●(1)現場力(げんばりょく=職人)とは何か?
さて、3回にわたってメディアに掲載されたものを中心に述べてきましたが、これから私が考える「現場力」について述べたいと思います。
●(2)物事をより良く理解するためには、相反するものと比較しながら検討するとわかりやすいので、「現場力」、つまり「職人」に対して「学者」を置き、両者の定義を仮に、下記のようにしてみたいと思います。
①「学者」とは・・・・・テーマに対しての優れた学識・認識があり、そのことを文字や言葉で適切に表現できる人のことで、その内容は「抽象的」であり「一般的」であり、大脳が中心です。
②「職人」とは・・・・・特定のテーマに対して、適切に文字や言葉で表現できなくても、「具体的」に体現できる人・・・つまりそのことをすることができる人のことで、手・足などの体が中心です。
●(3)では①の「学者」とは、具体的にどういうことでしょうか。
例えば、野球のコーチや監督は「学者」的だと言えるのではないでしょうか。それに対して選手は「職人」です。コーチが「手首を返す」「ヘッドを下げない」などと言っても、それは何センチ何ミリだとは指示できないでしょう。
その時、その時の球種や姿勢や球のスピード、球の高低や内角・外角などの違い、それも同じ内角でも中心から何ミリなのか、何ミリ外側なのか、何ミリ高いのか、何ミリ低いのか、これらを全て計算したら無限大の数になるのではないでしょうか。
これらの「全てを満たす指示」を出す事は不可能です。結局、指示というものは、かなりアバウト(抽象的)なものです。これを職人である「選手」が、1球、1球のボールに対して、具体的に対応できるように練習する、つまり手や足を活用して「具体的」に体現しようとします。
●(4)プロゴルフで有名な女子選手に、これまた有名なお父さんがキャディとして付いて、その都度、指示やアドバイスをしています。それではお父さんのほうがゴルフがうまいのでしょうか?もちろん、女子選手のほうがゴルフの腕前は数段上でしょう。
これなどはまさに、「学者」と「職人」の違いを明確にしてくれます。
●(5)小学生のサッカーの試合を見ていると、観戦している父親や母親は、子供のプレーに、半分怒りながら「ああやれ、こうやれ」と興奮して、叱咤激励というよりも「罵声」に近いものを投げかけます。
ところが、いざ、一年の初めの親子初蹴り試合をすると、親の側のほうがまるっきり歯がたちません。実際にやってみると、下手な親が何故、うるさく指示を飛ばせることができるのでしょうか。
これは子供が選手、つまりサッカーの「職人」(まだ下手であっても)であり、口うるさい親は「岡目八目」で、「学者」的だから言えるのではないでしょうか。
これとは逆に、サッカーや野球が非常にうまい選手が指導する場合は、「職人」が「学者」的な位置で指導しているといえます。
しかし、往々にして、うまい選手(職人)の指導は、学者的な練習がなされていないために、指導があまり上手でない場合が多いのではないでしょうか。選手の指導が評判がいいのは現役選手に指導してもらう栄誉に感激しているのであって、多分、指導の仕方・内容はコーチや監督のほうが優れている可能性が高いものと思われます。
野球や相撲などの引退選手がテレビ放映の解説をする場合、存在感をなかなか出せない事があります。これなども職人としての実力があっても、解説者としての学者的な練習がなされていないために、頭ではわかっていても、表現が適切にできないのではないでしょうか。
●(6)さて、「学者」的であっても、「職人」技術に優れている人もいますし、「職人」的であっても「学者」的な表現が上手な人もいます。
純粋に「学者」だけ、「職人」だけの能力ということは常識的に考えて無いといって良いでしょう。主として軸足をどちらに置いているか、あるいはどの程度、両者のバランスが取れているか、否か、この辺りをしっかり認識することはとても重要なことです。
誰でも、当然ですが、完全ということはありません。学者的な部分が苦手であればそれを自覚し、職人的な部分が苦手であればそれをしっかり自覚して、苦手な分野については無理をしない、背伸びをしないことです。
●(7)このように述べれば至極当然なことであり、当たり前のことですが、「心理・精神世界」は見えないために、実はこれがメチャクチャになっています。
学者的な分野、つまり心理学を十分に学んできたという場合に、その心理学における「職人」的な分野も上手に実践できるものと錯覚されているケースが非常に多いです。多いというよりも、イコールであると思い込んでいるかのようです。
それがために「心理・精神世界」は、ほとんどムチャクチャな状態だと言っても過言ではありません。いやむしろそういう専門家のほうが優れているとさえ思われているようです。見えない世界ですので、その証拠を即座に示すことができないために優れた理論家が、優れた職人技術があるように、本人も一般の人も錯覚してしまっています。
●(8)卑近な例で、さらに説明しましょう。
年取った親と一緒に生活した方は理解できることだと思いますが、毎日毎日、同じことをグチャグチャ繰り返し聞かされていると、少し話し始めるだけで、「もういい加減にしてくれ!」という気持ちになってしまい、年寄りのグチを聞いて上げようなどという優しい気持ちは吹っ飛んでしまいます。
ところが1~2ヶ月、あるいは2~3ヶ月に1度来るだけの娘は、最後まで気持ちよく聞いてあげられます。するとどうでしょう。なんと優しい娘よ、それに比べ、この嫁は!ということになります。
「大変でしょうけれど、おじいちゃんは淋しいので、話し相手になってあげてね」などと、娘はいいます。
この場合も、娘は「学者」的で、嫁は「職人」的だといえるのではないでしょうか。何故なら、毎日一緒に生活して苦労している嫁は、「職人」的に、イライラしながらも実際に対応しています。
これに対して、娘は、たまに顔を出して評論家的に奇麗事を述べればそれで済みます。つまり言っていることは正しいのですが、それをやることがどれほど大変なことかを理解していません。
●(9)同様なことで、カウンセリングでよくあることですが、子育てで苦労しているお母さんに「子供さんが可哀想ですから、ガミガミ言うのを少し控えて、優しく接してあげてくださいね」などということも同じ事です。
「優しく言うように」とアドバイスすることは正しいことですが、これは「学者」的な対応です。いくら正しいとはいえ「優しく言う」ことがどれほど難しいことかを、「職人」的な訓練を積んでいない「学者」的なカウンセラーは理解できませんので、一言、ケロッと言います。
しかし、実際に取り組んでみればわかることですが、イライラする子供に対して、優しく言えるようになるには、その一言に対して何年も何年もかかることです。
また、優しく言えないからこそ悩んでいるわけです。どうすれば優しくなれるかという指導が一切なされずに、ただ単に「優しく接してあげてください」と言われたのでは、そうできない自分に対してさらに自己嫌悪に陥ったり、罪悪感に襲われたりしかねません。
ということは、専門家がクライエントの方をさらに苦しめていることになります。
●(10)スポーツでも武道でも、茶道でも華道でも英会話でもなんでもそうですが、専門家のチョッとしたアドバイス、ホンの一言のアドバイスが体現できるようになるために、何年も何十年も練習します。
そして、このホンの一言を発する専門家が、果たしてこのアドバイスのように自分ができるのでしょうか。「優しく」という専門家が、実際に自分の子供に「優しく」できるのでしょうか。
おじいちゃん、おばあちゃんが、毎日毎日、同じことをグチャグチャ、クドクドと話す話を優しく聞いてあげられるのでしょうか。それができる自分になろうとするのが「職人」であり、そういうアドバイスさえできれば良いと考えるのが「学者」です。
もちろん「学者」ではあっても、「職人」的に、そのようになろうと練習する「学者」はもちろんいるでしょう。
「学者」が「職人」的な練習をすることもあれば、まれに「学者」を止めて、「職人」になることもあるでしょう。また、「職人」であっても、「学者」的な能力に優れている人ももちろんいます。
●(11)恐らく、全ての分野で、「学者」的なのか、「職人」的なのか、多くの人にその区別はつくことと思います。
ところが「心理・精神世界」は見えない世界を対象としていますので、その区別がつかないどころか、とんでもない間違いがなされています。それは「学者」的に研究したり、本を書いたりしてその分野に詳しくなると、それができる専門家(職人)であると本人も、周囲も錯覚してしまうことで、実に不思議なことです。
経営評論家が実際に会社を経営してもうまくいかない。また、文芸評論家が詩や小説を書いても、うまいものはできないと言われますが、これは換言すれば、「学者」と「職人」の違いと言えるのではないでしょうか。
●(12)ここに良い例があります。
日本に入ってくる広い意味での「心理学」の多くはアメリカからです。このアメリカという国は、日本の真反対と言ってもよいほど、国柄の違いがあります。
心理学では「両極は相通ず」といいます。日本とアメリカは両極に位置するからこそ、案外、うまくいっているのかもしれません。
さて、そのアメリカを中心に、日本には非常にたくさんの「心理学」が輸入されています。そしてそれぞれの「心理学」は、当然のことですが、その国柄を反映して作られています。決して、日本人に適するように工夫して作られていません。
ところが、私が知る限りでは、ほとんど全ては、その国柄を反映した「心理学」をそのまま日本語に訳しただけのものが使われています。それでもまだその分野の専門家が翻訳したものであるならば、多少でも良いかもしれませんが、英語ができるというだけのいわゆる翻訳家が訳したそのままを使っている場合さえもあります。
考えてみますと恐ろしい話です。何故ならば心理学は素人であり、さらに日本文化に「(創作するほどの)意訳」がなされていないのですから、恐ろしい話です。
そして専門家もそれを学ぶ一般の人たちも、こういうことにほとんど全く、疑問すら抱かず、また、このような議論をすると、納得するどころか、反撃さえされかねません。
今までいくつかのところでこの種のことを言ってきましたが、ほとんどまったく通じませんでした。
●(13)今、ここに典型的な例を提示します。
今、多分、日本では最も多くの人たちが興味を抱いているであろう心理学に、「交流分析」という「心理学」があります。
今から、約35年くらい前に、日本に導入されました。ご多分に漏れず、単に英語を日本語に訳しただけの心理学でした。
当事、九州大学医学部で故・池見酉次郎先生が日本に初めて「心身医学」を創始して、「心療内科」・・・心と体の両面から診療していました。
この「交流分析」の理論を「心療内科」に来る患者さんたちに適用してみましたが、うまくいきませんでした。そこで元の「交流分析」を大改造して日本的に作り上げたのが、あえて言えば「九大式交流分析」です。
これはかなり高度かつ豊富な情報を有していますが、おそらく日本中の過半数の人たちは、アメリカ式、単に英語を日本語に訳しただけの非常に底が浅く、日本人にはやや不適切な「交流分析」を学んでいるはずです。
臨床心理士もまったくこの程度の資格であって、それが最高の資格と思われているようですが、むしろその資格を有する本人たちが現場で悩んでいると思われます。臨床心理士の資格制度を設けた中心人物が、最高のアカデミックな世界に存在する人なので、「受験資格を最高難度にしただけ」のもので、心理臨床の世界はそんな程度で対応できるほどやわなものではありません。この資格の聞こえは凄いものがありますが、現実にはほとんどオモチャ程度に過ぎません。
●(14)では何故このようなことが発生するのでしょうか。
それは私(藤森)流に言えば、「学者」と「職人」との違いからきます。英語を単に日本語に訳しただけの「心理学」を自分にもあてはめ、クライエントの方にも適用しながらチェックすれば、そこに自ずからおかしいところが発見できるはずです。
そうすればその理論のおかしいところ、不十分なところが見える、気がつくはずで、そういう人が「職人」です。
池見先生を始め、当事の九大医学部心療内科の先生方は、軸足は「学者」であっても、医療の「職人」として非常にすばらしい訓練がなされていたように思えます。
ところが多くのアメリカ式「交流分析」の専門家たちは、たとえて言えば試験に合格するために一生懸命に勉強して「交流分析」という心理学理論をマスターした、つまり単にペーパーテストに合格する実力があるというだけのように、私には思えます。
「交流分析」では、池見先生という天才的な医学者に恵まれ、そこで当事、新進気鋭の心理学者、杉田峰康先生や新里里春先生などに恵まれたからこそ、私(藤森)は日本式に大改造された「交流分析」を学ぶことができましたが、この例外的な「九大式交流分析」以外には、日本式に大改造された心理学(少なくても書物に残されているものとして)は、存在しないと思われます。
●(15)さて、医療の現場とかカウンセリングの現場は、「職人」としての「実力」が問われますが、特に「心理」であるカウンセリングの現場で、「職人」的な実力をつけるための訓練が、残念ながらほとんど全く行なわれていないのが実情です。
どちらが偉いかどうかという問題ではなく、本を書いたり、講演したり、研究をする人は、「学者」的な理論を中心に勉強すれば良いし、生身の人間を対象とするならば、その理論をいかにクライエントの方々に、より良く適用できるようになるか、その訓練、つまり「職人」的な訓練こそが重要ですが、この分野においての適切な訓練は、アカデミックな世界も含めて全く実施されていないと言っても、決して過言ではありません。
●(16)私(藤森)は、日頃からこの「学者的」、「職人的」という見方、考え方をよくしていますが、特に今回、ここに載せることで、どのように表現しようか、「職人」的な私は、毎日、頭を悩ませました。アイデアはあっても、それを適切に表現するという「学者」的能力が不足しているために、今回は特に苦労しました。
締め切りの15日をこんなに大幅に経過してしまったのは今回が初めてです。自分の「学者」的能力の不足を痛切に感じています。毎回、毎回、この「学者」的な能力不足に苦心惨憺しながらも、我ながらよく続けているものだと感心しています!
●(17)さて、ユング心理学に共時性というのがありますが、毎日、本気で頭を悩ませていると、うまいものに出会えるものですね。これでやっとスッキリしました。
梅原猛著、「日本人の心のふるさと<最澄と空海>」(小学館文庫)という本に出会えました。その中に、私が言いたいことがピッタリと書かれていました。
最晩年の最澄は、嵯峨天皇にもっとも重要な「大乗戒壇設立」という法の改正を主張していて、その内容を梅原猛氏が解説しています。
「とにかく、ここで僧が、「行動」と「弁説」という二点で四つに分類されているのです。行動も弁説も優れている者。行動は優れているが、弁説はだめな者。弁説は優れているが、行動がだめな者。両方ともだめな者です。行動も弁説も優れている者は少ない。それは「国宝」です。
しかし、二つが備わらなくとも、一つでも備われば使い道がある。弁説が優れていれば、先生になれるというわけです。たしかに大学教授というのは弁説に優れていますが、彼らに立派な行動を望むのは無理だというのでしょうか。しかし、それより弁説はだめでも行動が優れているのが、人間としてより立派な人であると最澄は考えていたようです。それは『国の用』、すなわち国に役立つ人間なのです。それにたいして、どちらもだめなのは『国の賊』。おそらく最澄からみれば、当時の僧たちはほとんど国の賊に見えたことでしょう」
また提出された「八条式」の中の第四条に、梅原猛氏は注目します。
「およそこの天台宗で修行する学生は、僧になった年に大乗戒を受けさせます。大乗戒を受け終わったら十二年の間、山門を出さずに学問に専念させます。初めの六年間は、『聞慧(もんえ)』すなわち学問を学び聞くのを主とし、『思修(ししゅ)』すなわち自分の頭で思惟し修行するのを副とします。
一日の三分の二の時間を仏教を学ぶのに用い、あとの三分の一の時間を仏教以外の学問をするのに用います。その間、長時間経典を講読することを行とし、法を施すことを業(ごう)とします。
あとの六年は自らの頭で考え修行することを主とし、学問を学んだり聞いたりすることを副とします。・・・・・」
梅原猛氏はさらに・・・
「そして初めの六年間は、聞慧を主とし、思修を副とする。同感です。私は中学、高校の教育は、やはり最澄のいうように、聞慧を主に思修を副にするべきであると思います。
しかし、次の六年間は、思修が主となり、聞慧が副となるべきだと最澄はいうのです。私も大学の教育では思修を主に聞慧を副にするのがよいと思います。これは学問にとってたいせつなことです。
今の日本の教育は聞慧にたいへん重きをおいていると思います。日本の教育水準が高いのは、聞慧についてはいい教育が行なわれているからです。
しかし、思修については、私はかなり不十分ではないかと思います。大学においても思修が十分に行なわれていないのです。大学において十分に思修が行なわれないと、ほんとうの学問が育ちません。
それからもう一つ重要なのは、一日の三分の二の時間は仏教の勉強をし、三分の一はほかの勉強をせよということです。これはたいへん重要なことです。仏教の勉強ばかりしていたら、おのずから視野は狭くなる。最澄は視野の広い僧になるためには、三分の一は仏教以外の勉強をやれというのです。」
さらに最澄は東大寺だけに許されている戒を「小乗戒」と呼び、「小乗戒は、三人の戒師と七人のそれを証明する師に来てもらい、形式的な戒を授かるわけです。この戒について、最澄はいささか皮肉をこめて語っているように思います。
『この身も心も清浄な、戒律をよく保っている徳の高い僧』という言葉には皮肉がこもっていると思います。言外に、そういう坊さんが十人もいるものか、だから小乗の戒は不可能だ、という響きがあります。おそらく、それは最澄の実感であったにちがいありません。
鑑真和上によって東大寺に新しい戒壇がつくられたわけですが、おのずから戒師を務めるのは位の高い坊さんになる。たとえば、位が高ければ道鏡のような堕落腐敗した僧でも戒師を務められるのです。とすれば、そういう戒師に授けられる戒律とはいったい何でしょうか。」 |
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