池内了(いけうち・さとる)著、晶文社の本の題名です。
●<著者紹介>1944年兵庫県生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程終了。現在、名古屋大学大学院教授。星、銀河、宇宙の起源と進化について、独創的な理論を展開する国際的な天文学者である。<著書>「わが家の新築奮闘記」(晶文社)、「お父さんが話してくれた宇宙の歴史1~4」(岩波書店)、「泡宇宙論」(ハヤカワ文庫)、「宇宙をあやつるダークマター」(岩波書店)、「宇宙はどこまでわかっているか」(NHK出版)、「科学の考え方・学び方」(岩波ジュニア新書)、「宇宙は卵から生まれた」(大修館書店)、「観測的宇宙論」(東京大学出版会)、「私のエネルギー論」(文春新書)ほか、多数。
●(1)本書の「あとがき」より
この六年ばかりの間に新聞や雑誌に書いてきた科学時評の一部である。読み直してみて、たった六年ばかりの間に、実にさまざまな科学・技術にかかわる事件が起こったものだと改めて実感する。同時に、たった六年しか経っていないのに、それらが遠い過去の出来事であったかのように思え、時間の流れの速さに驚いたりもする。私たちは加速された時間に追いかけられるようにアクセクと生きているのだなー、と思わざるを得ない。
これが私にとって科学時評をまとめた最初の本だが、時評を書くメリットは自分の生き方を少しは客観的に見られることにある。起こった事柄に対して自分はどう考えるか、本来あるべきスジは何なのか、そして自分自身それを言える資格があるのか、と最終的に自分の生き方に跳ね返ってくるからだ。
さらに、こうして本にまとめると、過去に起こったことを再度現在の目で見直すことになるから、当時の見通しの甘さや考え方の狭さにも気づかされ、以後の自分が言ったことに対して首尾一貫しているかどうかも気になってくる。だから、時評を書くなどという危ない仕事はやらない方が気楽なのだが、現代を生きる私たちの世代の責任を明らかにしておきたいという思いもあって続けてきた。
いつの時代でも、人は自分が生きた時代を特別な時代と思うのだろうけれど、私は二十世紀の後半から二十一世紀の前半にかけての100年間は人類史において特別な時代になるのではないかと考えている。五万年前にホモ・サピエンスとなって以来ずっと、人類はさまざまな工夫と発明によって生産力を高め続けてきた。
右肩上がりの発展路線をひたすら歩んできたのである。特に、十八世紀後半の産業革命以後、科学・技術がこれに加わって指数関数的に生産力が増大した。
その極限に達したのが二十世紀後半であり、大量生産・大量消費・大量廃棄という私たちの生き様が地球の有限性という壁に直面することになった。
このまま進めば人類の存続が困難であることが見え始めており、二十一世紀前半には、人類は、五万年の歴史において初めて、発展路線からの撤退を迫られることになるのは確実である。その意味で、私たちは特別な時代を生きていると言えるのではないだろうか。いわば、坂道を登る時代から坂道を下る時代へと転換する峠にさしかかっているのだ。
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少しは自分自身が生きた科学・技術の時代の神髄を映し出しているかもしれないと思っている。少なくとも、二十世紀の最後の10年間に何が起こったか、それは未来に対しどんな警鐘を与えていたのか、を振り返る素材になるのではないか、と。・・・・・・・・・・。
○後書きには、以上のように書いてあります。
この本を読みますと、「大量生産・大量消費・大量廃棄」を警鐘する本というだけでなく、著者の良心的な姿勢や人間性が伝わってくるとても貴重な著書です。驚くべき内容が、とてもわかりやすく書かれています。
以下、この本の中から、一部を抜粋させていただきます。
●(2)まえがきーー「成長類」に未来はあるか
・・・・・地球上の人類が絶滅に向かって歩んでいるとしか思えないことが多い。むろん、これまで地球に現われた生物種の99%は、遺伝子が悪くなったのか、運悪く隕石衝突に遭遇したためなのかわからないが、絶滅してしまったことを考えれば、ホモ・サピエンスも例外ではないのは確かである。
●いわゆる先進国に生きる私たちは、この数十年の間に、哺乳類の枠を超えた「成長類」とも呼ぶべき、新しい生物の「類」へと進化のジャンプを遂げつつある。それは人類が歴史上経験したことがない大変化であり、この進化のジャンプが今後100年も経たぬうちに私たちの子孫の絶滅につながりかねないと危惧するのだ。
●動物の体の仕組みには共通する基本デザインが存在するらしい。どの動物も、生きていく上で使うエネルギー消費量は、体重の四分の三乗に比例する法則があるからだ。人間も哺乳動物の一員として、この法則の例外ではない。
ところが、同じ体重で消費エネルギーを比較すると、興味深い事実が見えてくる。大腸菌のような単細胞動物を1とすると、蛙や蛇のような多細胞の変温動物は10となり、恒温動物である哺乳類は300にもなることだ。
●ところが、人間は恒温動物の仲間から外れるようになってきた。日本を含めいわゆる先進諸国では、生産や生活のために使うエネルギーまで含めると、体が使うエネルギーの40倍以上も消費しているからだ。大量生産・大量消費の構造によって、私たちは、哺乳類としてのヒトが使うエネルギーの40倍以上を消費する生物へと「進化」したと言えるだろう。この哺乳類とは質的に異なった新しい生物を、「人類」と区別して、「成長類」と呼ぶことにしよう。
●「成長類」の特徴をいくつか挙げてみよう。一つは、経済成長を生きる目標としていることで、そのためには環境が荒れようと、子孫が苦労しようが気にしないことだ。また、快適な生活のためには欲望を精一杯膨らませ、使い捨てと買い換えが得意なこともある。
さらに、忙しさに追いまくられ、じっくり考える癖を失っているのに、なお時間を加速しようとしているという特徴もある。みんな大都会に群れたがり、みんな同じ顔つきになっていることも挙げねばならないだろう。
つまり、「成長類」が「一様化」の道を突き進んでいるのだ。それは、種としての絶滅の兆しなのである。むだ・ずさん・重複・不適合・奇抜・異端などを抱え込んでいたからこそ、生物は進化してきたのだが、「成長類」はむしろそれらを排除しようとしているからだ。
私たちが「成長類」として、現在の生活様式を続ける限り、いずれ地球の許容量を超えて破綻するだろう。それも遠い未来ではない。・・・・・核兵器・原発・細菌の逆襲・熱帯林の過剰伐採・水と空気と土の汚染・生物多様性の危機、いずれに対しても何がしかの言い訳は必ずついている。「成長類」は絶滅するときも言い訳し続けるのだろうか。
●もっとも、正直言って、人類はそんなに簡単に絶滅するとは思ってはいない。地球環境の圧力が「成長類」の退化を促すと考えるからだ。環境の圧力とは、温暖化や気象変動による食料生産の減少や資源の枯渇による物価の上昇のことである。
そのため、これまでの集中化・巨大化・均一化の大量生産・大量消費のシステムから、分散化・小型化・多様化の身の丈に合った生産・消費システムへと転換せざるを得なくなるだろう。問題は、環境の圧力の犠牲をいかに少なく抑え、スムーズに転換が果たせるかである。
ときどき私は、現在の地球人よりさらに1万年先にまで生き延びた宇宙人を頭の中に思い浮かべ、さて、そんな人類はどんな生き様をしているだろうか、と想像してみる。・・・・・・・自律し、多様性を重んじ、物質的な欲望に恬淡(てんたん)とした生き様が当然となっているのだ。つまり、「成長類」から、真に知を愛するノヴ・サピエンスへともう一段の進化をしているのである。でなければ1万年も生き延びることができなかっただろう。
●(3)原子力発電を考える
①<もんじゅの事故>(p22)
★「原子力のことを考えると、私はいつも、ジレンマに似た複雑な気分になる。夢のエネルギーと信じ込んで原子力工学科を受験しようとした若いころを思い出すからではない。原子力を操作しようという人間の傲慢さに重大な疑問を持ち、私なりに批判活動もしてきたが、にもかかわらず原子力発電所は増え続け、私もその恩恵にあずかっているからだ。大規模な原発依存に反対しつつも、原発を遠くに押し付け、都市で安逸を貪っているジレンマである。
もう一つ。日本では、一見すると、反対派が協力であるが故に、また「核アレルギー」という健全な反応性を持つが故に、深刻な事故を起こさなかったというジレンマがある。原発推進者は反対派の動向を気にして、それなりに慎重な開発を進めてきたのだ。
危険性に無関心であったり、安全神話しか語られなかった国で大事故が起きたのだ。結果的に、日本は核エネルギー利用で世界のトップを走ることになってしまった。
★高速増殖原型炉「もんじゅ」の事故は、このようなジレンマの中で生きざるを得ない。現在の私たちの生き方を再点検するよう警告しているように思える。
まず第一に、これまで曲がりなりにも大事故を起こさなかったために、原子力の危険性に鈍感になっていたのではないかという点だ。
地球上のすべての営みは、原子が結合したり分解したりする「化学反応」で支えられている。その根本は太陽の光エネルギーで、せいぜい1000度の温度差で進む。一方、原子力エネルギーは、原子の芯にある原子核が融合、分裂する「核反応」によって生ずる。核反応は太陽の中心部で1000万度もの温度で起こっている反応である。
この温度差をみれば、二つの反応が本質的に異なっていることがわかるだろう。核反応は輝く星の世界、化学反応は生命が生きる惑星の世界の営みなのである。原子力利用とは、1000度を扱う化学反応の技術で、1000万度もの核反応を操作することなのだ。「あんな事故は日本では起こらない」という言葉を、何度聞いて、何度裏切られたことだろう。技術への過信(それによる手抜き)こそが人災の根源なのだ。
★二番目は、原子力の利用によって増大する放射能汚染や放射線被曝、膨大に蓄積されている放射性廃棄物、やがて来る廃炉処分と、さまざまな困難を子孫たちに押し付けている点だ。
私たちが豊かな消費生活を満喫する一方、子孫たちはその借金を払い続けねばならない。30年もたたぬうちに、何十という原子炉が廃棄されて林立している様を想像する必要がある。せめてその安全な管理方法を開発するのが、借金をし続けている私たちの世代の義務なのではないだろうか。
★第三に、世界的に見れば、現代は資源の枯渇が問題なのではなく、地球の浄化能力以上に資源を使い過ぎることの方が深刻な時代であるという点だ。むろん、100年というスケールで見れば、石油やウランや希少金属などの枯渇が問題となるが、今や100年すら射程に入れることができなくなっている。
★地球の環境が無限でないことをいち早く警告したローマ・クラブの「成長の限界」が刊行されたのは1972年であった。しかし、20年以上の間、この警告は無視され続けてきた。特に、世界で唯一増殖炉を推進しようという日本の論理は、資源が少ない国としてのエネルギー源の確保と右肩上がりの成長路線の維持である。
しかし、その論理は崩れ始めている。おそらく、私たちが採るべき方向は、資源やエネルギーの多消費構造を改め、せめて5年前のレベルに5年かけて戻り、10年前のレベルに10年かけて戻るという縮小路線に移ることではないだろうか。
★もんじゅの事故後、現場の責任者たちが早々に更迭された。私には、それが正当な責任の取り方とは思えなかった。まず、事故の原因がどこにあり、それは設計や建設や運転のどの段階でチェックできたのかを洗い出すべきなのだから。その中で、真に責任を取るべきなのが、科学技術庁なのか、動燃なのか、原子力委員会なのか、建設した企業なのかを明らかにすべきなのだ。
もっとも、あの阪神淡路大震災で高速道路が倒壊した原因を究明もせず、さっさと片づけてしまったお国柄だから、そんなまともな責任の取り方は望むべくもないのだろうが。
②<核とエネルギー>(p26)
★核反応は星の世界の営みで、太陽の中心部はこの反応によって1000万度となっていること、<略>「もんじゅ」の炉心では核反応が起こっているから、いわば「もんじゅ」は灼熱の太陽である。私たちは、小型の太陽を地上に設置しているのである。
一方、私たち地球上に住む生きとし生ける者すべては、化学反応で生の営みを続けている。原子の組み換えでエネルギーを取り出しているのだが、たかだか1000度の世界でしかない。そもそものエネルギー源は太陽であり、通常は太陽から来る光エネルギーを、植物が光合成反応で受けとめる過程が主なものである。
ところが、核反応の利用のためには、1000万度で発生する核エネルギーを、1000度で進む化学エネルギーに転換させねばならない。
具体的には、高圧の水蒸気にして発電機を回す。さて、この一万倍も温度差が異なる太陽と地球という二つの世界を、どのようにつないでいるのだろうか。
★核に関して言えば、地上の営みの1000度の技術で星の世界の1000万度を操作している危うさを、常に意識する習慣を身に付けることが眼目だと思う。私たちは、一万倍ものエネルギー差を平気で処理しようとしているのだ。だから、核操作は実に危険な技術であり、「安全」なのではなく、少なくとも日本では「大事故にならなかっただけ」と考えるのが健全な感覚なのである。
「安全」をいつも口にし耳にしているうちに、いつのまにか危険性のない技術と誤認しかねない。それが手抜きにつながり、大事故の引き金となっていく。
原子力施設事故の国際評価基準があるが、1991年の美浜2号機の事故がレベル2、最近起こった東海村の再処理工場の事故がレベル3(暫定評価)と、じわじわと事故レベルが上がっていることに危惧を覚えている。
安全慣れが原因なら、それこそ本当に恐いことである。事故レベルが上がるにつれ、連鎖的に暴走する傾向があるからだ。
今すぐに核エネルギー利用を止めることはできないだろう。・・・しかし、今後については、二つの問題点を考えてみる必要があるだろう。
一つは、このままエネルギー利用を増大させる発想の問題点である。むしろ反対に、5年かけて5年前の、10年かけて10年前、さらに20年かけて20年前のエネルギー利用のレベルに戻る必要があるだろう。1970年代の日本は貧しかっただろうか。
もし、いわゆる開発途上国が日本と同じだけエネルギーを利用するようになったら、たちまち地球環境は行き詰ってしまうだろう。まず、エネルギー多消費国がエネルギー需要を減少させることがない限り、地球問題は解決しないのだから・・・・。
もう一つは、現在の集中的で大規模な原発への依存体質のために、分散的で小規模な太陽エネルギー利用のような技術開発が遅れてきたという問題点を指摘する。太陽電池が依然として高価なのは、その開発投資が少なすぎたためであり、必要な研究がなされなかったためである。
現在の大量生産・大量消費の経済構造が、儲からない分野の基礎的な研究や技術開発をむしろ妨げてきたのだ。電力会社を保護する政策も背景にある。
つまり、現在を固定して考えず、また現在をそのまま延長して考えるのではなく、現在を批判的に見ることによって未来の新しい科学・技術を構想する。そんな生き様を若い人に求めたいし、私も及ばずながら力を尽くしたいと考えている。
③<レベル2からレベル3へ>(p33)
国際原子力機関(IAEA)は、原子力関連施設での事故の大きさを見積もる「国際評価尺度」を定めている。放射性物質の施設外への汚染と公衆の被曝、施設内部での汚染と作業員の被曝、防護施設の破損状況、の三つの分野で事故を評価し、軽微なトラブルの「0」から深刻な事故の「7」まで八段階で示す方式である。
旧ソ連のチェルノブイリ原発事故は「深刻な事故」の「7」、スリーマイル島原発事故は「施設外へのリスクを伴う事故」の「5」、91年の美浜2号機の原発事故は「外部への放射性物質の放出」の「2」で、これまでの国内最高であった。ちなみに、95年末の高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリウム漏出事故は、「安全を脅かす恐れのあったトラブル」の「1」と評価された。
今回、東海村の再処理工場で起こった火災・爆発事故は、施設内部での放射性物質の汚染や作業員の被曝から、レベル3の事故に相当すると暫定評価されている。
かつては軽微なトラブルで止めていた事故が、レベル1へ、さらにレベル2へ、そしてレベル3へと拡大しているのではないかと。そこに、原子力を扱う上での重大な問題点が隠れているように思えるのだ。
チェルノブイリにしろ、スリーマイルにしろ、発端は落雷や火災であった。それだけで止めていれば軽微なトラブルに過ぎなかったが、処理を誤ったり、これまで気づかれなかった設計ミスがあらわになったりして、連鎖的に事故レベルが拡大していったのだ。
これらの経験は、人間は必ず間違いを犯す存在であること、すべてが万全に予見できるわけではないこと、だから、宣伝されるほどフェイル・セーフが信頼できるものではないことを示している。
しかし、「もんじゅ」や今回の事故を見ていると、動燃は、安全神話に浸りきり、健全な批判を無視し、原子力を利権とする体質となっていることが明らかである。事実を隠し、嘘をつき、発表を遅らせ、平気でデータを改竄(かいざん)する。
放射能汚染を知らせないまま消防隊員を現場へ向かわせる。さらに問題なのは、事故を起こしたアスファルト固化は海洋投棄を前提とした過去の技術であって、本来運転を中止しているべきものであったことだ。いったん動き始めた事業は意味がなくなっても続けられる土建国家の顔がここでも見える。
(藤森:中越地震や今度のスマトラ島の大地震などで、瓦礫の下に埋もれている被害者を、何日振りかで救出したときの救助隊員たちが涙を流している姿をみました。それらを考えると、放射能汚染を知らせないまま消防隊員を現場に向かわせる神経にゾッとします。)
このような体質がある限り、事故のレベルは上昇し続けるだろう。約50基の原発が同じ発想で運転されているのなら、と思うとぞっとする。私たちは、原子力利用の実態について総点検し、同時に、私たち自身の生活の在りようを考え直す必要があるのではないだろうか。レベル7の事故が起こってからでは遅すぎるのだ。
ようやく私(著者)も、なけなしのサイフをはたいて、わが家の屋根に太陽電池パネルを貼る決心がついたところである。
④<行き詰った原子力政策>(p35)
★・・・・・日本の原子力政策が袋小路に入り込んだことがいよいよ明確になっており、とても現在を延長して20年、30年先まで考えられない。
「もんじゅ」を運転不能にしてしまい、アスファルト固化処理施設の火災・爆発事故で再処理工場を操業停止にさせ、放射能漏れで新型転換原型炉「ふげん」の廃炉を決定的にした、この三度も重なった動燃の事故・不祥事により、動燃の解体を始めとする原子力開発体制の見直しが急ピッチで進められており、日本の原子力政策が大転換するのは確かになってきた。
★・・・・私は、この程度の事故で済んだことで、まだしも、と思っている。核の操作は、1000万度に相当する太陽内部の世界を、この地上で再現させていることに対応する。
その危険性に鈍感になったとき、必ず大事故が起こる。それが起こる前に、事態を点検する機会が得られたからだ。
★明らかに、日本の核燃料サイクルという原子力政策の破綻が隠しようもなくなってきたのだ。
★日本には50基を超す原発が稼動しており、放射性廃棄物は日々蓄積している。それをどうするのか、なお原発依存を続けていくのか、廃炉が近づいている原発をどう処分するのかなど、これまでの原子力政策の後始末をしっかりつけねばならない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・などなど。
○(藤森)こういう日本の、「甘えの体質」、「既得権に守られてぬくぬくと経営する体質」、「一旦決められた事業・方針は、無駄・無理・間違いに気づいても続ける体質」の日本の現状を打破するのには、堀江貴文氏のような先鋭的・カリスマ的な人物を、時代が必要としているのかもしれません。
そういえば、4月12日の夕刊フジ「金融コンフィデンシャル」(須田慎一郎氏)欄に、興味深い記事が載っていますので、ご紹介します。
○「ここに来て、日本経団連の奥田会長とフジテレビの日枝会長とのギクシャクした関係が一気に表面化しつつあるのです。はっきり言って、この両者はまさに一色触発の状態にあると言っていいでしょう」
「そもそものきっかけは、奥田会長の出身母体であるトヨタ自動車が、それまで保有していたニッポン放送株の売却に走ったことにあるのです」
3月11日、トヨタ自動車はその保有するニッポン放送9万6000株(発行済み株式の0.29%)をすべて売却した。
東証の朝の時間外取引を利用する形をとり、1株あたり6000円で売却したもようだ。
「そもそもニッポン放送株に関して言えば、改めて指摘するまでもなくフジテレビがTOBを実施していた最中でした。しかしトヨタはこのTOBには応じないという意向を表明し、いくつかのニッポン放送の株主となっている企業が、このトヨタの動きに追随する構えをみせていたのです」
フジテレビ幹部が言う。
「われわれとしては、トヨタはTOBには応じないまでも、ニッポン放送株に関しては継続して保有してくれるものとばかり思っていました。ところが、“時間外取引”ですべて保有株を一気に売却してしまった。当然、このニッポン放送株はすぐさまライブドアが買いに入ったようです。トヨタとしてはライブドアが買いに入ることを十分に認識した上で売却したのでしょうから、われわれにとってはまさに敵対行為となるわけです」
言うまでもなくトヨタのこの行為は違法でも何でもない。
ライブドア幹部が言う。
「とはいえ、われわれにとってはあのトヨタのニッポン放送株の売却はまさに干天の慈雨とでもいうべきものだった。実は、あの時期、つまり3月11日当時、市場にニッポン放送株の売り物はほとんど出てこなくなっていて、その出来高は急速に細っていたのです。前日の3月10日の出来高は、ウチがニッポン放送株を大量取得する前に付けた2月7日以来の低水準となっていたのです」
この3月10日前後にライブドアが取得していたニッポン放送株の保有率は45%弱。
「このままの展開が続いたならば、3月末までに過半数のニッポン放送株を押さえることは難しかったかもしれない」
だからこそフジテレビは、トヨタを苦々しく思っているのだ。
○当初からトヨタ自動車は、フジテレビのTOBの買収には応じない上に、このような処置をしたのですから、少なくとも、フジテレビ側から見れば、敵対行為として映るのは当然です。
では何故、トヨタ自動車はこのような対応を取ったのか、私(藤森)流に解釈するならば、トヨタのように、世界の強力な自動車会社を相手に競争するということは、どれだけ自助努力をしてきたことでしょう。血の出るようなコストの削減や販売努力などなど。
ところが法律で守られ、この凄まじいデフレ下でもぬくぬくと高給を取っていて、女子アナだなんだとチャラチャラしているテレビ会社を快く思っていなかった、少なくても、日本企業の代表である日本経団連の会長として苦労している奥田会長にしてみれば、テレビ会社の甘い体質には、腹を据えかねていたとしても不思議ではありません。
日本の官僚の悪しき部分を、このデフレ下で自助努力もせず、困れば助けてくれと幼稚園生みたいな態度に出るテレビ会社に見い出して、いい機会だから風穴を開けてやれという思いがあったとしても不思議ではないように思えます。
そういう意味では、トヨタとライブドアには共通する部分があり、トヨタは阿吽(あうん)の呼吸で、ニッポン放送株を放出したと理解しているのですが、いかがでしょうか。
○そういえば、バブル前の銀行がそうでした。自助努力も無く、集めたお金を融資するだけ、それも、不動産のような「資産」を担保として取って融資するだけで、床の間を背負って接待を受け、高給を取っていました。
ところが多くの優良企業が、市場から直接資金を集め、銀行から融資を受けなくなると、バブル時の不良債権問題と併せて、各銀行は一人立ちできなくなってしまいました。
私の記憶では、戦後、トヨタは資金繰りに困り果てたが、銀行から融資を受けられず、非常に困窮した経験があるはずです。
そういう経験からも、大した自助努力もせず高給を取りながら、税金を投入してもらったり、当時の市場価格の10%以上も安い価格で、TOBに応じてくれというフジテレビに憤りを感じても不思議ではありません。
官僚や法律で守られているテレビ会社のようなところに、直接、文句・苦情はなかなか言えないものです。一矢を報いるのにちょうど良い機会だったのではないでしょうか。
○本日(4月12日)、テレビのニュースで、日本を代表する松下電器を始めとして、多くの大企業が、敵対的買収を避けるための工夫をし始め、松下電器は「ポイズン・ピル」を取り入れたと放送していました。若い堀江氏の大活躍で、日本の大企業がぞくぞくと眠りから覚めているようです。
<2005年3月15日「今月の言葉・納得水準について」、3月31日「今月の映画・ロング・エンゲージメント」ご参照> |
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