2006年11月15日第52回「今月の言葉」「アジャセ・コンプレックスと漏斗理論」
投稿日 : 2018年3月7日
最終更新日時 : 2018年3月7日
投稿者 : k.fujimori
2006年11月15日 第52回「今月の言葉」
(じょうごりろん)
●(1)第50回の「今月の映画」「ゲド戦記とアジャセ・コンプレックス」で、書いたものを下記に再録します。
さて、故・古澤平作先生が、父殺しである「エディプス・コンプレックス」よりも深い、「アジャセ・コンプレックス」という論文を書いて、ヨーロッパのフロイトにその論文を見せに行きましたが、フロイトは理解できなかったそうです。
では「アジャセ・コンプレックス」とは何でしょうか?これが今回の「本題」です。
阿闍世(あじゃせ)コンプレックスは日本の精神分析の草分け、古澤平作氏が、日本独特の母子関係に着目して提唱した理論です。エディプス・コンプレックスが母を愛するあまり、父を亡き者にしたいと願うものなら、 阿闍世コンプレックスは母を愛するがために、母を亡き者にしたいと願うものです。
そのもととなったのは仏典のなかにある古代インド王・阿闍世の物語です。阿闍世の母親は、子どもに恵まれないまま年をとり、容貌が衰えていくのを気に病み、占い師を訪ねます。占い師は、森の仙人が三年後に死んで彼女の体内に宿ると告げましたが、阿闍世の母は三年が待ちきれず、仙人を殺してしまいます。
直後に彼女は身ごもりますが、仙人の怨みを恐ろしく思い、高い塔の上から子どもを産み落として殺そうとします。ところが阿闍世は死を免れ、この世に生まれてきます。
成人してこのことを知った阿闍世は怨みを抱き、父を幽閉し、母を殺そうとするのですが、罪悪感に襲われ、病に倒れてしまいます。それを看病し、救ったのは、かつて阿闍世を葬ろうとした母だった、というのがあらましです。
母親が子どもを産もうとするのも殺そうとするのも、自らのエゴイズムのためです。子どもはそれを知り、母親に幻滅して敵意をもちます。が、いざ殺そうとすると罪悪感に苛まれ、母親もかつての自分を悔いて子どもを助けます。現代の若い母親も、子どもと和解できるでしょうか(別冊宝島「図解・精神分析」宝島社より)。 |
●(2)以上、「ゲド戦記とアジャセ・コンプレックス」の一部を再録しました。
さてここで、精神分析の「エディプス・コンプレックス」について簡単に説明します。
子どもは胎児の時代を含めて、乳幼時期の多くを、心理的・身体的に母親と一体で生きます。胎児の時代は、まさに母親(母胎)の肉体の一部として、百パーセント、完全に母親の影響(支配)を受けます。その後、誕生して、肉体そのものは別個になりますが、泣く以外に一切の表現方法をしらない乳児は、心理的には母子一体感で生きます。
(細かいことはともかくとしまして、大雑把に考えて)3歳前後から、父親の介入を受けるようになります。それまでは何をしても許されていたのが、この頃より、父親が介入することにより、例えば、「お母さんにいつまでもベタベタしているんではない!」とか、「そんなことは自分でやりなさい!」、「早く寝なさい!」等々の干渉を受けるようになります。
それまでは、肉体の一部として、母親の心臓の鼓動を共有し、その後も、母親を中心にして、お腹が空けば授乳してくれるし、オシッコやウンチを自然にまかせて垂れ流すだけで、無条件で対応してくれました。
良かれ悪しかれ、それなりに母親とは波長が合っていましたが、2~3才前後からは、母親とは全然違う父親の波長に遭遇します。ここで子どもは大きな戸惑いを感じます。
今までは自分と母親だけの「二者関係(アジャセ・コンプレックス)」でしたが、ここで初めて父親の介入を受ける「三者関係(エディプス・コンプレックス)」を体験します。つまり「ミニ社会」です。ここで怖い存在である父親とそれなりにうまく対応しながら、大好きな母親との関係も維持できたときに、成人してからの社会適応もうまく対応できるといわれています。
欧米では日本と違って、父親の存在が大きいことと、フロイトの時代は、抑圧された女性の「ヒステリー性格」が治療の対象だったために、根本的な人格形成の問題は、この時期の「エディプス・コンプレックス」であると思われていたそうです。
しかし、(島国の農耕民族である)日本の人格形成の根本問題は、それ以前の「母子関係」にあるのではないかと考えたのが、故・古澤平作先生でしたが、上記の理由により、その論文をフロイトは理解できなかったそうです。
●(3)ここでやっと「アジャセ・コンプレックス」を説明するところにたどり着きました。
胎児の時代から、2~3才前後までの「母子関係」は、子どもにとってどんな関係でしょうか?理想的な環境で育児されればもちろん問題はありませんが、理想的な環境は現実にはありえません。
では、多くの育児環境は、一体、どんなものでしょうか?それが今回のテーマです。
その前に、妊娠出産という環境はどんなものでしょうか?
日本の男性は、私(藤森)自身を含めて、ほとんど全ては「マザコン男性」です。自立した自我を有しているとは、とうてい言えません。ということは「自我」が未成熟です。母親に頼りきっている未成熟な自我が、多くの日本の男性の姿です。どの程度未成熟な自我であるか否かというレベルの違いがあるのであって、ほとんど全ての男性は、大なり小なり「マザコン」であると言い切っても差し支えないでしょう。
ですから日本の男性は当然、結婚する奥さんに「妻」を求めるのではなく、無意識のうちに「母」を求めます。その「擬似・母親」が妊娠・出産期を迎えたならば、夫婦関係はどうなるでしょうか?
●(4)妻はツワリで苦しんだり、お腹が大きくなってくると、夫に対する世話や家事がおろそかになります。この場合、自我が未成熟な日本の多くの「マザコン男性」は、そのような妻の心理的・身体的な状態を十分に理解できず、ツワリで苦しい妻をさらに不愉快にさせるような言動をしてしまうものです。
家に寄り付くのがわずらわしくなるかもしれません。少なくても、妊娠・出産という一大事業を理解して、それを温かく「共有」することはほとんどないものと思われます。
<乳・幼時期の子どもは、母親がどんなに疲れていても、大好きな母親の心理的・身体的な状況をまったく理解せず、残酷なほどにオンブや抱っこなどを、自己中心的に求めます。>
お腹が大きくなって、挙措動作がシンドイ「妊娠・出産」の負担を一人で負うだけでなく、その上に、夫が非協力的であったり、外で楽しく過ごしている事が予想できたならば、妻は「子を産むということは何なんだろうか?」と疑問を持って、かなりストレッスフルな心理状況になるはずです。
そういう心境になっている母胎の「住み心地」はどんなものでしょうか?鼓動や脈拍は乱れるでしょうし、ヘソの緒を通した栄養の補給も不十分になるかもしれません。具体的なことはともかく、胎児にとって住み心地の良い生活環境ではない可能性が高くなるでしょう?
さらに出産直後は、慣れない育児に心身ともに疲労困憊して、とても夫の世話をしたり、話し相手をするどころの状況ではなくなるでしょう。こういうとき、夫の自我が成熟していないと、育児に協力するよりも、自己「不満足」の気分を満たすために気持ちを外に向けて、家を空けがちになる可能性が高くなるかもしれません。
●(5)乳幼児の育児だけでも疲労困憊の毎日である上に、夫の非協力的な態度に妻の不満は大きく、故に、育児環境はさらに悪化する事でしょう。毎日がイライラ、ガミガミ、子どもに当り散らすような毎日。
それでも乳児のときの要求は空腹やオムツの交換の要求くらいですから、いかにイライラしていても、とにかく授乳したりオムツを交換さえすれば、ひとまずオーケーになりますが、幼児になるとそうはいきません。要求は過大になり、種類も多くなります。さらに反抗や抵抗もしてきます。
乳児のときは、とにもかくにも、やりさえすれば何とかなりましたが、幼児は多種多様になりますから、ストレッスフルな心理状況では、なかなか十分に理解できない上に、不十分な対応では、幼児は物を投げつけたり、吐き出したり、泣いたり騒いだりグズったり、手がつけられなくなります。
そうでなくてもストレッスフルな心理状態の母親は、この辺りから、ほとんどパニック状態に陥って、ヒステリックになるはずです。ガミガミ、イライラではすまず、手を出すこともあるはずです。虐待とまではいかなくても(辛うじて、理性が働いて、虐待的な暴力は、多くの母親はしないでしょうが)、心理的には、ほとんど虐待に近い状態になっているはずです。
●(6)このような状態は、おそらく、1才くらいから始まるでしょう。1~2才、或いは1~3才くらいの間に、このような状態は、ほとんど全ての母子関係に起こると考えてよろしいのではないかと思います。
このようなヒステリックな状態になった場合、その力関係は、いうまでもなく、母親のほうが圧倒的にまさっています。
ところが、このようなヒステリックな状態になる前の状態を考えてみますと、幼児のほうのパワーがまさっています。完全に自己中心的ですので、自分の欲求を満たすために、幼児は全力で主張します。声が張り裂けんばかりに、全力で全神経を使って、ヒステリックに泣き叫んで主張します。
そうでなくても母親自身が「自我が未成熟」である上に、夫に対する不満がいっぱいの心理状態です。幼児の要求にうまく対応できません。ますますヒステリックになる幼児に対して、母親はパニックになり、ヒステリーを起こして、最後の手段を取るはずです。
それは母親のヒステリックな怒りの爆発です。ときには、ツネることもあるでしょうし、拳骨でゴツンをすることもあるでしょうし、子どもが一番怖れる言葉、「お母さん、家を出て行ってしまうよ!」「お前なんか大嫌い!」等など。
こういう状態のときの母親のパワーは、幼児にとって巨大な怪物・化け物的に映ることでしょう。神話やおとぎ話などのこの種の話はこういうことからくるものです。
●(7)さて、突然、怪物に変身した母親に、幼児は恐れおののいてしまうでしょう。こういうことが続けば、幼児はやがて、完全に母親の僕(しもべ)となってしまいます。
当初は、多少の抵抗をするでしょうが、抵抗するたびに、手ひどいしっぺ返しを受けるうちに、抵抗する気力を完全に無くしてしまい、母親のチョッとした、身振り手振り、口ぶりで指示・命令に従うはずです。独裁者の指の動き一つで、周囲の人間が動き回るのと同様ですが、これを母親が認めるまでには、かなりの日数、月数、年数がかかります。
幼児がこうなることで、母親のストレスは軽減されて、一見、親子関係は順調になり、日々の生活は落ち着いてきます。母親の完全管理のもとで、勉強や習い事をやれば、それなりに子どもはすばらしい成果を上げます。
母親のプライドは満たされ、子どもは母親から愛され、周囲も羨むような理想的な家庭、家族関係になるでしょう。しかし、やがていつの日か、当然、トラブルが起こります。それは母子関係の「軽症・重症度」に応じて、種々様々な症状が出てきます。
●(8)「アジャセ・コンプレックス」の結論。
このような関係があることを考えると、子どもは「お母さん、大好き!」という感情と、「殺したいほどお母さんが嫌い!」という感情が同居していることが理解できるでしょう。この感情を「アジャセ・コンプレックス」といいますが、「殺したいほどお母さんが嫌い!」という感情が潜伏しているために、この「影」が、その後、いろいろな問題を起こす事になります。
しかし、母親がヒステリックになって、子どもを服従させた期間は、多分、ほんの少しの短い期間だったでしょう。何故ならば、圧倒的なパワーの差があり、生殺与奪の権限を握っている母親に対して、長期間の抵抗は、無力な幼児にとって、とても耐えられるものではありません。
それに引き換え、服従してみると、大好きな母親から、限りない愛情を注いでもらえるのですから、無力な幼児にとっては、チュウチョするまでもないことです。
ところが、これを母親が理解したり、受け入れることには、非常に難しいものがあります。
何故でしょうか?それは①年数が経過していて、記憶が十分でない上に、良好な関係が長く続いたために、にわかには理解しにくいこと。②これを受け入れることは、子どもが「非行や登校拒否」をするようになった原因が、育児を担当した自分の責任になるが、育児に非協力的だった夫に対する不満がいっぱいあるために、うすうすは感じていても認めたくない、などの理由によります。
そこで、最後のテーマになります。
●(9)漏斗(じょうご)理論について
これは私(藤森)独自の表現です。「漏斗」は、みなさんご存知のことと思います。細いビンの口から、油などを注ぐときに使う、朝顔型の容器のことです。
どういうことかといいますと、胎児~乳児~幼児の期間は、圧倒的に母親の影響が大きいものです。ですから「アジャセ・コンプレックス」というものがある以上、子どものトラブルは、「直接的」には、ほとんど全て、母親の影響です。
しかし、それは、容器の「漏斗」のように、母親を中心にしたありとあらゆる周囲の条件を、母親という「漏斗」を通して、子どもに伝わっていることを理解する必要があります。
すでに(2)~(8)で解説してあるように、夫の無理解、非協力的な姿勢・・・共同作業であるはずなのに、妊娠、つわり、出産、育児という困難な期間を、夫だけ外で、楽しい時間を過ごされたならば、妻である母親が、良い育児ができるわけがありません。
さらに「嫁・姑関係」で苦労しているかもわかりませんし、親の介護があるかもしれません。さらには仕事を持っていて、出勤前に幼稚園に連れて行ったり、仕事が終わった後に、息つく暇もなく、保育園や幼稚園に迎えに行ったりしなければならないとしたならば、正常な育児ができるわけがありません。
ところが、いくら夫や周囲の理解が無いからとはいえ、その「邪気(ストレス)」のほとんどすべては、母親を介して子どもに伝わることになります。
ですから、「アジャセ・コンプレックス」と専門家がいうならば、私の言葉で表現する「漏斗理論」も同時に解説しなければ、ますます母親を追い込むことになってしまいます。もし、母親をさらに追い込むようなことになったならば、「心理の専門家」も、この母親の夫と同じく、母親を苦しめる「共犯者」になってしまいます。
形としては確かに、母親の育児の仕方が悪かったのは事実ですが、その責任の半分は「夫」にもあります。
そして夫が、共同事業の一端を引き受けられないような未成熟な人間であるということは、夫の両親にも責任があります。さらに、そのような「自我が未成熟」な「マザコン男性」を、妻が好きになるということは、そのような妻を育てた妻の両親も同罪です。そして、双方の両親の両親も、そのまた両親も同罪ということになります。ということは全ての人間が悪いともいえますし、別の言い方をするならば、誰も悪くないともいえます。大切なことは、「犯人探し」をするのではなく、「原因探し」をするのであるということです。
撃たれた「弾丸」が体の中に残っているならば、まずレントゲンで「弾丸」のある場所を調べなければ、外科手術ができないのと同様に、トラブルの「原因」がわからなければ、根本的な解決策が見つかりません。今後をより良くするために「原因」を探すのであって、犯人を捜して、その人を責めるのではないということをしっかり理解することが、一番、大事かもしれません。もちろん、そのために十分な配慮・工夫が大事であることはいうまでもありません。
●(10)以上は、多分、ほとんどまったく言われていないことです。私(藤森)自身が未成熟であるにもかかわらず、本気で解説しました。私(藤森)自身の深い反省を込めて。
<追伸①>
お釈迦様は、妻子を捨てて出家しました。
親鸞聖人・・・晩年、息子の善鸞に裏切られて義絶し、また何度か妻が訪ねて来たにもかかわらず、亡くなる最後に、妻は看取りに来なかったそうです。
戦国時代などの武士の時代、女性は政略結婚という名の「犠牲」になっています。NHKの大河ドラマ「功名が辻」に出てきますが、秀吉は妹を、家康と政略結婚させるために、嫁ぎ先の武将と強制的に離婚させています。また長い間、「男尊女卑」や「家父長制」という名のもとに、女性は虐げられてきました・・・・・。
しかし、「男女同権」というのはおかしいですね。男性は男性の権利や義務があると思うし、女性は女性の権利や義務があると思いますが、今回は、そこまで触れません。女性の地位向上と共に、男性の在り方が非常に難しい今日になりましたが、これはまたの機会にします。
<追伸②>華厳教・入法界品(にゅうほっかいぼん)・・・・・善財童子という少年の救道者(ぐどうしゃ)が、最初にお会いした徳雲比丘(とくうんびく)という方が悟られた境地の中の一つ、「自業(じごう)に住(じゅう)する念仏門」
「衆生(しゅじょう)の積重(しゃくじゅう)するところの業に随(したが)いて、一切の諸仏はその影像(ようぞう)を現じて、覚悟せしむることを知るが故に」・・・・・自分のいのちが引き受けなければならない、自分のいのちの独自の働きを、自業として引き受けて生きる、あえていえば、「自業を自得していく」ことが解脱なんだと、「受生(じゅしょう)の解脱」、受生、自分の人生をまさに我が人生として了解して引き受けていくこと自体が解脱なんだという捉え方なんです。
事事無礙法界(じじむげほっかい)・・・あらゆる現象がすべて仏のいのちの展開ですから、どんなに苦しいことも、それなりの因果関係の中で、私が今、引き受けるようになっている、当然のことなんだということなのです。それが永遠のいのちの世界に心を運ぶ入り口の門だと。なぜかというと、私たちの無限の過去から積み重ねて来た業、カルマ、つまりいのちの働きに仏様がちゃんと随順して、直接の姿ではなく影の姿を現している、すなわち私たちの姿に化身して、覚悟、悟りを自覚させてくれているからです。
本当に、どんな苦しい人生であっても、それはこの無限の空間、無限の時間の中で、この瞬間まさにお前だけが引き受ける宇宙のパズルの一つなんだよ、と言われたように思って、そこに自分が身を投げ入れることができたときに、不思議にむしろ生きる力がとどいてくるんですね。まさに「一切の諸仏はその影像を現じて」というけれど、現実には、本当にいろんなものが働いてくるのです。私には、そんなことが幾たびもありました(以上の<追伸②>は、「ひびきあう心」大須賀発蔵著、財団法人茨城カウンセリングセンター刊)。 |
<文責:藤森弘司>
言葉TOPへ
最近のコメント