2006年1月15日 第42回「今月の言葉」
現場力について (パート③)

●「現場力(げんばりょく=職人)とは何か」について、過去2回、週刊誌や新聞に掲載された記事を中心に述べてきました。
 さて、今回は私(藤森)が考える「現場力=職人」について述べる事とします。  本来、現場力ということは当たり前のことでしたが、高学歴化やコンピューターを中心とした高度機械化により、いわゆる知性・教養が一般に溢れて、頭で考える事が「事実」であるかのような「錯覚」をするような社会になってしまいました。
 頭で考え、口で喋ることは、コツコツと工夫し、苦労して物事を身につけるよりも簡単なために、より簡単で、より高度に見える知性・教養に一億全体が眼を向けてしまっているように思えます。

●私(藤森)が子供の頃(50年位前)は、学校の往復の道でさえ、いろいろな「現場力=職人」の仕事を見ることができました。例えば、魚屋さんが店先で、蒲焼を作るためにウナギをさばく名人芸を見学することができました。千枚通しのようなものを頭からグサッとまな板に刺し、包丁で細長くサーッと切り割き、骨を処理し、頭部を切り落として串に刺す手さばきの見事さ。

 蕎麦屋で、うどん粉を練り、包丁で細くカットする手際の良さ。下駄屋さんが鼻緒を取り付ける、時計屋さんが目に虫眼鏡のようなものをはさんで細かい作業をする姿、お米屋さんの精米や年末にお餅を作る作業、お百姓さんが天秤棒で肥え桶を担いだり、鍬で田を耕やしたり苗を植えたり、脱穀したり、八百屋さんが計りにかけたジャガイモやミカンを瞬時に計算する暗算力、パン屋さんでのできたて、ふかふかのコッペパンやメロンパンなどの美味しそうな匂い。
 自転車がパンクしたときに鉄棒を使ってタイヤやチュウブを抜き取り、パンクの箇所を探してゴムを貼り付け、そしてまた車輪に取り付ける手際の良さに見惚れていたものです。
 肉屋さんで肉を買うとき、竹の皮に包んで端を細く割いて、それを紐の代わりにして縛り、新聞紙に包んで渡してくれる格好のよさ、骨から肉を切り取る真剣な姿、紙芝居のおじさんの芸術的な語り口に興奮したり、建具職人さんや籠を編む職人さんの手つきの器用さ、植木職人さんが形よく剪定する見事さ、大工さんが削るカンナから出る薄い紙のようなものを宝物のように手に取って透かしてみたり、鋸やトンカチを使う様子を羨望の眼差しで時間を忘れて眺めたり、夕方になると、あちらこちらの家から、キュウリや人参などを千切りにするトントンという心地良い響きが聞こえたり・・・・・・・映画「三丁目の夕日」の世界でした。

●私たちは日常的に、これらの職人技術を眼にしていました。ですから何かをするということは、多分、ほとんどのことは、実際にそれができる事を意味していたと思います。
 それがどんなに大人から見るとくだらないようなものでも、子供たちから見ると英雄的なものもありました。
 こういう時代は技術とか職人とか現場力とか、事実とか実際とかいう理屈でないものが大事にされていたのではないでしょうか。
 その良い例は、寿司屋さんです。丁稚奉公に入って、三年は寿司を握らせてくれなかったと聞きます。出前や掃除が中心で、先輩たちが握る様子を横目に眺めながら、精神的に練習していた、あるいは技術を盗んでいました。
 本来の技術はこのように苦労しながら、時間をかけて少しずつ体得していくものです。
 ところが回転寿司屋さんになると、今は、便利な機械があるために、アルバイトが今日仕事を始めても、お寿司を出す事が可能ではないでしょうか。

●例えば、今、100メートルを15秒で走る高校1年生がいるとします。この人が14秒になるために、それなりの練習が必要です。さらに13秒で走れるようになるためには、かなりの厳しい練習が必要になるでしょう。
 もし12秒を目指せば、猛特訓が必要でしょうし、さらに11秒を目指せば、能力の限界を感じるほど厳しい練習が必要になることと思われます。もし高校の三年間で11秒を達成したら、おそらく奇跡的にすごいのではないでしょうか、少なくても10秒達成となれば奇跡的でしょう。このように技術とか実際というものは、どんなに努力しても、三年間で精々数秒を縮める程度のことでしかありません。
 剣道であれば、一日に何百回という回数の素振りをして五年、十年、二十年と練習をします。その間には何十万回、何百万回という回数の素振りをするのではないでしょうか。

●しかし、これが知性とか理論とか、あるいは科学というものは、月にまで行くことが可能です。東京・大阪間を新幹線「のぞみ」では、2時間30分で運行しますし、飛行機ならばわずか30分です。
 棒高跳びでは、世界記録が何メートルだといいますが、ロケットは月にも火星にも、あるいはこの太陽系を離れたところにも達成する事が可能になります。まさに比較検討することもできないほどの桁数の差です。
 自動車を運転すれば女性でも思い荷物を簡単に運ぶ事ができます。ダンプカーを運転すれば、沢山の砂利を一度に運ぶことができます。
 冷蔵庫を開ければ、真夏でも冷えた美味しい飲み物や食べ物が自由に食することができます。テレビのスイッチを入れれば、いつでもいろいろな番組を自由に楽しむことができます。
 種々様々なことが、いとも簡単に手にし、食し、楽しんでいるうちに、私たちは人生がこのように簡単、かつ、思い通りに、自由かつ楽しく進行するかのような錯覚・幻想を抱くようになってしまったのではないでしょうか?

●何を習得するにしても、上記のように長期間の厳しい練習を経た結果、手にするものであるにも拘わらず、自己成長とか心理的なトラブル(不登校やウツや非行やラケット感情の処理など)については、眼に見えないために、アドバイスを聞いたらすぐによくなるような錯覚に陥ってしまって、問題解決を非常に難しいものにしてしまっています。
《次回、パート④最終回では、心理的な世界におけるこの課題を述べたいと思います。》

<文責:藤森弘司>

言葉TOPへ