●「洗脳と自己成長」パート①として、前回の「今月の言葉」(第37回「洗脳と脚本について」)の中の、下記の部分を再掲載します。
○ごく普通の夫婦の関係でも、育児というのは本当に難しいものです。
しかし、さらに、嫁・姑の確執があることも稀ではありません。夫や妻が病気ということもありますし、病気や交通事故で早世することもあります。妻や夫の両親の看護や介護の問題もありますし、経済的に困窮することもあります。商売が行き詰ったり、両親が離婚することもあります。
さらに大地震に遭遇することもありますし、戦争中ということもあります。父親がアルコール依存症で苦労したということがあるかもしれません。
上記の何も自分には該当せず、順調な家庭で育ったということが果たしてありえるでしょうか?少なくても夫婦の仲が悪かったかもしれません。
そういう状況であればどれほど育児環境が劣悪になるか、子供の側から見れば、私たちの想像を絶した困難な生育環境の中で育ってきているはずです。
こういう事実をまずしっかりと理解することこそが重要です。
○さて、抉り取るように、あるいは容赦のない分析をしてきました。そうするとこれまた、多くの人によく誤解をされます。
①そこまでやらなくてもいいんじゃないか、そこまでやってどうするのか。
②両親をそこまで責めてどうするのか、一生懸命育ててくれた両親をそこまで悪く思いたくない、などです。
しかしこれは全くの誤解です。私(藤森)は、育児をした父親や母親が悪いと言いたいのでは決してありません。父親や母親も似たような環境の中で育ってきたはずですし、そのまた両親も、そのまた両親も同様のはずです。
いいか悪いかと言えば、誰も悪くはありません。
しかし、そのように育てたという事実はあります。まず大事なことは、こういう絶対的事実を把握することです。これこそが交流分析の「脚本分析」です。
ところが多くの方は、今現在の自分自身を見たり、老いた両親に同情したりして、こういう厳しい分析をするどころか、逆に美化してしまい、「本格的な脚本分析」をしようとしません。
では何故、このような残酷に見えるほどの「本格的な脚本分析」が必要なのでしょうか。それは、
①事実がわからなければ、正しい対策が立てられないからです。これは当然のことですが、これもなかなか理解されないことで、どうしてこれが理解されないのか、私は不思議でなりません。
社員教育、企業の研修の時も同様で、仮に何かのトラブルが発生した場合、正確な原因を把握しなければ、どうして正しい対策が講じられるのでしょうか。
日本では、クレームを起こした人を罰することに重点を置きがちですが、アメリカでは、司法取引をして、その人を免責にしてまで、徹底的に原因を究明して、再発を防止しようとするそうです。
②事実を把握することで、実は両親に感謝できるようになることが目的です。何故かといいますと、上記のような、率直に言えば劣悪な育児しかできなかったということは、両親の育ちが悪かったことを意味します。
例えば私(藤森)の父であれば、アルコール依存症であり、経済的に困窮し、猛烈に厳しい状況の中で私を育ててくださいました。その意味することは、アルコール依存症にならなければいられないほど、父の両親の育て方が劣悪だったことを意味します。父の人格が傷んでいればいるほど、そういう父が私を何とか育て上げたことを考えると、それはものすごくすばらしことになります。
母も同様で、ただただ有り難くて、有り難くて、言葉も無くなります。
③そういう劣悪な環境の中で自分が育ってきたことが明確にわかったならば、今の自分がいたらない、未熟で恥ずかしい人間であっても、ダメだ!ダメだ!と自分を責めるのでなく、そういう未熟な自分をそのまま丸ごと受けとめてあげたくなります。これが本当の「受容」です。
つまり、物事を「良い・悪い」という「分別する心」から離れて、仏教の一つの境地である「無分別の心境」になります。私たちは、わかった顔をして、何かを良いとか悪いとか考えがちですが、それは単に自分の狭い価値観、あるいは偏った価値観で判断しているに過ぎないことがわかってきます。
以上の三点のために、一見、残酷に思えるほどの厳しい分析が必要になります。そして親に対する「感謝の度合い」に比例して、人はより幸せになります。
本当は「感謝」ではなく、「有り難さ」ですが、これについてはいつか「今月の言葉」で述べたいと思います。
●前回、このように述べました。
私が見るところ、多くの方々は、専門家も含めて、「脚本分析」が不十分です。どのように不十分かといいますと、精神分析でいう「防衛」の内側、つまり防衛を突破した分析ではなく、防衛の外側の分析になっています。
私たちが「本音と建て前」というときの「本音」とは、この「防衛」の内側にあるのですが、私たちは通常、信じられないほど「建て前」で生きています。
このように述べると、多分、多くの方が反論されることと思います。その気持ちがわからないわけではありませんが、実は、本音が何だかわからないほど、日常生活全般が「建て前」になってしまっているために、自分の「建て前」が「本音」であると誤認してしまっているのです。
●個人カウンセリングをしていても、この辺りをご理解いただくまでが非常に大変です。
一例を挙げますと、数年前にある会社の幹部社員の研修をしました。営業関係で猛烈な販売戦争に勝ち抜いてきた幹部の皆様にとって、私の指導は、今までの人生では考えられない内容に感じられたようで、猛烈なボイコットが起こりました。
例えば①遅刻してきた社員にどう対応するかという質問に、「遅れてもよく来たねというと良い」と私が答えると、そんなバカな話があるか!②あるテーマを与えて、参加者に議論してもらいました。その後、「答えは何か」との質問がありましたので、「答えはありません」と言いますと、会場が騒然としました。剛の者は「こんな研修は受けられない」とまで言い、退場しそうになりました。
幸い、トップに信頼していただいていましたので、その後も奇跡的に継続し、今では皆、指導内容を十分に理解してくださっています。しかし当初の反発はものすごいものでした。この頃のことは、今でも彼らと語り草になっています。
「建て前」で猛烈に頑張る人生を生きてきた彼らにとって、「防衛」の奥に踏み込んだ「本音」の話はこれほど大変であり、危険なものです。
●これと同様のことが個人カウンセリングでも起こります。この防衛の内部の意味をわかっていただくまでは、私がクライエントの方のサンドバッグになるくらいの覚悟が必要です。
しかし、やがて「防衛」の奥にある自分の本音の感情がわかり始めるころから、本当の意味での自己成長がスタートします。
多くの場での、多くの方々の理解は、防衛の外側での理解です。この辺りをさらに詳しく説明したいのですが、それだけで一冊の本になってしまうほどのことですので、舌足らずではありますが、この程度にしておきます。詳しく知りたい方、質問がある方は、セミナーにご参加ください。
さて防衛の中というのは、いうならば桃(もも)の種、核みたいなもので、自分の本音の感情が固いしっかりしたもので防御されています。
この核の外側からいくら自己成長に取り組んでも、核の中の本音の感情にいつも振り回されて、わかっちゃいるけどやめられないという、好ましくない生き方を繰り返し生きる事になります。
心理学をいくら勉強しても変わらないのはそのためです。生き方を本当に変えたいのならば、その核を割る「勇気」と「取り組み」こそが必要です。
●精神分析では、6才までに人間の基礎ができるといいます。ほぼこの辺りに「防衛」の厚い壁があると思ってください。私は3才くらいまでが非常に重要だと思っていますが、いずれにしても小学校以前の「生育暦」を十分に知る事が肝心です。
多くの方は、小学校からのこと、例えば、お祭りや旅行に連れて行ってもらったことや、お風呂に入れてもらったことや、お小遣いをもらったことなどを思い出して、両親に感謝したり、あるいはせいぜいこの頃の不快なことに取り組む程度です。
しかし大事なことは、たとえ両親の育児態度が、乳幼児のころとその後が同じ程度であっても、乳幼児の受けるダメージは格段に大きいものです。
何故ならば、完全に無抵抗であり、無力な状態ですから、その不快な状況を百パーセント、丸ごと受けとめてしまうので、ダメージの大きさは、今の我々からは想像もできないほどの大きいものです。
その桁外れに大きいダメージを、防衛という固い壁で核の中に閉じ込めた状態で「自己成長」に取り組んでいるのが、多くの実態です。
だからこそ、容赦のないほどの実態を知る事が重要になります。つまりこの桃の種のような「固い核」を突き破って、その中に潜んでいる本音を拾い出す、あるいは「本来の自分自身」を救出する、解放することが重要になります(この辺りのことは、表紙の「自己回復とは」をご参照ください)。
●また、さらに重要な事があります。以下に述べることは、驚くほど多くの専門家も誤解していることで、これがわからないと自己成長というものが、間違った取り組みになってしまいます。
現におかしな「取り組み」をさせられておかしくなっている人を私は知っています。これから述べる事は非常に重要なことですので、このホームページをご覧になった方は、以後、間違った方向に進まないように注意されることをアドバイスします。
では本来の自己成長とは何でしょうか。交流分析では「リプログラミング」といいます。この言葉を知りながら、何故、交流分析を学ぶ方々、専門家も含めて、が、本来の意味を理解しないのか、それが私には不思議でなりません。
「リプログラミング」とは「再編成」の意味です。
先ほどからの「生育暦」を、残酷なほどに「分析」するということは、本当の「両親」に対してするのではありません。その当時、乳幼児であった私たちが、生育環境から受けとめて感じた「感覚」が「脳」に記憶されています。その「感覚」が、コンピューター的に言えば、「プログラミング」されています。
その「プログラミング」された内容を十分に分析することで、
①当時の両親の置かれた状態を理解し、自分が感覚したような両親ではなかったということに気がつきます。あの状況では止むを得なかった、いやあのような「状況」で、両親はものすごく自分を愛してくれた、精一杯育ててくださったという大人の判断をすることによって、両親に対する再評価がなされます。
これは「防衛」の外側での「意識・知性」がするのではなく、「本音」の感情の部分が納得することです。これには必ず、大いなる涙と感謝が伴うものです。
②そして次に、脳にプログラミングされた内容を今の自分に相応しいように、「リ(再)プログラミング(編成)」することが目的です。
ですから徹頭徹尾、現実の「両親」と取り組むのではなく、脳に記憶された「両親の像(虚像・誤認像とでもいいましょうか)」と取り組むのです。幼い自分が、その当時、不十分な「知性」や「情報」で判断し、作り上げた「像」の再構築をするのです。くれぐれも実際の両親ではありません。このことは重々心得てください。
私の昔からの知り合いのある看護婦さんが「ウツ」になり、カウンセラーの指導で、田舎にいる年を取った両親を呼び出して「対決」したそうです。70才、80才になった両親が、今になって、例えば乳幼児のころ両親に十分に「抱っこ」してもらえなかったと言われても、どのように対処できるでしょうか。
あるいは幼い頃、「悔しかった」「悲しかった」「腹が立った」などと訴えられて、両親はどうしたらいいのでしょう!
そのときの勢いでこういうことをすると、後から必ず両親に対しての「罪悪感」が出てくるものです。その罪悪感に責めさいなまれて、却って両親から離れられなくなってしまうものです。
事実、この看護婦さんは、その後、ご両親のいらっしゃる田舎に引っ越して、ご両親と同居しています。そしていろいろな事情があるのでしょうが、地域の周囲の人たちを恨んで生活しています。
くれぐれも、実際の両親ではなく、脳に記憶された、つまりプログラミングされた「親像」と対決するのだということを忘れないでください。
●なかなか十分、かつ、適切に説明できないもどかしさがあります。不十分であったり、一部、やや説明が不適切なところがあるかもしれません。その節はご教示賜れば幸いです。セミナーなどで直接解説ができれば、もう少しうまく説明できるのではないかと思うのですが。
さて、結論です。今回の「洗脳と自己成長」のテーマですが、交流分析で言う「脚本」とは、「洗脳」のことで、つまり私たちは両親や「環境」から「洗脳」されています。
生まれたときの、完全な無防備状態、脳が白紙の状態での洗脳は、成人になってからの「洗脳」とは桁違いに効果的になされます。「脳」が無防備で「白紙」の状態の「洗脳」は、完璧に行なわれてしまいます。
しかし、成人してからの「洗脳」は、その人には強力な「防衛」が完成していますし、現在の知性、教養があり、これらが邪魔をしますので、これらと戦い、押しのけながら「洗脳」しようとしますので、一人の成人した人間を十分に洗脳することは、なかなか難しいものです。
今回は一般の方には難解かもしれませんが、少々心理学を学んだ方々には、ご理解いただけるものと期待しています。
<結論>「自己成長」とは、「洗脳」を解く事です。つまり「洗脳」という他者(主として両親)の指令で生きる人生から、自分自身で考えて結論を出し、自分らしく生きる事が「自己成長」で、これが本来の「自立」です。
次回は、「洗脳と自己成長パート②」と題して、第36回「洗脳について」の中の、苫米地氏と宮崎氏の対談の「宗教的縄張りがない状態」について解説をします。これは非常に重要なことで、適切な解説に触れる機会が少ないと思われますので、ご期待ください。 |
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