2007年7月15日 第60回「今月の言葉」
認知の歪み(6)

●(1)とうとうこのホームページも60回、丸5年が経過しました。次回からは6年目に入ります。職人的な生き方をしてきた私が、学者的な能力を要するこのホームページを、ここまで続けられるとは思っていませんでした。毎回、知恵が出ず、苦悶の汗ばかり出し、四苦八苦しながらも、まあ、なんとか人並みにここまで続いたということだけでも、私(藤森)の実力としては「よし」としたいと思っています。
 御用とお急ぎでない方は、今後も引き続きご愛読ください。  さて、今回は「百姓とは何か?」「水呑(みずのみ)とは何か?」を中心に書いてみたいと思っています。
 私たちは、通常、「百姓」というと、差別用語的に聞こえます。事実、マスメディアでは、一種の差別用語扱いをされていて、そのままでは使えないそうです。
 私(藤森)は、以前から、この「百姓」という言葉が妙だなという、軽い印象を持っていました。「農業」を営む人を、何故、「百姓」というのか、漠然と疑問を感じていましたが、今回、その疑問を見事に解く、すばらしい本の内容をご紹介します。  これから、<「続・日本の歴史をよみなおす」網野善彦著、筑摩書房>の本に基づいて紹介していきますが、この本の中に・・・・・
 <百姓ということばは、本来、たくさんの姓を持った一般の人民という意味以上でも以下でもなく、このことば自体には、農民という意味はまったくふくまれていません。古代の和訓では「おおみたから」と読まれていると思いますが、これにも農民の意味は入っていません。
 現在の中国や韓国では、「百姓」ということばは意味どおりに使われています。ですから、中国人の留学生に、「あなたの国で使っている『百姓』をどのように日本語に訳しますか」と訊いてみましたら、しばらく考えて「普通の人」と答えました。
 そのとおりなのだろうと思うのです。士大夫(したいふ)、つまり官僚でない一般の人民を百姓と呼ぶのが普通の用法なので、現在でもそのまま用いられているのだと思います。
 その留学生は、日本に来て「百姓」というとみなが農民だと思っていることに、最初は違和感を持ったといっておりましたが、まことに当然なことで、百姓には本来、農民はまったくふくまれていないのです。

 村も同じで、これも群(むれ)に語源のあることばですから、本来、農村の意味はないのです。にもかかわらず、厳密に実証的でなくてはならない歴史家、科学的な歴史学を強調している歴史家たちが、史料に現われることばを、使われている当時の意味にそくして解釈するという実証主義の原則、科学的歴史学の鉄則を忘れて、なぜ百姓という語をはじめから農民と思い込んで史料を読むというもっとも初歩的な誤りを犯しつづけてきたのか。私(著者)も同様だったのですから決して偉そうなことはいえないのですが、これは非常に大きな問題で、簡単に解答を出し切ることはむずかしいのです。>

 このように書いてあります。とても面白いのですが、ここでひとまず終わって、この本のスタートから始めたいと思います。

●(2)<「続・日本の歴史をよみなおす」網野善彦著、筑摩書房>より
 「第一章 日本の社会は農業社会か」  <百姓は農民か>
山川出版社「詳説日本史」(1991年)、東京書籍「新訂日本史」(1991年)、両書籍には、秋田藩の幕末近いころの嘉永2年(1849年)の身分別人口構成を円グラフにしたもので、合計372,000人余の人口の中で、農民が76.4%、町人が7.5%、武士が9.8%、神官・僧侶が1.9%、雑が4.2%となっています。この円グラフで見るかぎり、幕末近いころでも秋田藩の人口の圧倒的多数が農民であるということは歴然としているかのごとくに見えるわけです。
ごく最近刊行された尾藤正英さんの、大変興味深い著書「江戸時代とは何か」(岩波書店)の中でも、尾藤さんは江戸時代の社会は、人口の80%から90%は農民であるという前提で論を展開しています。すぐれた近世史家の尾藤さんですらそうなのですから、こういう見方は、きわめて広い範囲の日本人の日本社会観なのではないかと思うのです。・・・・・

しかし、素直にこのグラフを見ると、いったい秋田藩にはほんとうに、漁民や廻船人、山の民はいなかったのかという疑問がすぐにわいてきます。そこで、ここにはなにかからくりがあるなと思って、グラフの典拠にされている関山直太郎さんの「近世日本の人口構造」(吉川弘文館)を買い求めて調べてみました。
関山さんの作成された表とこの円グラフのパーセンテージは一致していますが、農民76.4%というところが関山さんの表では「百姓76.4%」となっています。この円グラフが、百姓は農民であるという理解に基づいてつくられたことは疑いありません。
 「お百姓さん」といえば農民に決まっているじゃないかという理解は日本人に広くゆきわたっており、このグラフの作成者もその常識に基づいてこれをつくっているのです。
 しかし、ほんとうに百姓は農民と同じ意味なのか、本来、「百姓」ということばには「農」の意味はないのではないかと問いなおしてみますと、こうした常識が意外に根拠のないことがわかってきます。

 実際、百姓は決して農民と同義ではなく、たくさんの非農業民・・・農業以外の生業に主としてたずさわる人びとをふくんでおり、そのことを考慮に入れてみると、これまでの常識とはまったく違った社会の実態が浮かび上がってきます。じつは、7、8年前に私(著者)自身もようやくそのことがわかったので、まず、この問題についてお話をしてみます。
 ただ、このことを考えはじめるひとつのきっかけになったのは、ここ10年ぐらい前から行なってきた、神奈川大学日本常民文化研究所による奥能登と時国家の調査なので、まずこの調査にそくして問題に近づいていきたいと思います。

 <この時国(ときくに)家の名前を見たとき、私(藤森)は、昔を思い出して、なんとなく、この本を読破する気になりました。今から、約35年以上前のことです。私は、あるビール会社に勤めていました。この会社では、当時、社長が主催して、東京の社員の誕生月にその社員を集めて「誕生会」が行なわれていましたが、この時の社長が「時国社長」でした。先輩が言うには、時国社長の実家は豪農で、とにかく凄いらしいということでしたが、どのくらい凄いのかまったく見当もつきませんでしたが、この本には、日本有数の凄い家(豪農?)であることが書かれていますので、さらに興味がわく本となりました>

●(3)<奥能登の時国家>
 時国家は現在、上(かみ)・下(しも)両家に分かれています。私(著者)が上時国家に伺ったのは、10年ほど前(この本の出版は1996年)のことで、日本常民文化研究所が30年以上も前に、上時国家から借用したままになっていた古文書の返却のご相談のためだったのです。ところがそのとき同家の奥様から、どうも蔵にはまだ古文書がありそうなので、もし時間と人手があるなら、もう一度、蔵を調べてくれないかというご依頼をうけました。
 
 これをきっかけにして、神奈川大学の当時の大学院生などの若い方々と一緒に上時国家の蔵をくまなく調査したところ、江戸時代の文書が1万点近く、明治・大正までふくめると、数万点の大量の文書が新しく発見されました。下時国家もこれと並行して調査をさせていただき、やはり新しく文書を見つけることができました。
 こうして10年間、文書の整理を進めながら若い人たちと時国家文書の研究会を続けているうちに、百姓は農民という、われわれのそれまでの常識がいかに誤っているかということをはっきり確認することができました。これからのべることは、その研究会の共通の成果ということになります。

●(4)現在、町野川の下流にあるのが下時国家、上流にあるのが上時国家ですが、じつはこの二家は本来は一軒の家だったのです。それが種々の事情から寛永11年(1634年)に、土方家領時国家(上時国家)と、前田家領時国家(下時国家)とに分立し現在にいたっているのですが、上時国家のほうは天保2年(1831年)に造られ、日本の民家の中でもおそらく最大規模の巨大な民家です。
 また下時国家は規模はそれよりも小さいのですが、それより200年前の寛永11年までに建築されたことがわれわれの調査ではっきりしており、年代のはっきりとわかる民家としては、もっとも古いもののひとつといってもよいと思います。

 この二軒はたいへん大きな農家、豪農だと考えるのが、これまでの常識でした。
 また、時国という苗字自体が中世の名(みょう)のなごりを残しています。中世の名田(みょうでん)は、貞国(さだくに)、貞時(さだとき)、時貞(ときさだ)などのように二文字の名前をつけることが多いのですが、時国家も間違いなく中世の時国名の名前を苗字にしていると考えられます。ですから従来の研究では、時国家は中世の名田経営のなごりをとどめる家で、中世的なものを色濃く残す奥能登の象徴ととらえられてきました。
 実際、江戸時代初期の、分立する前の時国家は200人くらいの下人を従えているのですが、下人は、これまでの学説ですと、奴隷、あるいは農奴ととらえられていた人びとなので、時国家はそういう隷属的な性格を持つ人びとを駆使して、何十町歩という大きな田畑を経営している大手作り経営と考えられてきたのです。
 ところが、この常識がまったく間違っていることがたちまちのうちにわかってきました。

●(5)まず、江戸時代初期以前から、時国家は大きな船を持っており、この船が、松前から佐渡、敦賀、さらに琵琶湖をこえて、近江の大津や京、大坂とも取引をやっていたことが、元和5年(1619年)の文書ではっきり確認できました。
 昆布などを松前から運んで、これを京、大坂まで持っていって販売することを、時国家の船は早くからやっており、しかもそうした船を時国家は単に一艘だけでなく、二、三艘以上持っていたことがわかりました。
 まず時国家は海岸に塩浜を多く持ち、製塩を行なっており、塩を出羽の能代や越後の新潟に運んだという文書がやはり江戸初期にありますので、塩が北方向けの商品になっていたことは間違いありません。それから背後の山には材木がたいへん豊富なので、炭をたくさん焼いていました。このような塩や炭が商品となったことは、十分の根拠をもって推測ができます。

 町野川沿いの河口の大きな潟と、宇出津(うしつ)の澗(ま)を港として、大規模な廻船交易をやっていたことは確実で、その船は前田家から諸役免許を保証されていたのです。ですからこれを単純に豪農などということは到底できない、ということになってきました。
 そのうえ、元和4年に時国家は、近くの南志見(なじみ)村の裏山に鉛の山が見つかったので、鉛の採掘をしたいと前田家に願い出ています。この鉱山経営がどうなったかわかりませんが、時国家は鉱山の経営にまで手を出そうとしていたこともわかりました。

●(6)さらにまた、時国家は、中世以来、町野荘という荘園の中で、港に近い倉庫を持ち、年貢米や塩などの物資の出入りを管理していました。この蔵に納められた米や塩について、大名の代官は時国家にあてて、必要な量を蔵から支出せよという命令書を出し、その書類をうけとった時国家は、自らの判断で物品の支出を行なっていたのです。
 ですから時国家は、蔵元の役割を江戸初期から果たしており、蔵に預かっている米や塩の代銀を流用して、金融業を営んでいたと考えてよいようです。

 時国家は武士身分ではなく百姓なので、300石の石高に相当する田畑を持っていました。のちに上時国家が200石、下時国家が100石となりますが、両家に分かれてからも、大きな農業経営をやっていたことは事実です。
 しかし一方で、時国家は大船を持ち、北海道にいたる日本海の海上交通に依拠し、廻船による交易を活発に行なっていますし、製塩、製炭、山林の経営にもたずさわり、鉱山にもかかわりをもち、蔵元として金融業も営んでいる家であることが、ここ数年の研究によってはっきりとわかってきました。

 こうなると、時国家を、農奴を駆使する大農業経営者であるなどと規定してこと足れりとしているわけには到底いかなくなってきます。これでは時国家の活動の一面だけをとらえているのすぎないので、まったく誤りといわなくてはなりません。
 ではこのような時国家を、どのように学問的に表現したらよいかとなると、じつは現在の学問の水準ではまだ的確な用語がないのが実情です。やむをえませんので、われわれは漠然とした規定ですが、企業家的精神をもって多角的な経営をやっている家、多角的企業家といっています。これが時国家、上下両家の実態だったのです。

●(7)<廻船を営む百姓と頭振(あたまふり・水呑み)>
 ところが、さらに勉強しているうちに、われわれがほんとうに愕然と驚いた事実がでてきました。
 江戸初期、時国家と姻戚の関係にあり、深い因縁をもっている柴草屋という廻船商人が、町野川の河口の港で活動しています。・・・大船を二、三艘持ち、日本海の廻船交易にたずさわっていたのだと思われます。この家から時国家が、江戸初期に百両の金を借用していますから、柴草屋はそれだけの金を融通できる財力を持つ、富裕な廻船商人であったことは間違いありません。
 
 ところが、文書を江戸時代前記まで読み進めていったところ、われわれは、この柴草屋が頭振(あたまふり)に位置づけられていることに気がついたのです。加賀・能登・越中の前田家領内では、石高を持たない無高の百姓を「頭振」とよんでいます。しかし、能登でも天領では頭振を水呑(みずのみ)といいかえていますから、頭振は水呑のことで、柴草屋は水呑だったことになります。
 江戸時代、年貢の賦課基準となる石高をまったく持っていない、つまり年貢の賦課される田畑を持っていない人のことを水呑といっており、教科書では、これを貧しい農民、小作人と説明するのがふつうです。
 ところが、柴草屋のような廻船商人で、巨額な金を時国家に貸し付けるだけの資力を持っている人が、身分的に頭振、水呑に位置づけられているということを確認した時、研究会に参加していた7、8人のメンパーは、最初は目を疑ったのですが、同時にまた、ああ、そうなのかと初めて気がついたのです。・・・柴草屋は土地を持てないような貧しい農民なのではなくて、むしろ土地を持つ必要のまったくない人だったのです。

●(8)同じような事例をもうひとつ紹介しますと、2、3年前の調査のさい、町野川右岸の海辺の集落曽々木(そそぎ)の、百姓円次郎の願書ともいうべき文書が、上時国家の襖(ふすま)の下張り文書の中から出てきました。
 この文書によると、円次郎の父親はもともと船商売を専業にしており、松前まで行くといって水手(かこ)たちと一緒に船に乗って出かけていったけれども、難船してしまったのか数年たっても帰ってこない。そのため、残された子どもの円次郎は、母親と幼い兄弟をかかえてたいへん苦しい生活を余儀無くされたのですが、とくに父親があちこちから借りた借金の取立てがそれに加わり、非常に困っていると文書には書かれています。

 注目すべきはその借金の貸主で、出羽庄内の越後屋長次郎、若狭小浜の紙屋長左衛門、能登輪島の板屋長兵衛などの問屋をはじめ、同じ曽々木の三郎兵衛から円次郎の父親は多額の借金をしており、これによってこの人が日本海を手広く商売し、各地の問屋と取引をしていたことがわかるのですが、この借金をきびしく催促されると円次郎の生活が立ちゆかない。
 ようやく、蝋(ろう)や油の商売などでその日暮しはできるようになったので、借金の返却は50年賦にしてもらえないだろうか、と円次郎が代官に願い出たのが、この願書で、なかなかおもしろい内容の文書なのです。

 これまで、曽々木はもっぱら塩をつくっているだけの、まことに貧しい村と考えらていたのですが、その百姓の一人が、北前船(きたまえぶね)とまではいえないとしても、かなり大きな船で日本海の各地の港町で取引をし、松前まで行く廻船交易をやっていたことがこの文書でわかったのは、たいへん興味深いこととわれわれは思っておりました。
 たまたまその夏に、新聞記者が、4、5人やってきました。そこで各社の記者が集まってきてくれたところで私がこの文書を紹介したわけです。ところが最初に記者たちから、なぜ、「百姓(ひゃくしょう)」が松前まで行くようなことになったのですかという質問が出ました。
 「百姓」、つまり農民が松前に行ったのはなぜかという質問なのです。これにたいし、私は、この「百姓」は農民ではなく、文書にも書いてあるとおり船商売をやっている廻船人なのです、と説明したのですが、記者たちはなかなか納得しない。ではどうして船商売の人を百姓と表現するのかという疑問などがでてきて、私は2時間近い時間をかけて説明することになりました。
 なかでも、北国(ほっこく)新聞の記者はたいへん熱心な方で、電話を何度もかけてこられ、細かく質問された上で、書かれた記事を読み上げ、これで正確ですかと確認してくださったので、たいへんいい記事ができたと思ったのです。ただ驚いたことに、「百姓」ということばはマスネディアではそのままでは使えない、一種の差別語の扱いをされていることをそのときはじめて知りました。
 
 それはともあれ、おもしろい記事がでるだろうと、翌朝、楽しみにしていた新聞を見ましたら、なんと見出しには、「農民も船商売に進出」と書いてあるのです。2時間の悪戦苦闘、何回かの電話はほとんど徒労に終わってしまいました。
 もちろん記事はきわめてきちんと書いてあるのですが、デスクはやはりこれではわからないと判断したのだと思います。しかしこの見出しでは明らかに誤りになるので、せめて「『百姓』も船商売」と書いてくれればよかったと思ったのですけれど。

 ほかの新聞は「能登のお百姓、日本海で活躍」、あるいは「江戸時代の奥能登の農家、海運業にも関与」という見出しでした。百姓イコール農民という思いこみがいかに根強いかということを、われわれは骨身にしみて実感しました。いちばんの傑作は、ベテランの記者が、「ああ、そういうのよくあるんですよね」とかいって、私の話を30分くらい聞いただけで帰ったのですが、その人は、なんと、「曽々木で食いつめた農民円次郎が松前に出稼ぎに行った」と書いてしまった。私どもも大笑いをしたのですけれども、百姓は農民というイメージの根深い浸透が、こうした大変な間違いを多くの人たちにおかさせる結果になっているのです。

●(9)このように非常におもしろいのですが、詳しく書いていると膨大な量になってしまいますので、著者には申し訳ないのですが、少々簡略にしてご紹介します。

 <村とされた都市>
 ・・・・・その結果、奥能登最大の都市、輪島は、総戸数621軒で、おそらく人口は数千人の大きな都市ですが、その家数の71%が頭振だったという興味深い事実が明らかになりました。そして残りの29%の百姓の平均持高は、田畑4.5反ほどに相当する4.5石でしかないこともわかりました。
 また時国家が船入りと屋敷を持っていた内浦の宇出津(うしつ)も大きな都市で、総戸数433軒におよぶのですが、頭振(あたまふり・水呑・みずのみ)は、76%という非常な高率をしめていることもわかったのです。
 このほかの多くの家が集中している都市的な集落も、頭振の比率がきわめて高いことが統計的にもはっきりと確認できました。もしも、百姓は農民、水呑は貧農というこれまでの常識に従いますと、輪島は極度に貧しい村になってしまいます。
 4.5反くらいしか土地を持たない百姓が29%、水呑百姓が71%もいるのですから、宇出津(うしつ)の場合はもっと貧しいことになりますが、この常識がまったく間違いであることは、事実そのものが明白に証明してくれました。

 輪島の71%の頭振(水呑)の中には、漆器職人、素麺(そうめん)職人、さらにそれらの販売にたずさわる大商人、あるいは北前船を持つ廻船人などがたくさんいたことは間違いないところですし、百姓の中にも、輪島の有力な商人がいたことも明らかなのです。
 先ほどもふれましたように、輪島の頭振(水呑)の中には、土地を持てない人ではなくて、土地を持つ必要のない人がたくさんいたことは明白といってよいのです。とすると、百姓を農民、水呑(みずのみ)を貧農と思いこんでいたために、われわれはこれまで深刻な誤りをおかしてきたことになります。

 最初にもふれましたように、奥能登に行った時、・・・・・極度に小さい水田が山の上まで積み重なっている段々田地を見せられますと、能登はほんとうに田地の少ないところだと思い知らされます。山がちで土地が少なく、田畑がひらけないから貧しいところだと奥能登の方々自身がそういわれるので、われわれもそう思っていました。

●(10)また、奥能登は流刑地(るけいち)で、実際、時国家は、「平家にあらざるものは人非人(にんぴにん)」といったといわれ、平家の滅亡後、能登に流された平時忠の子孫という伝承をもっているのです。このように奥能登は辺鄙(へんぴ)で、おくれた後進地域だから、中世の名田(みょうでん)経営のなごりが見られるし、また200人もの下人(げにん)=奴隷を使う古い農業経営が残ったのだというわれわれの当初のイメージは、この思いこみの誤りを知ることによって、完全に逆転しました。

 江戸時代までの奥能登の実態は、港町、都市が多数形成され、日本海交易の先端を行く廻船商人がたくさん活動しており、貨幣的な富については、きわめて豊かであり、日本有数の富裕な地域だったとすらいえのではないかと思うのです。奥能登の調査によって、われわれはこのようなイメージの大逆転を経験することができました。
 しかし、このイメージの大逆転は、決して能登のみにはとどまらず、日本列島の社会全体におよぶと私は思います。・・・・・しかし、少し調べてみると、近世史の素人の私(著者)でも、同じような事例はいくらでも見つけられることに気がつきました。
 たとえば、瀬戸内海に面した山口県の上関(かみのせき)は、中世、竈戸関(かまどのせき)が立てられたところで、中世以来の港町として発展してきたところです。ここも幸い、百姓の家数がはっきりわかります。上関は地方(じかた)と浦方(うらかた)に分かれており、浦方は浦に面した集落で、地方は多少内陸に入った集落です。

 江戸末期に作られた「防長風土注進案」によると、地方(じかた)の百姓36軒のうち、農人(のうにん)は19軒にすぎず、商人が10軒、廻船問屋が5軒、鍛冶屋、漁民が各々1軒ありました。
 浦方(うらかた)の百姓88軒のうち、農人はわずかに12軒、13.6%で、商人54軒あるほか、船持ち、船出稼ぎ、船大工、紺屋(こんや)、豆腐屋などがふくまれています。
 この地域では水呑(みずのみ)を門男(もうと)というのですが、地方の門男135軒のなかには、農人が98軒もおり、商人20軒、船大工、桶屋、左官屋などとなっていますが、浦方の門男178軒の中には、農人は皆無、商人が68軒、船持ち18軒、あとは家大工、船大工、鍛冶、桶屋、紺屋、畳職などの都市民からなりたっています。
 これが上関の人口構成なので、これを見ても、百姓の中の農人は少数で、商人、船持ち、職人の数のほうがはるかに多いのです。この地域の門男(もうと)は奥能登の頭振(あたまふり、水呑・みずのみ)と基本的に同じで、圧倒的多数が非農業民であり、豊かな門男もかなりいるといってもよい状況が見られます。

●(11)もうひとつの例をあげますと、大坂の泉佐野市は、古代・中世以来、海民の根拠地として有名な場所ですが、ここの百姓に食野(めしの)という家があり、泉屋、橘屋と称して、大規模な廻船業を営み、秋田から松前まで進出していたことが知られています。
 ・・・・・このように、江戸時代の日本列島の海辺には、百姓、水呑で、時国家や柴草屋と同じように、大規模な廻船業を営んでいる家は、無数にあるといっても差し支えないと思います。

 ・・・・・このように、中世以前の地形にまでさかのぼりますと、能登半島についてのべてきたようなことは、日本列島の全体にあてはまるに相違ありません。そしてそうなりますと、日本列島の社会が、農民が人口の圧倒的多数をしめる農業社会であったという常識も、おのずと完全に覆るといわざるをえないわけです。

●(12)これは、海だけの問題ではありません。山についても同じようなことがいえるのです。私(著者)の郷里の山梨県は、水田の少ない山国で、非農業的な地域です。ですから甲州人も自らを貧しいと思っているのですが、その反面、山梨は甲州商人、甲州財閥で有名でもあったのです。
 この矛盾も、さきほどのような見方をすると解答が出てくるのです。たとえば、温泉で有名な石和(いさわ)の市部村は、やはり水呑が51%もいますが、ここは古くからの市庭(いちば)で都市なのです。
 また富士の登山口にあたる上吉田村にも水呑がたくさんいますが、ここも中世から間違いのない都市であり、山村の問題も海村の問題と同じように、交通が不便で田畑がないから貧しいなどとはいえないことがはっきりわかってきます。山奥の村で、林業を背景に非常に豊かなことろもあるのです。
 ・・・・・
 これまでの歴史研究者は百姓を農民と思い込んで史料を読んでいましたので、歴史家が世の中に提供していた歴史像が、非常にゆがんだものになってしまっていたことは、疑いありません。
 これは江戸時代だけでなく、中世でも同じですし、古代にさかのぼってもまったく同様です。百姓は決して農民と同じ意味ではなく、農業以外の生業を主として営む人々・・・非農業民を非常に数多くふくんでいることを、われわれはまず確認した上で、日本の社会をもう一度考えなおさなくてはならないと思います。

●(13)もうひとつの誤解にふれておかなくてはなりません。
 ・・・・・漁村や山村は田地が少なく非常に貧しいと考えられており、その社会的な比重も小さいとされてきたと思うのですが、この見方がやはり大きな誤りを招いていると思うのです。
 ・・・江戸時代、能登の輪島や宇出津(うしつ)、周防(すおう)の上関、和泉の佐野のような、実態としては明瞭な中世以来の都市が、すべて制度的には村とされていたのです。
 これ自体が大きな問題ですが、江戸時代に町と認められたのは、城下町、それに堺や博多のような中世以来の大きな都市だけで、実態は都市でも、大名の権力とかかわりのない都市は、すべて制度的には村と位置づけられています。

 村にされれば、自ずから検地が行なわれ、田畑、石高を持つものは百姓、持っていなければ水呑の身分にされますので、村であるから農村だなどと思い込むと、先ほどのようなとんでもない大間違いがおこるわけです。江戸時代の「村」は、決してすべてが農村なのではなく、海村、山村、それに都市までをふくんでいるのです。
 ・・・・・村という単位は、多くは江戸時代に港町になるような海辺の集落です。ですから「村は農村」という思いこみを取り払って、もう一度、日本の社会を見なおしてみる必要があると思うのです。

 <水田に賦課された租税>
 では、どうして日本人はこういう誤った思いこみを長年にわたってしてきてしまったのか、これが大問題なのです。
 ・・・・・
 その中でいちばん大きな原因のひとつは、「日本」を国号とした日本列島最初の本格的な国家、ふつう「律令国家」などといわれている古代国家が、北海道、沖縄、東北北部を除き、水田を国の制度の基礎に置き、土地にたいする課税によって国家を支えるという制度を決めたことにあると思います。
 この国家は、支配下に入った人民を戸籍にのせ、6歳以上の男女のすべてに、・・・一定面積の水田をあたえ、それを課税の基礎にして租、庸(よう)、調(ちょう)をはじめ、その他の租税を賦課徴収する制度を定めました。
 この制度をこの国家は本気で徹底して実施しようとしており、たとえば、志摩国の百姓はほとんどすべてが海民なのに、この人たちにまで田地をあたえようとしています。
 もちろん志摩国には水田はないので、尾張国に水田をあたえていますが、実際には志摩の人たちは永続的な耕作はできなかったと思われます。これをみても、この国家がすべての百姓を農民、稲作民ととらえようとする強烈な意志をもっていたことは間違いないといってよいと思うのです。

●(14)もうひとつの例をあげます。
 長屋王(ながやおう)という、8世紀の政府の首班だった人が、百万町歩の田地の開墾を計画しています。・・・結局、無理なことがすぐにあきらかになり、三世一身法(さんぜいっしんのほう)に軌道修正が行なわれますが、この途方もない開墾を計画した事実そのものが、この国家の水田にたいする思い入れがじつに強烈であったことをよく物語っています。
 最初の本格的な国家がまずこういう制度を定めたことが、あとあとまで甚大な影響をあたえていくことになったのです。
 ・・・・・
 この国家の租税制度は、大きく変化しながらも、中世国家の土地制度、荘園公領制に承け継がれていきます。
 ・・・・・
 この国家は田畑・屋敷、時によって山や海、塩浜などからの収入、商業の利潤までを米に換算し、年貢の賦課基準としての石高を定め、それに免(めん)といわれた税率を乗じて年貢を取っています。

 この石高制は、田畑や屋敷、山や海、塩浜まで全部を水田に見なし、領主の収益を価値尺度としての米で表示し、課税の基礎を決めたと考えることができますので、近世の国家の租税制度もまた、基本的に土地・・水田に税金を賦課する制度になっています。
 ですから、律令国家以来、中世、近世の国家にいたるまで、支配者はほぼ一貫して「農は国の本」「農は天下の本」という姿勢をとりつづけ、百姓が農民として健全であることを強く求めてきたのです。

 日本国成立後、1300年ほどの歴史の中で、14世紀から16世紀にかけての時期をのぞき、他のすべての時期を通じて、このような農本主義が国家の側からきわめて強力に人民に吹き込まれてきたことは間違いありません。
 土地に租税を課している以上、百姓が農民であってほしいのは、国家のきわめて強い意志であり、国家にとってそれがもっとも望ましい事態だったことを考えておく必要があると思います。
 それゆえ、・・・1年のほとんどを廻船交易、つまり船商売をやっており、たまに帰ってきた時に農業をやっているという程度の人の場合でも、主たる生業の廻船の仕事は「農間稼ぎ(のうまかせぎ)」、「作間(さくま)稼ぎ」、つまり「副業」と表現されてしまうのです。

●(15)網野善彦氏・・・1928年山梨県に生まれる。東京大学文学部卒、現在(この本の出版年は、1996年)神奈川大学特任教授。主な著書に「蒙古襲来」「無縁・公界・楽」「異形の王権」「日本の歴史をよみなおす」などがある。
●(16)夕刊フジ、2007年6月19日「腐れ社保庁OB19年前の大放言」

 <年金資金どんどん使え>
 「年金資金はどんどん使え」「(職業や住所を変えた人の年金記録を統合する)通産なんてできるわけないが、見切り発車した」・・。年金問題でパンドラの箱を開けたかのごとく、次々とデタラメが明るみに出ている社会保険庁だが、昭和中期に年金制度を設計した責任者たちがこんな無責任発言を繰り返す対談集が発掘された。自民党厚労族議員の重鎮すら「あれは悪名高い本なんだよ」とタメ息をつく、噴飯モノの中身とは・・・。

 <無責任対談本の中身>
 「膨大な(年金)資金をどうするか。何十兆円もあるから、一流の銀行だってかなわない。これで財団とかを作って、その理事長というのは、日銀の総裁ぐらいの力がある。そうすると、厚生省の連中がOBになったときの勤め口に困らない」
 「年金を支払うのは先のことだから、今のうち、どんどん使ってしまってかまわない。先行き困るのではないかという声もあったけど、そんなことは問題ではない」
 まさに「国民のカネは自分たちのものだ」と聞こえるこの発言は、年金制度草創期の1943年~45年に厚生省年金局年金課の課長だった花沢武夫氏(故人)によるもの。88年発刊の「厚生年金保険制度回顧録」(社会保険法規研究会)に記されているものだが、この本は年金制度草創期から時系列に、当時の担当者に社保庁OBらが話を聞く形でまとめられている。

 <当時から記録消滅予見も見切り発車した>
 12日の参院厚労委員会で、民主党の桜井充参院議員が同書について質問し、柳沢伯夫厚労相は「そういう考えの人がいたことは聞いたことがある。何ともいえない否定的な驚きを感じた」と答弁した。

●(17)日刊ゲンダイ、2007年6月12日「二極化・格差社会の真相」斉藤貴男著

 <厚生年金が始まった歴史的背景>
 東京都内の大学祭で企画されたシンポジウムで、渦中にある厚生労働省年金局の官僚と同席する機会に恵まれた。話題は「消えた年金」の問題にも及び、彼は当事者としての言い分を強調していた。
 ・・・・・有利な厚生年金も戦時中の1942年(昭和17年)年に戦費調達の手段として始まったのであり、もともと動機が不純なのだから、問題が噴出してこないほう方がおかしいのだ。シンポジウムではこうも言った。
 「『厚生年金保険制度回顧録』(財団法人厚生団編)に、初代年金課長の述懐が載っています。戦争に必要な生産力を向上させたいと、特に炭鉱労働者の士気高揚を図ったのが厚生年金だ。集まった年金保険料の使い道はナチスドイツのやり方が参考になった・・・」
 そして、初代年金課長の言葉をそのまま読み上げたのである。
 <労働者の方は(年金保険料を)出すに決まっているのです。あの時代には組合組織も何もありませんから。反対する勢力もなくて、軍の要請と言われれば、うんもすんもない。(中略)なにしろ戦争中のどさくさにやってしまったから、それが一番よかったのですね>
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 筆者の主張が絶対だとは言わない。年金官僚の反論には納得できる部分もあったし、とんでもないと思える部分もあった。
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●(18)日刊ゲンダイ、200年6月15日「発覚、旧厚生省担当課長の大暴言」
 
 <年金資金はどんどん使ってかまわない>
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 要するに最初から天下り目当てだったのである。花沢氏はこうも言っている。
 「年金を払うのは先のことだから、今のうちにどんどん使ってしまっても構わない。使ってしまったら先行き困るのではないかという声もあったけれど、そんなことは問題ではない。貨幣価値が変わるから●(19)これを読むと、結局、貨幣価値が下がることを見越して、紙くずになることを前提にしていたことがわかります。昔、私(藤森)が子どものころ、母が年金だか保険だったか忘れましたが、貨幣価値の下落で、当初の思惑より10分の1だったか、100分の1だったかになり、嘆いていたことを思い出します。
 第二次世界大戦後、ドイツはインフレで、1兆円が1円になった(1兆分の1)ようです。日本は1000分の1だったでしょうか?この年金課長の言うことは、いくら使っても、支払うときは、「1000分の1」や「1万分の1」になることを見越していたのでしょうね。
 もしそうならば、1000兆円でも、1兆円あれば済む事になります。1万分の1を考えれば、1000兆円でも1000億円あれば済む事になります。庶民の感覚で言えば、1億円もらえると思っていたのが、1万円の貨幣価値になってしまうことになります。
 こういう発想が戦後もずっと続いたのでしょうね。どこかで空恐ろしくならなかったのでしょうか?それともマヒしきっていたのでしょうか?
●(20)夕刊フジ、2007年6月16日「金融コンフィデンシャル」須田慎一郎著
 「戦後50年・お化けだった社保庁」  <仕事はしなくていい・公務員扱いの時に“覚書”>
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 つまり、直接の帰属先が不明確なまま放置された戦後50年の間に、社保庁職員はまさに“お化け”のような存在に成長してしまったというのだ。
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 以下、「覚書」の主だったところをピックアップしてみる。
 「端末の操作時間は45分ごとに15分の「休憩」
 「1人1日の操作時間は180分以内」
 「1人1日のキータッチは平均5千以内、最高1万以内」
 「オンライン化に伴い、ノルマの設定、実績表の作成はしない」
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 「1日5000キータッチという仕事量は、普通の人なら30分程度のものです。これでは5000万件に及ぶデータがいまだに処理されていないのも当然です」
(中央省庁キャリア)
 はっきり言う。仕事をしない公務員は去れ、と。

<文責:藤森弘司>

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