2007年6月15日 第59回「今月の言葉」
認知の歪み(5)

●(1)認知の歪みをシリーズでお届けし始めて見ると、思った以上に面白いこと(認知の歪み)が多いのに、我ながら驚いています。いわゆる「権威」があるとされる人物が書いた書物や、定説となっているような書物や情報ばかりをあてにしていると大変なことになりかねません。
 どなたかが書いていましたが、どんなにたくさん本を読む人でも、一生の間に読む本の数はたかがしれています。仮に1日1冊の本を読むとしても、1年にわずか365冊です。10年で3650冊、50年間として、たったの18250冊です。
 1週間に1冊読めば、今の時代、一般的には、読書量が多いほうではないでしょうか。それでも50年間に2600冊です。1ヶ月に1冊であれば、50年間に600冊でしかありません。しかし、1年に出版される本は、確か5万冊くらいだったと思われます。
 認知に歪みきったような本を読んでいる暇はありません。
 日本の歴史に関して、私が尊敬する井沢元彦氏の驚くべきものを、次にご紹介しましょう。
(2)「逆説の日本史(1)古代黎明編」井沢元彦著、小学館文庫より

 <序論・日本の歴史学の三大欠陥>
 「2.アカデミズムと丸山ワクチン」

 <丸山ワクチン問題にひそむ「言霊(ことだま)の作用」>
 「日本史」と「丸山ワクチン」と一体何の関係があるのかという人もいるかもしれない。それは「学界の権威」という問題である。この国では、「権威」の名の下にいかにデタラメなことが行なわれているか、それを知ってもらうために丸山ワクチンを取り上げようと思ったのだ。
 まず、結論を言おう。丸山ワクチンはいまだに正式な薬としては認可されていないが、これは効く効かないの問題ではないということなのだ。
 おそらく耳を疑う人もいるだろう。実際、丸山ワクチンなど「タダの水」だと主張する人も医学界にはいるのである。
 そういう人に私(著者・井沢元彦氏)は質問したい。
 では「なぜパロチンが薬として認可されたのか?」と。
 パロチン、正式には「唾液腺ホルモン」という。東大名誉教授の緒方知三郎博士(故人)が発見し、一時はクル病とか関節炎あるいは白内障の特効薬として、大量に使われていた。緒方博士はこの功績も含めて昭和19年に帝国学士院恩賜賞、昭和32年には文化勲章までもらっている。
 
 ところが、平成2年3月になって厚生省の中央薬事審議会は、この薬(注射液)を「有用性が認められない」(すなわち効かない)として製造販売の中止を命じた。このことをいわゆる三大紙の中で取り上げたのは毎日新聞だけだが、、同3月8日付の朝刊にちゃんと報じられている。だから結論ははっきりしている。
 本当の「タダの水」はパロチン(注射液)の方だったのである。
 では、少なくとも臨床例があり、医者によっては有効性を認めている人もいる丸山ワクチンが、いつまでたっても認可されないのに、どうしてパロチンの方はすんなりと認可になり、ずっと特効薬として使われていたのか。
 パロチンの方ははっきりしている。
 それは「発見」者の緒方博士が東大卒であり東大医学部のボスだったからだ。もう少しわかりやすく言えば、東大教授の「権威」が「タダの水」を特効薬にしたのである。
 それは言い過ぎだ、という人がいるかもしれない。あるいは医学が専門でない人間に、どうしてそこまで言えるのか、という反論もあるかもしれない。
 しかし、これは断じて言い過ぎではない。
 
 まず唾液腺ホルモン(パロチン)というものが存在する前提として、唾液腺に内分泌の作用がなければならない。ところが、日本を除く全世界の医学の教科書には、そんなことはまったく書かれていないのである。それどころかパロチンという薬自体も、まったく外国の医学書には載っていない。
 パロチンは日本だけにある「幻の薬」だったのだ。
 もちろん、どんな人間にも間違いというものはある。誠心誠意やった結果間違ってしまったというなら仕方がない。それに医学界は試行錯誤でいく世界でもある。結核の特効薬であるストレプトマイシンが発見されるまでは、様々な療法が行なわれたが、その中には現代の医学水準から見ると、「タダの水」に過ぎない療法もあるという。それは仕方ない。
 しかし、緒方博士のパロチンは明らかにそういうものではない。「唾液腺にも内分泌の作用がある」という「ユニークな」学説、そこから抽出された「外国では一切評価されない」薬・・・強引な論理ばかりが目立つのである。
 しかも何よりも不思議なことは、この薬が効かないことは、周知の事実だったということだ。厚生省の薬事審議会が結局認可を取り消す形になったのも、「あれは効かない」という「声なき声」を無視できなくなったからだが、「発見」以来半世紀近くにわたって外国では一切評価されていないものを、どうして日本の医学界は放置しておいたのか。

この薬は一時盛んに使われた。ということは、患者の側から見れば本来もっと有効な治療が受けられたはずなのに、そのチャンスを「タダの水」のために棒にふらされたことになる。その責任は一体誰がとるのか?どうしてこの薬は半世紀近くも「野放し」にされていたのか?
 それが「権威」なのである。医学界のボスの「功績」だから、誰も批判できなかったのだ。
 それが緒方博士の死後10年以上もたって、ようやく「ほとぼりが冷めた」ということなのだろう。
 
 では、丸山ワクチンは何故認可されないか。私はその理由を次のように推測している。
 それは「その発見者丸山博士が東大閥でなく、しかもガンの専門医でもない(丸山博士の専門はヒフ科)からだ」と。
 もちろん、いい加減な根拠でそんなことを言うのではない。
 私はこの件について、医学界の裏事情に詳しい某氏に取材した。某氏は匿名を条件に(医学界の取材ではこういう例が実に多い)次のように「真相」を明かしてくれた。
 「丸山ワクチン開発当時の医学界のボスにYという男がいたんです。この男は珍しく東大出ではなかったんですが、この男の研究分野と丸山先生の研究分野が一致していたことが不運でしたね。それにY自身、丸山博士と同じような原理でガンの薬を作ったんだが、これはまったく効かなかった。だから、Yは丸山博士の功績を妬んだんですよ。圧力をかけて中央薬事審議会を通らないようにしたんです」
 正直言って、私はこの話を聞いた時、あまりのバカバカしさに信じられなかった。ところがその事情通はこうも言った。
 「そのYという男が死んだ途端、薬事審は丸山ワクチンを治験薬として承認しましたよ、日付を調べてごらんなさい」
 調べてみると、確かにその通りだった。

 問題のY博士は平成2年6月に死亡した。そしてその次の年の6月に薬事審議会は、丸山ワクチンそのものではなく「Z-100」という名の濃厚液で治験薬として承認した。ただしこれはあくまでも放射線治療に伴う、白血球の減少症の治療薬としてであって、「抗ガン剤」としてではない。
 さらに、私はこのあたりの記事を調べていて実に面白いことに気が付いた。
 問題のY博士が死んだのは、平成2年の6月10日である。ところが、ワクチンの製造元のゼリア新薬工業が、丸山ワクチンを「Z-100」という名前に変え、抗ガン剤ではなく白血球減少症の治験薬として申請したのが、なんと、その翌日の6月11日なのである。そして、その1年後、いままで頑として丸山ワクチンを承認しなかった薬事審が、「抗ガン剤としては認めないが・・・」という前提のもとにシブシブ認めたということなのだ。
 まるで田舎芝居を見るようだが、要するにこれは「あのボスも死んだことだし、名前も名目も少し変えれば、薬事審様も認めてくれるだろう」と申請し、「まあ、あの人も死んだことだし許してやるか」と認可した、ということではないのか。
 ただし、あくまで「抗ガン剤」とは認めていないのである。丸山博士はつねづね「丸山ワクチンは単独で抗ガン剤としてこそ、威力を発揮する」と言っていたそうだ。
 つまり効く効かないを言う前に、丸山ワクチンはいまだに、「不利な」立場に置かれているわけだ。

●(3)もちろん、今述べたことは私(著者)の推測に過ぎない。しかし、私はこれが真相だと思っている。
 その根拠となる事実をあげよう。
 一つは、法医学の権威で、東大名誉教授をはじめとする数々の肩書きを持つ古畑種基博士(故人)のことである。
 私もこの人の本で法医学を勉強したのだが、最近になって、この古畑博士がかつて行なった、弘前事件、松山事件、財田川事件などについて、この血痕鑑定が、すべて間違っていた、ということが明らかになったのである。
 これは事実だ。いずれも公式に再審鑑定が行なわれ、古畑鑑定はすべてをくつがえされている。ところが、これらのケースは素人の私(著者)が見ても、「どうしてこんな明白なミスが今までわからなかったのだろう」という気がするのである。
 この件についても、事情通は言う。
 「これも博士が生きているうちは言いにくかったんでしょう。医学界では先輩や恩師の説を批判することはできませんからね

●(4)こういうエピソードもある。
 昭和23年10月6日、国立予防医学衛生研究所血清学部長(当時)の中村敬三博士(東大医学部出身)は、「ライ菌(ハンセン病菌)の人工培養に成功した」と発表した。これは当時の新聞にも大々的に報道された。菌の培養というと簡単そうだが、ライ菌は難しく、これは現在でもできない。もしできたとしたら「ノーベル賞もの」だったが、後にこれはインチキであることが暴露された。
 東北大での公開実験で「試験管に細工」されていることがわかり、培養には成功していなかったことが判明したのである。ところがこの教授はそれをすべて「弟子の不始末」ということにして、責任を逃れた。もし弟子が初めからそれをやっていたのなら、「弟子の研究を盗んだ」という別の罪が問われなければならないはずだが、そういうことは一切なく、結局この教授にはまったく傷が付かず数年後には国立研究所の所長にまでなった。
 私(著者)などこの話を聞いた時は、どうして医者を志望しなかったのかと後悔したものだ。
 いずれにせよ日本の医学界には、恩師の説、先輩の説(あるいは非行、圧力)は、生きているうちには批判できないという体質がある。

●(5)では、どうしてそうなるのか。
 それこそ私がつねづね主張している「言霊」の作用なのである。詳しくは後ほど取り上げるが、「言霊」などという非科学的なものが、実在するとは私も思っていない。しかし、多くの日本人は、その「実在しないはずのもの」に惑わされている。
 これがいい例だ。つまり日本人は、その人個人と、その個人が生み出した学説とを、区別することができないのだ。
 学説というのは、たとえどんな偉い人が発表しようとも、とりあえずは仮説に過ぎない。間違っていることだって充分に有り得る。
 その仮説は、多くの批判や検討を経て、初めて定説となり得るのだ。ここには自由な批判精神というものが不可欠である。恩師の説であろうが東大の権威の説であろうが、間違っているものは間違っている。そして、仮に「○○先生、あなたの説は間違っています」と主張しても、それは「○○先生」の人格を非難したということではない。
 だが、医学界に限らず日本の学界では、この区別がつけられない。もしそういうことをすれば、「無礼だ」とか「たとえ正しくてもいうべきではない」という非難が浴びせられる。それは人の言説(言ったこと)とその人個人の人格とが、分離していないからこそ起こる現象である。これをコトダマと言うのだ。そしてコトダマが生きている限り、学界の権威に支えられた「パロチン」は生き続けるのである。
 さらに、日本の「学界」というものが、いかに「常識」のない異常な世界であるか、それを示す好例をあげておこう。
 法律学界の話である。
 田中英夫という英米法の権威がいた。この人は生前歯に衣を着せぬ人として有名だった。この田中先生が先年亡くなった時に、学者仲間が書いた追悼文がある。ちなみに追悼文の筆者は三ヶ月章氏だが、この人も民事訴訟法の権威で、法学部出身者(私・著者もそうだが)なら知らない人はモグリだと言われるぐらいの学者である。
 その人が次のように書いている。

 直接私に関連することではないが、田中教授の学問態度の峻烈さを示すエピソードとして忘れられないことの1つに、戦後日本の司法制度を一定の立場から糾弾する内容の、当時のいわゆる「進歩派」学者の1人が手がけた論文を、その資料に関する限り盗作まがいの代物であるとして完膚なきまでに弾劾した書評がある。後に、別の事件で、この論文執筆者の別な著述ついての同様な執筆態度が、改めてその所属部局で問題とされたのであるが、それにはるかに先立って、所属こそ異なるにしても、同じ大学の先輩格の研究者に対して、文字通り歯に衣着せぬ攻撃的批判を試みたことは、常人の到底なしうるところではない、との感を深くし、心から脱帽した次第であった。
 (「アメリカ法」92年2号所収「田中英夫教授の長逝を悼む」より、日米法学会刊)

 “進歩派”ないし“進歩的文化人”がいかにくだらいか、ということを言いたいのではない。
 問題は、日本の学界では「先輩格の研究者」の「盗作まがいの代物」に「歯に衣着せぬ攻撃的批判を試みる」ことが、「常人の到底なしうるところではない」「心から脱帽した」と感嘆されるという事実である。
 この追悼文にある「盗作まがい」というのは誇張ではない。この“進歩派学者”は、文中にもある“別の事件”で、公刊した著作が盗用と見破られて、版元がこれを絶版にするという事態を引き起こしている。
 もし、私(著者)が、小説家として他人の作品を盗用したら一体どういうことになるか。
 あっという間に、あらゆるジャーナリズムや業界の人間から非難され、場合によっては追放されるかもしれない。
 盗用というのは、要するに他人の物を盗む「ドロボー」ということだから、それもやむを得ないし、小説家の世界に限らず、どんな世界でも「ドロボー」したら非難されるというのが常識のはずだ。
 ところが、その常識の通用しない世界がある。それが学界だ。
 明らかな盗用でも、それが外の世界に出ない限り(たとえば本を公刊でもしない限り)糾弾されることはないのである。
 そして、たまに「勇気ある人」がいて、「ドロボーはいけないことじゃありませんか」と言うと「常人の到底なしうるところではない」と感嘆されるのである。
 結局、この追悼文は何を「証言」しているのか。
 日本の法律学界では、たとえ盗用のようなハレンチな罪でさえ、相手が「先輩」なら糾弾することはできない。普通の、まともな人間(常人)には、そんなことは不可能だ、ということを言っているのだ。

●(6)もちろん、これは法律学界だけの話ではない。だいたい「法律」というものは「正義」の実現のための道具である。それを専門に研究する人々の間に、「ドロボー」を告発する自由がないのなら、それ以外のことを研究する人々(学界)の間にも、そんな自由があるはずがない。「ドロボー」行為ですら文句が言えない人々に、師や先輩の説を徹底的に批判できるはずもない。
 三ヶ月氏は言っている。
 「所属こそ異なるにしても」と。つまり、これは、もし二人の所属が同じだったら、さらに「弾劾」は困難だったろう、ということだ。
 どうして、日本の学界はそうなのか。
 一言で言えば、儒教的師弟関係と閉鎖的な講座制度の弊害である。その原因を追究することは本書の目的ではないので、これでやめておくが、一つだけ読者の方々に認識してもらいたいのは、学者先生の言うことだから素人の小説家の言うことより正しいとは絶対に言えない、ということだ。
 これでおわかりのように学界とは「常人」の世界ではない。すなわち常識が通用しない。
 パロチンの緒方博士のように、「権威」が突然ヘンなことを言い出すと、それが「常識」ないし「通説」として定着してしまう場合もある、ということだ。
 それを見破るには、どうしたらいいか。
 それは実に簡単なことである。
 本当の常識に照らして物を考えることだ。
 読者の方々には、権威というブランドに惑わされることなく、どちらの言うことにより常識があるか、という視点で判断して頂きたいのである。

●(7) <3.「素人」が大それたことをする理由>
 特に私(著者)は、日本の歴史学には、三つの大きな欠陥があると考えている。
 第一に日本史の呪術的側面の無視ないし軽視、第二に滑稽ともいうべき史料至上主義、第三に権威主義である。
 <略>
 たとえば、ここに一つの歴史学説があり、それは東大の権威で文化勲章を受章したセンセーによって唱えられているとしよう。
 すると、それに対して私(著者)がいかに理路整然と反論しようとも、多くの人は「東大のセンセーで文化勲章受章者」の言うことだから正しい、と思いがちなのである。
 これはブランド信仰である。
 「東大」とか「文化勲章」とかは別にして、自分の目でどちらの言い分が正しいか、論理と常識によって判断してもらいたいのだ。
 しかし、これがなかなか難しい。
 というのは、日本人の学歴信仰というのは骨がらみだからだ。これは歴史的に見れば儒教に基づくものだが、一言で言えばこれは「迷信」であり、より良い社会を築くためにはかえって有害なものである。このことについては、『「言霊の国」解体新書』(小学館)に書いておいたので、興味のある方はそちらを見て頂きたい。

(8)作家の井沢元彦氏は、日本の歴史に関して私(藤森)が最も尊敬している方です。広くて深くて、そして楽しく読ませてくれる方です。
井沢氏は1954年2月愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の80年に、「猿丸幻視行」で第26回江戸川乱歩賞を受賞。歴史推理小説に独自の世界を拓いた。週刊ポストの連載をまとめた「逆説の日本史」シリーズのほか、「天皇になろうとした将軍」「言霊の国“解体新書”」「虚報の構造・オオカミ少年の系譜」など著書多数。

●(9)夕刊フジ、19年5月25日「もう一つの世界の読み方」<世銀総裁の辞任の真相>日高義樹著より

 「スキャンダルから見えるブッシュの凋落」
 <略>
 アメリカ議会の・・・プレスギャラリーに顔を出したら、壁の掲示板に貼ってある新聞の大きな見出しが目にとびこんできた。
 「ブッシュ政権は沈みつつある」
 ワシントンで見ている限りブッシュ政権どころか、アメリカも沈みつつある。むろん政治的な意味でだが、この2日間に信じられないような話を二つも聞いた。
 一つはホワイトハウスの内情をよく知る友人からである。
 「イランのモッタキ外相が『核兵器の開発で北朝鮮ともっと密接な関係を持ちたいと考えているが、北朝鮮の資金不足で思うようにビジネスが運ばない』と言った、という情報が入ってきたが、ブッシュ政権は北朝鮮の経済制裁解除をとりやめることはないだろう」

 もう一つはジャーナリストの友人からで、ウオルフォウィッツ世銀総裁は、部下の女性に特別待遇を与えたというスキャンダルで辞任に追い込まれたが、本当のところは、「突いてはならないところを突いた」ために足を引っ張られたのだという。
 ウオルフォウィッツ世銀総裁は、世界銀行が中心になっている国連援助資金が、北朝鮮のキム・ジョンイルに現金を支払っていること、国連援助本部のピョンヤン事務所を北朝鮮政府に運営させていることを止めさせようとした。これに対して、韓国人の藩基文国連事務総長はじめフランス、ドイツ代表などが総反発して、ウオルフォウィッツ世銀総裁追い出しの陰謀を企て、成功したというのが真相だという。

 この二つの話からも、いまや北朝鮮問題について、アメリカが全く頼りにならないことは明白である。前回のコラムで「ブッシュ大統領は北朝鮮のページを閉じた」と書いたが、閉じるほかないというのが実情だろう。イランと北朝鮮が手を結び、核兵器開発に力を入れようとしているのを知りながら、手も足も出ないのである。
 ハドソン研究所の友人はこんな話を聞かせてくれた。
 「今年の1月、ベルリンの北朝鮮大使館でヒル国務次官補が北朝鮮と話し合いをしている間、ライス国務長官はすぐ近くのホテルに泊まっていたが、何をするでもなく、スィートの部屋にあったピアノで一人、ブラームスのノクターンを弾いていたそうだ」
 夜想曲を弾いていたというのは何とも象徴的である。ピアノの鍵盤に指を走らせながら、ライス国務長官は何に想いをはせていたのだろうか。アメリカの力の凋落jだろうか。
 アメリカが北朝鮮問題について何もできず、イランにも手が出せないとなれば、中東の石油の将来は暗澹たるものだ。いまのところ日本経済は中東石油に大きく依存している。将来の石油の安定確保をはじめ、日本の国益のために、われわれは本気になって戦略を考えるときにきている。
(ハドソン研究所主席研究員)

●(10)週刊ポスト、2007年5月25日号「メタボリック症候群に科学的根拠なし!」より
 
 <京大、阪大教授たちが真っ向否定>  <「特に、男性ウェスト85センチ以上という、厚労省の診断基準はおかしい」(東海大学・大櫛陽一教授)・・・ならば“狂騒曲”の裏に何があるのか>《徹底検証》
 「健康のためなら死んでもいい」とは昨今の健康ブームを風刺したジョークだが、今、男性諸氏が一番気にしているのがお腹の出っ張り具合。マスコミやドラッグストアには「メタボリック症候群」の言葉が躍り、何でも“ウェスト85センチ以上”が危険なんだとか。ところが、このブームに疑問を呈する声が上がってきた。 <略>
 通信大手のNTTデータは健保組合向けの健康指導サービスを充実させる方針だ。
 「年内に健康診断情報を一括管理するサービスを提供する予定です。健康機関の受診者は全国で800万人規模になります」(広報室)
 また特定健康用食品の「黒烏龍茶」を06年5月から販売しているサントリーは、
 「売り上げは当初の販売目標の3倍以上になっています。発売時期にマスコミでメタボに関する報道が続き、後押ししてくれたのではないでしょうか」(広報部)
 と“メタボ特需”で潤う企業は多い。今後も、メタボ関連市場は急拡大するというのは、今年1月から3月にかけて市場を調査した矢野経済研究所の加藤正嗣氏である。
 「現在のメタボリック症候群関連の市場規模は7兆5000億円強です。5年後には現在の倍の15兆円規模が想定されます」

 <日本だけ違うウエスト計測法>
 一方で、こうしたメタボブームの根幹を真っ向から否定する専門家もいる。まず、メタボリック症候群という概念自体に異議を唱えるのは、京都大学医学部教授で附属病院探索医療センター検証部の福島政典氏である。
 「メタボリック症候群という言葉は人々に『腹囲が大きければ病気だ』と思わせかねない。しかし、その状態は何も難しい言葉を使う必要はない。要は『太り気味』ということにすぎないのです。

 肥満は、たとえば1日1時間歩く、間食をやめる、それだけでも改善できる。メタボリック症候群という“病名”を声高に叫ぶ必要は私には感じられない」
 素人考えでもおかしいところがある。「男性のウエスト85センチ以上」という診断基準は、身長180センチの人でも160センチの人でも同じでいいのか。
 東海大学医学部の大櫛陽一教授(基礎医学系医学教育情報学)は「メタボリック症候群の診断基準は科学的根拠がない」と批判する。
 「たとえばウエストの基準値をみてみると、男性の数値が女性より小さい。これは世界中で日本だけ。06年に国際糖尿病連盟(IDF)から『日本の基準は奇妙』と指摘されています」

 確かにIDFによる「民族別ウエスト周囲径基準値」によると、たとえば中国人は男性90センチ、女性80センチ以上などとなっている。なぜ日本だけ、体の小さい女性の診断基準が、体の大きい男性よりも大きくなるのか。大櫛教授はその矛盾点をこう指摘する。
 「欧米と日本のウエストの測定位置の違いがあげられます。欧米では肋骨下と腸骨の間で測定しますが、日本ではおへその位置で測定しています。女性は腸骨が発達している人が多いので、おへその位置で測定すると、内臓面積より腸骨の大きさを反映してしまう。
 ただし、ここが問題なのですが、女性は皮下脂肪が発達していることもあり、おへその位置での測定値は、内臓脂肪の量を反映しないのです」
 さらに大櫛教授は、体重(キログラム)を身長(メートル)の2乗で割った肥満度(BMI)から見た調査結果からも、男性85センチ、女性90センチ以上という診断基準には重大な疑義があるという。

 「私が行なった統計調査を分析すると、おへその位置でのウエスト85センチ、女性90センチは、それぞれBMIが23.8、26.4に相当します。
 これとは別に男性約2万5000人、女性3万9000人を11年間追跡し、BMIを基準に死亡率を調べた研究結果があります。
 その調査では、BMI25前後が男女とも全世代で最も死亡率が低い。一方、60歳以上では、BMIが18未満で、80歳代では20未満で死亡率が増大します。
つまり日本の高齢者は、痩せているより小太りのほうが長生きしているのです」

 さらにウエストの数値以外にも、診断基準には疑問があるという。
 「たとえば血圧は、年令にかかわらず85/130ミリメートルHgが超えてはならなぬ数値となっています。しかし高齢になるほど正常血圧は上昇する傾向にある。同一の基準を年令に関係なく当てはめることはできないはず。
 また中性脂肪、空腹時血糖値基準についても、強い性差があるにもかかわらず、男女同じ数値。これでは診断基準が、いい加減といわざるを得ません。また、このような基準に全面的に依拠し、サラリーマン健診における腹囲測定など様々な施策を進めている厚労省の姿勢にも大いに問題がある」(大櫛教授)

 こうした矛盾や問題点は国会でも追及された。昨年6月の衆院厚生労働委員会で質問した民主党の郡(こおり)和子代議士が語る。
 「診断基準に疑問を持ち始めたのは、現場の医師たちの『この基準、おかしいのでは?』という声がきっかけ。調べてみたら、05年9月に米国糖尿病学会と欧州糖尿病研究学会が、メタボリック症候群という概念そのものを疑問視する共同声明を発表していたのです」
 そこで、郡代議士は厚生労働委員会で当時の健康局長に、「共同声明の内容は把握していたのか」と質問したのだが、局長は「把握していた」と名言したものの、省内や識者を集めた部会などで議論したことはなかったと回答したのだ。
 「こうした海外の重要論文の内容を十分に検討しないのは大きな問題ではないでしょうか」(郡代議士)

 <撲滅委員会に製薬会社がズラリ>
 前出・福島教授は、メタボリック症候群が強調される背景には、製薬会社の生き残り競争があるのではとこういう。
 「彼らは営利企業ですから薬を売るためには需要を作り出す、という考えが出てきて当然。一般論として『ウエスト85以上は“病気”』ということにすれば、一大マーケットを創出できます」
 06年1月にフジサンケイグループが立ち上げた「メタボリックシンドローム撲滅委員会」の協賛には多くの製薬会社が名を連ねている。そして委員には日本版診断基準を決めた各学会の理事長などが並んでいる。

 厚労省はメタボ対策で予防意識が高まることにより医療費抑制を図ろうとしているが、メタボの基準によって“病人”が増え、逆に医療費が増えるという指摘もある。さらには、個人はこんなしわ寄せを被る可能性があると大阪大学人間科学部の堤修三教授はいう。
 「特に健康診断の実施率が低かったり、メタボ基準に該当する者が減らない医療保険に加入している人は、保険料を値上げされる恐れもあるのです」
 以上のような専門家の指摘について、当の厚労省では、
 「厚生行政の根本にかかわる問題なので、すぐに回答を出すことはできない」(健康局総務課生活習慣病対策室)
 と答えるのみだった。猫も杓子も“メタボフィーバー”という現状について、福島教授(前出)はいう。
 「もちろん太りすぎはよくない。しかしメタボリック症候群という新しい言葉をつくり、みんなで騒ぎ、ダイエット食品や薬で解決しようという考えは短絡的すぎ。一歩立ち止まって考え直すべきです。
 アメリカではすでに治療ではなく予防対策を徹底した結果、主要ながんで死亡率が4分の1に減少するなど大きな成果を上げている。それに比べ日本の疾病対策には強い懸念を抱いている」
 この警鐘をあなたはなんと聞く。

●(11)週刊ポスト、2007年6月8日号<いのちの時代を生き抜く知恵>「作家・五木寛之氏 対談 帯津良一氏・帯津三敬病院・名誉院長」より

 <前略>

 <東洋的体型は腰回りが豊か>
・・・メタボリックシンドロームも話題ですが、背が高い人でも低い人でも、全ての男性に一律にウエスト85センチという基準を用いるのには違和感があります。
<帯津>私としても首を傾げたくなりますね。その関連でお話すると、先日、静岡県の松蔭寺の虫干しに出かけたのですが、私は白隠和尚の「すたすた坊主」という絵が好きなんですよ。
<五木>すたすた坊主?
<帯津>お坊さんがすたすた歩いて全身に喜びがあふれているような絵。手に何か草みたいなものと桶を持っている。私流に解釈すれば、知人が訪ねてきたので町に酒と肴を買いに行ってきたところと見える。このお坊さん、頭が禿げて上半身は裸なんですが、大きくてなんともいいお腹なんですよ(笑い)。白隠和尚は84歳まで生きたんですが、あれは自分のお腹を描いたのでしょう。すると、お腹が大きいのがいけないということはないと思うんですよね。
 メタボリックシンドロームというのも、やっぱり誰かの陰謀じゃないかと勘ぐりたくなる。
最高血圧にしても、以前は160だったのが今は140。薬を飲む人が増えると製薬会社も医師会も具合がいいものね。
<五木>メタボリックもひっくるめて、国民を全部病人にしてしまうことになる。

 <後略>

●(12)週刊ポスト(2007年6月15日号)「出演した東海大学大櫛教授が告発!」
<「NHK『クローズアップ現代』で“メタボの不都合な真実”がカットされた」>より
 <消えた「米国の取り組み」>
 ・・・・・
 「また、取材にきたディレクターには『海外ではすでにメタボの概念自体に疑問の声が上がっている国もある。そのひとつであるアメリカのメタボ事情を取材したらどうか』とアドバイスしました。すると非常に乗り気で『取材します』といっていたのですが・・・・・」 
 実際に放送された番組にそうした場面はなかった。不思議に思った大櫛教授に、放送翌日、ディレクターから電話が入ったという。
 「『アメリカにまで取材に行きましたが、残念ながら放送3日前にカットされることになりました』と伝えてきたのです。ディレクター本人の意思に反してメタボに批判的な内容が削られてしまったという印象を私は抱きました」(大櫛教授・・・大櫛教授は上記の(10)週刊ポスト、2007年5月25日号「メタボリック症候群に科学的根拠なし!」に登場する先生です>)
・・・・・
 米国の事例が放送される予定だったことは、実は番組の公式ホームページに明記されている。このホームページでは事前に放送内容の予告が掲載され、そのまま「過去の放送記録」として蓄積されていく。当該の06年7月19日のところを見ると、15行ほどの文章の末尾には今もこう書かれている。
 <有害なものを社会的に排除していく米国の取り組みも交えて検証する>
 ・・・・・
 NHKOBでもあるジャーナリストの上杉隆氏は、「NHKを取材すると、局員たちが『ウチは視聴者と向き合うよりも、国や政府などの顔色を窺うところがあるから』と自嘲気味にいう」
 と指摘するのだが、そんなことはあってはならない。

<文責:藤森弘司>

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