2006年5月15日 第46回「今月の言葉」
「危機」と「自己成長」

●凄い番組が放映されていました。詳しい内容を説明しなくても、下記のタイトルを見るだけで、概ね状況が理解できるものと思われます。
 「壮絶!!非行少年に両親が激怒、<親をなめやがって>絶叫家庭バトルの瞬間・更生への道」(18年4月20日、午後4時53分~7時、テレビ朝日)

●始めと終わりは見ていませんが、15歳前後と思われる少年が非行により鑑別所行き。鑑別所から出てきた彼を、こういうケースを対応するベテランのカウンセラーと思しき女性が見守る中、自宅で、両親、祖父母が、タイトルのような壮絶な闘いを繰り広げます。
 当初は、少年も激しく抵抗しますが、ここに詳しく述べるのも辛いほど、両親は暴力的にやりあいます。最後はバケツの水を頭からぶっ掛けます。
 おばあさんは、彼のフトンを持ってきて、お前はもうここには住まわせないと、このフトンをビリビリに破ります。
 
●もうここまでと、ベテランで美人のカウンセラーが、彼らの間に割って入り、この少年をドスを効かせた口調で説得します。
 「お前よりも、両親のほうがどれだけ辛いと思うか!もうここには家族とは一緒には住めない。北海道の牧場で働くように」と言う。
 ここまで来て、初めて、この少年は泣きながら詫び、翌日、両親と共に北海道へ行くところまでを見ました。これ以上、私は、見るに忍びなかった。

●その時、20年くらい前の「戸塚ヨットスクール」を思い出しました。
 子供と真正面から向き合うことはすばらしいことです。しかも、父親が殴り倒すほど、子供に真剣になることは重要です。
 しかし・・・しかし・・・です。
 この少年は、家族と別れて北海道で、多分、更生し、表向きは社会人としてうまくやっていけるようになるでしょう。でも本当にそうでしょうか。
 この番組を、私は仕事をしながら見ました。しかも、初めから終わりまで見ていません。たまたまスィッチを入れたら、凄まじい状況が映し出されていたので、興味本位で見ただけですので、この番組に対しては詳しいコメントはしません。

●さて、表題に移ります。
 「危機」の意味を理解するには、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」が一番相応しいかもしれません。
 多くの方は「危機」を、「ピンチの後にチャンスあり」と理解していることと思われますが、本来の意味は「ピンチとチャンス」は同時に存在します(詳細は、前々回の「危機とは何か?」をご参照ください)。
 「虎穴」というピンチと、「虎児」というチャンスが同時にあるのであって、「虎穴」を通り過ぎると、安全地帯に「虎児」がいるのではないことに注目してください。
 
●「危機」も「自己成長」も、この点で全く同じです。
 先ほどの「非行少年と家族」の問題を考えてみます。鑑別所に入るほどの非行少年は、家族にとってはまさに「危機」です。両親も辛いし、祖父母も弟も辛い思いをしています。
 しかし、この少年は何故、非行に走ったのでしょうか?多くの場合、この「問題」が欠落しています。

「因果応報」という言葉があります。
 「結果」というものは、決して一つの「原因」だけによるものではありませんが、そこに「結果」がある以上、その「原因」があることは絶対に間違いのないことです。
 この少年が非行に走ったということは、多分、よくない友人がいたことでしょう。また、先生の指導も、もしかしたら不十分であったかもしれませんし、現代社会の歪みかもしれません。24時間営業のコンビニや、簡単に購入できる酒類の自販機やカラオケなど、少年を悪に誘惑するものが多いのも問題かもしれません。
 しかし、こういう色々な歪みをもった社会の中で、私たちは皆、四苦八苦しながらも、なんとか「道」を外さず生きています。そして多くの少年たちも、まあまあ何とかまともな人生を送っています。
 少年を誘惑するような歪んだ機会は多くの少年たちに、ほぼ平等に存在しながら、何故、この少年はこれほどの「非行」に走ってしまったのだろうか?
 ここが「キーポイント」です。

●目に見えない部分も含めると、この番組の家族だけではなく、ほぼ全ての家族に「育児=親子関係」に同様の「歪み」や「ねじれ」が存在するものです。目に見える部分や社会的な悪行だけが非難されがちですが、「深層心理」の立場からこの問題を考察してみると、私たちは、皆、同様に「育児」や「親子関係」に関して未熟であり、種々様々な問題を内包しています。
 そういう意味で、この番組のご両親を特別に非難するのでは決してありません。私(藤森)自身を含めて、全ての人間の反省としてこの問題を振り返って見たいと思います。

●今、この家族は、まさに「危機的状況」にあります。この「危機」を乗り越えた後に、「自己成長」の良いチャンスがやってくる、つまり「ピンチの後にチャンスあり」と考えて、カウンセラーを含めて、この少年に厳しい体験をさせて「更生」させようとします。
 しかし実はこの姿勢、この理解こそが問題を歪め、そして本当の「自己成長」のチャンスを潰してしまっています。
 「ピンチの後にチャンスあり」ならば、このカウンセラーの対応は正解ですが、「ピンチ」と「チャンス」は同時に存在している、つまり「危機一如」の考えからすると、対応は全く違います。
 多分、この少年は一時的には「更生」するでしょう。
 しかし、何かの条件が整ったとき、例えば、悪友に誘われたとか、仕事をミスして上司にひどく叱られるとか、失恋したりしたときなどに、いわゆる「再発」する可能性は高いです。
 仮にこれらの障害をうまく通り抜けたとしても、自分の子供を育てるときには、同様の育児ミスを犯してしまうものです。
 いずれにしてもこのような対応は、種々様々な「原因」の「結果」として現われた「非行という症状」を、「悪」として「治療」しようとする「西洋医学」的な発想(症状は疾病である)であって、これは「自己成長(根本治療)」のチャンスを逃す、非常に残念な対応ですし、この少年が可哀そうでなりません。

●ここには「何故、この少年が非行に走ったのか?」という課題が全く問われていません。単に「結果」として現われた症状(症状は疾病である)を治療しようとしているだけです。
 「原因」のない「結果」というのがあるでしょうか?
 決して原因は一つだけではありません。非常に多くの事柄が関係していることは間違いありません。
 しかし、多くの事柄は、他のすべての人たちにも、程度の差はあれ関係しているものです。そうすると、一人の少年に固有に関係している事柄は何かということになれば、決定的に言えることは、両親の存在です。
 いいか悪いかという問題ではなく、一人の少年が他の少年と違う「固有の事柄」といえば、両親の個性、性格傾向、つまり「人格」の違いです。

「症状は療法である」
 聞くところによると、これは「医聖ヒポクラテス」の言葉だそうです。私(藤森)が言いたいことはこの言葉に凝縮されています。
 「症状」が「療法」であるならば、「症状」は「結果」ではなく、「原因」を「治療」するために「活動している状態」、つまり「治療中」を意味します。
 例えば「発熱」は、白血球がウィルスと闘うときに起きますから、「解熱」の薬を処方することは、ウィルスと闘っている「白血球」の活動を「阻害」してしまいますので、根本的に間違っています(ただし、「高熱」の場合は、「大脳」に危険ですので、「解熱剤」は有効です)。
 
●この発想「症状は療法である」は、「心理療法」や「自己成長」に非常に有効であり、示唆的です。
 少年が「非行」に走ったということは、苦しい胸の内(影)を抱えきれなくなって、無意識のうちに「症状化」した(させた)ものです。つまりこの「苦しさ」を「解決」して欲しいという「魂の叫び=悲鳴」を意味します。
 それをますます責められ、攻撃され、家族から引き離されて、「悲鳴」を抑圧させねば「存在」できない少年の心は、どんなに切なく、悲しく、寂しいことでしょう!!
 その「悲鳴」が私(藤森)には強く響いてきます。
 「心理・精神的なもの」は目に見えないために、「宗教」や「心理学・心理療法」や「自己成長」などの分野は、本当に恐ろしい世界で、恐ろしいやり方ほど「大手」を振って歩いています。「効果」が疑わしいものであるならば、いくら存在しても大して問題になりませんが、「逆効果」、つまり「悪化」させるものが多いのには驚かされます。
 何故そうなるかといいますと、「心理学、心理療法」の世界までもが、西洋医学的な発想(症状は疾病、つまり症状は治療すべきもの)になっているからです。心理学を少し勉強すれば「生育暦」・「幼時体験」が重要であるという「情報」は、誰でも簡単に入手できることです。
 故・池見酉次郎先生(日本の心身医学の創始者)は、「防衛」のことも知らずに「心理」的な対応をしていると批判していましたが、「生育暦」や「防衛」は、カウンセラーなどの「心理的専門家」の常識であるはずなのに、このことが全く意識されていないか、曲解されてクライエントの方が「対応」されていることが多い現実には唖然とします。

●さて、先ほどの少年の話に戻します。
 家族に迷惑を掛ければ掛けるほど、実は、少年の苦しさは大きいことを意味します。
 風船をドンドンふくらませると、やがて「破裂」するように、少年が苦し紛れにジタバタすることに両親が対応し切れなくなると、「影」が表面化され、「症状化」されます。
 例えば、毎日、学校へ行く前にゴタゴタする子がいるとします。両親は、毎日、学校に連れて行ったり、先生に相談したり、カウンセラーに相談したりします。身体症状を訴え始めると、医者に行かせたりもします。
 あの手この手を使って、何とか学校に行かせようとしますが、やがてにっちもさっちもいかなくなったころに、それまでのゴタゴタが、「不登校=登校拒否」という形で「表面化=症状化」します。
 それまでは家族が誤魔化し、誤魔化し、「症状化」するのを防いできたはずです。ですから誤魔化し切れなくなるという「危険」な状態こそが、本当の対応=本当の解決=自己成長の「ビッグチャンス」になります。 

<文責:藤森弘司>

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