●<第30回「今月の言葉」「自業自得とは何か?」のパート②です。>
私たちは通常、「自業自得だ」と言う場合、悪い行いをするから、そういう酷い目に遭うんだと言うように、相手を批判するような場合に使われています。
岩波国語辞典によりますと「自分でした(悪い)事のむくいを自分の身に受けること」とあります。
●しかし仏教では「自業自得」は、悟りの境地を表わしています。
「華厳経・入法界品(けごんぎょう・にゅうほっかいぼん)」という経典があります。善財童子(ぜんざいどうじ)という童子が文殊菩薩にすすめられて、はじめに会う方が徳雲比丘(とくうんびく)という方で、その方が悟られた境地を、念仏門として二十いくつかの法門(おしえ)をあげていて、その中の一つが「自業に住する念仏門」です。
○「自業に住する念仏門、衆生(しゅじょう)の積重(しゃくじゅう)するところの業(ごう)に随(したが)いて、一切の諸仏はその影像(ようぞう)を現じて、覚悟せしむることを知るが故に」とあります。
「わがいのちの独自なはたらきを、それを自業として引き受けて生きるとき、あえていえば、『自業を自得していく』ときに仏さまが直接の姿ではなく、いわば化身して、私たちには見えない影の姿として寄り添ってくれていて、そして私たちを悟りの世界に導いてくれる」、端的にいいますと「自分の業を引き受けて、つまり自業を自得していくときに、深い宗教的境地が開けてくるのだ」ということをいっているのだと思います(大須賀発蔵先生の名著「心の架け橋・・・カウンセリングと東洋の智恵をつなぐ・・・」ー柏樹社ーから引用)。
●このように「自業を自得する」ことは、徳雲比丘という方が悟られた境地です。
この中の「覚悟」という意味を、岩波国語辞典で引きますと、「あきらめて心を決めること。好ましくないこと、または最大の努力を払わなければならない時が来るのをさとって、心を決めること。★もと、仏教で、迷いを去り道理をさとること。さとり。」とあります。
●「自業に住する念仏門、衆生の積重するところの業に随いて、一切の諸仏はその影像を現じて、覚悟せしむることを知るが故に」。私(藤森)はこの言葉に出会えて救われました。
さて、この言葉の中で最も重要なポイントは、「積重するところの業に随う」と「覚悟せしむる」であろうと思われます。
●「積重するところの業に随う」とはどういうことでしょうか?
私は全文のポイントは「積重(しゃくじゅう)」だと思っています。私たちは、簡単に「業」という言葉を使いますが、一つ一つの出来事や行為には、まさに「積重」するものがあり、これを単に「業」と言ったのでは、人生の重みを十分に理解できるものではありません。
★例えば、今、自分が高校を「受験」して、「合格」した、あるいは「不合格」であったということを考えてみたいと思います。私たちは、その出来事だけを考えて、良かったとか失敗したとか、十分に勉強しなかったからだとか、よくやったなどと安易に考えがちです。
しかし、そこに到るまでのその人の人生や、彼に関わったご両親のことを考えてみると、単に「高校受験」が合格、不合格という単純なことではとても言い表せないものがあるはずです。
★「五体不満足」の著者・乙武氏は、重度の障害を持つ方ですが、陽気で前向きですばらしい方です。私たちは単純に、乙武氏のマスコミを通じた活躍を見て、すばらしい方だと思いますが、恐らく、いや確実にご両親は、深い深い感慨(積重した思い)をお持ちであるはずです。
マスコミは、表面に出たものだけを拾う強い傾向にありますが、例えば、日産のカルロス・ゴーン氏の活躍の陰に、無言で支えた塙義一会長の存在は、とても大きいものがあると私は思っています。
それと同様に、乙武氏の陰にあって、通常、私達には見えない存在ですが、ご両親の育て方のすばらしさは抜群のものがあると私は思っています。乙武氏がマスコミで報じられる姿を見るたびに、ご両親はどんなお気持ちでご覧になっていらっしゃるであろうかと、他人事とは思えない、胸に迫るものを感じずにはいられません。
マスコミを当てにしても仕方がないことかもしれませんが、こういう「暗在系」の存在にスポットを当てて、私たちに教えてくれる記事の書けるマスコミ人が増えることを願わずにはいられません。
★また例えば、<今月の言葉、2003年6月、第10回「発信愛と受信愛」>でも述べましたが、私が中学3年のとき、家庭の事情で修学旅行に参加できませんでした。
クラスメイトが修学旅行に出かけたある日、私は、浅草橋の問屋街に母と仕入れに行くために、朝早く家を出ました。家を出て間もなく、修学旅行から帰ってきた観光バスと出会い、窓から手を振るクラスメイトに手を振って応えたことがありました。その時母は、何事も無かったかのように、私の前をスーッと歩いていました。
私は家庭の状況から、修学旅行に行けない事は当たり前だと思っていましたので、ただそれだけのこととして私の記憶から消えていました。
★それから20年くらい後のことです。自己成長に取り組んでいた私は、このときの情景がハッキリと浮かびました。この瞬間、今回の言葉で表現すれば、「積重する業」を直観したのだと思います。単に、家庭の事情で「修学旅行」に行ったとか、行けなかったという問題ではなく、ここに到るまでの私の15年間の生い立ち、また、父や母がどれだけ苦労して育ててくださったことか・・・・・・・・。
乳幼児のころから私は病気勝ちで、医者に診せるお金も無く、母は着物を質屋に入れて、私を医者に連れて行ってくださいました(多分、その着物は母の手元に戻らなかったことと思われます)。
肺炎をおこして、両親がよく、バスタオルを熱い湯に浸して、ふうふう言いながら絞って、私の上半身に巻いてくださいました。今なら、保険証を持って医者に行けば、簡単に治療してくれます。
私が小学校の1年生ころ、両親は、2キロメートルほど離れた繁華な四つ角で露店を営んでいて、私は学校から帰ると、そこまでよく出かけて行ったものでした。
小学校の何年生のころだったでしょうか。冬の夕方、火の気の無いところで、母は必死でお客様の縫い物をしています。私と兄は、空腹に耐え切れず、母からやっとのことで10円をもらい、コッペパンを買いました。手で半分にしたところ、どちらのほうが大きいとか小さいとかで喧嘩をして、母をとても悲しませたことが度々ありました。
小学校6年のとき、母のお店で布団の打ち直しの取次ぎをやっていましたが、製綿業者への借金を払えず、母が預けたお客様の布団を打ち直してくれなくなりました。母に頼まれて、1ヶ月くらいだったでしょうか、私は、学校を午後から早退して、数キロ離れた業者のところに夕方5時までお手伝いをしに行きました。
その後、板を乗せた私の自転車に乗せられるだけの綿を打ち直してもらって帰りました。途中、夕食の支度をする通り道の家の魚の焼くおいしそうな匂いが、空腹にこたえたことを覚えています。
中学1年の暮れ、母は「子宮筋腫」で5時間の大手術をしました。母はかなりの覚悟を決めて手術を受けたようですが、そんな母の気持ちを、その当時の私は十分に理解できませんでした。母が入院中は、母の代わりに、年末の衣料品店のお店を私が1人で運営しました。
そんなこんなが表現しきれないほど沢山あります。そういう表現しきれないほどの「積重する業」を背景として、中学3年の「修学旅行」のことがあったわけです。
母はどれほど悲しく、切なかったことでしょう。どのような「運・不運」が父や母の上にあったことなのかは十分にわかりませんが、自分の子供を修学旅行に参加させられない母の切なさはいかばかりであったことでしょう。色々な苦労を重ねて私を育ててくださった母に、まだこれほどに心を痛めていただいて、申し訳なくもあり、とても有り難いことでした。
★そういう様々な事柄が、圧縮され、塊になって、私の脳裏に飛び込んできました。その瞬間、脳内が爆発し、涙がドッと溢れ出て止みませんでした。深い気づき、「積重する業」をそのまま有り難くて有り難くて・・・・・母の深い深い愛情が胸いっぱいに満たされました。
「積重する業」を背負いながらも、これほどに私を愛してくださる母の無限大の「愛情」を感覚して、「業に随(したが)う」という言葉では申し訳なくて、有り難くて、とても足りません。ただただ、ありがたくて、ありがたくて。
そんなに「積重する業」を背負いながら、私たちのために一生懸命に働いてくださった母は、私が高校1年のとき、脳溢血で倒れてしまいました。問屋街で小売業の見習いをしていた兄は、そのお店を辞めて、ささやかな母のお店を運営しながら、高校に通う私と2人で自宅で、母の看病をしました。
母の無念さはいかばかりであったことでしょう。母のガンバリズムで回復しましたが、左半身のマヒが残ってしまいました。それから15年くらいして、父の後を追うようにして、母は亡くなりました。
ただただ一生懸命に働いて・・・・・母の人生は何だったのでしょう。ある日、不自由な体で、母は、寝ている私のところに、お盆に乗せて、食事を運んでくださったことがありました。オコゲご飯でした。
それからさらに20年くらいして、私が作った「五行歌(五行の自由詩)」です。
オコゲご飯にも
ほのぼのと感じる
温かさは
私の大好きなお母さん
ありがとう
●水戸黄門として有名な水戸光圀は、自分の誕生日には、最も粗末な食事をしたという。吉川英治は、次のように書いている。
「きょうは、わしの誕生日ではなかったか」「さようにございまする」
「・・・だのに、なぜこのような馳走をたくさん、膳部へならべてくるか」「そのためわざわざ、那珂港の生きた鯛をえらび、お赤飯をさしあげるのでございますが」
「また失念いたしたの。光圀の誕生祝いには、かならず白粥と梅干ひとつでよいというてあるに」「あ。左様でございました」家臣はあわてて、膳部を退けた。
年に一度のことなので、膳部の係りも、初めのうちは、よくこんな失態を演じていたが、後々には、光圀の親思いが、家臣の個々の心にも沁み入って、決して忘れなくなった。
生母のひさ子が世を去ってから後である。光圀は、自分の誕生日には、かならず梅干と粥ですましていた。
(産褥の母のすがたを忘れぬのが何よりの誕生日・・・)と、侍臣へ云った。 (水戸黄門・・・梅里先生行状記)
この心を、もう少し掘り下げてみよう。
「なぜ、誕生日には粗末な食事なのですか」
と、光圀に尋ねると、こう答えるに違いない。
「なるほど、誕生日は、この世に生まれた祝うべき日であるかもしれない。しかし、この日こそ、自分が亡き母上を最も苦しめた日なのだ。それを思うと、珍味ずくめでお祝いなどする気にはどうしてもなれぬ。母上を思い、母上のご苦労を思えば、自分はせめて一年中でこの日だけでも、粗末な料理で母上のご恩を感謝してみたい」
中国の軍人・蒋介石にも、同じような話が伝わっている。
彼は母の死後、自分の誕生日には、朝食を取ろうとしなかった。
「子の誕生日は、母親にとっては、産みの苦しみを経験した日でもある。子としては、ただ、誕生日を喜ぶだけでなく、母の痛苦をもしのばなくてはならない。そのために食を絶ち、母のことを思っているのだ」
と周りの人に語っていたという。
古歌にも詠まれている。
「諸人(もろびと)よ 思い知れかし 己が身の 誕生の日は 母の苦難の日」
(以上は、木村耕一編著「親のこころ」1万年堂出版より)
●禅の言葉に「子生まれて母危うし(生まれてきたことに感謝)」というのがあるそうです。
(以下は「あったまる禅語」文・度会正純、書・石飛博光、アスコム社刊より)
子どもが誕生するときは、母子ともに生死がかかっています。医学が進歩した現代でも出産には喜びとともに不安もついてまわります。
生命の誕生ひとつ捉えてみても、私たちはさまざまなことがらを忘れがちです。今の自分がここにいるのは、母の存在なくしてあり得ないのです。
吉野弘の散文詩『I was born』に次のようなくだりがあります。
「・・・・・略・・・・・
父は無言で暫く歩いた後、思いがけない話をした。
・・・・・蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが、それなら一体、何の為に世の中へ出てくるのかと、そんな事がひどく気になった頃があってね・・・・・
僕は父を見た。父は続けた。
・・・・・友人にその話をしたら、或る日、これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると、口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても、入っているのは空気ばかり。見ると、その通りなんだ。
ところが、卵だけは腹の中にぎっしり充満していて、ほっそりした胸の方まで及んでいる。それはまるで、目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが、咽喉もとまで、こみあげているように見えるのだ。淋しい、光りの粒々だったね。
私が友人の方を振り向いて<卵>というと、彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。
そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは・・・・・。
・・・・・略・・・・・」
子どもを産むことが死をかけた行為であること、と同時に、少年の生がその母の死と引き換えに得られたかけがえのないものであるという現実を、受け身ではなく生き物の悲しい宿命として前向きにとらえてほしいと詩人は述べているのです。
「誕生日は母に感謝する日」を提案します。早く親元を離れて修学した私(注:「あったまる禅語」の著者)は、自分の誕生日には必ず母に電話をしてきました。かれこれ40年以上続きました。
「おかげさまで○○歳になりました」と報告してきました。母は自分の年令を忘れて「もうそんなになったのかい」と返答することが常でした。そして「正ちゃんが生まれた朝は寒かったよ」と毎回言うのです。
母が他界してからは母の位牌に向かって「おかげさまで・・・・・」と言っています。感謝の気持ちでいっぱいになり、自然に自分が素直になれ、優しくなれます。 |
最近のコメント