も行なわれず、人手不足で境内も荒れ放題、草茫茫で、配給制度下で食料も不足、住職が一人で漸く露命をつないでいるだけという惨状でありました」と回想している。
 いまの龍安寺には、多いときで一日に数千人もの観光客が来るという。それと比べたら、なんという惨めさだろう。
 しかし、住職ひとりの生活にも困っていたのは、何も龍安寺だけのことではなかった。終戦直後の寺院は、どこも龍安寺と似たような状況だったことだろう。そんな状態から出発して、松倉が住職を務めていた昭和23年(1948)~51年(1976)までの時代に、龍安寺は驚異的に人気を高めていった。
 それにしても、龍安寺が貧乏だったときに、あの有名な石庭は、どう思われていたのだろうか。石庭が有名ならば、それなりに拝観者もあり、活気のある寺だったはずだ。大崎和尚の時代の龍安寺は、人影がまばらだったようで、とても京都で有名な寺院とはいえなかった様子だ。
 それにしても、石庭の美しさを、ひとびとはどうみていたのだろうか。戦前の龍安寺には、大衆を惹き付ける美しさがなかったということなのだろうか。

●(7)ここに1枚の写真がある(藤森注:著書にはここに写真があります)。大正頃の龍安寺の石庭を写したものだ。石庭は半分、雪に埋まっている。驚いたことに、写真の前半分にのぞく白砂には、熊手で掻いたおなじみの流水紋がない。それどころか、よくみると白砂に何かの跡が付いているではないか!季節は真冬なので、雑草ではなく誰かの足跡かもしれない。まったく、わが目を疑いたくなるような写真である。
 この珍しい写真は、マニアの秘蔵写真の類ではない。撮影したのは、東京帝国大学で造園学の講師をしていた田村剛(1890~1979)である。造園学のパイオニアのひとりとして多くの後進を育て、後の世代にたいへんな影響を与えたひとだ。田村は国立公園の生みの親でもある。その田村が書いた造園学の教科書「造園学概論」(1925)に掲載された、龍安寺の石庭の写真が、これなのだ。
 雑草といえば、造園家にして日本庭園史の大家・重森三玲(みれい・1896~1975)が書いた、「京都美術大観 庭園」(1933)という本にも、龍安寺の石庭の白砂に点々と雑草が茂っている写真が、大きく載っている。もちろん、大正時代の写真には、白砂にきれいな紋がみられるものも多いので、熊手で掻いていない写真の様子が、石庭のいつもの姿だったとはいえない。しかし、重森の写真にもみられるような雑草は、ふだんから庭内にあったのだろう。
 それにしても、造園学の教科書にこの写真とは、いったいどういうことなのだろうか。

●(8)田村は、「その周囲に練塀を繞(めぐ)らした平庭は、簡素の極致であって、我が石組法の最も洗練された技巧を雄弁に説明している。・・・・・造園芸術の秘を尽したる相阿弥の天才的な意匠の力を歎賞しないではいられない。題して『虎の子渡』しといふ。題材に捉はるゝことなく、その空間構造の美に驚異の眼を見ひらかなくては、この庭の真価は判らない」と、石庭の美しさを賞賛している。けれども、田村にとっての石庭の美は、いまのわたしたちが想像するような、きれいに描かれた流水紋と、何者の侵入をも許さないような均整のことを、あきらかに意味していない。少なくとも、「造園学概論」を書いた時点では。
 田村は、若い頃からヨーロッパ、アメリカ、インド、中国の庭園を巡って、造園学の権威者の地位を固めつつあった。その田村が、龍安寺の石庭を手放しに褒めた。そういった田村の評価が、日本の庭園史での龍安寺に対する評価の、ひとつのスタンダードになったことは、まちがいない。
 その田村が写真で示した石庭は、熊手で掻いていなかった。田村にとっては、それもまた石庭の姿だったのだ。判然とはしないことだが、写真の白砂に点々と付いているのが、誰かの足跡だったとすればどうだろうか。そういえば、「都林泉名勝図会」にも、僧侶が石庭内に踏み込んだ姿が描かれている。石庭は、入ってもよかったのだ。こういった開かれた石庭のイメージが、とても立ち入りがたい均整へと変わっていった背景には、何があったのか。

●(9)このように大変おもしろいのですが、長くなりますので、(著者には申し訳ないのですが)以後は、興味深いところを拾いながら紹介したいと思います。

 西田直二郎は、文化の連続的な流れのなかに歴史を位置付ける、独自の「文化史学」を確立したひとで、黒板勝美とも並びうる国史学の巨頭だった。
 その西田は、主著「日本文化史序説」(1932)で、龍安寺の石庭のことを、写真入りで大きく取り上げたのだ。西田が中学用教科書で石庭を大きく扱ったのも、この延長線上のことだった。
 室町時代の心的な傾向のことを、西田は唯心的な「小我の世界」と総括した。この時代には、唯心的な傾向が発達し、文化のうえでは主我的なものが働いた、と西田はいう。「小我」は、龍安寺の方丈の掲額に書かれてあることば、そのものだ。「小我」という表現の出所は、もとをたどれば、おそらくこの西田の本あたりに行き着くのではないかと思う。
 その西田の、石庭の説明はこうだ。

<石のみの庭には、その不自然の外形の裡に、天地万象の心が安らかに置かれてあるとするものは、実は主としてその客観的外容の問題ではなくして、主観的な態度が主要な部分をなしている。感覚によるものよりは、それを超えた精神に拠り、客観的な価値によるよりは、主観的にその生命を覚知せんとするにあること多く言ふまでもない>

 石庭は、内省的にみなければならないと、西田はいった。こういった石庭観は、いまでは通俗的にあたり前になっているが、歴史学者としてそれを最初に示したのが、西田ではないかと思う。しかし西田は、決して石庭を禅の庭だといった訳ではないことに、注意しておきたい。何といっても西田は、石庭を唯心的な「小我の世界」とくくったのだから。

●(10)石庭の作者には、いくつもの説がある。ひとり目の作者候補は、画家の相阿弥(?~1525)、ふたり目の作者候補は、細川勝元である。また、茶人の金森宗和(1584~1656)が作ったのではないかという説もある。
 ほかにも、「小太郎 清二郎(あるいは彦二郎)」や、龍安寺の開祖の義天だという説、西芳寺の住職だった子建西堂だと説、小堀遠州ではないかという説などそれこそ無数にあり、それらのすべてを追いかけることは至難の技だ。

 勝元説を採る「?州府志」には、「その布置は平凡な職人の及ぶところではない。世の仮山を作る者は、これをお手本にする」(原漢文)と記されている。石庭は17世紀にすでにきれいだったのだ。
 一方、相阿弥説を採る「槐記」には、「龍安寺の庭は。相阿弥が作にて。虎の子渡しとやらん。名高きものながら。私ていの見ては。好悪の論は及び難し。一向に上の事にや」(著書は、ひらがなの部分がカタカナ)とある。
 石庭は名高いが、自分にはその善し悪しは、一向にわからないという。正直な書き方だと思う。「槐記」の筆者の感想は、いまのわたしが石庭から感じることとよく似ている。ただし、「槐記」の時代の石庭といまの石庭が、おなじだという保証はどこにもないが。

●(11)・・・・・昔の石庭のことを知っている地元の庭師の証言には、瞠目させられるものがある。石庭の下は、木の株でいっぱいだというのだ。庭師の奥田政友の話である。

<「龍安寺の石庭は、あのようなものではなかった。いろいろな樹木が石のあいだにあったとみえて、木の株を掘りおこしたことがある。まだまだ木の株はのこっている。」ということをやはりそのときの仲間であった老庭師からきいたことがあります。木の株の大きさはどれほどのものか聞きもらしましたが、この話しによれば龍安寺の石庭は思いもよらない姿だと思います。>

 祖父の代からの庭師で、龍安寺を子どもの頃からの遊び場にしていたという奥田の話だけに、庭園史の碩学のものとはまた違った説得力がある。現場の人間というものは、文献と理屈で考える学者よりも、真実をよく知っているものだ。ことによると龍安寺の石庭は、緑でいっぱいだったのかもしれない。
 しかし、奥田の証言は、その後の石庭研究でまともに取り上げられることはなかった。その信憑性はともかくとして、草木いっぱいの石庭というイメージは、黙殺された。

●(12)・・・・・室生犀星は、昭和11年(1936)に発表した「印刷庭園」に、「龍安寺石庭」という詩を載せた。

 おれはしかし遂に無数の
 石の群がりに遮ぎられていた
 石はみな怒り輝いていた
 石はみな静まり返っていた
 石はみな叫び立たうとしていた
 ああ 石はみな天上に還らうとしていた

 石庭の圧搾感は、ついに爆発して天上に向かった。室生が石庭にみいだしたのは、まさに男根のイメージだった。それを裏付けるかのように、昭和13年(1938)の東京朝日新聞には、室生の「石庭=睾丸」が出ている。

 私は永年、庭石を見つづけて来たが、石といふものに特に気高い品というものを感じたことがない、棄石や飛石、つくばいの役石なども永い間見ているうちに、非常に人間的な感じが深くなり、人間の肉体の或る部分に彷彿して見えて来てならないのである。

 これは何も龍安寺の石庭だけのことをいっているのではないが、「私は石等のなかに老いたる睾丸のやうなもの」を発見するのが常だと、室生はいう。そして、「龍安寺や大仙院の石庭を前にして思ふことは、数々の遠い思ひを誘ふ肉体的な感じなのである」とも。50才を目前にした、室生の身体感覚が伝わってくる。

●(12)・・・・・おなじ職業的な物書きでも、井上靖(1907~91)は、また違った感覚を持っていた。井上は、学生の頃によくなじんだ石庭の印象を、「石庭」という詩にまとめている。昭和21年(1946)の作品の一節である。
 
<ここ龍安寺の庭を美しいとは、そも誰が言い始めたのであろう。ひとはいつもここに来て、ただ自己の苦悩の余りにも小さきを思わされ、慰められ、暖め暖められ、そして美しいと錯覚して帰るだけだ。>

 井上の詩は、庭の作家論を離れて自分の内面と対話する格好になっている。そして彼は、「美しいと錯覚して帰る」という、ショッキングな宣告をした。
 井上自身、学生の頃には龍安寺近くのアパートに住んでいて、散歩がてらに石庭にもよく足を運んだそうだ。当時のことを回想して、井上はこんなことをいっている。

<そんなわけで、龍安寺も、龍安寺の石庭もまた私の馴染みの場所である。その頃は龍安寺の石庭も、いまほど有名ではなく、一部の人たちには知られていたが、めったに人と顔を合わせることはなかった。
 拝観料などというものもなかった。庫裡の入口で声をかけ、人が居ればことわってはいったが、人が居ないと、そのまま土間に靴を脱いで上がって、方丈の縁へ出た。暮方行くと、ぶよや藪蚊が多くて、用心しないとひどい目に遭った。
 今のようにたいへんなものを見せて貰うといった気持ちは、少しも持ち合わせていなかった。>

 井上の詩にあった、「美しいと錯覚して帰る」という大胆な表現は、まさに「今のようにたいへんなものを見せて貰うといった気持」がなかったからこそ、いえたことだ。逆にいえば、「たいへんなものを見せて貰う」という先入観がなければ、石庭の美は「錯覚」だと、いとも簡単にいえてしまうのだろう。

●(13)龍安寺の石庭のことを、ただ褒めるだけでないようないい方は、井上のほかにもある。日本庭園協会が開催した「京都名園鑑賞会」の参加者の感想に、こんな表現がみられる。昭和11年(1936)の文章である。

<龍安寺の「虎の児渡し」はかねがね書物や写真で承知して居りましたが、もう少し綺麗な白砂が敷いてあるものと想像していたためか、初めて見た瞬間ちと薄汚ないと思いましたが、見れば見る程益々好きになって行きました。>

 日本庭園協会の会員なのだから、庭園には多少の知識と鑑賞眼があるひとの文章なのだろう。そのひとが、白砂を「初めて見た瞬間ちと薄汚ない」と思ったと、正直な感想を漏らしている。それでもみればみるほど好きになったと、苦しいフォローをしているが、なんだか無理にでも好きになろうという気持ちがみえ隠れしている。これも石庭への脅迫観念だろう。

<いったいどこを指して名庭というのだろうか。一草一木もなく、石だけの特異な様式のきわだつめずらしさではなかろうか。わたくしをして率直にいわしめるならば、京都の古い庭にはこれよりもはるかにすぐれた庭がいくらでも現存している。>

 こういったあからさまに石庭をけなしたいい方は、かなり珍しい。ふつうは、石庭の扱われ方への不満をいうにしても、もっと穏やかないい方をする。

●(14)東大史学科を卒業して、庭園研究に転じた庭園研究家の龍居は、こんな文章を書いている。

<龍安寺の庭は今更説明するまでもなく、天下によく知られた名園であるが、どうもこれまでの説明だけでは満足出来ない。・・・・・私は寧ろこの種の庭は当時としては珍しからぬものであったらうと思ふ。即ちこの庭の岩石の取扱ひを見ると、全く盆石から暗示を得たものであって、室町時代の庭としては最も誰もが思ひついたことであったに違いない。ただその配置が巧妙であることは少しも疑ひないが、かうした盆石流の石組が多くの書院の庭として行はわれたであらうことは亳も疑ひのない所である。偶々龍安寺にその一例が残され、それが傑作であったがために、我々後世の造園家はいとも珍しきものかの如くに誤解するのであろう。>

 龍安寺の石庭はたしかに美しい、でも、それは室町当時にはよくある趣向だったのだろうと、龍居はいった。石庭の美を決して否定はしていないが、全面的に肯定もしていない。ただ龍安寺の石庭の扱われ方に、龍居はどこか満たされないものを感じていたようだ。

 戦後になると、龍安寺の石庭のことを、ほとんど理屈抜きで褒めちぎるいい方が、けっこう現れてくる。そんな事例をみっつほど挙げておこう(藤森:以下は省略)。

●(15)何度もいっているように、龍安寺の石庭が禅を表現しているといういい方が広がったのは、戦後である。禅の要素が加わることで、この庭に対する評価は、ほぼ固まったといってよい。

 室町文化そのものが禅風であるとは、黒板勝美や西田直二郎をはじめ多くの歴史家がいってきている。しかし室町文化が禅風であるというのと、龍安寺の石庭の造形が禅の思想そのものを表しているというのとでは、たいへんな差がある。そういった飛躍が、いったいいつ、いかなる形で起きたのかを知りたい。
 龍安寺石庭の通称が「虎の子渡し」であることを思い出そう。「虎の子渡し」は、禅思想とは関係ない。また、戦前の庭園史家たちは、石庭を禅と結び付けることに慎重だった。その理由は、龍安寺石庭の作庭年代がはっきりしていないことにある。室町時代の相阿弥だという説もあれば、江戸時代の金森宗和だという、外山英策のような大家もいた。龍安寺石庭=禅と、うっかりいってしまうことは、できないはずなのだ。
 石庭が禅を表現しているという言説と、観光名所としての大衆文化が、戦後になってから大々的に進行した。石庭の大衆文化に貢献したのは、実は映画だった。

 龍安寺の石庭は、松竹映画「晩春」(1949)の舞台になって、いちやく有名になったという。1時間50分近くある映画のなかで、石庭の場面は1分45秒ほどだから、ほんの少し使われただけといったほうが正しいだろう。

 「晩春」の石庭は、どんなイメージだったのだろうか。東大教授と京大教授が語り合う場ということは、インテリだけが知っている穴場だったということか。ふたりの教授は石庭をいながら瞑想しているのではない。ましてや、禅について語り合っているのでもない。小津安二郎はあきらかに、娘を嫁にやる気持ちを、親が子を背負って大河を渡す「虎の子渡し」に映している。つまり「晩春」の石庭も「虎の子渡し」の庭であって、禅の庭ではなかった。

 龍安寺が映画で有名になったことは、松倉紹英の弟弟子だった東海石門の回想にもみられる。繰り返すようだが、松倉が龍安寺の住職になった昭和23年(1948)当時、石庭を訪れるひとは稀で、寺はいまからは想像できないほど貧乏だった。

<その後、「帰郷」という映画の撮影にあの石庭が使われたことから、龍安寺が全国の観光を浴びることになり、以来、京都観光の名所となって現在に至っています。>

 大佛次郎原作、大庭秀雄監督の松竹映画「帰郷」(1950)には、龍安寺は出てこない。東海は、「晩春」と「帰郷」を取り違えたのだろう。いずれにしても、映画という大衆メディアが龍安寺ブームを呼び、石庭の大衆への浸透を促したことは、まちがいなさそうだ。

●(16)1950年代になると、龍安寺の石庭が禅を表現しているといういい方が、一気に噴出した。庭園の業界人では、中根金作が石庭と禅の境地との関係を、さかんに説きはじめた。たとえば、こんな具合である。

<このような禅宗の自然観、世界観が社会思想にひろく浸透すると芸術や芸能に影響し、作庭にも強い影響をあたえて、抽象的構成と表現とをもつ特殊な庭園を生み出すに至った。・・・・・そこには池、築山、花樹、花草で装われた庭園のように感覚的な豪華さはみじんもなく、超感覚的な、いわゆる無の美を表現しているのである。>

 この文章は、モダニズム建築の雑誌「新建築」に、石庭の大きな写真の解説として載ったものである。筆者が誰かはあきらかにされていないが、この文章のすぐあとに中根の論文がつづいていることと、その後の中根の著作物にこれとよく似た表現が頻出することから、この解説も中根が書いたとみるのが自然だろう。龍安寺の石庭のような、とてもシンプルな要素で構成される造形が、古くから日本にあった・・・・・これは建築のモダニストたちにとって、大きな「発見」だったのだ。
 問題は、この解説につづく中根の論文である。そのなかで中根は、自身が行なった発掘調査から、秀吉時代にいまの石庭はなかったと主張している。中根は、石庭の作庭時期を江戸時代の初期だと考えていた。それなのに、おなじ雑誌のおなじ号のこの文章では、石庭はあたかも室町時代の禅の、精神的な風土の結晶であるかのように書かれてある。この矛盾ぶりは、どうだろう。

●(17)重森は、戦前・戦後を通して、大崎・松倉のふたりの和尚から、石庭を前に禅を説かれたことだろう。1947年の論文で重森は、「斯様な象徴的な表現は全く禅宗的であって、禅的思想の背景によってのみ生まれたことである」と、すでに禅を持ち出している。昭和46年(1971)に出版した「日本庭園史体系」には、さらにはっきりと、石庭の禅的な解釈が出ている。

<一般には、龍安寺の庭はわからないという人が大部分である。・・・・・龍安寺のような庭を観賞する時は、一切の既成概念を去って、裸のままの姿で、庭にぶっつかるよりほかない。・・・・・むしろあの庭を見て、言葉一つも出ないはずであり、沈思黙考して、全庭から波の音まで聞こえるほどにならぬと、龍安寺の庭がわかったとは言えない。>
 
 重森は、禅寺の枯山水を最高の日本庭園と位置付けてきたひとで、彼の龍安寺評もその文脈で書かれている。重森がこのような庭園観を持った背景はよくわからないが、造園家として彼のパトロンが禅宗寺院や茶人たちだったことと、関係があったとみられる。
 石庭の造形が禅の精神そのものを表しているといった説明は、大崎・松倉和尚の時代に龍安寺サイドからはじまったのだろうか。起源は判然としないものの、それを中根や重森といった庭園研究の大家が追認し、石庭が知れ渡った1960年代になって、大衆への啓蒙的な語りとして広がっていったとみえる。

●(18)先にみた大山平四郎の「醜石」論にしても、松倉和尚の影響だったことが読み取れる。「龍安誌」の筆記者の無着道忠が「醜石」と、禅僧らしく飾らずに述べたのとおなじ内容を松倉和尚から聞いて、大山は「心底より感服した」という。「世間では名石とさえいっているのを承知の上で、平然として“醜い”といってのける禅師の言葉から、悟りの境地に達した禅僧の真髄にふれる思いがした」と、大山は感動を語っている。

 石庭の禅的な語りのさいたるものは、彫刻家の水野欣三郎のそれである。若い頃から懸命に禅を修行した彫刻家として、水野は知られている。龍安寺の石庭について自身の研究も、「究極的な美に連なる根源的なものの追求」だと、自讃している。
 その水野は、石庭の構成を公案に仮託して説明した。花園大学禅文化研究所の機関誌「禅文化」に掲載された文章から問答を再構成して引用しておく。
 <略>
 この公案は、「庭前の柏樹子」という有名な公案になぞらえて、水野が作ったものと思われる。公案としてのよし悪しを、どうこういう力量はわたしにはないが、自作の公案について水野がつぎのように結論付けたことには、コメントできる。

<ここに至って、龍安寺の石庭は、禅の公案を主体として作庭されたものであることが、疑いなく了解されたことと思う。
 しかもこの石庭は、禅と芸術の接点が見事に融合された典型的な造形として、実に空前絶後のものといえるのであろう。>

 石庭と公案の関係が「疑いなく了解された」と水野はいうが、実のところ論証にも何もなっていない。公案になぞらえることができるから石庭は禅なのだといっても、無理である。
 こういっては水野に申し訳ないが、思い込みが激しすぎる。しかし、こういった思い込みもまた、ひとつの言説空間として、人口に膾炙することも確かである。禅に限らず、信仰とは得てしてそういうものだと思う。

●(19)著者:山田奨治(やまだしょうじ)・・・・・「あなたは何を研究していますか?」と聞かれても、ひとことではいえず、いつも返事に困っている。それでもあえていうならば、技芸が創造された伝達される過程の研究に、学問という社会制度の枠を越えたアプローチをしているといったところか。
 本書での関心は、武道論・庭園史・宗教論にまたがっている。浮世絵・仏像・妖怪のコンピューター分析などにも取り組む一方で、真の文化振興のためには知的財産権の過保護は禁物と、警鐘を鳴らす。武道の国際シンポジウムとテレビCMの共同研究会を同時に主宰するなど、「葉隠れ」から「はっぱふみふみ」までを視野に置く幅広さを持ち味とする。
 1963年、大坂生まれ。人間文化研究機構・国際日本文化研究センター・助教授。総合研究大学院大学・文化科学研究科・助教授併任。筑波大学大学院修士課程医科学研究科修了。京都大学博士(工学)。日本アイ・ビー・エム、筑波技術短期大学勤務を経て、1996年より現職。
 専門は情報学。著書に「情報のみかた」(弘文堂、2005年)、「模倣と創造のダイナミズム」(編著、勉誠出版、2003年)、「日本文化の模倣と創造・・・オリジナリティとは何か」(角川書店、2002年)、「文化資料と画像処理」(勉誠出版、2000年)などがある。
●(20)こうやって読んでみると、花園大学禅文化研究所とか、機関誌「禅文化」などと権威的だが、大したことありませんね。さらに、禅の大家だか、大物だか学者だか何だかわかりませんが、世の中、権威や大家や通説などと言われるものがいかにいかさま的か、この本を読むとよくわかります。
 やはり大事なことは、自分の「実感」を大切にすること<心理学・自己成長的にいうと、自分の実感を回復すること>です。自分の実感がいいと思わなければ、いいと思わない自分の実感を大事にすることです。3万円や5万円もする「コース料理」であろうと、うまいと思わなければ、自分にとっては良い料理ではないという価値観が大切です。
 権威者の言うことを鵜呑みにすると、とんでもない赤っ恥をかいたり、貴重な人生、無駄な時間を費やしかねませんね。「虎の子渡し」なのか「大我」なのか?「心理・精神世界」はもっと酷いのですが、それは追い追いお届けします。十分知らないことには謙虚でいることを改めて、自分に言い聞かせました。
 さて、もうひとつ「認知の歪み」をお届けします。
<この本(禅という名の日本丸)の半分は「弓道とヘリゲル」について書かれています。主旨は「龍安寺の石庭」と同じものですが、ここに紹介するのに、私(藤森)の力量では難しいために、省略しました。興味のある方は、本書をご覧ください>
●(21)日刊ゲンダイ(2007年8月10日)「あなたの選択はベストか?がん治療、欧米とはこんなに違うゾ」(医療ジャーナリスト・松沢実著)
 <欧米は胸部X線検査は肺がん死亡者を減らせないとして行なわず>  <肺がん検診><日本では今も広く普及>
 がん検診の考え方も日本と欧米で大きく違う。とくに肺がん検診については顕著な差ある。
 「日本では胸部X線検査をはじめとする肺がん検診は『是』とされ広く普及していますが、欧米では『非』とされ国民一般を対象とした肺がん検診は一切行なわれていません」
 こう言うのは慶応大学医学部放射線科の近藤誠講師だ。
 欧米で肺がん検診をやらなくなったのは、3つの無作為化比較試験で、「検診をしても肺がん死亡者を減らせられない」と立証されたからだ。
 「ひとつは米国を代表する医療機関メイヨークリニックが、9000人のヘビースモーカーを無作為に“検診群”と“放置群”の2つのグループに分け、11年間経過観察したものです」(近藤講師)
 当然、肺がんは検診群でより多く発見され、手術を受けた患者も多かった。その5年生存率も検診群の方が高かったが、両グループの肺がん死亡者数に有意差は認められなかった。
 「つまり、胸部X線検査で発見された肺がんの中には、がんにならないニセモノ=“がんもどき”が存在していたということです。当然、がんもどきで手術を受けた人は再発しないから、その分だけ検診群の5年生存率は放置群より高くなります。しかし、ホンモノの肺がんはいくら早期発見しても救命できなかったので、両者の肺がん死亡者数に優位差が認められず、肺がん検診は有効ではないと結論づけられたのです」(近藤講師)
 最近、日本の検診推進派から、「精度の高いヘリカルCTなら有効」との新たな主張が出てきたが、今年3月発行の「JAMA」誌(米国医師会の学術雑誌)にトドメを刺す研究論文が掲載された。
 「その研究論文では、ヘリカルCTによる肺がん検診を受けた3246人の喫煙者のデータが解析されています。結論として、ヘリカルCTによって通常より3倍の肺がんが発見され、手術を受けた患者さんは10倍に上ったものの、検診を受けなかった場合とほぼ同数の患者さんが肺がんで死亡した。つまり、ヘリカルCTによる肺がん検診は有効でないばかりか、無用な治療によって害をなすのです」(近藤講師)
 一昨年には聖路加国際病院の福井次矢院長を班長とした厚労省研究班でも、胸部X線検査は肺がん検診に役立たないとした。しかし、いまだに肺がん検診は続いている。がん医療の“世界の七不思議”のひとつである。
<まつざわ・ものる・・・がんの最新治療法に詳しい医療ジャーナリスト。「行列ができる名医」「がん治療最前線」などの著書がある。>

<文責:藤森弘司>

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