2007年12月15日 第65回「今月の言葉」
認知療法とは何か?

●(1)今回から、本来の心理学や自己成長のスタイルに戻り、「認知の歪み」を詳しく解説していきます。
 その前に、「認知の歪み」のシリーズ、第55回(2007年2月15日)で述べたことを下記に再録します。 <<●(1)私は「認知療法」を、私(藤森)が尊敬する二人の先生、飛鳥井雅之先生(東洋身心医学総合研究所主幹)と杉田峰康先生(福岡県立大学大学院名誉教授)に学びました。
 私は、この「認知の歪み」を学んで本当に良かったと思っています。もし、「認知の歪み」を学んでいなかったら、私の人生はどんなことになっていただろうかと思うと、ゾッとします。  私が若いときは、「認知の歪み」で成り立っていました。できるならば、若いころの私を消し去りたいほど恥ずかしい人生でした。
 「認知の歪み」を学んで以来、自分の中にある「認知の歪み」を一つひとつ発見して、しらみつぶしに潰してみると、竹の子の皮のようにたくさんあって、私自身の中身は、皮を剥かれた竹の子のように、いくらもありませんでした。
 そうやって「認知の歪み」を取り去って、多少なりとも、まともな人間になってみると、周囲が「認知の歪み」で成り立っていることに驚きます。私自身、立派なことを言える人間でない事はもちろんですが、体験者として忠告させていただけるならば、ご自分自身の「認知の歪み」に気づいて、少しでもそれを取り除く作業をしないと、人生、大変なことになりますよ。

 結局、世の中、「認知の歪み」に限らず、学問とか理屈だけで学ぶ人が多くて、学んだことを「実践」しない人がほとんどです。もったいないし残念なことですね。
 そういうわけで、この「認知の歪み」の実例をシリーズでお届けしてから、心理学でいう「認知の歪み」を解説したいと思っています。
 何故、シリーズで実例を紹介するのかといいますと、心理学の「認知の歪み」を、これこれこうですよと紹介し、解説をしても、ただそれを理屈で「ああそうか」と理解して、その後は、「認知の歪み」は詳しく知っているが、「認知の歪み」を相変わらず続けているという人間になって欲しくないという強い願いがあるからです。

●(2)自分の中の「認知の歪み」を取り除いていくと、禅でいう「無」とか「空」が体験できます。
 一つ、ヒントを言います。自分の中に、他者(自分も含む)に対して「ネガティブ」な感情が浮かんだら、それはほとんど全て、「認知の歪み」であると認識することです。
 もし、その「ネガティブな感情」が正しいという自信があるならば、証拠を明示してみてはいかがでしょうか?証拠を明示する一番良い方法は、「ネガティブ」に解釈したことが、正しい理解か否か、相手に確認してみることです。相手に確認するまでは、疑わしきは「無罪」の認識を持つべきです。

 私の体験では、他者に対して「ネガティブな感情」を抱いた場合、そのほとんど全ては、「自己の未熟さ」を露呈していました。相手に確認もせず、他者の言動や、そのウワサを「ネガティブ」に受け止めることは、私の場合、単に、自分の恥ずかしさを露呈しただけのことでした。
 そうやって多少なりとも、「認知の歪み」の世界から抜け出て周囲を見渡してみると、世間が「認知の歪み」で溢れていることに気がつきました。と言いながら、このように決め付けるのも「認知の歪み」かもしれませんが?

●(3)結論。
 「ポジティブ(好意的)」に受け止めたことは、それは「正しい理解」であると決め付けてしまう。
 逆に、「ネガティブ(悪意的)」に受け止めたことは、「真実は不明」であるとする。そしてそれを確認したければ、確かな証拠を集めるか、相手に確認をすることです。
 そうしてみると、大したことでないことに、わざわざ労力をかけて、確かな証拠を集めてみたり、相手に確認をすることが面倒くさく、また、バカバカしくなってきます。そうすると、やがて、「ネガティブな感情」はゴミ箱に捨てて終わり、という心境になります。
 これを「ゴミ箱」に捨てないで、長年、大切に持ち続けることを、「恨み」といいます。「恨み」を減らすと、人生、とても楽になりますよ。>>

●(2)今年2月の「認知の歪み(2)」で、私(藤森)は、上記のように書きました。
 さて、これからは本題の「認知の歪み」を、シリーズで解説していきたいと思います。  私たちは、見たり(視覚)、聞いたり(聴覚)、触ったり(触覚)、臭いを嗅いだり(嗅覚)、味を感じたり(味覚)・・・・・自分の「五感」で感じたものは「正しい」という強い思い込みがありますが、これを疑ってみることが、自己成長をする上で、極めて重要です。
 日常の錯覚の例を挙げてみますと・・・・・
 例えば、冷たい水風呂から泡がブクブクと泡だっている中に足を入れたとき、冷たさが、逆に「熱い!」と錯覚することがあります。しかし、泡がブクブク出てくるのが熱湯であるという既成概念がない幼児には、こういう錯覚はないはずです。
 また、高級なお酒やウィスキー、或いは牛肉などのラベルを剥がして見ると、以外に高級なものを当てられなかったりします。
 先日、テレビで、大関の千代大海関が、いわゆるタニマチといわれる人たちに宴席に招待されて、最高級の大トロなどをご馳走されると、吐いてしまう、カップラーメンなどのほうが遥かにおいしいと言っていました。
 しかし、接待する側は、最高級のご馳走をしていると思っているはずです。何故ならば、自分達はおいしいでしょうし、金額が高く、高級といわれているものなので、最高の接待をしていると思っているはずですが、案外、カップラーメンをご馳走するほうが喜ばれるのかもしれません。
 これは、私(藤森)は、とてもよく理解できます。粗末なものを食べてくると、最高級の食品が口に合わない事はよくあります。例えば「ウニ」とか「イクラ」とか「大トロ」などもそうです。ご飯が少しで、大きな大トロがドカッと乗っているのは、私は苦手というより気持ちが悪く、千代大海関とほとんど同じ心境です。でも、まあ、私の場合は、そのような機会は、ほとんど無いからいいですが・・・・・。
 そういえば、私が子供の頃(昭和30年前後)、多くの人が借家でしたが、大家さんが集金にくると、生活が豊かだった我が家の隣の家で、大家さんにご馳走を出す(多分、出前のお寿司などだったように記憶しています)と、大家さんは下痢をすると聞いたことがあります。  回転寿司屋さんは、今、かなり流行っています。安い食材を手当てするために、好ましくないことを含めて、かなり色々工夫しているようです。そういうものに慣れてくると、却って、本物のほうがおかしいと言われてしまうと、ある寿司屋さんが言っていたことが新聞に載っていました。

●(3)交通事故を目撃した場合、そこでの反応は人様々です。多くの場合、自分の反応が当然であると思い勝ちですが、実は、それを見た人の性格傾向(交流分析でいう自我状態、「P」や「A」や「C」のどれが高いかなど)や、見たときのその人の条件、例えば急いでいるとか、自分が転んで怪我をした直後であるとか、身内を亡くした直後であるとか、失恋しているときであるとか、若いか年配者か、男性か女性か、試験に合格したときか、失敗したときか、などなどの諸条件により、受け取り方はかなり違うものです。
 子供が誕生した直後なども、人生の不可思議さに感動したり、瑞々しい感性が生き生きと発露したりします。しかし、喉元過ぎればなんとやらではありませんが、子どもがいたずら盛んになれば、イライラ、カリカリの毎日で、誕生直後の感性は、どこかに吹っ飛んでしまっています。

●(4)上記のように、私たちは、日々、時々刻々と心境が変化しています。
 同じものというものは、もちろん、ありませんが、仮にあるとして、同じ人が同じものを見ても、その人のその時の心理状態や年令などにより、受け止め方がかなり違うものです。
 ましてや、違う人が見れば、違う感じ方があるのは当然のことですが、私たちは、自分と同じように感じない相手を非難したくなる傾向があります。もし、相手は相手の「立場」や「感性」でそれを見たり、感じたりしていることを十分に理解できたら、この世の中から「争いごと」は無くなるのではないでしょうか?
 この辺りのことを、見事に分かりやすく説明してくれるのが「認知の歪みのプロセス」です。

 東洋的なものは、全体性を表す深みのあるすばらしい表現方法がありますが、言葉の持つ意味が広く深い分だけ、それを理解するのに、やや難があるものです。
 逆に、西洋的なものは、全体性や深みに欠けるキライがありますが、その分、理解がしやすい特徴があります。
 余り多くを知らない私(藤森)が、話を膨らませるとボロが出ますので、「認知の歪み」に限定します。「認知の歪みのプロセス」は、この辺りのことを、非常にわかりやすく説明してくれます。

●(5)「認知療法」における私たちの心の動きを表したのが、下記の図です。

               <認知の歪みのプロセス>


               *受けとめ方
               *思い込み
               *解釈(推測)
               *情報収集

(a)の「刺激」とは・・・・・
 私たちの「五感」が感じられる、種々様々な出来事の全てを意味します。例えば、朝顔を洗う、歯を磨く、食事をする、学校に行く、勉強をする、仕事をする、電車に乗る、交通事故を見る、噂話をする、サッカーの試合を観戦する、転んで怪我をする、ゲームをして遊ぶ、買い物をする・・・・・日々、時々刻々、私たちが見たり、聞いたりする全ての事柄を意味します。
 自分の周囲に起こるこれらの出来事の全て、つまり、自分の「五感」で感じられる全ての出来事を意味します。

(b)の「無意識的意味」とは・・・・・
 私たちが生まれ、育ってくる過程で、いろいろな意味づけがなされてきます。
 例えば、嘘をつくことは悪い事だとか、人を見たらドロウボウと思えとか、渡る世間に鬼はいないとか、バレなきゃいい等々、親や周囲の価値観を受け入れたり、種々様々な体験などを通して、無意識界にいろいろな価値観を蓄積していきます。
 そういう価値観(受けとめ方、思い込み、解釈・推測、情報収集)が、種々様々な場面で反映されます。
 例えば、バンジージャンプを見て、やりたいと思う人もいれば、恐ろしくてやりたくないと思う人もいます。犬を見ると、つい頭をなでたくなる人もいれば、怖がる人もいます。上野公園での花見のドンチャン騒ぎを見て、苦虫を噛む人もいれば、楽しそうだと愉快になる人もいるでしょう。会議で、若い人が活発に発言する姿を見て、好ましく思う管理職の人もいれば、出すぎていると思う人もいるでしょう。
 そのような違いが何故、生じるのでしょうか?

 私たちは、「五感」で感じた瞬間に、「感情」が反応していると思い込んでいます。犬の場合であれば、犬の刺激があった瞬間に、「怖い」という感情が働いているように私たちは思っていますが、実はその人には、犬は怖いという「無意識的な意味づけ」がなされているからなのです。もしかしたら乳幼児のときに、犬に咬まれたことがあるかもしれません。そうであるならば、「犬は怖い」という「感情反応」が起こるのは当然のことです。

 私たちは、ある出来事、つまり「五感」に訴えるある刺激があったとき、その刺激に「感情」が直接刺激されて、即、「感情」が反応していると思っていますが、実は違うのです。
 「五感」に訴える刺激は、感情に即、刺激しているのではなく、また「無意識的な衝動」により、感情が反応しているのでもありません。長い間の習慣で、スーパーコンピューター的なレベルで、刺激を瞬時に「価値判断」しているのです。余りにも高速なために、「無意識的意味」づけが為されている事を理解できず、「感情」は刺激に即、反応しているように思えてしまうのです。
 その良い例ですが、乳幼児と散歩をしているとき、後ろから自動車の音がすると、母親は、その音は自動車の音で、危険だということが即座に察知できます。しかし、乳幼児は、ノンキに道路の真ん中を、ヨチヨチ歩いています。
 何故でしょうか?それは、自動車の「エンジン音」イコール危険だという「無意識的意味づけ」がなされている母親と、なされていない乳幼児との差です。
 「育児」がしばしばトラブルのは、この差が親の側に十分に理解されていないために起こることです。
 上記の例でいいますと、ほとんどの母親は、「危ない!危ない!」と、乳幼児を叱りながら、注意を喚起します。母親にとっては、後ろから自動車のエンジン音が聞こえれば、車を避けるために、即座に道路脇に寄るのは、完全な常識です。
 しかし、乳幼児にとっては、その学習が十分になされていませんし、年令によっては、初めての体験かもしれません。その乳幼児が、自動車のエンジン音を聞いても、それは何の音かもわかりませんし、その音が何を意味するのかも全くわかりません。ですから、「危ない!危ない!」と母親に叱られても、一体何を意味しているのか、サッパリわかりません。
 サッパリわからないために、母親の叱責に何の反応を示さない乳幼児を見て、母親はさらに怒りをエスカレートさせるという場面にしばしば出くわします。もしこの時、体験の差であることが理解できれば、母親は、すぐに乳幼児のところに駆け寄り、抱えて、自らが道路脇に寄るでしょう。そして、「あのブーブーの音がしたら危ないから、避けるのよ」と、何度も何度も教え込むことでしょう。
 
(c)感情とは・・・・・
 以上のように「無意識的意味づけ」により、感情が湧いてきます。「感情」は、刺激(出来事)により決定されるのではなく、刺激をどのように価値づけるかによって、感情の種類が決定されています。
 別の言い方をしますと、「刺激(出来事)に対しての受けとめ方」、「刺激(出来事)に対しての思い込みや解釈の仕方」によって、感情の種類が決まるのです。
 例えば、乳幼児のころに犬に噛まれた人は、その後の人生で、繰り返し、繰り返し、犬にビクビクしていたはずです。それは、無意識の中に、犬に対する強い恐怖心が存在するからで、犬を見た瞬間に、「怖い!」と感じているようですが、「犬は怖いものだ!」というスーパーコンピューター的瞬間判断の結果、「怖い!」と感じているのです。
 これは、多分、多くの人たちには、衝撃的なことではないでしょうか。しかし、これはさらに「良い意味での衝撃」を味わうことができますが、それは後述します。

(d)行動とは・・・・・
 (c)の感情の結果、(d)の行動がなされます。上記の例で言えば、自動車の音で「危ない!」と感覚すれば、すぐに道路脇に避難するでしょうし、「危ない!」と感覚しなければ、そのままの行動を続けるでしょう。
 犬が「怖い!」と感じれば、「ビクビクッ」として、逃げるでしょうし、「可愛い!」と思えば、犬に近づいて頭をなでるでしょう。
 逃げたり、近づいて頭をなでたりする「行動」(d)は、(c)の感情の結果であり、(c)の「感情」は、(b)の「無意識的な意味づけ」の結果です。
 (d)の「行動」とは、いわゆる「病気」とか病気の「症状」をも意味します。例えば、会社の上司にいつも怒鳴られていて、毎日、ビクビクしていれば、当然、病気になってしまうでしょう。
 しかし、映画「釣りバカ日誌」の浜ちゃんではありませんが、少々怒鳴られても抵抗力があって、へこたれない人もいます。それは、怒鳴られるということを、どのように「無意識的な意味づけ」をしているかによります。

 以上の一連の流れを理解することは、想像を絶する効果があります。つまり、「刺激」と「感情」の間に「無意識的意味づけ」があるということを十分に理解できるか否か、この違いが、天と地の違いを生み出します。それを詳細に解説することが本題です。
そのために、くどいほど、この辺りを解説します。

●(6)さて、私たちは、例えば「交通事故」を見たとします。その時、人様々な反応を示します。交流分析をご存知の方であれば、(P)(A)(C)の違いで説明できます。
 (P)が高い人は、「スピード違反するからいけないんだ。交通法規を守らないといけない」と、批判的に見るかもしれません。
 また、(A)の高い人は、「何故、事故が起きたのだろう。こんな直線の道路で、事故が起きるのが不思議だ」と思うかもしれません。
 (C)の高い人は、「ウワァー!怖い!かわいそう!」と、感情を露わにするかもしれません。
 もし、刺激が即、感情を直撃するならば、見ている人皆が、同じような反応をしてもいいはずです。しかし、上記のような違いが生じるのは、「交通事故」という「刺激」の受け止め方、つまり、「刺激」に対する「価値観・解釈の違い」があるからです。

●(7)元暴走族で、今は社会的に立派な仕事をしている人と私(藤森)は、話をしたことがあります。
 「何故、暴走族を止めたのですか?」と訊ねました。
 それに対して、「あるときオートバイがひっくり返って、体が滑ってガードレールに激突したことがある。これは危ないと思って、止めた」と、彼は言っていました。
 私は、「そんなことがなくても、暴走族をやること自体が危険じゃあないの!」と言うと、彼は苦笑いしました。
 つまり、彼にとっては、暴走族をやっていること自体には、止めるほどの危険を感じなかったことになりますが、私(藤森)であれば、暴走族そのものが、いや、オートバイに乗ること自体が、怖くもあり、恐ろしく危険に思えます。同じオートバイであり、自動車でありながら、その人の価値観、感性により、こんなにも違います。
 「暴走族」をすることに対して、暴走族そのものがどれだけ危険なものかということよりも、「暴走族」をやることに対しての価値観が違うことがわかります。つまり、暴走族やオートバイや自動車に対しての「無意識的意味」づけが違うことになります。

●(8)私(藤森)は、日々、「心理的な対応」をすること、私の立場で言いますと「自己回復」のお手伝いをさせていただいています。一般的には「カウンセリング」といわないと通じませんが、カウンセリングは非常に狭い範囲の対応で、私の立場でいう「自己回復」のお手伝いの中の、本当にわずかな部分を占めるだけのものですが、「カンセリング」と表現しないと理解していただけないのが残念です。
 そこで、一般的にいう「カウンセリング」の場でよくあることですが、私が、何かを質問したとします。そのことの答えがわからない場合に、「わかりません」ということが、その人にとってとても恐ろしくて、「わかりません」と言えないことがあります。
 私は、坐禅で鍛えていますので、10分、20分、30分、沈黙が続く事はなんともありません。相手の方が黙っているので、「このままお待ちしてもいいですか?」と訊ねますと、「いいです」とおっしゃいます。
 それで沈黙して待っていますと、やがて、とても苦しいそうな表情をされます。
 「あのー。私何か、いじめるようなひどいことをしていますか?」と聞くと、「いいえ」とおっしゃいます。その方は、さらに苦しそうな表情をされるので、「もしかしたらわからないのでありませんか?」と言うと、「そうです」とおっしゃいます。
 「ならば、わからないとおっしゃったらいかがですか?」と言いますと、「わかりません」と言って、ホッとされることがあります。
 この方の場合、わからないということは、非常に重大事態だという認識、つまり「無意識的意味」づけがなされていることになります。
 実は、多くの日本人にとって、「わからない」ということは、簡単に表明できない、非常に困難な場面だと「無意識的に意味づけ」されているものです。「カウンセリング」の場で、クライエントの方が、単に「わからない」というだけのことが言えず、しばしば「苦痛」を感じていらっしゃる様子をしばしば体験します。
 また、単に「ノー」と言えば済む場面で、「ノー」が言えず、困窮される場面もしばしば目撃されます。「ノーと言えない日本人」という本がありましたが、日本人にとっては、「ノー」ということは、非常に困難を伴う「無意識的な意味づけ」をされている方が多いです。

●(9)仕事を間違えた場合の反応も、実に人様々です。「仕事を間違える」という「刺激」「出来事」に対して、瞬間的に感情が反応していると思いがちですが、誰でも間違えはあるものだと思う人は、ノンビリ、ゆったりした反応をするでしょうが、「しまった!とんでもないことをしてしまった!」と思う人は、身の縮む思いで、「ごめんなさいッ!」と、声を絞り出して謝るでしょう。また、交流分析でいう「ゲーム」をしている人は、間違えても、ヘラヘラしながら謝るかもしれません。
 私たちが、「刺激」「出来事」に対して、瞬間的に感情が反応していると思っていることが、実は、その間に「無意識的意味づけ」を行なっていることがお分かりいただけたでしょうか。

●(10)以上の「無意識的意味づけ」をしていることを理解していただければ、全体の半分が理解できたと言っても過言ではありません。
 さて、まとめに入ります。

               <認知の歪みのプロセス>


               *受けとめ方
               *思い込み
               *解釈(推測)
               *情報収集

 私たちは、上記のようにある出来事(刺激)に対して、自分固有の受けとめ方(思い込み、解釈、推測)をし、その思い込みや推測に沿うような情報のみを収集し始めます。
 あばたもえくぼで、好意的に解釈すれば、収集する情報は好意的になります。
 逆に、「受けとめ方・思い込み」が、悪い方向に感じた場合は、収集する情報は好ましくないものになります。
 関係が悪くなると、「好意」で行なったことでも、「悪意」に解釈されることが多くなりますし、良い関係だと「悪意」でやったことでも、「好意的」に解釈されることさえもあります。
 夫婦仲が悪くなった場合に、好意で、高級なアクセサリーをプレゼントしても、裏に何かあるのではないかと、逆に疑われたりすることもあるのではないでしょうか。

●(11)冤罪事件も、このことから理解できます。
 警察や検察が、この人間は「犯人である」という「無意識的な意味づけ」を行なってしまうので、「冤罪事件」が起こります。「無意識的(場合によっては、意識的)な意味づけ」をしてしまうために、いろいろな証拠や証言などを、作為的に取捨選択して、犯人に仕立て上げられる材料だけを集め、無罪を証明するような材料は抹殺してしまうからでしょう。
 国策捜査のように、初めから「意識的な意味づけ」がなされることもあるでしょうが、通常の「冤罪事件」は、上記のようなことから発生するものと、私(藤森)は思っています。

●(12)さて、「無意識的な意味づけ」が「刺激」と「感情」の間に入ることが理解できたならば、どんな衝撃的なことがあるのでしょうか?
 実は、自分の中の「無意識的な意味づけ」を発見したならば、この「意味づけ」を変えれば、価値観は全く違うものになるのです。今まで「悪い」と思っていたもを、「良い」ものに変えることができるのです。
 例えば、「わかりませんと言うことは、極力避けるべきである」と「無意識的な意味づけ」をされていた方が、「わからないものは、わからないと言っても、恥でもなんともない」という「意味づけ」に変えたならば、それ以後、わからない場面で、「わかりません」とハッキリ言えるようになり、かなりの心理的エネルギーの消耗を避けることができますし、そのような「場(例えば、セミナーなど)」に参加することが苦痛でなくなるはずです。

●(13)子供の成績が悪くても、「良い解釈」はいくらでもできます。元気であるとか、体育の成績が良いとか、人柄が良いとか・・・・・。悪いものを探さずに、大切な我が子の「良いところ」を探そうという「意味づけ」に変えれば、「悪い」ものはほとんどなくなります。
 私が尊敬する星野富弘先生は、鉄棒で頭から落ちて、首から下がまったく動かない方ですが、口で、あれだけのすばらしい絵や詩をかけるのは、この「無意識的な意味づけ」を変えたからであろうと、私は推測しています。
 別の言い方をすると、この「無意識的な意味づけ」を変えるために、全ての心理学や宗教があると言っても過言ではないでしょう!!
 そして、この「無意識的な意味づけ」を変えると、世の中が一変し、自分の歴史が変わります。何故でしょうか。
 それは、過去の例えば「情けない出来事」が、ハッピーになったり、「悔しかったことや恨みごと」が「感謝」に変わったりするのです。ですから、この「認知療法」だけでなく、「自己成長」「自己回復」を目指さなければ損をします。逆に言えば、人生、得をしたかったら、「自己成長」「自己回復」に取り組むことです。
 私(藤森)のように、若い頃は、恨みの対象が沢山あり、自分ほど不幸な人間はいないと思っていたのに、今、人並みな幸せを感じることができる人間になれたのは、「自己回復」に取り組み、そして多くの専門家や先輩に恵まれたお陰です。
 不幸の塊であった私の人生が変わりました。それは、つまり、私の人生の「歴史」が変わったことを意味します。

 さて、次回からは、「認知療法」でいう「認知の歪み」の代表的なパターンとして「13例」を上げていますので、それらの一つひとつを詳しく解説していきたいと思っています。               

<文責:藤森弘司>

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