2006年10月15日 第51回「今月の言葉」
「影の引き戻し」と「アジャセ・コンプレックス」

●(1)前回、「実感の影」と題して、下記の図形を紹介しました。
 これと似たものとして、「心身医学(?)」の考え方に、次のものがあります。
 ストレスが自身の容量をオーバーしたとき、①身体的に症状が表れる②心理的に症状が表れる③行動的に表れるとしています。これをさらに細分化したのが下記の図です。
 ①の「身体的な症状」は、一般にいう西洋医学が対応する、主として「内科的な病気」を意味しますので、理解しやすいことと思われます。
 ③は「行動化」といわれるイジメや非行など、「行動面」に表れるもので、これもわかりやすいのでひとまとめにしました。
 ②の「心理的症状」は、一般にわかりにくい症状を表わしますので、下記のように4種類に細分化しました。ですからこれは私(藤森)独自のものというよりも、「心身医学(?)」の概念を、さらに細分化したものといえます。

●(2)下記の図は、前回(第50回)の「実感の影」に若干、手を加えて再録したものです。

<「実感の影」についての解説>
自己回復総研資料F-0201
■私たちは、誕生以来、日々、時々刻々に、色々な刺激に対して「実感」を感じています。

●その「実感」についての反応を、主として両親に、そのまま受け入れてもらえれば、その刺激に対して、正しい「実感」を感じて成長します。
 例えばオムツが濡れたり、お腹が空いて、泣いたり暴れたりして要求を出すときに、それに気づいた親が、可能な限り速やかに、要求を満たしたならば、その後も、この乳児は、オムツが濡れたり、お腹が空いたりしたときに、その不快感を「実感」としてそのまま感じられる人間として成長します。

●ところが多くの場合、私たちが乳幼児の時の両親の状態は、忙しかったり、疲れていたり、病弱であったり、経済的に困窮していたり、夫婦の関係がよくなかったりして、ストレッスフルな状態にあるものです。
 乳幼児というものは、言語表現がほとんどできない上に、要求過剰であり、かつ、猛烈に自己中心的です。親がどんなに過酷な状態であったとしても、一切お構いなく、過剰な要求をドンドン出してきます。
 親がどんなに快適な状態にあったとしても十分に満たすことが困難なほど、過大な要求を自己中心的に出してきます。
 ましてや上記のように、親自身がストレッスフルな状態であれば、乳幼児の要求をまともに満たすことは、ほとんど不可能になります。
 オムツがいくら濡れてもそのままであったり、空腹がなかなか満たされない場合、オムツが濡れている不快感や空腹感は適切に感じられなくなってしまいます。

●また、両親がいつもいがみ合っていたならば、家の中の凍ったような空気や、怒鳴りあったり、物が壊れる音の怖さに対して、「実感」が感覚できなくなっても不思議ではありません。
 また、乳幼児が一人寂しく放置されることが多ければ、寂しい「実感」が感じられない人間になってしまいます。

●(3)今回のテーマは「影の引き戻し」です。では「影の引き戻し」とは何でしょうか?
 その前に、わかりにくいというか、少し難しいことを言います。私たちの人生(私たちが見たり、聞いたり、感じたりするものの全て)は「投影」で成り立っています。このことの裏づけとして、仏教の「唯識(ゆいしき)」があるようです。唯識はこれから勉強したいと思っていますが、どうやら「唯識」と、私が考える「投影」のメカニズムは、ほぼ同じもののようです。
 では「投影」とは何か?

●(4)その前に、第49回「今月の映画<ゲド戦記>」の中から、「影」について再録します。
 さて、「影」とは一体何か・・・・・私(藤森)流に簡単に書きます。
 「影」とは、「自我」が受けとめるのが困難なことを、無意識界に抑圧したもの。
 いわゆる一般に、「自分」といわれる「意識している自分」が、抱えていることに大きな苦痛を感じる「ある出来事や感覚」を、無意識のうちに、「無意識界」に押しやって、そのことは自分の中に存在しないことにしているもの。つまり精神分析でいう「抑圧」したもの。
 概ね、これでよいかと思います。
 定義というのは、国会での「集団的自衛権」のように「神学論争」に成りがちです。例外もありますし、表現しきれないものもあります。AとBはどう違うのか?となると、これを区別して説明するのは大変難しいものです。
 <例えば、「自動車」とは何でしょうか?私たちは、自動車をよくわかっています。でもこれを「定義」するのはかなり困難ではないでしょうか?よくわかっている「自動車」さえも適切に「定義」できないのですから、ましてや目に見えない、わかりにくい心理学の用語を的確に「定義」するのは、本当に難しいものです。>

●(5)「第49回」で「影」を上記のように表現しました。
 ユングは「影」の根本的なものに「普遍的無意識」を置いています。学問的、研究的には重要な概念でしょうが、私自身を掘り下げたり、心理臨床の実際を考えると、ほとんど必要が無いといって過言ではありません。
 むしろこのように、より根本的・より正確なものは複雑過ぎて、クライエントの方の自己成長(西洋医学的には“治療”)のお手伝いをする上で、あまり有効であるとは思えません。
 首相などビップの車を、襲撃などにも耐えられる、より安全な車にしようと思えば、「戦車」になってしまいます。武士の鎧をより安全にしようと思えば、重くて戦いには却って不利になってしまいます。
 車の「機能性」と「防御性」の両面を考えるのと同様、「影」を考えるとき、あまり難しく考えず、個人的「無意識」の分析能力を高めることのほうが、クライエントの方の自己成長に十二分に有効であると考えています。
 
●(6)さて、私たちは「生育暦」の、特に「早期」の段階で、耐え難い苦痛を感じたとき、その「感覚」を「意識界」から除外して、無意識界に「抑圧」して、「無いもの」にしようとするメカニズムがあります。そして不思議なことに、自分の中には無いものにしたこの「影」は、他者の中から発見されます。これが「投影」のメカニズムです。
 それでは何故、他者の中に自分の「影」を発見するのでしょうか?
 主として「配偶者」や「親子」など、濃密な人間関係ができた「他者」(例えば、教師と生徒、クライエントとカウンセラー、上司と部下、職場の先輩と後輩、等々)が対象になりますが、それは何故でしょうか?
 ここの部分を詳しく書きたいのですが、かなりの分量になりますので、簡単に説明します。
 
 自分が抑圧した「影」を投影しやすい相手・・・・・つまり自分の「影」と同様の「影」を色濃く有している人を、「本能的」「直感的」に嗅ぎ出す「動物的・天才的な感覚」を私たちは、皆、持っています。
 そういう「影」を投影しやすい人を、無意識的に嗅ぎ出すと、私たちは、何故か、その人のことが「ネガティブな意味」で、非常に気になります。どうでもいいようなことでも、その人がやると、無性に「腹」が立ったり、不愉快になって、その人と濃密な「こじれた人間関係」を演出し始めます。

●(7)この「濃密なこじれた人間関係」・・・・・「投影」について、さらに具体的に説明します。
①用事を頼むと、忘れたり、うっかりしたミスをしたり、聞き間違えたり、要領を得ない反応をしたり・・・・・これらの反応に「イライラ・カリカリ」させられますが、このイライラ感(怒り)は、忘れたり、うっかりする人に内包しているもの、つまり、うっかりする人が「抑圧している感情(主として、怒り)」が「投影」されたものです。
②乳幼時から、母親の口うるさい過干渉に、怒りの感情を抑圧して「いい子」をやっている子どもは、やがて感覚神経をマヒさせて、母親の口うるさい指示や干渉に、鈍感、つまり鈍い反応(グズ)を示すようになります。このグズ反応に、母親は怒りを感じ出します。このとき母親の感じる「怒り」は、子どもの「抑圧した感情」が「投影」されたものです。
 その前に、母親がガミガミと口うるさく子どもに干渉するのは、母親が、その親から受けたものの「投影」です。つまり、母親は、自分の抑圧した「イライラ感」を、過干渉という形で子どもに投影した結果、その子どもから、やがて「投影」をやり返されます。「グズ」であったり、「非行」であったり、「不登校」などの形を取りながら、親に反撃(投影)を仕返します。
 反撃(投影)し返されるまでは「いい子」であったはずで、それが昨今の悲劇的な事件です。親の側が「投影」しているときは、「育児」という隠れ蓑に覆われていて「実体」が見えにくいために、本人も周囲も「投影」していることにまったく気づかないものです。そのために、子どもが悲劇的な「事件」を起こしたときに、周囲がビックリしますが、それ以前に、すでに「投影」が終わっています。
③こういう親子関係が基礎となって、この子は、将来、学校や会社や一般社会で、自分の親の何かを、無意識のうちに感じさせる特定の相手を「動物的直感」で選び出し、投影して、濃密なこじれた人間関係を構築します。
 大体の「影」と「投影のメカニズム」をご理解いただけたでしょうか。

●(8)さて、これからが本題です。このようなメカニズムは、主として、抑圧した「怒りの感情」が原因です。
 「怒り」に限定して説明しますと、実感としての「怒り」の感情が抑圧され、そのストレスが抱えきれないほどの「質量」になると、「怒り」のエネルギーは、様々に変形して、溢れ出します。そのエネルギーが・・・・・
 上記の図の①「行動化」に変形すると、非行やイジメになります。腹が立つ相手に、自分の内包している「怒り」を発散(投影)したくなります。これがイジメです。
上記の図の②「身体化」に変形すると、西洋医学でいう「病気」になります。「怒り」のエネルギーが適切に放出されず、その攻撃的エネルギーが自分の体に向かうときに、西洋医学でいう「病気」になります。
    <参考資料>
 「生と死の心理」<ユング心理学と心身症>(河野博臣著、創元社、昭和52年)
<心身医学とは>
 心身一如の立場から、病気のなり立ちを研究し、それを治療に活用しようとする医学です。
 従来、身体病とされていた臨床各科の病気について、心身両面から研究を行ないますが、身体症状をあらわす神経症についても同様の研究を行ないます。いわゆる精神病についても身体面を含めた立場から研究することがあります。

「セルフ・コントロールの心理と生理」<交流分析・日本版>(池見酉次郎、杉田峰康、新里里春、ジョン・ガヤシ著、西日本新聞社、1977年)
<心療内科とは>
 心療内科とは、内科的な病気について、身体面だけでなく、心理面をも含めた全人的な立場から病気の診断や治療を行なう診療科である。
<精神科とどこが違うか>
 精神科では精神病や神経症を取り扱い、心療内科では、いわゆる心身症を含めて、心身医学的な処置を必要とする内科的な病気を取り扱う。
<なぜ新しく心療内科が生まれたのか>
 現代文明の進歩につれて、現代生活のストレス、きびしい人間関係などが、多くの内科的な病気の発生や経過に重要な意味をもつことが明らかになってきた。一方、現代の医学は多くの専門科に細分化され、心身一如の立場からの人間的な医療が行なわれにくくなってきている。心療内科の本来の目的は、薬、注射、手術を中心とする今日の医療のあり方への反省として、全人的な、いいかえれば心身両面からの治療を行なうところにある。
<どういう病気を取り扱うか>
 ほとんどすべての内科的な病気に対して、心身医学的な取り扱いは多かれ少なかれ必要である。とくに、胃・十二指腸潰瘍、食道けいれん、慢性胃炎、気管支喘息、じんまんしん、片頭痛、緊張性頭痛、過敏性大腸(便秘や下痢の繰り返し)、潰瘍性大腸炎、慢性肝炎、胆のう症、慢性膵炎、筋痛症、関節リウマチ、狭心症、不整脈、高血圧症、低血圧症、レイノー病、糖尿病、バセドウ病、肥満症、特発性浮腫(むくみ)、自律神経失調症、肢端チアノーゼ、カルチノイド症候群などのなかには、心身症としての取り扱いを必要とするものがしばしばある。
 また、次のような場合には、もともと内科的な病気であっても、しばしば心身症に準じた取り扱いを必要とする。
①思春期病や老人病
②内科的な病気(脳卒中、心筋梗塞、関節リウマチなど)のリハビリテーション
③慢性病の経過中におこる心身症的な反応

●(9)さて、やっと本題に辿り着きました。
 上記のように、私たちは、「実感」を抑圧して「影」を作ります。いわゆる「堪忍袋」といわれる袋(?)の中に、実感を溜めていきます(抑圧)。やがて「堪忍袋」に納まり切らないほど「ストレスフル」になったとき、そのエネルギーは、その人にふさわしい症状を表わします。その「症状」は「投影」された結果のものですから、「症状」を治療しようとすることは全て、「対症療法」です。

 大事なところですので、重ねて説明します。
 投影された結果は、身体症状(腰痛や胃潰瘍、偏頭痛、等々)かもしれませんし、不登校やイジメ、万引き、家庭内暴力かもしれませんし、ウツやこじれた人間関係かもしれません。夫婦の不仲であるかもしれませんし、ギャンブルやアルコール依存症かもしれません。嫁・姑関係のこじれかもしれませんし、過食や拒食症かもしれません。特定の人に対する恨みや憎しみであるかもしれません。グズ人間であったり、遅刻常習犯的であったり・・・・・投影された、あるいは投影した結果として、いろいろな症状を表わします。
 これらのいろいろな結果に対応するとき、心身医学の専門家はもちろんのこと、広い意味での心理学的対応をされる専門家は、クライエントの方(患者と言われる方)が、西洋医学的にいう「治療」、私(藤森)流には「自己回復・自己成長」するための中枢に「影の引き戻し」をおくべきであると思っています。

●(10)では、「影の引き戻し」とは何でしょうか?
 上記のような様々な「症状」が現われたならば、それは自分の内部に抱える「未処理の感情(影)」が影響していることに気づいて、影の引き戻しに取り組むことです。
 今まで見えなかったものが、このような「症状」を起こしてくれたお陰で、自分の「影(未処理の感情)」・・・・・つまり人格の「歪み」を気づかせてくれたわけですから、「病気」になることも、「こじれた人間関係」も「不登校」も「非行」も「ウツ」も皆、自己の気づきを深め、自己成長させてくれるとても有り難いものであることがわかってきます。
 やがて、未処理の感情(影)に対処することで、何年、何十年と抑圧していた「実感」を如実に感じることで、「影」が解放されるだけでなく、それ以前よりも、はるかに人間的に成長した、爽やかな自分自身を感じることができます。さらに数回、このような体験をした後には、今までとは違う世界を生きているような、生き生きとしたご自分に気づくことができるでしょう!
 この心理的な対応の全体・・・・・私(藤森)流に言いますと、真の「自己回復・自己成長」についての全体の技法は、いつか詳しく解説したいと思っています。ひとまず簡単に書きますと・・・・・
①「影」にたどり着くための「分析力」
②「影」を掘り出すための「諸技法」、つまり「道具の質・量」
③掘り出したところに出来た穴に良質のもの・・・つまり「愛」で埋め戻すための「諸技法」・・・・・これらの総合力が必要です。特に、「影」を掘り出しただけでは、そこにまた、「影」が侵入しかねません。要注意のところです。

●(11)これで、今回のテーマの半分、「影の引き戻し」が終わりました。
 このような「影」が生じるさらに掘り下げた原因を次回(第52回)、「アジャセ・コンプレックスと漏斗(じょうご)理論」と題して解説いたします。

<文責:藤森弘司>

言葉TOPへ