2006年3月15日 第44回「今月の言葉」
危機とは何か?

●東洋と西洋の違いに、「一」と「二」があります。
キリスト教的な世界は、絶対的な存在として「神」があり、それに対して「自分」があります。そのために矛盾する二つの存在を別個のものと考えますが、東洋では矛盾と考えずに、同時に包含して考える傾向にあります。

●例えば、「表・裏」がそうです。表と裏という相矛盾する二つのものがあると西洋では考えますが、東洋では「表裏一如(一緒の如く)」と考えて、別個のもの、二つのものとは考えません。
 「表裏」は、表と裏という二つのものであるという西洋的な考えは、多分、皆さん理解されていることと思います。
 では「裏」のない「表」というものが存在するでしょうか?同様に、「表」のない「裏」が存在するでしょうか?「裏」とは、常に「表」が同時に存在するもので、「不即不離の関係」にあります。両者は同じではもちろんありませんが、しかし、本来の二つのもののように別個に存在するものでもありません。

〔広辞苑によりますと、不即不離とは、①二つのものが、つきもせず離れもしない関係を保つこと。②<仏>例えば生死(しょうじ)と涅槃(ねはん)のように二つの概念が矛盾しつつ背反しないこと。現象は異なるが本体は同一であること、とあります。〕

●これから本題に入りますが、私は不勉強で、哲学というものを知りません。多少、哲学的なことがわかるとしたら、それは「禅」の精神を少し学んだ(体験した)ことの応用程度です。
さて、表題についてのすばらしい解説を発見しましたので、まず「危機」についての西洋哲学的な解説を紹介します。「月刊・織本 1月号」(医療法人財団・織本病院・清瀬市旭が丘1-261発行)の中の、「医療費削減許すまじ」理事長・名誉院長の織本正慶先生(胸部外科手術の世界的な権威)が書かれたものをご紹介します。

 ・・・略・・・
 ピンチとチャンス・・・ところでピンチ(危機)というものはチャンスを生み出す契機にもなる。それは私が五十年の病院経営の中でじかに体験したもので、何らかのピンチがきた時に、それをチャンスに転ずることがある。ピンチというのは何も経営上のものだけではなく、自分の心の中にもピンチあるいは悩みが生じた時に、それを契機として自己改革というチャンスが訪れる。
 織本病院五十年史の中に書いたが、ある若い結核の女性が何処かの病院で手術を断られて私のところに来たことがある。(四十年前の話)その女性の左肺には結核病巣があり、右の肺には更に大きな空洞があった。
 ともかく右肺の空洞に対して手術をしなければならないが、肺機能(肺の能力)を計ってみると胸郭形成術(肋骨を七本とって空洞を圧迫する手術)をするには呼吸能力が少なすぎる。要するに手術をしなければならないが、手術をするには肺の機能が悪すぎるのである。
 だが手術によって空洞を処理しなければ、この女性は三年以内に必ず死亡するだろう。そうなると従来のように肺機能に大きな影響を与える手術ではなくて、あまり肺機能に影響を与えないで結核空洞を潰すという新しい手術術式を考えねばならない。
 そこで考えたものが「一次的閉鎖の空洞切開術」という新しい手術術式であった。そうしてこの手術によってその人は後年結核から解放されることになる。この一次的閉鎖の空洞切開術という術式は日本胸部外科学会は無論のこと、メキシコで行なわれた国際胸部疾患学会で報告し、更にコペンハーゲンで行なわれた第十二回国際胸部疾患学会では十六ミリの手術映画を上映した。
 結局この「一次的閉鎖の空洞切開術」は私のライフワークになった。
そんなこともあって私は自分の人生においてもピンチを契機としてチャンスが訪れるという考え方になった。ピンチは外面的にもあるが、内面的な自分の心の中にもあることは既に述べた。その心の悩みをピンチと意識することがチャンスを迎える契機になる。
 最近、透析センターで夕方お茶を飲みながら皆で話をするが、その中で私は自分の心に響く誤りを知ることもあり、それがヒントになって新しく考えることが多い。それは自分にとっては一つのチャンスと考えている。
 又、人との交わりの中でも自分の心の中のピンチを知り、チャンスに転ずることもある。これは

 ピンチを矛盾としてとらえ、その矛盾を契機として一歩高い段階で解決するという意味であり、これはドイツの哲学者ヘーゲルの用語で「止揚」(アウフヘーベン)という言葉に当てはまる。

「危機」について、ヘーゲルの哲学用語を使っての大変わかりやすい説明で、多分、多くの人たちが、程度の差はあれ、概ねこのような理解・・・「ピンチの後にチャンスあり」と理解していることと思われますが、これは実は西洋的な発想なんです。西洋的な発想の上ではこれは正解ですが、日本語で「危機」と表現した場合、この解釈は違ってきます。
西洋的な発想に対して、東洋では驚くべき展開をみせます。そもそも「危機」という言葉には驚くべき意味が含まれているのです。「表裏一如」と同じ発想で、「危機一如」と言ってもよいかもしれません。
では「危機」とはなんでしょうか。

●「危機」の「危」は「危険の危」で、まさに「ピンチ」です。
 ところが驚くことに「危機」の「機」は「機会」を意味します。つまり「チャンス」です。
 これは何を意味するかといいますと、

 「危機」とは、「ピンチ・チャンス(危機一如)」であって、「ピンチの後にチャンス」があるのではありません。つまり「ピンチとチャンス」は同時に並存しています。
たびたび述べていることですが、私(藤森)は浅学非才の身ですので、的確にピシャッと納得できるうまい表現ができない欲求不満が毎回あります。今回も、表現に四苦八苦していましたが、二十数年前に読んだ池見先生の著書の中から下記の文章を探し出すことができて、やっと溜飲が下がりました。

「心身セルフ・コントロール法」池見酉次郎(心身医学の創始者で元九大医学部名誉教授・故人)著、主婦の友社刊

<心身一如の真意>

この学会(筆者注:昭和五十二年の京都の第四回、国際心身医学会、池見先生は大会会長)の冒頭に、当時の理事長であったライサー教授が、「東西の医学の出会いの場としての心身医学」というテーマで講演をし、その結びとして、次のようなことを述べました。
「心身医学では、心身一体ということが強調されるが、実は、米国の医師たちは、この考えには、抵抗を覚えるというのが本音である。デカルト流の心身二分論は、スピリット(魂)は、体から離れたものであるとする宗教的な伝統と関係しており、これは『不死でありたい』という、われわれのひそかな願望を支持するものである。従って、心身一体の考えに徹することは、不死への望みを断ち切ることになる。東洋の医師たちには、心身一如の考えが、このような意味での脅威にならないとすれば、われわれは東洋の友から多くを学ばねばならない」。
その直後に、私が、次期理事長として、これに呼応する形での講演をしましたので、その要点を、次に紹介しておきましょう。
デカルトの「我思う、故に我あり」として、人間の知性のみを重んじ、その情性や肉体をさげすんだ、物心二分・心身二分の哲学をもとに、物質偏重の現代文明が発展したところに、現代の世界的な危機の根っ子があるといえましょう。また、この考えが医学に持ち込まれたところに、今日の人間機械論的な医学の源流があることは、これまでにも述べてきた通りです。
ライサーは、西欧流の宗教(キリスト教)の立場から、霊魂不滅(体は死んでも魂は生き残る)の考えにしがみつこうとしています。これも、実はキリスト教の教義の真実をはき違えた考えであり、もともとキリスト教でも、人間の心と体を分けて、体は死んでも心は生き残るというようには教えられてはいないはずです。そのような心身二分の考えをキリスト教に持ち込んだのは、デカルト流のギリシャ哲学であり、かつてキリスト教の教義をギリシャ哲学によって解釈した段階で、このような勘違いが起こったといわれています。
日本人による日本人の哲学として有名な西田哲学では、心身一如という場合、人の心と体の関係は、仏教で説かれるように二にして不二、不二にして二とされています。心と体は、有機的に相通う相互媒介的な面を持つと同時に、心と体はそれぞれの働きについても、それぞれに対する研究法についても、はっきりと区別しなければならない相互否定的な側面をも持っているという事実を忘れてはなりません。
これは、人間の体を構成する諸器官(心臓と肺など)同士についてもいえることです。全人的な医療といっても、方法論としては、相互否定的な方法をも必要とすることをしかと心得たうえで、心と体の相互媒介的な面も考えて診療すべきものです。

「危と機」はこのような、「二にして不二、不二にして二」の関係です。
私(藤森)自身が長い間、勘違いをしていて、「危機」という言葉が「危険」だけを意味していると思っていましたが、「危険(ピンチ)」と「機会(チャンス)」の両者を包含している言葉だと知ってビックリしたことがあります。
私たちは「危険」を「いけないもの」、「危ないだけのもの」、「避けるべきもの」だと思いがちです。しかし、私たちの成長していくプロセスは、「危険」だらけです。1~2才で歩くことを覚えれば、「転ぶ危険」が常に付きまといます。道端で転ぶと、ケガをしたり、車に轢かれる危険があります。
母乳から離乳食を覚えれば、腐ったもの・毒物やビーダマなどを飲み込む危険があります。幼稚園の送り迎えから、一人で小学校に通うようになると、交通事故に遭ったり、池や川に落ちたり、不審人物に遭遇する危険が増大します。
より良い学校を受験しようと思えば、不合格になる危険が増します。ナイフや包丁を使えるようになれば、ケガをするかもしれないし、喧嘩に使えば、恐ろしいことになりかねません。車の運転免許は交通事故の危険が増大します。
子供が成長していく過程は危険だらけで、ハラハラ・ドキドキの連続です。もしこれを過干渉・過保護の親が、ナイフを使わせず、木登りをさせず、川や池の近くに行かせないような育て方をしたならば、どのような人間になるかはすでに実験(?)されています。いかに腑抜けの男になるかです。
私の長男が幼稚園のとき、「親子で製作」の時間がありました。段ボール箱とガムテープを使って、思い思いのものを作ったのですが、そのとき、他のすべての幼児が、ガムテープを手で切れないのには驚きました。ナイフも使えません。少子化で、いかに親が、子供の領域に侵入しているかがよくわかりました。
確かに、いろいろな「危険」を避けることができるでしょうが、非常に重要である「成長する機会(チャンス)」を妨げてしまいます。その時、その時に必要なことを訓練しておかないと、単に問題の先送りというだけのことではなく、もっとも本質的な「人間性」をダメにしてしまいます(今、社会のいろいろな悪い現象の多く・・・例えばニートや犯罪の低年齢化などは、このことからきていると私は見ています)。
つまり、常に「危険を冒す」ことと「成長する」ということは、「コインの表と裏」の関係にあります。これが「危機」の本来の意味です。
 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」は、まさに「危機」を表わしているのではないでしょうか。また同様の表現方法に「剣禅一如」「茶禅一味」「心身一如」「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」などがあります。

●カウンセリングなどで、クライエントの方をお世話する場合、ご本人が悩んでいる事柄は、実は迷路に入ってしまって、状況を客観的に見ることができなくなっている場合が多いものです。
また私たちの人生で、「苦しい」とか「辛い」とか、「困難」な状況に直面したとき、私たちは「解決困難な状況」であると認識しがちです。私自身、数限りの無い「困難な状況の中」を生き抜いて来て、我ながら「還暦」までよく生きて来られたとしみじみ感じる今日この頃です。
しかし、この年まであらゆる「艱難辛苦」の中を通り抜けて来ますと、そして若干の「禅」の精神を通して考えて見ますと、「苦しい」「辛い」「困難な状況だ」などと日常、思ったり感じたりすることのほとんど全ては、実は、自分の頭の中、つまり「大脳」の中で単に行き詰まっているだけであって、状況そのものが行き詰っているのでは決してありません。
だからこそ、豊富な人生体験や種々の修行体験が生きてくるのです。●私たちは、生まれてから現在まで、自分らしく自由に生きてきたと、おそらく多くの方が思われるでしょう。しかし、違うのです。

 実は、私たちは、それぞれ自分が持っている細い一本の曲がりくねった道を生きているものです。これをご理解いただくには、「交流分析」の「人生脚本」(今ここでは、詳しい解説は省略しますので、「今月の言葉」の第1回「脚本」をご参照ください)という専門用語の理解が必要です。
 また、長年のカウンセリングを通して、多くのクライエントの方をお世話してきた臨床経験や、私自身の人生を振り返ってみて、この「人生脚本」の概念は百パーセント正しいといえます。
 私たちは、「人生脚本」という「細い一本の曲がりくねった道」を生きているのだといわれると、誰でも「えっ!」と思われるでしょうが、ひとまずそのまま、そうなんだということでご理解ください。

●さて、私たちが「辛い」「苦しい」「困難な状況だ」と思う日常のいろいろな事柄は、実は、自分の「細い一本の道路上」での行き詰まりを意味しているだけのことなんです。
 ですから人生に行き詰るということは、「細い一本の生きづらい道」から、「より生きやすい新たな道」を発見して、より良く、より自由に生きる絶好のチャンスなのですが、残念ながら、私たちは行き詰らないと、「より生きやすい道」を探したり、乗り換えたりすることが極めて困難、というよりもほとんど「不可能」と言っても過言ではありません。
 何故困難かといいますと、長い人生体験の中になかった未知の生き方を模索することは、大いなる恐怖や危険を感じるものです。自分の歩んでいる人生が、いかに生きづらい困難な道であっても、その道は「長年通いなれた道」ですから、苦しくても辛くても、困難なりに、要領がわかっている歩きやすい道なのです。

●さて、私たちが人生の生き方を変えるということが何故、困難なことかを「心理学」的に解説すると、それは・・・・・「劣等感コンプレックス」であったり、「プライド」であったり、「恨み」や「怒り」、「嫉妬」や「へそ曲がり」などの性格が困難にさせています。
 私たちは皆、自我が未成熟です。未成熟な両親に育てられているので、それは当然のことです。このことは、両親を責めるということではなく、事実としてそうです。
さて、その未成熟な両親に育てられていますので、当然、私たちも自我が未成熟です。そのために、未成熟な自分を支えるために、上記のような種類のものにしがみついて生きているものです。
私たちのほとんど全ては、職業に関係なく、社会的な地位や立場や名声に関係なく、自分を変えること、本来の「自己成長」を遂げるということは、極めて困難なものです。
多くの場合、職業や社会的な地位や立場、業績や功績、いろいろな賞や勲章を受賞したなどが人格と一致しているかのごとくに思われていますが、むしろこれらのものと人格とは、往々にして反比例の関係にあると言えます。何故なら、社会的に評価されるということは、非常に多くのものを犠牲にしなければならないはずで、それは主として「家族」です。
この章については、いつかまた機会を見て、詳しく解説したいと思います。

<今回の結論>本来の意味での「自己成長」するには、人生に行き詰ることは必須な条件です。つまり「人生に行き詰る=危険」だからこそ、「自己成長=機会(チャンス)」ができます。人生に行き詰っている事を解決することが、自己成長そのものです。
「不登校」や「ウツ」などを解決するということは、今までの人生の生き様を反省することであって、生き様を反省する事は、単に「不登校」や「ウツ」になる以前の状態に回復するというだけのことではなくて、本来の生き生きとした自分を回復するという、
大いなる自己成長が遂げられることを意味します。これが西洋医学との大きな違いです。

<文責:藤森弘司>

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