2006年6月15日第47回「今月の言葉」「鬼子母神について」
投稿日 : 2018年3月7日
最終更新日時 : 2018年3月7日
投稿者 : k.fujimori
2006年6月15日 第47回「今月の言葉」
(きしぼじん)
○「東洋の心を生きるいのち分けあいしもの」(大須賀発蔵著、柏樹社刊)より
<たとえ鬼のような女(ひと)であっても>
子を亡くした鬼子母の反省
雑司ヶ谷の鬼子母神は、戦火で焼けなかったために古いお堂がそのまま残っています。・・・・・・ところで、鬼子母神については、昔からの言い伝えがあります。それはお釈迦様がおられたころのお話です。もちろん一つの説話でしょうが、こんな話があるそうです。
一人の子どもをもったお母さんがいました。「鬼子母」という名前です。ところが、自分の子どもが弱いのでしょうか、その赤ちゃんを育てるために他人の赤ちゃんを奪い取って、そしてそれを食べることによって、おっぱいを出す。そのおっぱいを飲ませて自分の子を育てなければ、自分の子が育たない、というふうに、いわば思い込んだお母さんがいたのです。それで九十何人とか、よくわかりませんが、とにかく数知れないよその赤ちゃんを取って食べて、そしてそのおっぱいでもって自分の子どもを育てていました。
ところが、とうとう自分の赤ちゃんが死んでしまったのです。人の子どもを取って食べるような、まさに鬼のような心のお母さんも、しょせんは母親であり、自分の子どもを亡くしたときには、ほんとうに半狂乱になって歎き悲しみました。そればかりか、自分の子どもが生きて返ってくれなければ、自分は生きていく力もないというふうに思って悩みました。
そこまで悩んだときに、鬼子母は、お釈迦様という偉い方がいるから、そこへ行って相談してみたらどうだろうかということに気づき、仏陀のところをたずねました。そして、どうか死んだ子どもを生き返らせてください、と訴えるわけです。
私たち凡人だったら、「お前、なにいってるんだ。よその子どもを平気で食べるような、そういう鬼のようなお前が、自分の子どもが死んだからといって生き返らせてくれとは、あまりに虫がいいんじゃないか」と、そういう行動そのものを、善悪の判断で評価して対応してしまうのでしょうが、しかし、そのときに、仏陀はそうはしなかったのです。。「そうですか。それはほんとうに悲しいだろうね。じゃ、なんとか、あなたのお子さんをよみがえらせてあげましょう」といわれたのです。
ただ、そのときに条件をつけました。その条件とは、「町中を歩いて、そして肉親を亡くしたことのない、そういう家をたずねて、そこから芥子の実を一粒もらっていらっしゃい。それがあれば、あなたの赤ちゃんは生き返ることができますよ」というものでした。
それを聞いた鬼子母は、大変に元気が出てきて、町中を走り廻り、そして肉親を失ったことのない家をたずね廻りました。けれども、もちろんそういう家は一軒もありませんでした。
親を亡くしました、子どもを亡くしました、みなさんそういう悲しさをもった家ばかりだったのです。
鬼子母は、お釈迦様のところへ戻ってきて、「ずいぶん探しましたけれど、肉親を亡くしたことのない家はありませんでした」といって泣き伏しました。そのとき仏陀は、おそらく鬼子母の肩に手を置いて、「わかったでしょう」と、このようにいわれたのだと思うのです。そのとき鬼子母は豁然として、自分がやってきたことに気づいたのです。
そしてやがて、子どもを食べてしまう鬼のような鬼子母が、逆に子どもを守る神様になって“鬼子母神”といわれるようになったということです。そういう伝説があって、いま多くの人はその鬼子母神様をお参りしているわけです。
しかし、私がここで申し上げたいのは、鬼子母の心をほんとうに救ったのは、町中を歩いて、そして肉親を失ったことのない家は一軒もないんだ、だから自分も子どもを失うことがあるんだという、そんなわかり方だけではないように、私は思います。もちろんそういうわかり方が、鬼子母の心に届いたかもしれない。しかし、もう一つの前提があるように思うのです。
その前提というのは、鬼子母が子どもを失って半狂乱で助けを求めてきたときに、よいわるいの物差しで鬼子母を測って対応するのでなく、その悲しい心を、たとえ鬼のような女であっても一人の母親であり、子どもを失ったその悲しさにおいては紛れもなく深いものがあるという、その母親の気持ちをすっと受けとって、「それはさぞ悲しいことでしたでしょう」と受け入れた、その善悪を超えて鬼子母の心情をまさに、あるがままに受容した仏陀の心が前提にあって、そしてあのとき、鬼子母は自分の姿に気づく洞察が可能になったのだろうと思うのです。
そこのところを私は、つくづくカウンセリングや、エンカウンター・グループとか、そういうことを多く経験してみて思うわけです。
よいわるいの枠をはずして、その人の気持ちを理解し受容するということは、実際にはなかなか大変なことですが、それは新しい気づきや心を生み出していく貴重な母胎となるのです。
●このホームページを長年ご覧になっている方は、この大須賀先生のすばらしいお考え・掘り下げ方と、一般のカウンセリングや心理療法、あるいは前回のテレビ朝日の番組に出てくる専門家などの対応とがいかに違うかお分かりになることと思います。
日本だけではないようですが、心理・精神世界の専門家の対応がいかに間違っているか、この「鬼子母神」についての大須賀先生の革命的な解説でご理解いただけるものと思います。「右と左」「前と後」ほどの違いがここにあります。
私(藤森)自身の反省を込めてご紹介します。 |
<文責:藤森弘司>
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