2007年11月15日 第64回「今月の言葉」
認知の歪み(8)

●(1)いよいよ、次回からは、本来の姿に戻って、心理学の「認知療法」の「認知の歪み」をお送りします。基本的に、広い意味での心理学を紹介することを旨としているこのホームページで、何故、全然違う分野のことを書いてきたのか?
 平成19年2月15日、第55回「今月の言葉」で説明しているので、再度、それをご紹介します。 <結局、世の中、「認知の歪み」に限らず、学問とか理屈だけで学ぶ人が多くて、学んだことを「実践」しない人がほとんどです。もったいないし残念なことですね。
 そういうわけで、この「認知の歪み」の実例をシリーズでお届けしてから、心理学でいう「認知の歪み」を解説したいと思っています。
 何故、シリーズで実例を紹介するのかといいますと、心理学の「認知の歪み」を、これこれこうですよと紹介し、解説をしても、ただそれを理屈で「ああそうか」と理解して、その後は、「認知の歪み」は詳しく知っているが、「認知の歪み」を相変わらず続けているという人間になって欲しくないという強い願いがあるからです。>  さて、今回は、「認知の歪み」のシリーズ、最終回ですので、盛りだくさんに掲載しました。かなり量が多いのですが、ジックリお読みいただければ、とても面白いと思います。
 まだまだ、掲載したいものがたくさんありますが、キリがないので、他の資料は、機会を見て、また、ご紹介したいと思っています。
●(2)週刊ポスト、2006年2月3日号「逆説の日本史」(井沢元彦著)

 <武断政治から文治政治への展開Ⅱ「将軍と側用人システム」編・その①>

 <綱吉が「低身長症」であったことをなぜ、当時の人は1人も記していないのか?>
 <略>
 ここで思い出して頂きたいのは、豊臣秀吉の右手の指が6本あった。すなわち多指症という先天性の異常だったという事実だ(第11巻「戦国乱世編」参照)。
 その事実を記した、日本側の唯一の史料「国租遺言(こくそいげん)」(前田利家語録)は、その「秀吉が6本指」という事実について何と記していたか、覚えておいでだろうか。実はその記事は次のように結ばれていたのである。
 <この事は、織田信長公が、太閤様のあだなに「六つめが・・・・・」などと呼んでいた事が色々な物語で語られているので、少なくとも、信長公の時まで、太閤様の親指が1つ多く、6本あった事は確かな事です。>

 現在はその「色々な物語」は1つも残っていない。信長についての一級史料「信長公記(しんちょうこうき)」にも信長が秀吉のことをそう呼んだ記述は一箇所もない。
 つまり権力者秀吉によって史料が抹殺されたということだろう。もちろん、権力者による抹殺だけでなく、「やさしさ」もある。死んだ人間の「恥」になることはなるべく言わないということだ。その意識の底には「下手に死者の悪口を言うと祟(たた)る」という怨霊信仰があることは言うまでもない。
 考えてみれば、「秀吉の大陸侵攻は子供の死の悲しみをまぎらわすため」とデタラメを書いて秀吉を貶(おとし)めようとした、徳川幕府の御用学者林羅山ですら、このことは書いていない。
 もし、この加賀前田藩の門外不出の記録「国租遺言」と、同じく秀吉の権力の及ばないイエズス会のルイス・フロイスの報告書(ここにも秀吉が6本指だという記述がある)が無ければ、「秀吉6本指説」は完全に異説として闇に葬られていただろう。

 さて、実は「名君」江戸幕府五代将軍徳川綱吉にも「抹殺」された事実がある。
 それは、綱吉が極めて身長の低い人物であったということなのだ。
 このことについては「史料」はまったく残されていない。だが、実は決定的な物的証拠がある。それも「秀吉画像」のようなあいまいなものでなく、確実はデータである。
 それは幕府の始祖徳川家康の故国三河国の大樹(だいじゅ)寺にある、将軍の位牌だ。
 家康はその死にあたって「遺体はいずれ日光に祀れ」と遺言したことはよく知られているが、実は同時に「仏式」の祭祀についても遺言している。それは「位牌は三河の大樹寺に立てよ」というものだった。
 幕府は本拠を江戸においたので、将軍の葬儀については寛永寺や増上寺で行なわれることが多かったが、位牌については遺言通りに大樹寺に立てられた。
 実はこの位牌、今も三河の大樹寺に立てられているのだが、一見して顕著な特徴がある。それは位牌の高さが全部バラバラなことである。
 こんな例は他に一つもない。
 全部が将軍の位牌なのだから大きさは統一すべきである。始祖である家康の位牌が一番大きいというなら話はわかるが、実測してみると家康位牌159センチ、秀忠160センチで、二代秀忠の方が少し大きいのである。秀忠は第12巻「近世暁光編」で述べた通り決して優秀な男ではない。それなのになぜこういうことになっているのか?

 <戦国以来の意識変革を行なった政治手腕>
 実はここに一つの伝承がある。それはこの位牌は将軍死後に実測した本人の身長によって高さが決められた、というものだ。
 実は、徳川将軍の中には現代になってからの発掘調査で、その遺体の実測値がわかるものがる。そこで作家で医師でもある篠田達明氏が大樹寺の位牌の高さと実測値を比べてみたのが次の表である。

  将軍位牌
の高さ
将軍遺体
の身長
初  代 家康(東照大権現)  159.0  
二  代 秀忠(台徳院)  160.0  158.0
三  代 家光(大猷院)  157.0  
四  代 家綱(厳有院)  158.0  
五  代 綱吉(常憲院)  124.0  
六  代 家宣(文昭院)  156.0  160.0
七  代 家継(有章院)  135.0  
八  代 吉宗(有徳院)  155.5  
九  代 家重(惇信院)  151.4  156.3
十  代 家治(浚明院)  153.5  
十一代 家斉(文恭院)   156.6  
十二代 家慶(慎徳院)  153.5  154.4
十三代 家定(温恭院)  149.9  
十四代 家茂(昭徳院)  151.6  156.6

(単位:cm)(原図「徳川将軍家十五代のカルテ」新潮社刊)

 比べていただきたい。ほとんど一致している。中には5センチの誤差があるもの(九代家重)もあるが、これは篠田氏によれば「死後硬直による遺体の股関節や膝関節などの屈曲拘縮(こうしゅく)」によるもので誤差の範囲内だという。
 ところが、この数値がいちじるしく小さいものが二つある。五代綱吉と七代家継だ。このうち七代家継は8歳で死んでいるから、低いのはやむを得ない。しかし、綱吉は61歳まで生きたのである。
 これは一体どういうことか。

 父家光の身長は位牌によると150センチ、母桂昌院のそれは遺体の実測値で146.8センチである。江戸時代の男女としては標準的寸法である。その両親から生まれた綱吉の背丈が小額2年生ぐらいしかないのは低身長症と断じてもよいだろう。
 低身長症の原因には内分泌異常、骨系統疾患、栄養不足、愛情遮断性小人症などさまざまなものがる。綱吉の肖像画をみると均整のとれたからだつきをしており、特別な症状はみとめられない。したがって特発性(原因のはっきりしないとき医者はこういう便利な用語を使う)あるいは生長ホルモン分泌異常による低身長症と思われる。将軍が極端に小柄であれば、いかにも威厳が足りず、綱吉にとって大きなコンプレックスになっただろう。
 <このコンプレックスをはらすため綱吉はみずから舞台に立って能を演じ、二百回におよぶ儒学の講義をしたのではなかろうか。からだは小さくとも余はこれだけのことができるのじゃ、と胸をはる精一杯のパフォーマンスだったと思えてならない。>(引用前掲書)

 つまり、綱吉の一生には、この「低身長症」がかなり大きな影響を与えていることは間違いない。
 <略>
 念のためだが、綱吉が「犬公方(いぬくぼう)」だと反感を持たれたがゆえに、位牌がわざと小さくされたのだろうというのは、現代的な考え方であって有り得ないと思う。将軍は将軍なのである。逆に「大きく」も「小さく」もせずに、その「大きさ」をきちんと実測するというのが当時の貴人に対する考え方だ。篠田氏もそういう考え方は「非礼」であると、きっぱり否定している。
 もちろん、綱吉が「低身長症」であり、ある意味でコンプレックの塊であったとしても、既に展開した「綱吉名君説」をひっこめるつもりはない。
 綱吉という人は、やはり戦国の遺風に完全に終止符を打ち、政治によって日本人の意識を変えた偉大な将軍である。
 そして、その偉大さは、実はその政治手法によっても証明できる。
 刀狩であろうと郵政民営化であろうと、政策を実現するためには、その政策を主張するだけではダメである。
 それが客観的に見て、日本の将来にとっていかに必要なものであったとしても、絶対に反対だという抵抗勢力もいるし、妥当な政策だから必ず多くの人間の協力を得られるわけでもない。
 たとえば宗教勢力の武装解除という、刀狩に通じる大政策の実現にあたって、織田信長はどれほど反対派を殺さなければならなかったか。第十巻「戦国覇王編」で述べた通りである。そして、それほど苦労して実現したことが、いざ当たり前になってしまうと、それが信長の功績であることすら忘れられてしまう。
 これも一つの「歴史の法則」なのかもしれないが、それを成立させないのが本当の「歴史学」だろう。常に誰が何をしたか、その結果どうなったかを、正しく把握するのが本当の「歴史学」のはずである。

 では、戦国以来の意識の変革という大偉業を為しとげた綱吉の、それを実現たらしめた政治手法は一体どんなものか?
 それこそ、側用人(そばようにん)というシステムの創設と活用なのである。(以下次号)

●(3)前項で紹介した、<既に展開した「綱吉名君説」>こそが、今回、ご紹介したいことでしたが、切抜きを逸してしまったために、私の記憶で、要約してお届けします。

 <生類(しょうるい)憐みの令と将軍・徳川綱吉>
 徳川家康が、1600年に関が原の戦いで勝利を得て、1603年に征夷大将軍に任ぜられて、江戸幕府を開いた。
 戦乱が終わり、平和になったにもかかわらず、戦国時代の気風を色濃く残していて、平和の時代に似つかわしくない出来事、乱暴狼藉をはたらく武士が多かった(綱吉が将軍に就いたのが1680年)。
 今の日本では、第二次世界大戦が終わって62年が経ち、まったく戦後という香りは残っていませんが、今から400年前の江戸時代では、命がけで戦った父親や祖父の気風は十分に残っていたはずです。
 まさに、命を懸けて戦い、戦死した家族もあるでしょう。また、腕や足を切り取られて障害者となり、今の時代よりもはるかに不便な生活を余儀無くされた武士も多かったはずです。
 そういう大きな犠牲を払って勝ち取った政権であるのに、その後は、ソロバン勘定などをする事務方の人間が重要視されることに、とても耐えがたかったことと思います。そういう社会に馴染めない不器用な人間こそが、戦国時代に活躍できたわけです。
 どう考えても、戦国時代に活躍した武士が、ソロバン勘定的な職業に適応できるわけがありません。しかし、戦国乱世後の時代は、無骨で荒荒しい武士の活躍する場はなくなりました。
 無骨な武士は、一体誰のお陰で平和になったのだというやりきれなさが、ソロバン勘定をして活躍する武士達に喧嘩を吹っかける事は、当然のようにあったのではないでしょうか。
 そういう諍いを止めさせるために、常識外れの「生類(しょうるい)憐みの令」を出したというのが、井沢元彦氏の説です。確かに、これ以後、戦国の気風はピタッと止んだようです。
 これは、前項の(2)でも述べられているように、天才的は綱吉だったからこそできたことだと、井沢氏はいいます。

 (2)の一部を再録しますと、
 <綱吉という人は、やはり戦国の遺風に完全に終止符を打ち、政治によって日本人の意識を変えた偉大な将軍である。
そして、その偉大さは、実はその政治手法によっても証明できる。
刀狩であろうと郵政民営化であろうと、政策を実現するためには、その政策を主張するだけではダメである。
それが客観的に見て、日本の将来にとっていかに必要なものであったとしても、絶対に反対だという抵抗勢力もいるし、妥当な政策だから必ず多くの人間の協力を得られるわけでもない。
たとえば宗教勢力の武装解除という、刀狩に通じる大政策の実現にあたって、織田信長はどれほど反対派を殺さなければならなかったか。第十巻「戦国覇王編」で述べた通りである。そして、それほど苦労して実現したことが、いざ当たり前になってしまうと、それが信長の功績であることすら忘れられてしまう。>
 

 一般に言われている「天下の愚作<生類憐れみの令>」は、実は、戦国時代の悪しき遺風を中止するための「歴史に残る超一級の政策」だったとのことです。
 
 また、前項(2)の、
 <戦国以来の意識の変革という大偉業を為しとげた綱吉の、それを実現たらしめた政治手法は一体どんなものか?
それこそ、側用人(そばようにん)というシステムの創設と活用なのである。>

 この側用人は、綱吉が創設したが、これも「悪名高い」もので、柳沢吉保らの側近政治の弊害が現われたといわれますが、これも天才・綱吉の名政策だというのが井沢元彦氏の主張です。
 それを次にご紹介します。

●(4)週刊ポスト、2007年2月16日号「逆説の日本史」(第71話)

 <綱吉の政治理念の反対者である家宣も側用人の活用という点では「後継者」だ>
 つまり徳川幕閣は初代家康のトップダウン型が、家康自身の意志によって改変され、老中合議によるボトムアップ型となったのである。
 だからこそ、恐妻家で頼りない二代秀忠も夜な夜な辻斬りしたなどという良からぬ噂の絶えなかった家光も、つつがなく将軍をつとめ上げたのである。
 既に述べたように、由比正雪の乱が起きたのは家光が死んで、わずか11歳の家綱が四代将軍を継いだ時だ。
 正雪は将軍が幼少であることから、反乱のチャンスと見たのだが、幕府の体制はゆるぎなかった。既に老中を中心とした指導体制が固まっていたからである。
 だからこそ幕末において、十四代将軍を誰にするかでもめた時、選ばれたのは壮年の一橋慶喜ではなく、13歳の紀州慶福(よしとみ・将軍就任にあたって家茂・いえもちと改名)であった。黒船が来航するという日本史の中でも有数の国難の時代に、なぜ将軍が「中学生」でもかまわないかといえば、幕閣というものがボトムアップ型だからだ。要するに将軍は老中の決定に対してハンコを押せばいいので、老中側から見れば将軍は何かと文句を言う「大人」よりも扱いやすい「子供」の方がいいということになる。
 難しい時代であればあるほど、彼等はそう考える。だからこそ、場合によってはフランス式に国家を改造し自分が大統領になろうなどと考えていた慶喜は、絶対に将軍にすべきではない、と考えることにもなる。
 <略>

 一般に通説では、老中集団指導型の徳川幕閣が生まれたのは、三代家光が死に「小学生」の四代家綱が就任した時だということになっている。「小学生」では何も出来ないから、やむを得ず重臣たちが補佐する体制が出来たという考え方だ。しかし、実はそれ以前の段階から初代家康によってこの型は準備されており、むしろ将軍が「小学生」で本当の意味の「お飾り」になった時に、家康が打っておいた「布石」がうまく機能したと考えた方が歴史の実状に即していると、私は考えている。
 ところが、このシステムは当の将軍から見ると重大な欠陥がある。
 自分の思い通りの政治が出来ない、ということだ。
 老中たちによって「レール」は敷かれている。それは「先例」ということであり、江戸時代の表現で言えば「何事も権現(ごんげん)様(徳川家康)の為された通り」ということだ。
 覇気の無い「バカ殿」ならこれでかまわない。老中の決済事項にハンコを押しさえすればいいのだから。
 しかし、自己の信念を持ち、自分なりの理想(それは必ずしも正義とは限らないにしても)を追い求めるタイプの将軍にとっては、つまり大改革を志す将軍にとっては、これほど不愉快で不満なシステムはない。
 
 では将軍が、あくまで「自分の信念」を貫こうとしたら、実際にはどうすればよいか?
 この、ボトムアップ型老中合議システム、正確に言えばそれに依る政策決定を何らかの形でくつがえすことだろう。システム自体を破壊するか、それとも形式的に残し無力化、形骸化させるか・・・そうしなければ将軍は自分の思い通りの政治は実行できない。
 もうおわかりだと思うが、五代将軍綱吉が自分の信念に基づいた政治を行なうために考えた、この老中合議を無力化する手段こそ、側用人システムなのである。
<ここにイラストが入ります。イラストを作成できませんので、言葉で説明します。>
(A)従来のシステムは、老中会議の決定は、将軍が承認のハンコを押すだけ。
(B)側用人を使用するシステムは、側用人を通して上申され、ノーの場合は、側用人を通して通達され、イエスの場合は、将軍から直接、老中に承認が通達される。

 従来のシステム(A)では、将軍は老中から上申された意見に自分の意見を盛り込む手段がない。「イエス」か「ノー」を言うだけである。しかし日本では「十七条憲法」(藤森注:聖徳太子の十七条憲法)で定められているように、「話し合い(合議)」で決められたことはすべて「正しい」。将軍といえども、「ノー」ということは難しい。結局、押し切られることになる。
 <略>
 つまり「側用人」というワンクッションを置くだけで、将軍に老中合議に対する実質的な「拒否権」が生まれたのだ。
 このシステムだと、将軍の意に沿わなぬ「決定」は何度も差し戻されることになる。となれば実務では、老中が側用人に対して「これで上様の裁可は得られるであろうか?」と相談する形となり、ますます政治は将軍の望む方向へ行くことになる。
 このことは別の角度から見れば、本来は将軍の「秘書官」に過ぎない側用人が老中を見下ろすほどの絶大な権力を持つということにもなる。老中は基本的に譜代大名の名門の出身者で、側用人は実力本位で選ばれた老中に比べれば低い階層の出身者だから「あの成り上がり者め、許せん」ということにもなる。幕府の「正史」を書くのは、老中側の人間だから、側用人は即「悪人」ということにされるわけだ。
 しかし、この側用人システムを採用しなければ、将軍は自分の思い通りの政治は実行不可能なのである。

 <綱吉は家康が構築したシステムを無力化した>
 「武断政治から文治政治への展開」編において、私は「綱吉は名君だ」と述べた。まさに「武断」から「文治」への転換を綱吉が一代で成し遂げているからである。だが、読者からの反撥もあった。その最大公約数を述べれば、「やはり、生類憐みの令など、その政治手法が納得できない」というものだった。ここで、仮にその見方を完全に認めたとしよう。つまり、「綱吉の政治理念は悪」と認めるということだ。だが、仮にそう認めたとしても私はやはり「綱吉は名君」だと思う。「悪人」に「名君」という言葉が適切でないなら、少なくとも「切れ者」あるいは「優秀な政治家」と言い直してもいいが、そうであることは間違いないと考える。その理由はもうおわかりかもしれない。そう、この側用人システムを創案したからだ。

 どんなものにせよ「政治理念」あるいは「信念」を抱くことと、それを政治上実現することは、まったく別のことだ。
 たとえば、小泉前首相は自分の信念である「郵政民営化」を実現させるために、いわゆる「刺客」を放った。この言葉自体の妥当性はともかく、政治の世界にこういうことはよくある。江戸時代の将軍は確かに「独裁者」のように見えるけれども、四代将軍家綱の時代までにその「独裁権」は老中合議によって大きく制限されていた。だから、そのままの状態を放置しておくなら、五代綱吉は「生類憐みの令」を実行させることは不可能だったろう。
 それまではない「側用人システム」を構築し活用したからこそ、自分の信念通りの政治が行なえたのだ。側用人の起こりを三代家光の頃の側衆(そばしゅう・堀田正盛など)に求める学者もいるが、側衆は近習(きんじゅう)に近いもので、綱吉の使った側用人とはまったく違う。
 今、このシステムは綱吉の「創案」によると書いたが、「創」つまり綱吉自身のアイデアであったかどうかは確証はない。「初代側用人」ともいうべき牧野成貞か、「ミスター側用人」ともいえる柳沢吉保あたりが献策したのかもしれない。しかし、そのシステムを採用し活用し、自己の政治理念を実現したのは綱吉その人であることは、誰もが認めざるを得ないことだろう。

 幕閣の成り立ちからたどってみれば、やはり政治の天才といってもいい初代家康が構築したシステムを、綱吉は無力化したわけだから、やはり一種の天才といっていい。少なくとも「切れ者」であることは間違いないだろう。
 六代家宣の新政を述べるにあたって、なぜ初代からの「幕閣史」を繰り返したかといえば、一般に六代家宣の政治が五代綱吉の完全な否定だと思い込んでいる人が少なくないからだ。
 たとえば家宣は綱吉の遺言に逆らってまで、生類憐みの令を即日廃止した。柳沢吉保など先代の側近は一切使わなかったし、経済政策も新井白石の献策に従ってインフレからデフレに換えた。
 なるほど、これだけ見れば、家宣の新政は綱吉政治の否定に見えるかもしれない。
 だが、それは政策の内容、あるいは政治理念の違いに過ぎない。
 確かに家宣の政治理念は綱吉のそれとはまったく違う。しかし、自己の信念を持ち、それを果断に(老中たちに邪魔されずに)実行に移したという点では、家宣と綱吉は「同じ」である。しかも、その手段は間部詮房(まなべあきふさ)という側用人の活用によるものであった。つまりこれも綱吉と「同じ」なのである。
 家宣も側用人システムの活用者なのだ。そういう意味では、綱吉の政治理念の反対者である家宣すら、この綱吉の開発したシステムを採用せざるを得なかったのだから、家宣は綱吉の「後継者」であって、やはり綱吉は「名君」だと言えるのではないか。
 また家宣の新政に重きを成した新井白石のこともそうだ。白石抜きの家宣政治は考えられない。ところがその白石がブレーンになれたこと自体、これも綱吉政治があったればこそなのである。
 白石は確かに優秀な男だ。しかしその身分は「浪人の子せがれ」に過ぎない。特に名門の血筋を誇る老中たちから見れば、どこの馬の骨かもわからない存在である。しかし、優秀な儒学者であるために、天下の将軍のブレーンとなることが出来た。この道は一体誰が開いたのか?
 それも綱吉ではないか。もともと幕府には林大学頭(だいがくのかみ)という儒学者のブレーンが世襲で仕えている。綱吉以前なら老中たちは「怪しげな町人学者や浪人学者を近付けることはお止めになされませ。林大学頭がおるではございませんか」ということになったはずだ。ところが綱吉は「官」にのみ頼らず、荻生徂徠(おぎゅうそらい)や室鳩巣(むろきゅうそう)といった在野の学者を尊重した。だからこそ、まだ甲府宰相綱豊(つなとよ)と呼ばれていた頃の家宣も浪人学者の白石を顧問として招くことができたのだ。こんなことを綱吉以前に将軍家の一族が実行することは難しかった。
 評判の学者を城中に呼んで御前講義をさせることぐらいなら出来ただろうが、顧問つまり「師」として遇することは、実際には無かったのかもしれないが、軍学者由比正雪と紀州家徳川頼宣の関係が取り沙汰されたのもそれだ。「顧問」という存在は、「お上の御政道に口を出す」可能性が高い。だから「浪人風情」であってはいけない。という保守的思想が綱吉によって打ち破られた。家宣の新政も、その土台の上に咲いた花であることを見逃すべきではない。(以下次号) 

●(5)夕刊フジ、平成17年11月29日「井沢元彦の再発掘・戦国編・人物日本史」

 <織田信長><天下を武力で制圧して平和を達成>
 もし人間や組織の「誠実さ」を「約束を守るか守らないか」ということで評価するなら、信長ほど誠実な人間はいないし、本願寺ほど不誠実な組織はない。
 これも本当の話である。
 本願寺は信長を不意討ちにした。これだけでも不誠実な態度だが、信長は本願寺との最終的な講和条件を見てもわかるように、「信教の自由」を犯すつもりはまったくない。「宗教団体が武装して政治に口を出すこと」つまり加賀国(石川県)のように一国を滅ぼして本願寺王国を築いたり、他宗との争いで戦争行為に及んだり、といったことを平和な国家を建設するために根絶する、それが信長の目的である。
 <略>
 多くの人々が誤解しているが、信長は比叡山を焼いても天台宗は禁止しなかったように、一向宗(本願寺)をぶっつぶすつもりはまるでない。結果において、信長は本願寺と11年に及ぶ大戦争をしたが、これは本願寺側が武装解除を拒否したからである。そして実はこの間、信長と本願寺は2度にわたって講和を結んでいる。しかし講和はすぐに崩れた。崩れたのは主にどちらの責任か、書くまでもないだろう。
 「参りました。降参です」と相手が言うから武器をおろすと、いきなり射ってくる。そういう「約束を守らない」敵に対してはどうすればいいか?
 皆殺しにするしかあるまい。それが信長の「一向一揆大虐殺」である。これを多くの人が「信長は宗教嫌いだから門徒を皆殺しにしようとしたのだ」と考えているが、お忘れなく、信長は本願寺が武装解除に応じた後は、(それでも武器を捨てなかった門徒は別にして)幹部の処刑も門徒の虐殺も一切やっていない。

 <日本の自爆テロの根を断った>
 日本史をだけを見る「井の中の蛙」の視点では、信長の偉大さはわからない。
 「ローマ人の歴史」を書き続けている塩野七生(ななみ)氏は世界史の視点から次のように述べている。「織田信長が日本人に与えた最大の贈物は狂信の徒の皆殺しである。仏教であれなんであれ、日本人では宗教が政治にちょっかいを出すことのほうが不自然になった。欧米諸国が現在に至るまでこの問題(政教分離)で、悩まされてきた実情を知れば、われわれのもつ幸運の大きさに、日本人がまず驚嘆するであろう」(男の肖像)
 そう、日本に「自爆テロリスト」がいないのは、信長のおかげなのである。

●(6)週刊ポスト、2006年5月5日・12日号「昼寝するお化け」(好評連載・ESSAY347、曽野綾子著)

 <スターリンの素顔>
 仕事の傍ら、この1週間を知的刺激で満たしてくれたのは、亀山郁夫氏著「大審問官スターリン」(小学館)であった。この本はどの視点を取っても、現在私たちの周囲にある人生に光を当てて考えさせてくれる。
 世俗的にはスターリンは、あらゆる政敵を倒し、時の芸術家たちの生命存亡の鍵を握り、ことに1934年から38年にかけて軍首脳、反対派指導者などを拘禁・処刑したことで、今では20世紀のもっとも残虐な指導者と目されている。その時期に逮捕されたのは250万人、処刑68万人、獄死16万人と言われる。
 しかしその死を、ソ連の人たちは深く悼んだのであった。人々は一目この偉大な指導者の死を見確かめようとして全国からモスクワに集まった。すべての新聞は、偉大な指導者を失った哀悼の記事で埋められた。私は知らなかったのだが、作曲家のプロコフイエフは同じ日のほとんど同時刻に死亡したのだが、彼の死は数日遅れて、小さな記事になっただけだった。そのスターリンの死について詩人のヨシフ・ブロツキーはこう書いているという。
 「その死に、あれほど多くの涙が流された殺人鬼が世界にいたろうか」

 スターリンは巨大な権力を持って人々に臨んだ「強者」だと思われている。しかしここでは、彼がいかに弱い性格であるが故に、防御的に攻撃的な人物になったかが随所に示されている。そう思えばこういう例は世間に多い。ほんとうに強者は弱点を隠さない。自然に嘆いたり、うちひしがれたり、もっと幸運な人を羨んだりできる、ということなのかもしれない。だからもしかすると私たちが用心しなければならないのは、自分の周囲の強い人ではなく、弱い性格であろう。というか、弱い性格のみが、圧力的な強者を装うことができるのである。真の強者は、弱者を別に圧迫しなければならない理由がないのだ。
 これも私の知らなかったことなのだが、スターリンはいつも、「腕の短い」という言葉で揶揄されていたという。幼い時に馬車に轢かれ、適切な治療を受けられなかったので、その後遺症で腕が十分に曲がらなかったという説もあるという。

 この本を読んでいる間に、私は偶然英字新聞で、1つの記事を見つけた。多指症と呼ばれる子供たちを持つ一家である。私はその記事を切り抜いておいたつもりなのだが、この原稿を書こうとして探してみるとどこにもない。私がよくやる粗忽さの結果である。
 記憶を探るとこういうことである。マレーシアがシンガポールに3人の子供が3人とも、指が1本多い子供を持った家族がいる。お父さんが多指症で、お母さんは普通の手の夫婦である。
 この一家は名前も顔も隠していない。ごく普通のどこにでもいそうな家族である。日本なら、多い指を形成外科によって、できるだけ普通の形に戻そうとするのだろうが、この子供たちにかかったら、それもおかしなことなのだ。
 「学校で、先生が人間の手足の指は10本です、って言ったけど、そんなことはないよ。僕の指は11本だ
 と長男2人、女1人の子供のうちの長男が言っている。極めて自然で実証的なのである。こう言われると、先生の方が、人間の指は10本と決めつけたことに困惑を感じるだろう。
 多指のつき方や形は、新聞に載せられた詳細な写真を見ると、一人一人さまざまである。英字新聞は、そうした変形の写真もはっきり載せている。日本の新聞だけが、なぜかこうした写真を一切載せない。だから真実が伝わらない。真実の実感がないところに、分析も、解決もない。
 子供のうちの一人は、6本目の指の先が、さらに二股に別れている。だから7本にも見える。末の男の子の6本目の指は、恐ろしく短くて細い。その子がまた、詩人のようにいいことを言っている。
 「僕のこの指は、鼻くそをほじるのに、ちょうどいいんだよ」
 人間の勇気というのは現実を正視することから始まり、そこから科学も哲学も文学も生まれる。この多指症の子供たちと比べても、スターリンは弱い性格だったということになる。

 スターリンはまた「執念深く、何かを忘れるということがけっしてなかった」。小人である証拠である。
 私は非常に大切だと思う情念でも忘れるたちだが、これはひょっとすると大物の一つの特徴かもしれないと思うことにした。なぜ私が忘れっぽいかというと、私は自分の思想にも判断にも、もちろん記憶などというあやふやなものにも、信をおいていない。判断そのものも間違うことがあって当然と考えている。明日になったら気が変っていることはよくある。自分が変わらなくても、周囲の情勢の方が驚くほど変わる時もある。
 著者は「興味深いことに、国外に出ようとするものに対し、スターリンはなぜかしら寛容だった。しかし、脛に傷をもつ身でありながら、権力に迎合し、自国に留まろうとするものに対しては容赦なかった」という。
 権力主義者、というものは不思議と匂うのである。その臭気は、瞬時に伝わるほど強く感じられる。ただその臭気にどう対応するかは、人によってさまざまだ。私はそれとなく遠ざかる。別に報復したり、罰を加えたり、損害賠償金を取るようなことではないのだから、ただひたすら遠ざかれば済むと感じる。前々回のエッセイでも書いたが、遠ざかるというのは素晴らしい物理的解決方法なのである。問題の地点にいなければ、電車の事故にも遭わない。レイプや痴漢の被害者にもならない。火事で焼け死ぬことも、地滑りに埋まることもない。
 スターリンは遠ざかる代わりに、どの地点にも必ず居合わせようとした。私などの理解できない情熱だ。もっとも政治家は誰もがそうした傾向を持つのだろう。作家にとって仲間はずれにされることは、一つの静寂と自分独自の世界の保存法だが、政治家にとっては流刑にも等しいのだろう。政治家は世界全体を知ろうとし、小説家は(少なくとも私は)世界全体を知ることなどできるものでもないし、また知ってもどうしようもない、と考える。そこが大きな違いである。
 スターリン政権時代の特徴は恐ろしく考えが幼稚になって行くことであった。寓話も寓話として受け取れず、当てこすりと考える。誰もが持つ人間の愚かしさの部分を、共通の人間性への讃歌と笑うことができず、民族全体への侮辱か裏切りと考える。こうした幼稚化の萌芽は、実は現代の日本にも見られなくないのは不気味だが。

●(7)夕刊フジ、平成18年11月9日「花田紀凱・天下の暴論」より

 <朝日の社説はやはり・・・・・>
 <略>
 日下公人さんが今の新聞があてにならない理由を4段階に分けてこう言っていた。
①取材不足のまま報道する。
②報道に迫力がないので解説に逃げる。
③解説も勉強不足だから道徳論に逃げる。
④道徳論も結論を言うのは勇気がいるから単に一般的な願望を言う。
 

 <略>

●(8)夕刊フジ、平成18年10月19日「花田紀凱・天下の暴論」より

 <百人斬り訴訟>
 先週(13日)「百人斬り訴訟を支援する会」の決起集会に招かれた。長い間苦しんできた遺族の話を聞き、思わず涙腺がゆるんだ。
 昭和12年、東京日日新聞の浅海一男記者が、向井敏明、野田毅両少尉が進軍中、どちらが早く中国人百人を斬り殺せるか競争をしたと報じた。
 戦後、その記事が元になって両少尉は戦犯として南京で銃殺刑に処された。
 昭和46年、今度は朝日新聞の本多勝一記者が「中国の旅」という連載で再びこの件を報じた。
 しかしその後、この「百人斬り競争」は鈴木明さんの「南京大虐殺のまぼろし」(文芸春秋社刊、現在はWAC刊)や、山本七平さん、東中野修道さんの考証によって絶対に不可能、記事は戦意昂揚のためのデッチ上げだったことが明らかになっている。
 にもかかわらず、中国は日本軍の残虐行為の象徴的事件として徹底的に利用、南京はじめ各地の残虐記念館には必ず両少尉の写真が飾ってある。

 遺族が朝日、毎日などを名誉毀損等で訴えたのがいわゆる「百人斬り訴訟」なのだ。
 「百人斬り訴訟」についてはかねがね、なぜ朝日、毎日が捏造を認め、遺族に謝罪しないのかと思っていたので、壇上でこんな挨拶をした。
 以下、ぼくの挨拶。
 ・・・・・百人斬り競争について、私が、雑誌が編集者として言いたいことは唯ひとつ、ジャーナリストの良心、責任ということです。
 いかに戦意昂揚のためとはいえ、新聞記者がこんなデタラメな記事を書いていいのか。自らのデッチ上げ記事で両少尉が死刑になったことに対して、浅海一男記者は良心の痛みを感じなかったのか。
 これは朝日の本多勝一記者も同じです。中国側がセットした人物証言のみで、裏も取らずに記事を垂れ流す。
 新聞記者にもむろん過ちはある。朝日の伊藤律架空会見記をはじめとして数多くの虚報、誤報がある。
 伊藤律架空会見記では朝日は一面で謝罪し、今も縮刷版から抹消、該当部分は白く抜いてあります。
 ところが、この「百人斬り競争」に関しては、これほど黒白がハッキリし、虚報だとわかっているのに朝日も毎日も取り消しもしない。朝日や毎日が謝罪して取り消せば、それこそ裁判もへったくりもないんです。
 
 両少尉は処刑され、遺族は半世紀に渡って苦しみ続けてきた。そういうことも知りながら、謝罪もせずに、それどころか抗弁して裁判を長びかせる。それでジャーナリストと胸を張れるのか。
 現役の朝日、毎日の記者たちはこの件についていったいどう考えているのか。知らぬふりをして日々取材を続けているとしたら、彼らには良心のカケラもありません。
 朝日新聞、毎日新聞は一刻も早く浅海記者の記事を取り消し、遺族に謝罪、裁判をやめさせるべきです。
 昭和27年に制定された朝日新聞の綱領の一節にこうあります。 
 <正義人道に基づいて、国民の幸福に献身し・・・><真実を公正敏速に報道し・・・>
 朝日の綱領が泣いています。
 (「WiLL」編集長)

●(9)夕刊フジ、平成19年11月1日「花田紀凱・天下の暴論」より

 <「沖縄11万人抗議」の不可思議>
 こんなデタラメがまかり通ったら、中国が主張する南京大虐殺30万人説を嗤ってもいられなくなる。
 9月29日沖縄県宜野湾市の海浜公園で「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開かれた。
 文科省が平成20年度から使用される高校教科書の検定結果を3月に公表。その中で沖縄戦の集団自決に関して、これまで「日本軍の命令、強制があった」としていた点の削除、修正を求めた。
 「日本軍の命令があったかは明らかではない」「最近の研究では軍命令はなかったという説がある」などを理由として挙げている。
 これは全くもってもっともな判断だ。
 渡嘉敷島で住民に集団自決を命じたとして、大江健三郎「沖縄ノート」などで極悪人と糾弾された赤松大尉は命令は出していなかった。
 鬼畜米英、一億玉砕を叫んでいた当時の日本。米軍が上陸したら男は殺され、女は犯されると信じていた。集団自決はそうした当時の空気、異常な心理状態の中で住民が自発的に行なった・・・・・詳細については曽野綾子さんの「沖縄戦・渡嘉敷島集団自決の真実」(ワック刊)をぜひお読みいただきたい。
 近年になって、遺族が恩給をもらうために「軍命令があった」という書類を作成し、赤松大尉に署名捺印してもらったということも明らかになった。当の役場の担当者が良心の呵責に耐えかねて告白したからだ。
 だから、文科省が教科書の修正を求めたのは当たり前なのだ。
 が、沖縄県民は納得せず、県民集会となったわけだ。
 問題はここから。
 30日朝日朝刊は1面トップで「沖縄11万人抗議」と書いた。地元の琉球新報、沖縄タイムズなどは2ページ見開きで、見出しが「11万6000人結集 検定撤回要求 軍強制回復決議を」。
 11万人という数に驚いたのだろう、渡海文科相は「重く受け止めなければ」と再度教科書の書き換えを示唆、民主党の菅代表代行も国会で問題化すると明言した。
 とんでもない話だ。そんなことをすれば、まさに政治介入そのものではないか。

 <写真拡大し数えたら>
 そもそも主催者発表の11万人という数字は本当なのか。
 海浜公園の広さからして11万人なら1平方メートルに6人が入らねばならない。
 で、熊本大学の学生が、写真を拡大、10人がかりで1人ひとり数えてみた。
 とてつもない作業だが、意味は大きい。実数は1万3037人だったのだ。
 同じく警備会社大手の(株)テイケイの調査では1万8000人からせいぜい2万人(数字が熊本大学生の調査と違うのは範囲の区切り方による)。
 2万人を11万人と発表する主催者も主催者だが、何の検証もなしに、11万人と見出しを打つ新聞も新聞だ。
 当然、朝日の記者は現場にいたはずなのに、11万人という数字をおかしいと思わなかったのか。
 万一、気づかなかったとしても、(株)テイケイの情報が公開された時点で、もう一度調べ直し、数字を訂正すべきだろう。熊大の学生や(株)テイケイ社員に出来た事が朝日に出来ないはずがない。
 少なくとも、朝日は「11万人」について何らかの説明をすべきだ。
 (「WiLL」編集長)

●(10)夕刊フジ、平成19年11月15日「花田紀凱・天下の暴論」より

 <大江健三郎氏にもの申す>
 沖縄戦の「集団自決」についてもう一度書く。
 元隊長(もう90歳の高齢)や遺族が大江健三郎氏と岩波書店を訴えた裁判で、9日、本人尋問が行なわれ、大江氏が大阪地裁に出頭したからだ。
 大江氏は「沖縄ノート」(岩波新書)で渡嘉敷島、座間味島での守備隊長が集団自決を命じたと断じ、隊長を「罪の巨塊」「屠殺者」とまで非難した。
 これに対し隊長らは「軍命令」を全面否定。出版差し止めと1500万円の慰謝料を求めて裁判を起こした。
 その間、1970年代初めに曽野綾子さんが現地で関係者を徹底取材し、軍命令はなかったと反証。
 2006年には島の役場の元職員が「軍命令がなかったというと援護法が適用されないので、赤松大尉らに頼んで『命令した』というニセの書類を作らせてもらった」と証言。
 この証言がきっかけで教科書書き換え問題が起こったわけだ。
 当の大江氏が法廷でいったいどんな証言をするのか。
 ひと言で言えば、やはりというか、失望した。大江氏に作家としての良心のカケラもないことがハッキリした。
 大江氏はこう証言した。
 「自決命令はあったと考えている。個人の資質、選択の結果ではなく、それよりずっと大きい日本の軍隊が行なったものだ。個人が単独、自発的に命令したとは書いてないし、個人名も記していない」
 完全なすり替えだ。左翼の常套手段、拡大解釈。自分に都合が悪くなると問題を拡散するのだ。
 
 <「集団自決」ねじ曲げ>
 いい例が「従軍慰安婦」の強制連行。軍が韓国女性をムリヤリ連行して慰安婦にしたということが資料や取材で否定されると、「軍の関与はあったのだから、広い意味での強制性はあった」。
 大江氏の証言はまったくこれと同じだ。
 「個人が自発的に命令したとは書いてない」
 「それよりずっと大きい日本の軍隊がやったもの」
 それなら、守備隊長らを個人的に非難した点はどう言い抜けるのか。まさに、そう書かれたから、元隊長らが訴えているのではないか。
 しかも、集団自決に関し、大江氏は「自分ではまったく取材せず、沖縄タイムスが出した『鉄の暴風』などを読んだだけ」で書いたと認めている。無責任極まりない。
 この点について問われて大江氏は法廷でこう答えた。
 「本土の若い小説家が悲劇について質問する資格を持つか自信が持てず、沖縄のジャーナリストらによる証言記録の集成に頼ることが妥当と考えた」
 ものは言いようだ。「質問する資格を持つかさえ自信が持てない」人が、なぜ赤松大尉らについて「罪の巨塊」「屠殺者」とまで非難する「資格」があるのか。
 しかも「鉄の暴風」の証言は直接当事者に聞いたものではなかったということを曽野さんが「沖縄戦渡嘉敷島 集団自決の真実」(ワック刊)の中でハッキリ書いている。大江氏が頼った証言自体があやふやなものだったのだ。
 大江氏はまた「元隊長を特定する記述はない」と強調したというが、渡嘉敷島の守備隊長といえば、赤松大尉以外にあり得ない。
 繰り返す。
 自らの書いたものについて責任を持つという、もの書きとしての最低限のルールさえ守らない大江氏はノーベル賞を返上したらどうか。
 (「WiLL」編集長)

●(11)厚生労働省のいい加減さには驚く毎日です。
 薬剤エイズの問題から、最近は薬害肝炎でのフィブリノゲンが大問題になっています。 読売新聞、19年3月7日「時代の証言者・公害 宮本憲一 77 (1)」  ひたすら経済成長に走る戦後社会に警鐘を鳴らしたのが公害だった。いち早く公害に着目し、多くの現場を歩いてきた経済学者の宮本憲一。地球規模の環境政策が必要な今、「公害の教訓を基に足元から維持可能な社会を」と語る。
 解説部 青山彰久

 <アスベストに強いショック>
 「公害は終わった」といわれます。とんでもない。公害はまだ決して終わっていません。
 水俣病では、最高裁判決が示した認定条件を国が受け入れず多くの患者が救済されていない。それどころか、大手機械メーカー「クボタ」(本社・大坂市)の事件をきっかけに、各地でアスベスト(石綿)公害が明るみに出ています。徹底した調査と救済を考えなければなりません。
 「クボタ」の事件を聞いた時、強いショックを受けました。我々はがんの危険があるアスベストの対策を国や企業に何度も訴えたのに、結局、具体策をとらせられなかったのです。

 《2005年6月、クボタは尼崎市の旧工場などで78年(昭和53年)から04年に社員ら75人が石綿が原因とみられる中皮腫(ちゅうひしゅ・がんの一種)などで死亡、住民被害もあると公表した》

 クボタの工場では1957年から75年まで、管などの製造で最も毒性の強い青石綿を約9万トン、白石綿も2001年まで146万トン使っていました。石綿管の製造工程で10年以上働いていた人の半数が病気になり、4分の1が死亡しているのです。高度成長の時代、労働者はそれほど劣悪な環境の中で働いていたわけです。しかも工場の外にも飛んだアスベストを住民も吸い込んで中皮腫になった。労災が公害に発展する典型でした。
 アスベストの恐怖を知ったのは82年夏でした。都市財政の調査で渡米中に会ったニューヨーク市立大学のI・J・セリコフ教授から警告されたのです。
 「年間60万トンのアスベストを使っている米国では、それが原因で毎年約1万人が死んでいる。なぜ日本では問題にならないか。米国の約半分の量を使っているのだから毎年5000人程度の死者が出ているはずだ」
 教授はアスベストの発がん性をいち早く立証した医学者で、学際的なチームを組んで全米の調査をしていました。
 帰国後すぐに大阪大医学部の知人に一緒に実態調査をしようと提案したのですが、具体化できませんでした。米国ではアスベスト被害の賠償金を払えずに倒産する会社も出ていたので、85年に「これから償いきれないほどの被害が出る」と雑誌で訴えたのですが、厚生省の研究会はアスベストの使用禁止までは求めませんでした。
 2002年には我々が編集する雑誌「環境と公害」で特集を組み、早大教授の村山武彦さんが「このままでは中皮腫で今後40年間に10万人の死者が出る」と警告したのですが、それでも厚生労働省は動きませんでした。
 一体、日本の公害の教訓は何だったのでしょうか。私は今、このアスベスト被害の救済を徹底的にやろうと思っています。(敬称略)

宮本憲一氏・・・1930年(昭和5年)台湾生まれ。大阪市立大名誉教授。名古屋大経済学部卒。大阪市立大教授、滋賀大学長を経て現在、立命館大客員教授、日本環境会議代表理事。財政学、環境経済学。研究領域は、地方財政、公害論、都市論、地域経済論と多岐にわたる。四日市公害を告発して以来、日本で環境経済学の先駆者となり、世界二十数カ国の調査も重ねた。

●(12)最終回ですので、もっと多くの「認知の歪み」の実例を掲載したいのですが、キリがないので、このヘンで終わりにします。
 日下公人さんが今の新聞があてにならない理由を4段階に分けてこう言っていますと、上記(7)で花田氏が紹介しています。
①取材不足のまま報道する。
②報道に迫力がないので解説に逃げる。
③解説も勉強不足だから道徳論に逃げる。
④道徳論も結論を言うのは勇気がいるから単に一般的な願望を言う。
 しかし、これだけではありません。
⑤政府の諮問委員などの公職に、大新聞社の幹部が就いていること。そのために、政府を批判することが出来にくくなります。メディアは政府と距離を置いて、大いにチェック機能を発揮すべきではないかと思います。
⑥記者クラブ制度があり、週刊誌を始めとする多くのメディアを締め出して、上からの情報を独占しています。そのために上からの情報を垂れ流しますので、その結果、上記で日下公人氏が述べているように、取材能力が落ちてしまっています。
 いろいろな特権の上にアグラをかいて、楽をする代わりに、極端に、情報収集能力が落ちてしまっているようです。今回の防衛省の汚職(?)問題の火付け役も、週刊ポストが最初のようです。
 今や、大新聞などのマスコミからではなく、週刊誌を始めとする中小メディアの情報に触れていないと、真実はなかなか分かりにくくなっています。大新聞は味も素っ気も無い記事や週刊誌などの後追い的な記事、掘り下げた深みのある記事が少ないようです。
⑦さらに、発行部数が多すぎます。読売新聞は約1千万部、朝日新聞は7~8百万部くらいでしょうか?発行部数が多いと、あっちにもこっちにも配慮して、味も素っ気も無い内容にならざるを得ないのではないでしょうか?記憶ではワシントンポストは、この1割くらいだったと思います。
 そういう大新聞からの情報ではなかなか掴めない「認知の歪み」の記事を、週刊誌などのメディアから多く発見することができます。「認知の歪み」のシリーズは、しかし、キリがないのでこのくらいにして、次回より、心理学の「認知療法」の「認知の歪み」をお届けします。お楽しみください。

<文責:藤森弘司>

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