●毎年8月になると、靖国神社の総理大臣参拝が問題になります。
今まで、私(藤森)がテレビや新聞などのマスコミを通して目にした「靖国神社参拝問題」のコメントの全ては、一番大事な視点が欠けているように私には思えます。その結論は最後に述べますが、私は参拝することが妥当であるのか否か、正直に言いましてよくわかりません。賛成する人の意見を聞くとなるほどと思い、反対する人の意見を聞くと、やはりなるほどと思ってしまいます。
この問題は実に、色々な側面があるようです。「神道」といっても靖国神社は「国家神道」で、それまでの神道は「本地垂迹(ほんじすいじゃく・・・神仏習合に基づく考え方)」であったのが、明治新政府が神社から「仏教的要素」を取り除いたようです。
そういう「靖国神社」の性格、さらに「東京裁判」が妥当であるのか否か、戦犯とは何か、西郷隆盛や会津の多くの人たちは祀られていない(戊辰戦争の東軍、つまり会津藩を含む奥羽列藩同盟側の戦没者は、賊軍ということで靖国神社には合祀されていない。唯一の例外は、京都の御所を守備して戦死した、元治元年の禁門の変の会津藩士だけである。<18年6月22日、夕刊フジ「西郷隆盛伝説、会津の悲惨③」佐高信著より>)ことや、戦犯といわれる人たちのご遺族の気持ちや、戦死した人たちが靖国神社で会おうといったとか、憲法との兼ね合いなど、実に様々な要素が複雑に絡み合っていて、簡単に処理できる問題ではないようです。
「本地垂迹」については、いつか機会がありましたら触れるとして、これら諸問題について述べるには私の手に余ります。そこでもう少し単純化して考察してみたいと思います。
●今、一番問題になっているのは、いわゆる戦犯といわれる人たちが「合祀(ごうし)」されているからのようです。昭和53年に、戦犯といわれる人たちが「合祀」されたようで、それからは天皇陛下も参拝しなくなったようです。
現在の問題は「分祀」されれば、ほとんどの問題はなくなるようですが、神社の性格から、「合祀」された人たちを「分祀」することは不可能であるとか、ないとか、いろいろいわれていますが、一番問題なのは、戦犯といわれる人たちのご遺族の反対、特に東条英機元首相のご遺族の方々の反対が、「分祀」を難しくしているようです。
●以前、東条英機元首相の孫の東条由布子さんがテレビに出ていました。その由布子さんが語ったのではありませんが、戦後、ご遺族の方々は随分苦労されたようです。配給米を手にすることも困難だったようで、ご遺族の方々は石もて追わるる状態だったようです。
そういうことから推測すると、敗戦よりこの方、ご遺族の方々は「東条姓」を名乗るたびに、人生の種々様々な場面で苦労されてきたであろうことは想像に難くありません。そういう怨念もあって、「分祀」に抵抗しているのであるならば、その気持ちを私は十分に理解できます。
本日(18年8月12日)、日本テレビで放映されていましたが、「死生観に基づいた日本の文化」という言葉を使いながら、孫の東条由布子さんは刑務所内での東条英機元首相が毅然とした態度であったことを強調されていました。
止むを得ないことでしょうが、毎年、毎年、何十年もの間、祖父にあたる人が、「戦犯だ!戦犯だ!」と繰り返されながら人生を生きなければならないお気持ちはいかばかりであろうかと、心情察するに余りあります。
昭和28年に戦犯といわれる人たちも「遺族年金」が支給されることになったそうです。こういう流れもあって、多分、合祀されるようになったのでしょう。戦死された人たちのことを考えれば、いかなる扱いも仕方ないのかもしれませんが、罪悪感に責め苛まれる生い立ちを背負ったご遺族の方々にとっては、「霊」が「靖国神社」に祀られることの安らぎはせめてもの救いではないでしょうか。
●<閑話休題>
先日、萩本欽一氏の社会人野球チームが、チームの一員の不祥事で、チームを解散しました。ファンやテレビ人の応援ですぐに解散は撤回されましたが、このような連帯責任の取り方、取らせ方は止めるべきではないでしょうか。
一生懸命練習し、真面目に野球に取り組んでいる人たちが、自分にはまったく関係ないことで、責任を取らせられる不合理を日本全体がもっと真剣に考えるべきで、そんなことが潔い決断だなどと賛意を表するマスコミ人の軽薄さこそがもっと非難されるべきだと思います。処罰するならば、監督の萩本氏個人を対象にすればよいことです。
この萩本欽一氏の野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」解散問題もそうでしたが、ボクシングの亀田興毅新チャンピオンの「疑惑判定」問題も同様、テレビ関係の報道姿勢と活字メディアとでは、かなり違った内容になっています。テレビのショー的部分はかなり割り引いてみる必要がありますが、そのような視点を持たない人たちに対する影響力の大きさは、昨年の郵政解散時に証明されています。
日刊ゲンダイ(17年12月27日)田中康夫著「奇っ怪ニッポン」より
・・・・・竹中平蔵と狡猾な仲間達が構築した「B層理論」に該当する人々に観客民主主義の幻想を与え、屈従専制主義を蔓延させる。即ち、所在無げに日がな一日TVの前で時間を無為に過ごす人々の頭脳に、「構造改革」なる羊頭狗肉な代物の刷り込み作業を実践してきたのが、政官業学報の現状追認ペンタゴンなのです。
竹中氏とは“刎頚の友”な、それも未だ有限会社組織の広告代理業者が昨年末に「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略」と銘打って作成した資料に拠れば、「B層」とは知能指数が低く、故に刷り込み作業を繰り返せば、いとも容易に「構造改革」へ付和雷同し得る人々を意味します。・・・・・
日刊ゲンダイ(18年8月12日)「まだ支持率上昇の怪」「小泉政権は国民のために何か有用なことを一つでもやったのかという重大な問い」より
・・・・・政治学者の御厨貴氏は近著でこう分析している。
「小泉政権になって世論調査が芸能人と同じく『好感度調査』になった」「国民は『水戸黄門』のTV時代劇を見るように政治を見る」から「小泉さんは番組をどうやって2、3ヶ月もたせるかという感覚だけで政治をやっている」。
抵抗勢力との争いや北朝鮮への強硬姿勢、刺客を送り込んでの選挙バトル、靖国参拝もあくまで「小泉劇場」を盛り上げるための舞台装置。それをお茶の間ではドラマ感覚で見ている。
日刊ゲンダイ(18年6月15日)「小泉改革の幻想をふりまいてきた責任も重大」より
・・・・・口では小泉首相を批判している記者は多いが、肝心の紙面や映像になると、まるで違うモノが出てきたりする。
今年5月12日、毎日新聞のコラム「記者の目」で、小泉の盟友・山崎拓が“懇意”の番記者に「いいか、君たちビックリするぞ。30年も国会議員をやっているのに、小泉は政策のことをほとんど知らん。驚くべき無知ですよ」と語ったという話が出ていた。
コラムを書いた記者は<すぐにそれは証明された。国会審議で小泉首相は集団的自衛権とは何かを理解していないことが露見した>と続けていたが、だったら「早く書けよ」である。
今月の映画(第46回)「グッドナイト&グッドラック」の中で、マッカーシズムの嵐が吹き荒れる中、人生を賭けて果敢に挑戦したニュース・キャスター、エド・マローが「耳の痛い話をします」と、次のように述べています。
ラジオとテレビの現状を率直に語りたいと思います。
もし50年後か100年後の歴史家が、今のテレビ番組を1週間分見たとする
彼らの目に映るのは、おそらく今の世にはびこる退廃と現実逃避と隔絶でしょう
アメリカ人は裕福で気楽な現状に満足し、暗いニュースには拒否反応を示す
それが報道にも現われている
テレビは人を欺き、笑わせ、現実を隠している
それに気づかなければ、スポンサーも視聴者も制作者も後悔することになる
●さて、話を元に戻します。ご遺族、特に東条英機元首相のご遺族の方々は(どんなことがあってもおっしゃらないでしょうが)、意地や怨念でもって「分祀」には反対したいのではないでしょうか。もしそうだとするならば、反対する量に比例してご遺族の方々は、手ひどい制裁を受けたのだと思われます。
このように直接関係ない人たちを苦しめるようなことはもうすべきではないと思います。それが恨みの連鎖になり、結局は、その仕返し(?)として、簡単に処理できる「靖国神社の分祀」問題が、長期にわたってこじれる問題になってしまっているのではないでしょうか。
問題は、ある意味で簡単なことです。東条英機元首相のご遺族が「分祀」に賛成されれば解決してしまうことです。ただそれだけのことが、国家の大問題、危機的な大問題になってしまっています(「霊」だから、ある部分を分祀することはできないと元宮司が述べていましたが)。
重ねて言いますと、それほどの大問題になってしまうという「量」に比例して、ご遺族が受けた差別やイジメのような体験がひどかったと推測できるのではないでしょうか。
●第47回、48回「今月の映画」にありました会津人の松江豊寿という板東俘虜収容所の所長は、この恨みの連鎖を止めるすばらしい方でした。
おそらく会津人は、先駆者である会津人最初の大将・柴五郎や帝国大学総長・山川健次郎などの大きな影響があったからでしょうし、さらには会津藩という集団で耐える立場であり、そして松江豊寿は所長というそれなりに出世できている立場でしたが、ご遺族の方々のように孤独な中で耐え忍んで生きてきたであろうことは、会津人の辛さとはまた違った種類のものになっているように思われます。
山川健次郎は白虎隊の生き残りで、東大の総長になり、柴五郎は“賊軍”出身者として初めて陸軍大将になった人である。
この二人は、戊辰戦争で敗北した会津藩士が下北半島の火山灰地に追いやられ、いかに過酷な生活を強いられたかを語り、「権勢富貴何するものぞ」と反骨の精神を説いて、伊東たち会津の若者の奮起を促した。(夕刊フジ<18年6月23日>「西郷隆盛伝説」会津の悲惨④、佐高信著より)
ここに出てくる伊東とは、伊東正義氏のことで、(夕刊フジ<18年6月10日>「西郷隆盛伝説<25>」佐高信著)によれば、
大平内閣の官房長官として伊東が初入閣した時、タキシードの用意がなかった。それまではまったく必要がなかったからである。
大平君が、君はやらなくてもいいだろう、と言い、伊東も、ああいいよ、と答えて、みんなが就きたがる役職を求めなかった。
それで高島屋から五万円ほどでタキシードを借りることにしたのだが、、伊東は何と、
「この洋服はチンドン屋の洋服だ。キャバレーの呼び込みはみんなこの洋服を着るぜ」
と毒づいたという。また、三越で急いでつくってもらった燕尾服も一度着たかどうか。挙句の果ては、
「こんなもの着るんだったら、宮中晩餐会に行かない」と言いだした。
「人間に一等から何等まであるなんておかしい」と勲章を拒否し通したのも有名な話だが、それは死後も貫かれ、輝子夫人が、
「政治家として名誉とかにこだわらない人で、生前もさまざまな勲章をもらおうとしませんでした。死去後(衆院事務局から)打診がありましたが、本人の気持ちを尊重してご辞退申し上げました」と語っている。
(夕刊フジ<18年6月14日>「西郷隆盛伝説<27>」安岡系と四元系⑫佐高信著)によれば、
作家の石川好が「朝日ジャーナル」の1989年6月23日号で指摘したように、澎湃として起こった後継首相への国民的コールを、ガンとして拒否した伊東正義のガンコぶりは、この国の人たちを瞠目させた。
「伊東正義氏は、僕らに何を見せたのか」
こう問いかけて、石川は次のように答える。
「それは、金とポストだって、気にいらなければいらないという人間が、この世には居るのである、という単純な事実を見せつけたのだ」
取ろうとしても取れないポストを、上げると言ってももらってくれない人間がいることは、自民党の政治家たちを混乱させた、と石川は続けるのである。
(因みに、この<27>の最後に、こうあります。・・・いくら関係があったとはいえ、安岡正篤と細木数子を一緒にしては安岡ファンに叱られるだろうが、少なくとも、細木に自らの運命を占ってもらうような人にリーダーになってもらいたくはないだろう。・・・とあります。
さらに5月27日<15>には、こうあります。・・・こんな安岡も死の直前には正常な判断力を失い、いまを時めく細木数子に婚姻届を出され、安岡家がその無効確認を求めて調停を申し立てるという騒ぎを起こした。・・・とあります。)
●さて、結論に近づいてきました。
小泉首相は、「心の問題であり、参拝して何が悪い」と言っています。また周囲では「内政干渉だ」とも言っています。それは正しい論理かもしれませんが、でも何かおかしいと思います。
村上ファンドの代表、村上良彰氏が逮捕される直前に、東京証券取引所で会見を開きました。そのとき「もうけることは悪い事ですか?!」「私はたくさんもうけました」と言いました。
この両者の言い分に共通していることがあります。それは「参拝の仕方」であり、「もうけの仕方」を不問にしていることです。この両者の本音は「参拝して何が悪い!」「もうけて何が悪い!」です。これは日本の文化になかったことだと思われます。ほとんど喧嘩腰であり、開き直りであり、問題の大きさから考えますと「幼児性」が強すぎます。それが天下の公器であるテレビやマスコミで堂々と述べて、何の恥じらいもないのは恐ろしい事です。
どうやら「自民党」をぶっ壊したのではなく、日本の文化をぶっ壊したのかもしれません。毎日、信じられないような悲惨な事件が、次々と報道されている日本の現状は、驚く神経もマヒするほどの凄さです。
●彼らの言い分の中には、他者への配慮がまったく感じられません。参拝することが正しいのか否か、内政干渉か否かという議論をひとまず抜きにして、70年前を考えてみますと、中国や韓国がとやかく言いたい気持ちはよくわかるのではないでしょうか?
村山談話で「謝罪」したから、過去の過ちは綺麗サッパリなくなるものでしょうか?隣家に犯罪を犯して、刑期を終えて出てきたならば、隣家に一切の配慮が無くてもよろしいのでしょうか。
「心の問題」だからと、周囲に配慮せずに行動する神経は、果たして妥当でしょうか(集めたお金でどのようにもうけようと、何が問題ですかと開き直る姿勢は、果たして妥当でしょうか)。
読売新聞・夕刊(18年8月10日)の見出し「批判される理由ない」「15日参拝、首相改めて意欲」より
小泉首相は10日午前、自らの靖国神社参拝について「15日だろうが、13日だろうが、いつ行っても(中国などは)批判している。いつ行っても同じだ。日本の首相がどこの施設に参拝しようが、批判される理由はない」と述べ、終戦記念日の15日の参拝に重ねて意欲を示した。
また、「日本の首相が二度と戦争を起こさない(ため)、戦没者を哀悼するために、靖国神社に参拝するのは当然のことだと思う」と強調した。・・・・・とあります。
●<私(藤森)の結論>
国のために戦死した人をお参りしたいという当然のことを実行したいのであるならば、周囲に十分に配慮した上でお参りすべきではないでしょうか。
つまり、「過去の戦争では大変ご迷惑をおかけしました。そのことを十分に反省し、今後、二度とそのような過ちを犯さないことを誓うと共に、国家のために命を落とした方々をお参りすることは、是非、ご理解いただきたい」と重ねて頭を下げ、場合によっては、理解していただくために特使を送りながらも、「参拝する」という、この一点はいささかも曲げないという姿勢・・・・・自分の「信念」を貫くと共に、周囲への十分な「気配り」をすることこそが大人の姿勢ではないでしょうか。
「理念」と「現実」があります。「幼児性」が高いと、この両者を混同する傾向にあります。正しいか否か、あるいは個人の心の問題か否か、などの論理を一国の総理大臣が主張しても、それならば国益はどうするのですか?
国益と理念、あるいは個人の心情などを「総合」して、いかにあるべきかという課題が論じられるべきで、<日本の首相がどこの施設に参拝しようが、批判される理由はない>などという単純な論理でよいのでしょうか?
例えば、自分の子どもが学校でイジメにあっているとします。学校や教育委員会や文部科学省が問題だといくら大局的に正しい論理を展開しても、現実に自分の子どもが酷いイジメにあっているとしたら、まず何をなすべきかではないでしょうか。
●明治新政府が1869年に「東京招魂社」を創祀し、79年に「靖国神社」と改称しました。約135年前のことです。いわゆる戦犯を合祀してから、わずか28年です。この程度のことがうまく処理できない、あるいは最大限の工夫ができない首相が、中東和平の問題に対処しようとすること自体、「分」を弁えていないということにならないでしょうか。
私(藤森)の記憶では、先進国首脳会議が行なわれる前に、小泉首相がイスラエルを訪問。イスラエル首相と会談中、何度もイスラエル首相に、ヒズボラの戦闘に関するメモが渡されたそうです(こんな状況で、ジックリと会談できるのでしょうか?そういえば最近の小泉首相は、少々、間が悪いことが続いていないでしょうか。国会に提出した「女系天皇制」について議論している最中に、紀子様ご懐妊<おそらく男児?>のメモが渡せられました。また、終戦記念日に参拝しましたが、その直前に富田元宮内庁長官のメモ<A級戦犯が合祀されて、天皇陛下が参拝を中止にしたこと>が日本経済新聞に載りました)。
「日本の首相がどこの施設に参拝しようが、批判される理由はない」という程度の配慮・姿勢で、中東和平に関わることができるのでしょうか?まさか世界で最も複雑な中東問題を知らないという事はないでしょうが?
●日刊ゲンダイ(2006年8月1日)にふさわしい記事が載っていましたので、ここに転載させていただきます。
「世界はレバノンを見殺しにするのか」<ニッポン外交の迷走>天木直人著より
7月12日から始まったイスラエルの攻撃でレバノンが悲鳴を上げている。それでも世界は何も出来ないままだ。連日繰り返される戦争報道は決して問題の本質に迫ろうとはしない。だからこそ私は真実を語りたい。これは3年前まで駐レバノン日本国特命全権大使を務めた私のせめてもの責任である。
中東のあらゆる紛争の底に流れるのは1948年に始まったイスラエル・パレスチナ問題である。それはナチの虐殺から逃れて欧州から中東に移り住んだユダヤ人が、先住民であるアラブ人(パレスチナ人)と始めた、領土をめぐる宗教、民族紛争である。その限りでは双方ともに、欧米植民地政策の犠牲者であった。
ところが、この紛争は1967年のいわゆる第3次中東紛争を契機に大きくその性格を変えた。米国の軍事支援を受けて圧倒的に強くなったイスラエルが、弱者であるパレスチナ人を弾圧、追放するという不平等、不正義の戦いになったのだ。
パレスチナ問題の公正かつ永続的な解決はイスラエルとパレスチナの2つの主権国家の平和共存しかありえないことは誰でもわかるだろう。
ところが圧倒的に強くなったイスラエルはもはやパレスチナ国家の独立を認めない。それどころか抵抗するパレスチナ人とそれに味方するアラブ、イスラムの過激派を地球上から一掃することによってのみ自らの安全が確保できると信じるようになった。これでは平和が来るはずはない。
絶妙のタイミングで起こった9・11事件をきっかけに、米国とイスラエルは「テロとの戦い」を叫び、抵抗組織の壊滅作戦に乗り出した。アルカイダを追ってアフガン、イラクを攻撃し、アラファトを軟禁、病死させてPLOを分裂させた。
そして今、最後の抵抗組織であるヒズボラを叩き潰そうとしている。これが今回のイスラエルのレバノン攻撃の真相だ。だからこそ米国はイスラエルの攻撃続行を許している。あらゆる犠牲を払っても「テロとの戦争」に勝たねばならないのだ。
なぜ国際社会はこの暴挙を止められないのか。それはユダヤ人に国を乗っ取られた米国がイスラエルに味方し、圧倒的な軍事力にまかせて世界を黙らせようとしているからだ。
世界が米国に楯突いても仕方がないとあきらめつつあるからだ。しかし、果たしてそれで世界が平和になるのか?いま国際政治は21世紀最大の正念場を迎えようとしている。
<天木直人・・・・・元レバノン大使。1947年生まれ、京大法学部中退で外務省入省。イラク戦争に反対する公電を送り、小泉首相の対米追従外交を批判して「勇退」を迫られる。著書に「さらば外務省!」「ウラ読みニッポン」(講談社)など>
●①<イスラエル>
西南アジアのパレスチナにある共和国。地球上でユダヤ人が多数派の唯一の国で、地中海の東岸に位置し、北はレバノン、東はシリア、ヨルダン、南はエジプトのアラブ諸国によって取り囲まれいる。面積は2万1056平方キロメートルで四国と同じくらい。人口は650万8800人(2001年)。1967年の第三次中東戦争の際に、イスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区をヨルダンから奪い、さらにゴラン高原をシリアから、ガザ地区とシナイ半島をエジプトから奪った。その後、エジプトとの平和条約に従って1982年にシナイ半島の返還を完了した。
しかし、聖地として歴史的に重要な旧市街を含む東エルサレムと、シリアから奪ったゴラン高原の、イスラエルへの併合を宣言している。国際社会は、これを認めていない。
②<シオニズム>
19世紀末、ヨーロッパで始まったユダヤ人国家建設を目ざす思想おやび運動。シオンは聖地エルサレム南東にある丘の名。ユダヤ人がその地を追放されて離散の歴史をたどるという「旧約聖書」の記述中の「シオンの地」は、宗教的迫害を味わってきたヨーロッパのユダヤ教徒にとって解放への希求とあわさって象徴的意味をもっていた。
19世紀後半、帝政ロシアを中心に高まってきたユダヤ教徒迫害(ポグロム)の嵐のなかで、シオンの地という宗教的象徴性に「ユダヤ人」国家という現実的領土の概念を重ね合わせるシオニズムが誕生した。
③<ユダヤ人問題>
ユダヤ人に対する偏見、差別、迫害に関する問題。ユダヤ人への偏見や差別には、ほとんど2000年に及ぶ歴史があるが、ヨーロッパの社会とその歴史において複雑な様相をもって現われた。ユダヤ人問題の複雑さは、ユダヤ人の置かれた被抑圧的位置と、ユダヤ人が社会的、精神的にアウトサイダーであったことに起因する点が絡み合って生じたものと考えられる。日本で反ユダヤ主義と表記される反セム主義は19世紀の産物であり、古くさかのぼることのできる反ユダヤ主義、ユダヤ人憎悪とは異なっている。
<上記①②③は、ソニー電子辞書、OXFORDより転載>
●①<靖国神社>
東京都千代田区九段北に鎮座。1869年(明治2年)戊辰戦争の戦没者を招魂鎮斎するために、明治新政府により創祀(そうし)された「東京招魂社」がおこり。のち各府藩県で設けられていた地方の招魂社が廃藩置県以後、国家的な統制を受けるに伴い、中央の招魂社としての東京招魂社も正式な神社として整備が進められ、79年には靖国神社と改称、別格官幣社に列格した。陸・海軍両者の所管になるが、その管理は創建の由来からおもに陸軍省があたった。別格官幣社の制は72年に始まるが、国家的な功績のあった人を祭神とすることを特色とした。
②<靖国神社問題>
1945年12月にGHQが発した神道指令によって、第二次世界大戦前の国家神道は解体され、靖国神社も一宗教法人となった。しかし、遺族団体や神社関係者などを中心にして靖国神社の公的運営を求める動きが強まった。
こうしたなかで、自民党は、69年に靖国神社の国営化を目的にした靖国神社法案を国会に提出し、その後も提出を繰り返したが、同法案は74年までに5回廃案となった。その後、神社の国営化を求める諸団体は、「終戦記念日」の8月15日に首相の公式参拝の実現を通じて、神社の公的認知を図ろうとした。 1982年に発足した中曽根康弘内閣は、公式参拝に熱意を示し、私的諮問機関を設置して、この報告に基づくかたちで、85年8月15日に靖国神社への公式参拝を行なった。
しかし、首相の公式参拝は、日本が行なった侵略戦争を正当化する行為として、アジア諸国からの激しい反発を招き、翌1986年8月14日には、内閣官房長官後藤田正晴が、首相の公式参拝を見送るとの談話を発表した。それ以後、終戦記念日の首相の公式参拝は行なわれなかった。
2001年8月13日、首相小泉純一郎が参拝を行なったが公私の区別については明言していない。
③<国家神道>
神道の一形態で、近代天皇制国家が政策的につくりだした事実上の国家宗教。神社神道を一元的に再編成し、皇室神道と結び付けた祭祀中心の宗教である。王政復古を実現した新政府は、1868年祭政一致、神祇官再興を布告して神道の国教化を進め、神仏判然令で神社から仏教的要素を除去して、全神社を政府の直接の支配化に置いた。
71年、政府は全神社を国家の宗祀とし、社格を制定して、神社の公的地位を確立した。皇室の祖先神天照大神を祀る神宮(伊勢神宮)は、全神社の本宗と定められた。82年、祭祀と宗教の分離が行なわれ、国家神道は、非宗教、超宗教の国家祭祀とされた。
④<招魂社>
明治維新前後から国家のために殉職した人の霊を祀る神社。当初は招魂場とよばれて各地に祀られていたが、1875年招魂社の制が定められ、東京招魂社(後の靖国神社)を中心に整備されていった。1939年護国神社と改称。
<上記①②③④は、ソニー電子辞書、OXFORDより転載>
●恨みの連鎖はどれほど続くのか、よい例がありますので下記に転載させていただきます。
夕刊フジ(18年7月25日)「西郷隆盛伝説」北方政権の夢⑬、佐高信著より
戊辰戦争から130年の平成10(1998)年8月28日、秋田県角館町で「戊辰戦争130年in角館」という催しが行なわれた。主催は角館町。宮城県白石市長の川井貞一を間に“宿敵”の会津若松市長の山内日出夫と長州は萩市長の野村興兒が同席して討論をしたが、和解とは程遠い内容だった。
星亮一は『戊辰の内乱』(三修社)に「おそらく十年後にこうした討論会が開かれても、二十年後に開かれても、会津と長州が壇上で手を握り合うことは、ないかもしれないと思わせる山内市長の主張だった」と書いている。
この時、かなり思い切った発言をしたのが当時の秋田市長、石川錬治郎である。
「なぜ秋田藩が奥羽越列藩同盟から抜けたか、私は正しい判断をしたと思っております。江戸では西郷隆盛と勝海舟による無血開城で話がついているんです。ところがこの東北では白石に集まって同盟を結成する。最初は会津救済だった。秋田藩の藩論は最初から勤王か佐幕か、きちんと統一されたものではなかったが、最終的に勤王と藩論を統一した。
それは世のなかの、世界の、日本の流れを見極めた上で、日本にこれ以上の内乱を起こさず、庶民を犠牲にしないという判断に立って、秋田は正しい選択をしたのです。会津の方、庄内の方々に厳しい言いかたになるが、徳川のためではなく、世のなか、歴史の正しい新しい流れのために秋田は決断した。私はそう思っております」
そして、しかしながら「実は」と続けた。
「私の友人に会津出身の人がいるのです。彼は北海道大学農学部の教授をしているが、同窓の集まりがあって、彼とはよく飲む。すると必ず彼は、お前は裏切り者だという。私は、お前らは頑迷固陋で徳川の犠牲になったんだと、いつも口喧嘩をする。
すると彼がこう言う。薩摩、長州による武断的な明治維新は日本の歴史になにをもたらしたんだ。君は、秋田藩は正しい選択をしたというが、征韓論だとか日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、そして太平洋戦争、日本の近代の歴史は諸外国に対する侵略戦争の歴史ではないか。こういう政府が明治維新によってつくられたんだぞ、というのです。そうなると、秋田藩の選択が本当に正しかったのかと、いま考えているところです」
大日本帝国の侵略戦争に反対し、「小日本主義」を唱えた石橋湛山に傾倒する石川だけに、この反論は応えただろう。
星によれば、会場の参加者は皆、シーンとして聞き入ったという。
そして星はこう結ぶ。
「ということは、東北には、誰一人勝者はなく、皆、どこかに傷を受けたことになる。
それが東北にとっての戊辰戦争であった。
官軍となった秋田の場合も、心から喜べる明治維新ではなかった」
それにしても疵の度合いが深かったのは会津であり、市長選で長州との和解を主張した候補が落選したのは、そう昔のことではない。
|
最近のコメント