●納得水準とは、ある物事について、どの程度で納得するか、その高・低を意味します。
例えば、「雨はどうして降るの?」と疑問を持ちます。そのとき、「水分をいっぱい含んだ雨雲から降ってくるんだよ」と説明を聞いて、「そうなんだ」と納得する子と、「では、雨雲はどうしてできるの?」と疑問を持つ子では、疑問を持つ子のほうが、「納得水準」が高いといいます。
このように、疑問をさらに感じる人は、納得水準が高い人で、逆に、何かチョッと説明を受けるとすぐに納得する人は、納得水準が低い人ということになります。
●特に、子供のときに、子供が次々に疑問を持ち、質問してくることに誠実に答えると、子供は限りなく疑問を持ち、物事を深く理解し、知的好奇心は、驚くほど高まります。
逆に、様々な理由によって、ここが低いレベルでストップすると、知的好奇心はかなり押さえられてしまいます。●子供の年令が低ければ低いほど、親の知性・教養とは関係無く、子供の知的好奇心を高めることができます。親の側が、少し、「納得水準を高める」ということに関心を持っていれば、子供の好奇心や知的理解は、ビックリするほど高まるものです(英才教育とは違います)。
例えば、私(藤森)の長男が幼稚園のとき、「5/8チップ」というお菓子がありました(今もあるのかもしれませんが)。幼稚園の息子と電車の中でお菓子を食べながら、「はちぶんのごチップ」の説明をしました。何回か機会があり、電車の中で説明すると、やがて分数の意味を理解しました。子供は、親が思う以上に理解力があるようです。
●今から45年以上前のことです。私が中学1年生の頃、理科の時間に「やかんの湯が沸騰するときに、何故、空気のように泡が出てくるのでしょうか?」と質問しました。
しかし、(少なくとも私が)納得するような説明がなされず、私のわずかな知的好奇心が、しぼんでしまったことがありました。
こういうとき、いろいろな例を出しながら、話をふくらませて、面白く説明してもらえれば、もしかしたら、私のわずかな好奇心はふくらんだかもしれません。そしてもっと知性・教養が豊かな人間になっていたかもしれません。
●例えば、雨は何故降るのかという疑問から、無限の疑問を抱くことが可能です。雨雲は何故できるのか?地球は燃えていたのに、海水は何故あるの?何故しょっぱいの?波はどうして?
答えたものから、次々と疑問が湧いてくるはずです。もし、十分に答える能力がこちらの側にあれば、無限大の好奇心が湧いてきます。
多くの場合、説明する側が、苦しくなって、いい加減な説明しかできないために、子供の好奇心が、そこでストップしてしまうのではないでしょうか。
簡単なようでいて、わかり易く、面白く興味づける説明は、かなり難しいものです。その上、学校で、偏差値教育に傾いた教育が行なわれているならば、好奇心を抱けば抱くほど、いわゆる、より良い学校に進学するのは困難になるのではないでしょうか。
●例えば、ペリーが浦賀に来たのは何年でしょうか?という問題があるとしましょう。1853年であろうと、1854年であろうと、大したことではありません。それよりも、ペリーが浦賀に来て、日本がどうなったか、日本史にどんな意味があるのかなどの理解のほうがはるかに重要だと思います。
しかし、いくらこういうことを豊富に知っていても、1854年と答えれば「×」になります。こういうことを豊富に理解するよりも、無味乾燥的に年号を沢山暗記したほうが、競争に勝つという歪んだ社会になってしまいました。
●さて、少子化は人格育成に大きな問題があります。子供が沢山いれば、外で、大勢の子供たちが集まって、好奇心おおせいな遊びをするでしょうが、核家族化と、少子化、それとモータリゼーションの結果、外で、子供たちだけで好奇心いっぱいに、自由に遊ぶことが非常に困難になってしまいました。
そして学校では、偏差値に傾いた詰め込み教育ですから、考えたり、いろいろ横道にそれた発想などが、余り許されなくなってしまったようです。
●私は心理学とか、人間関係や自己成長などの精神的な分野(特に、深層心理の分野)で仕事をしていますが、心理学のセミナーや企業の研修をしていて、この分野における「納得水準」の低さには驚くべきものがあります。
昔、ロボトミーといって、凶暴性のある人の「脳」に少し外科的手術をして、無気力な人間にするというのがありました(今は、禁止になりましたが)。
私の分野に限ってみますと、知的好奇心といいますか、「納得水準」の低さは、まさに、「脳の外科手術」が行なわれたのではないかと思うほど「納得水準」が低いことに驚きます。
●私は、あるボランティアの勉強会に定期的に参加していますが、私の分野である「自己成長」とか「人間関係向上」の分野に限定しますと、この納得水準の低さに、いつも驚いています。目に見えない「精神活動」の世界は驚くべきものがあります(私が専門家として深く判るのは当然ではないかと思われるかもしれませんが、一般の方でも、私程度に本を読んでいる方、私程度に心理学のセミナーに参加している方は、驚くほど沢山います。
ましてや、広い意味での心理学の分野において、「指導者・専門家」の立場にある方々は、私よりもはるかに多く読書し、またはるかに多くのセミナーに参加して、高度な情報に沢山触れています)。
ところが終了後の懇親会で、名刺交換などをして、その日の講師や参加者の背景を知ると、これまた驚くほどの・・・・・いわゆる一流の会社の幹部であったり、いわゆる(超)一流の大学を卒業されていたりして、私の専門以外の分野に関する豊富な知識・教養の深さは、驚くほどすばらしいものがあります。このアンバランスは一体何なんでしょうか!?
●特に医学の分野での「納得水準」の低さには、驚くべきものがあります。最近、「免疫革命」(新潟大学院医学部教授・安保徹著、講談社インターナショナル)という本がヒットしています。
私は、余り本を読まないのですが、恐らく、この本は名著であろうと思います。その名著である「免疫革命」の本の中に、例えば、(p74)「このように根本的なところまで見通して病気の治療というものを考える研究は、現在の医療には、残念ながら欠けています。私たちが研究にとりくむまで、ほとんどなかったような状況でした。西洋医学が、炎症を止めることがすなわち病気が治ることと思ってしまったせいです。それで方向をまちがえてしまったのです。」とあります。
●この本を読んで、二つのことで驚きます。
①(このように根本的なところまで見通して病気の治療というものを考える研究は、現在の医療には、残念ながら欠けています)これと同様の疑問を感じて、すでに数十年前に、九州大学医学部教授の故池見酉次郎先生が「心身医学」を創始していらっしゃいます。沢山、本も書いていますし、講演も沢山されましたし、テレビにも出演されています。学会の会長もされました。その他、外国でも、この分野における日本を代表する先生として、大きな評価をされています。
これだけ凄い活躍をされたのに、大研究者でいらっしゃる安保先生がご存じなくて、「私たちが研究にとりくむまで、ほとんどなかったような状況でした」と認識していることは、大いなる驚きです。
②次に、免疫力が落ちるのはストレスが原因だと書いてありますが、ストレスに関しては、驚くべき「納得水準」の低さです。過日、週間ポストに「花粉症」のことを書いていましたが、これが根本原因?という驚くべき水準でした。西洋医学に関しては、安保先生は最高レベルの先生だと思われます。
しかし、こと心理の分野になると、免疫低下は「ストレス」であると述べていても、そのストレスの原因となると、私でさえチョッと待ってくださいと言いたくなるような低レベルです。
安保先生が心理の分野が不十分であることを、私がとやかく言いたいのではありません。「根本的なところまで見通して病気の治療を行なっている」と述べているから申し上げているのです。
「西洋医学的納得水準の高さ」と「心理学的納得水準の低さ」とのアンバランスは一体どこからくるのでしょうか。
○さて、「納得水準」の立場から、今、メディアを賑わせている「ライブドア」の「日本放送」買収の問題に触れてみたいと思います。
多くの場合がそうですが、今回も、中身が余り整理されずに議論されているように思われます。つまり私から見ますと、納得しかねるような形で議論されているように思われます。それがために、多くの人たち、特に若い人たちが、新進気鋭のカリスマ的な経営者である「堀江貴文」氏を応援しているように思われます。
そこで、今回のこの問題を、私なりに論点を整理してみたいと思います。
①純粋に法律的な観点からの問題
②マネーゲーム的、拝金主義的観点からの問題
③日本文化的な観点からの問題
④時代の変革的な観点からの問題
概ね、以上の4点からの議論があってよいように思われます。
①の純粋な法律的な観点からの問題は、地方裁判所でひとまず、ライブドア側の勝利を宣告しました。急な判決なため、攻める側は有利でも、反証する日本放送の側は、資料集めや、抽象的なテーマの立証に苦労しているものと見られます。
しかし、いずれにしても、第一歩の段階では、法律的にはライブドア側が勝ちました。そして多分、メディアを通して感じられる「純粋法律論」では、ライブドア側に今後も有利なようです。
また市場や財界も、このような判決を支持しているようです。
②次に、マネーゲーム的、拝金主義的な観点からの問題を論じて見たいと思います。
◎今日(3月12日)のテレビ放送でも、コメンテーターたちが発言していましたが、お金があれば何でもできる、愛でも何でもという考えを、今の時代の、特に若い人たちは本当に支持するのでしょうか?日本では昔から「守銭奴(しゅせんど)」という言葉で、軽蔑的に言われています。
勝ち組、負け組などと言われていますが、それぞれがそれぞれに存在できるべきで、特に地方では、駅前の商店街がシャッター街になってしまうように、巨大資本が、小さな商店街を蹴散らすような社会で良いのでしょうか。
また、勝ち組の会社の中でも、勝ち組の社員と、負け組の社員が存在することになります。勝ち組はどこまでも利益を享受し、負け組はどんなに悲惨な状況(リストラや倒産)になろうとも、お金の力で、強いものが勝つという論理でよいのでしょうか。
◎堀江氏が、日本放送という会社の経営に興味を抱き、買収しようとするならば、私も賛成ですが、マネーゲーム的、拝金主義的に、単に儲かるという理由だけで、つけこむような乗っ取りを計画する行為に、多くの方々は賛成しているのでしょうか。
彼は、当初、新聞やテレビは不要になると述べていました。新聞やテレビを殺していく、それを買収して自分がやれば効率が良いと言ったそうです。その会社を何故、買収したいのでしょうか。また、多くの専門家も述べていますが、経営するための「理念・哲学」が具体的に語られていませんでした。
その後、メディアでいろいろ言われて、とってつけたように買収の目的を語り始めましたが、メディアとの融合は、すでに彼が大好きであろうアメリカでは、失敗しているようです。
◎株主がどうであるとか、経営がどうであるとか言っていますが、わずか半年くらいの間に、プロ野球の買収、地方競馬場の買収、それから今回のメディアの買収、それも不要だの殺すだのと、ほとんどコンピューターのゲーム感覚です。
どう考えても、企業を商品とみなして、その商品を買えば儲かるか否か、築地の魚市場で魚を競り落とすように、単なる乗っ取りや、拝金主義的な観点から、買収を仕掛けたということ以外に、買収を仕掛けた理由がよくわかりません。
知性的に、色々理屈を述べる、理屈巧者ではありますが、メディアを経営する情熱とか、感性や愛情というものが伝わってきませんし、そこで働く社員の気持ちを考慮しているようにも感じられません。
「交流分析」で言えば、知性優先の(A)的人間で、会社四季報を顕微鏡で眺めながら、ひたすら儲かる会社を探しているように思えます。
東大に入学した方ですから、非常に頭がよく、理論構成が優れている上に、交流分析の(A)タイプであれば、多くの方が議論しても、理屈ではまるっきり歯が立たないのではないかと思われます。
◎お金があって、法律に違反していなければ、何をしても良いのでしょうか。2~30年前に、巨人に入団した怪物・江川卓氏は、空白の1日を利用。ドラフト会議で阪神は指名権を得たが、翌年のドラフト会議の前前日に指名権が切れたため、江川氏はドラフト会議の前日に巨人と契約をしました。純粋法律的には、彼は違法行為を行なっていませんでしたが、長い間、ダーティの批判を受けました。
しかし、今回はダーティという批判は聞こえてきません。今や、日本の批判精神(恥ずかしい)が弱くなってしまっているのでしょうか。
◎ビジネスに関しての立派な講釈はしていますが、人間としての温かさとか、人物を思わせる部分が余り感じられないのは寂しいものです。単に金儲けのロボットのようで、「○○オタク」という言葉がありますが、彼は「金儲けオタク」と呼びたくなるような感じで、この辺りは、多分、天才的なのでしょう!
(週間現代、3月26日号と前号で、彼の生い立ちが詳しく掲載されています)。
今の日本は、幼児の虐待など、根本的な人間性が壊れかけているように思えますが、やはり精神性よりも、拝金主義的な精神が蔓延していることと、多分、無関係ではないのではないでしょうか。
③日本文化的な観点からの問題
◎ケネディ元大統領は、日本に来たとき、興味のある日本人は「上杉鷹山(うえすぎようざん)」だと言ったそうです。この上杉鷹山は、藩の財政を立て直すために、50年間、一人のリストラもせずに、成功させた江戸時代の米沢藩主です。
◎日経連の奥田会長は「苦境の中にあっても、人間を大切にする企業が結局は資本市場の評価を得る」(1999年8月6日、読売新聞)と語っています。
◎「リストラという間引き」と題して榧野信治氏が、読売新聞「オフサイド欄」で「・・・これが野菜栽培の宿命といってしまえばそれまでだが、どうにも、間引かれる側に申し訳なく、つい『ごめんなさい』といいながら作業をする。・・・・農作業でも企業社会でも、適者生存の原理から言えば、間引きは正しい行為かもしれない。だが、自分が間引かれる側に立たされた場合、どう考えるのだろうか。また、間引く側に立ったら、それはそれでつらいのだろうな・・・」(1999年8月7日)という配慮がある買収のようには思えないのは私だけだろうか?
◎お買い場革命・・・東京・新宿に本拠を置くデパートの伊勢丹が「お買い場革命」を初めて三年になる。
消費不況下に高島屋が進出してくる「新宿デパート戦争」のさなか、「百十年間売り場でした」と新聞に大広告を打ち、創業以来の「売り場」という呼び方を「お買い場」に変える、とまさに革命的な宣言をしたのだった。
「百貨店の主役はお客様。あらためてお客様第一に徹しよう、それなら売り場でなく、お買い場ではないか、というのがこの革命の思想でした」(週間文春、1999年7月29日号)。
◎高橋是清は後年、「人生の妙味」についてつぎのように語っている。
「私の半生は、すでに人に知る通りであって、多くは自分の不明から、いたずらに無用の波瀾をかさねてきたわけであるが、しかもその間、ただわずかに誇りうるものがあるとすれば、それはいかなる場合に処しても、絶対に自己本位に行動しなかったという一事である。
子供の時から今まで、一貫して、どんなつまらない仕事をあてがわれた時にも、その仕事を本位として決して自分に重きを置かなかった」(平成10年7月1日、津本陽、新聞名は不明)
◎電車の中で、堂々と化粧する若い女性を見て、今の若い方々はなんとも思わないのでしょうか。女性のたしなみとしての、チョッとの化粧直しはともかく、自宅ですべき濃厚な化粧まで電車内ですることを、皆さんはどのように思いますか。
若い男女が濃厚な抱擁やキスシーンを電車の中で行うことなども、法律に違反していないので問題ないことになります。お年寄りや体の不自由な方に席を譲らないことも、法律を犯してはいません。
私が若い頃、ある小さな会社の総務課長をしているとき、課員の男女がラブラブになり、朝、出社するときも一緒に来るようになりました。
私がこのことを注意すると、彼は、法律を犯していないとは言いませんでしたが、似たような論法をしてきました。そこであるたとえ話をして理解してもらうことができましたが、モラル的なことを、法律論に置き換えられると、対応に苦慮することになります。
④時代の変革的な観点からの問題
織田信長が桶狭間の戦いで、時の大大名、今川義元を破って頭角を表わしたように、幕末明治維新期のように、終戦後のように、大変革期には、理屈や良し悪しを呑み込んで、怒涛のような、濁流のような激変があるのでしょう。
早い者勝ち、強いもの勝ち。
また、フジテレビや日本放送の側にも問題点は当然あるのでしょう。そこに切り込んだ堀江氏は、旧体制や旧体質が壊されるという意味では、革命的であり、革新的であるのでしょう。こういう点が、特に若い人たちを中心に好感を持たれているものと思います。
すべての議論を乗り越えて、良し悪しも正義も、法律の不備も、怒涛の如く押し流して、アメリカナイズされた日本の辿る道であり、そういう意味で堀江氏は偉大な先覚者であるのでしょう!
ある方がコメントしていましたが、堀江氏は破壊者であるが、創造者であるか?これはピッタリな表現のように思えます。破壊者である堀江氏は、本能寺の変に遭遇する織田信長になるのか、豊臣秀吉になるのか。
またある意味で、堀江貴文氏は竹中平蔵大臣に共通する資質の方のように思えます。
<この続きは、第32回「今月の映画」の「ロング・エンゲージメント」にあります。> |
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