2007年7月15日 第60回「今月の言葉」
●(1)とうとうこのホームページも60回、丸5年が経過しました。次回からは6年目に入ります。職人的な生き方をしてきた私が、学者的な能力を要するこのホームページを、ここまで続けられるとは思っていませんでした。毎回、知恵が出ず、苦悶の汗ばかり出し、四苦八苦しながらも、まあ、なんとか人並みにここまで続いたということだけでも、私(藤森)の実力としては「よし」としたいと思っています。 御用とお急ぎでない方は、今後も引き続きご愛読ください。 さて、今回は「百姓とは何か?」「水呑(みずのみ)とは何か?」を中心に書いてみたいと思っています。 私たちは、通常、「百姓」というと、差別用語的に聞こえます。事実、マスメディアでは、一種の差別用語扱いをされていて、そのままでは使えないそうです。 私(藤森)は、以前から、この「百姓」という言葉が妙だなという、軽い印象を持っていました。「農業」を営む人を、何故、「百姓」というのか、漠然と疑問を感じていましたが、今回、その疑問を見事に解く、すばらしい本の内容をご紹介します。 これから、<「続・日本の歴史をよみなおす」網野善彦著、筑摩書房>の本に基づいて紹介していきますが、この本の中に・・・・・ <百姓ということばは、本来、たくさんの姓を持った一般の人民という意味以上でも以下でもなく、このことば自体には、農民という意味はまったくふくまれていません。古代の和訓では「おおみたから」と読まれていると思いますが、これにも農民の意味は入っていません。 現在の中国や韓国では、「百姓」ということばは意味どおりに使われています。ですから、中国人の留学生に、「あなたの国で使っている『百姓』をどのように日本語に訳しますか」と訊いてみましたら、しばらく考えて「普通の人」と答えました。 そのとおりなのだろうと思うのです。士大夫(したいふ)、つまり官僚でない一般の人民を百姓と呼ぶのが普通の用法なので、現在でもそのまま用いられているのだと思います。 その留学生は、日本に来て「百姓」というとみなが農民だと思っていることに、最初は違和感を持ったといっておりましたが、まことに当然なことで、百姓には本来、農民はまったくふくまれていないのです。 村も同じで、これも群(むれ)に語源のあることばですから、本来、農村の意味はないのです。にもかかわらず、厳密に実証的でなくてはならない歴史家、科学的な歴史学を強調している歴史家たちが、史料に現われることばを、使われている当時の意味にそくして解釈するという実証主義の原則、科学的歴史学の鉄則を忘れて、なぜ百姓という語をはじめから農民と思い込んで史料を読むというもっとも初歩的な誤りを犯しつづけてきたのか。私(著者)も同様だったのですから決して偉そうなことはいえないのですが、これは非常に大きな問題で、簡単に解答を出し切ることはむずかしいのです。> このように書いてあります。とても面白いのですが、ここでひとまず終わって、この本のスタートから始めたいと思います。 |
●(2)<「続・日本の歴史をよみなおす」網野善彦著、筑摩書房>より 「第一章 日本の社会は農業社会か」 <百姓は農民か> 山川出版社「詳説日本史」(1991年)、東京書籍「新訂日本史」(1991年)、両書籍には、秋田藩の幕末近いころの嘉永2年(1849年)の身分別人口構成を円グラフにしたもので、合計372,000人余の人口の中で、農民が76.4%、町人が7.5%、武士が9.8%、神官・僧侶が1.9%、雑が4.2%となっています。この円グラフで見るかぎり、幕末近いころでも秋田藩の人口の圧倒的多数が農民であるということは歴然としているかのごとくに見えるわけです。ごく最近刊行された尾藤正英さんの、大変興味深い著書「江戸時代とは何か」(岩波書店)の中でも、尾藤さんは江戸時代の社会は、人口の80%から90%は農民であるという前提で論を展開しています。すぐれた近世史家の尾藤さんですらそうなのですから、こういう見方は、きわめて広い範囲の日本人の日本社会観なのではないかと思うのです。・・・・・ しかし、素直にこのグラフを見ると、いったい秋田藩にはほんとうに、漁民や廻船人、山の民はいなかったのかという疑問がすぐにわいてきます。そこで、ここにはなにかからくりがあるなと思って、グラフの典拠にされている関山直太郎さんの「近世日本の人口構造」(吉川弘文館)を買い求めて調べてみました。 実際、百姓は決して農民と同義ではなく、たくさんの非農業民・・・農業以外の生業に主としてたずさわる人びとをふくんでおり、そのことを考慮に入れてみると、これまでの常識とはまったく違った社会の実態が浮かび上がってきます。じつは、7、8年前に私(著者)自身もようやくそのことがわかったので、まず、この問題についてお話をしてみます。 <この時国(ときくに)家の名前を見たとき、私(藤森)は、昔を思い出して、なんとなく、この本を読破する気になりました。今から、約35年以上前のことです。私は、あるビール会社に勤めていました。この会社では、当時、社長が主催して、東京の社員の誕生月にその社員を集めて「誕生会」が行なわれていましたが、この時の社長が「時国社長」でした。先輩が言うには、時国社長の実家は豪農で、とにかく凄いらしいということでしたが、どのくらい凄いのかまったく見当もつきませんでしたが、この本には、日本有数の凄い家(豪農?)であることが書かれていますので、さらに興味がわく本となりました> ●(3)<奥能登の時国家> ●(4)現在、町野川の下流にあるのが下時国家、上流にあるのが上時国家ですが、じつはこの二家は本来は一軒の家だったのです。それが種々の事情から寛永11年(1634年)に、土方家領時国家(上時国家)と、前田家領時国家(下時国家)とに分立し現在にいたっているのですが、上時国家のほうは天保2年(1831年)に造られ、日本の民家の中でもおそらく最大規模の巨大な民家です。 この二軒はたいへん大きな農家、豪農だと考えるのが、これまでの常識でした。 ●(5)まず、江戸時代初期以前から、時国家は大きな船を持っており、この船が、松前から佐渡、敦賀、さらに琵琶湖をこえて、近江の大津や京、大坂とも取引をやっていたことが、元和5年(1619年)の文書ではっきり確認できました。 町野川沿いの河口の大きな潟と、宇出津(うしつ)の澗(ま)を港として、大規模な廻船交易をやっていたことは確実で、その船は前田家から諸役免許を保証されていたのです。ですからこれを単純に豪農などということは到底できない、ということになってきました。 ●(6)さらにまた、時国家は、中世以来、町野荘という荘園の中で、港に近い倉庫を持ち、年貢米や塩などの物資の出入りを管理していました。この蔵に納められた米や塩について、大名の代官は時国家にあてて、必要な量を蔵から支出せよという命令書を出し、その書類をうけとった時国家は、自らの判断で物品の支出を行なっていたのです。 時国家は武士身分ではなく百姓なので、300石の石高に相当する田畑を持っていました。のちに上時国家が200石、下時国家が100石となりますが、両家に分かれてからも、大きな農業経営をやっていたことは事実です。 こうなると、時国家を、農奴を駆使する大農業経営者であるなどと規定してこと足れりとしているわけには到底いかなくなってきます。これでは時国家の活動の一面だけをとらえているのすぎないので、まったく誤りといわなくてはなりません。 ●(7)<廻船を営む百姓と頭振(あたまふり・水呑み)> ●(8)同じような事例をもうひとつ紹介しますと、2、3年前の調査のさい、町野川右岸の海辺の集落曽々木(そそぎ)の、百姓円次郎の願書ともいうべき文書が、上時国家の襖(ふすま)の下張り文書の中から出てきました。 注目すべきはその借金の貸主で、出羽庄内の越後屋長次郎、若狭小浜の紙屋長左衛門、能登輪島の板屋長兵衛などの問屋をはじめ、同じ曽々木の三郎兵衛から円次郎の父親は多額の借金をしており、これによってこの人が日本海を手広く商売し、各地の問屋と取引をしていたことがわかるのですが、この借金をきびしく催促されると円次郎の生活が立ちゆかない。 これまで、曽々木はもっぱら塩をつくっているだけの、まことに貧しい村と考えらていたのですが、その百姓の一人が、北前船(きたまえぶね)とまではいえないとしても、かなり大きな船で日本海の各地の港町で取引をし、松前まで行く廻船交易をやっていたことがこの文書でわかったのは、たいへん興味深いこととわれわれは思っておりました。 ほかの新聞は「能登のお百姓、日本海で活躍」、あるいは「江戸時代の奥能登の農家、海運業にも関与」という見出しでした。百姓イコール農民という思いこみがいかに根強いかということを、われわれは骨身にしみて実感しました。いちばんの傑作は、ベテランの記者が、「ああ、そういうのよくあるんですよね」とかいって、私の話を30分くらい聞いただけで帰ったのですが、その人は、なんと、「曽々木で食いつめた農民円次郎が松前に出稼ぎに行った」と書いてしまった。私どもも大笑いをしたのですけれども、百姓は農民というイメージの根深い浸透が、こうした大変な間違いを多くの人たちにおかさせる結果になっているのです。 ●(9)このように非常におもしろいのですが、詳しく書いていると膨大な量になってしまいますので、著者には申し訳ないのですが、少々簡略にしてご紹介します。 <村とされた都市> 輪島の71%の頭振(水呑)の中には、漆器職人、素麺(そうめん)職人、さらにそれらの販売にたずさわる大商人、あるいは北前船を持つ廻船人などがたくさんいたことは間違いないところですし、百姓の中にも、輪島の有力な商人がいたことも明らかなのです。 最初にもふれましたように、奥能登に行った時、・・・・・極度に小さい水田が山の上まで積み重なっている段々田地を見せられますと、能登はほんとうに田地の少ないところだと思い知らされます。山がちで土地が少なく、田畑がひらけないから貧しいところだと奥能登の方々自身がそういわれるので、われわれもそう思っていました。 ●(10)また、奥能登は流刑地(るけいち)で、実際、時国家は、「平家にあらざるものは人非人(にんぴにん)」といったといわれ、平家の滅亡後、能登に流された平時忠の子孫という伝承をもっているのです。このように奥能登は辺鄙(へんぴ)で、おくれた後進地域だから、中世の名田(みょうでん)経営のなごりが見られるし、また200人もの下人(げにん)=奴隷を使う古い農業経営が残ったのだというわれわれの当初のイメージは、この思いこみの誤りを知ることによって、完全に逆転しました。 江戸時代までの奥能登の実態は、港町、都市が多数形成され、日本海交易の先端を行く廻船商人がたくさん活動しており、貨幣的な富については、きわめて豊かであり、日本有数の富裕な地域だったとすらいえのではないかと思うのです。奥能登の調査によって、われわれはこのようなイメージの大逆転を経験することができました。 江戸末期に作られた「防長風土注進案」によると、地方(じかた)の百姓36軒のうち、農人(のうにん)は19軒にすぎず、商人が10軒、廻船問屋が5軒、鍛冶屋、漁民が各々1軒ありました。 ●(11)もうひとつの例をあげますと、大坂の泉佐野市は、古代・中世以来、海民の根拠地として有名な場所ですが、ここの百姓に食野(めしの)という家があり、泉屋、橘屋と称して、大規模な廻船業を営み、秋田から松前まで進出していたことが知られています。 ・・・・・このように、中世以前の地形にまでさかのぼりますと、能登半島についてのべてきたようなことは、日本列島の全体にあてはまるに相違ありません。そしてそうなりますと、日本列島の社会が、農民が人口の圧倒的多数をしめる農業社会であったという常識も、おのずと完全に覆るといわざるをえないわけです。 ●(12)これは、海だけの問題ではありません。山についても同じようなことがいえるのです。私(著者)の郷里の山梨県は、水田の少ない山国で、非農業的な地域です。ですから甲州人も自らを貧しいと思っているのですが、その反面、山梨は甲州商人、甲州財閥で有名でもあったのです。 ●(13)もうひとつの誤解にふれておかなくてはなりません。 村にされれば、自ずから検地が行なわれ、田畑、石高を持つものは百姓、持っていなければ水呑の身分にされますので、村であるから農村だなどと思い込むと、先ほどのようなとんでもない大間違いがおこるわけです。江戸時代の「村」は、決してすべてが農村なのではなく、海村、山村、それに都市までをふくんでいるのです。 <水田に賦課された租税> ●(14)もうひとつの例をあげます。 この石高制は、田畑や屋敷、山や海、塩浜まで全部を水田に見なし、領主の収益を価値尺度としての米で表示し、課税の基礎を決めたと考えることができますので、近世の国家の租税制度もまた、基本的に土地・・水田に税金を賦課する制度になっています。 日本国成立後、1300年ほどの歴史の中で、14世紀から16世紀にかけての時期をのぞき、他のすべての時期を通じて、このような農本主義が国家の側からきわめて強力に人民に吹き込まれてきたことは間違いありません。 |
●(15)網野善彦氏・・・1928年山梨県に生まれる。東京大学文学部卒、現在(この本の出版年は、1996年)神奈川大学特任教授。主な著書に「蒙古襲来」「無縁・公界・楽」「異形の王権」「日本の歴史をよみなおす」などがある。 |
●(16)夕刊フジ、2007年6月19日「腐れ社保庁OB19年前の大放言」
<年金資金どんどん使え> <無責任対談本の中身> <当時から記録消滅予見も見切り発車した> |
●(17)日刊ゲンダイ、2007年6月12日「二極化・格差社会の真相」斉藤貴男著
<厚生年金が始まった歴史的背景> |
●(18)日刊ゲンダイ、200年6月15日「発覚、旧厚生省担当課長の大暴言」 <年金資金はどんどん使ってかまわない> ・・・・・ 要するに最初から天下り目当てだったのである。花沢氏はこうも言っている。 「年金を払うのは先のことだから、今のうちにどんどん使ってしまっても構わない。使ってしまったら先行き困るのではないかという声もあったけれど、そんなことは問題ではない。貨幣価値が変わるから」●(19)これを読むと、結局、貨幣価値が下がることを見越して、紙くずになることを前提にしていたことがわかります。昔、私(藤森)が子どものころ、母が年金だか保険だったか忘れましたが、貨幣価値の下落で、当初の思惑より10分の1だったか、100分の1だったかになり、嘆いていたことを思い出します。 第二次世界大戦後、ドイツはインフレで、1兆円が1円になった(1兆分の1)ようです。日本は1000分の1だったでしょうか?この年金課長の言うことは、いくら使っても、支払うときは、「1000分の1」や「1万分の1」になることを見越していたのでしょうね。 もしそうならば、1000兆円でも、1兆円あれば済む事になります。1万分の1を考えれば、1000兆円でも1000億円あれば済む事になります。庶民の感覚で言えば、1億円もらえると思っていたのが、1万円の貨幣価値になってしまうことになります。 こういう発想が戦後もずっと続いたのでしょうね。どこかで空恐ろしくならなかったのでしょうか?それともマヒしきっていたのでしょうか? |
●(20)夕刊フジ、2007年6月16日「金融コンフィデンシャル」須田慎一郎著 「戦後50年・お化けだった社保庁」 <仕事はしなくていい・公務員扱いの時に“覚書”> ・・・・・ つまり、直接の帰属先が不明確なまま放置された戦後50年の間に、社保庁職員はまさに“お化け”のような存在に成長してしまったというのだ。 ・・・・・ 以下、「覚書」の主だったところをピックアップしてみる。 「端末の操作時間は45分ごとに15分の「休憩」 「1人1日の操作時間は180分以内」 「1人1日のキータッチは平均5千以内、最高1万以内」 「オンライン化に伴い、ノルマの設定、実績表の作成はしない」 ・・・・・ 「1日5000キータッチという仕事量は、普通の人なら30分程度のものです。これでは5000万件に及ぶデータがいまだに処理されていないのも当然です」 (中央省庁キャリア) はっきり言う。仕事をしない公務員は去れ、と。 |
<文責:藤森弘司>
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