2005年6月15日 第35回「今月の言葉」
●「手段」は、「目的」を達成するために取る方法のことで、当たり前のことです。 しかし実際には、下記の二点において、実に多くの場合に、勘違い、間違いを犯しています。●①例えば、健康のためにジョギングをするとします。この場合、ジョギングは「手段」で、健康が「目的」になります。 ところが健康のために行なっているジョギングで、時折、亡くなる方がいます。何故でしょうか? それは、一見、健康を目的にしているようですが、その方のジョギングの仕方は、「ジョギングをすることが目的になっている」というのが私(藤森)の見方です。 これを私は、「手段の目的化」と名づけています。○(時折、「だからジョギングも危険だ」という医者がいますが、何をしても、過ぎて危険が無いものはありません。薬でも食事でも、酒でもタバコでも、仕事でも健康運動でも、ベジタリアンでも肉食でも、過食も少食もなんでも過ぎれば危険なことは、当たり前のことです。)●①の例を続けます。 「努力」について考えてみます。「努力する」とは、本来は何か「目的」があって、その目的に向かって「努力」するものです。 しかし、「努力」することが「目的」になっていることが多くないでしょうか。 私自身が若いころそうでした。人生の目標が見えず、何だか判らずに、ただ闇雲に努力していました。右往左往しながら、努力しなければいられないような気持ちで、ただ焦って努力していました。努力の目標はなく、ただ辛いだけでした。立ち止まったら倒れてしまいそうな気がしていたのかもしれません。 ハツカネズミのように、くるくる回る輪の中を、ただ単に走っていたように思えます。まるで「努力」することが「目的」(手段の目的化)かのように。●お金がそうです。本来「お金」は、私たちを幸せにしてくれるはずのものです。 しかし、十分なお金を所有した方が幸せになったという話を、私は寡聞にして聞きません。 目先のことを考えますと、お金を沢山持っている方は、とても幸せに見えますが、その人の一生をみますと、どうも「幸せ」になるよりも「不幸」になっているような気がしますがいかがでしょうか。 最近の例では、若・貴騒動がそうですし、コクドの堤会長などもそうではないでしょうか。あまりにも物質が豊かになると、精神性が薄れてしまうようです。 「衣食足りて礼節を知る」と言われてきましたが、「衣食足りてますます礼節を忘れてしまう」ようです。 エネルギー一定の法則というのがあるそうですが、聖人君子でもない限り、私たち一般凡人は、貧しいからこそ「愛」を大事にしますが、豊かになれば「愛」は薄れ、「ブランドもの」こそが、価値観の上位にきてしまうのでしょう。 飢饉があると、子どもを産む数が増えるのだそうですが、案外、似ていることかもしれません。 さて、お金は本来は「手段」で、「目的」は「幸せになること」ではないでしょうか。しかし、お金は不思議な魅力があり、気がついたら、お金をさらに増やすことが目的(手段の目的化)になってしまうようです。●私たちの周囲には、「手段が目的化」しているものが多く見られます。 「結婚」がそうです。好きで好きでたまらなくて、幸せになりたくて「結婚」したのに、あれ!という感じです。 子供の将来を考えて、いろいろ注意してきたのに、気がついたらとんでもないことになっています。最近、マスコミを賑わす子供の事件のほとんどは、「いい子」です。ご両親がかなり真剣に子供を育てたのでしょう。 しかし、結果からみると、「手段が目的化」されていて、一生懸命いい子に育てながら、結果はとんでもないことになっています。 家族の幸せを考えて一生懸命働いてきたのに、やがて病に倒れてしまい、逆の結果になってしまうということもよくあります。 家族のために一生懸命に働いて、定年を迎えたら、離婚をされてしまったなど、私たちは、よほど人生を真剣に考えないと「手段」が「目的」になりかねません。 ●②さて、本題とはやや離れますが、第二の課題を考えてみましょう。 ●死にたいというのは、死ぬ以外に方法は無いという気持ちになっているからで、あの方法もこの方法もあると思う方が自殺はしません。 |
<文責:藤森弘司>
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