●最近、私は、ここで述べることに、少し、萎縮していることに気がつきました。
それは私が、「学問を余りやってこなかったこと」「本を余り読まないこと」のために、その言葉に関しての正しい知識(定義的知識)が十分でないことが原因でした。
それぞれの分野の信頼出来る専門家の本を読んだり、情報に触れる機会があると、世の中、余りにもいい加減な情報が氾濫していることに驚いてしまいます。
それも一般の方々ならばいざ知らず、その道の専門家・学者と称する人たちの余りにもいい加減な情報が、多く氾濫していることに驚かざるを得ません。
特に心理や宗教などの精神世界は、目に見えない・確認できない世界だけに、余りにも酷い情報が氾濫していることに驚かざるを得ません。
●そういう中で、時々、その道の実力ある専門家が、怒って書いている本に出会うことがあります。例えば、ある友人に教えていただいたのですが、余りにもひどい翻訳、誤訳に、上智大学教授の別宮(べっく)貞徳先生が「こんな翻訳読みたくない」(1985年・文芸春秋社刊)という本を書いて、多くの実例を挙げています。
私はまるっきり英語はわかりませんが、この本を読みますと、単なる誤訳だけでなく、日本語そのものの意味が不明なのには驚きます。
●また、「ゾウの時間ネズミの時間」(1996年、中公新書)の著者、東京工業大学教授の本川達雄先生は、あとがきで・・・・・
『「相手の世界観をまったく理解せずに動物と接してきた。こんな態度でやった今までのぼくの研究はどんな意味があったのか?」と呆然とした。それと同時に、こんな大事なことを教えてくれなかった今までの教育に、怒りを感じた。本書は怒りを「てこ」にして、自分自身への反省をこめて書いたものである。』と書いています。
●マスコミに掲載されている、私が専門とする「深層心理」に関して、「えっ!」と驚くことが多いです。
例えば、最近の名著といえば、「免疫」関係の本です。
著者の安保先生は医学者として、当代随一の人気があるのではないでしょうか。聞くところによりますと、セミナーには多数の参加があるそうです。
しかし、本を少し読んでみましたら、もうすでに数十年前に、日本の心身医学の創始者・故池見酉次郎先生が述べていることの領域を、ほとんど出ない内容でした。
●もし、安保徹先生(新潟大学大学院医学部教授)が池見先生の書物に触れていれば、かなりの影響を受けているのではないかと思います(もしかしたらご存知かもしれませんが?)。
「・・・・つまり、ストレスによる極端な免疫力低下の事態が発病のきっかけになっている場合が多いのです。」と「免疫革命」(講談社インターナショナル刊、p66)で述べていますが、心身医学や深層心理・発達心理に詳しい人ならば、これは今や常識です。
続いて「粘膜障害と組織障害、さらにそこから膠原病の謎を解いたら、多くの病気の謎が解けてきました。」と述べています。
●しかし何故、「免疫力」が低下したり、「交感神経や副交感神経」が正常に働かなくなるのでしょうか。それを安保先生は、ストレスが原因と述べていますが、それでは、そのストレスの原因は何かということになると、どうしても純粋の西洋医学者の限界で、それまでの深い医学的研究とは対照的にハッキリしなくなってしまいます。
そこを、数十年前に池見先生は乗り越えて、医学と深層心理(防衛機制など)を融合して、「心身医学」を創始されました。
●また、過日、「武士道精神」について述べましたが、私を含めて、多分、多くの方が、明治の武士道、それも新渡戸稲造先生の書いた書物を下にした「武士道」や「武士道精神」を認識しているのではないでしょうか。
この場合も、このホームページで「武士道精神(今月の言葉・第28回ご参照)」を書く前に、本当の武士道の本を読む機会に恵まれたから良いようなものの、そうでなかったら恥ずかしいことになっていました。
新渡戸先生の「武士道」は、考えてみますと、確かにおかしいことが判りました。何故なら、英語の題名が「Bushido、the soul of Japan」となっています。つまり「日本の魂(精神)」となっています。
武士の時代は「士農工商」で、「武士」は、日本全体でいえば少数の管理者です。これを「Japan・・・日本」というのはおかしな話です。
第27回「今月の映画」「隠し剣 鬼の爪」で述べたことを再録します。
「新渡戸武士道は、明治国家体制を根拠として生まれた、近代思想である。それは、大日本帝国臣民を近代文明の担い手たらしめるために作為された、国民道徳思想の一つである。」
「はっきりいえば、今日流布している武士道の大半は、明治武士道の断片や焼き直しである。それらは、武士の武士らしさを追究した本来の武士道とは異なり、国家や国民性(明治武士道では、しばしば『武士道』と『大和魂』が同一視される)を問うところの、近代思想の一つなのである。」(「武士道の逆襲」菅野覚明著、講談社現代新書より)
●こういうようなことを色々体験しますと、自分の述べていることが、本当に正しいのか否か、自信が無くなってきます。そのため、ついつい書物を探して、意味が違わないように、と考え始めると、書くことが慎重になってくる自分が感じられました。
私が主宰しているセミナーも「体験学習講座」と銘打つように、学問よりも「体験的理解」「自己成長に役立つための理解」を重視してきた私にとって、定義的に解釈することは、非常に苦手です。
●私はよく「職人と学者」の違いをいいます。職人は自分のやっていることを判りやすく解説することが苦手です。例えば日本刀を作る職人の方が、何度に鉄を暖めて、どのくらいの力を込めて、何回叩いて、鉄を鍛えるか、などのことは、多分、よく分からないのではないでしょうか。それは「勘」とか「実感」とかの世界だからです。
私も心理の世界の職人を自称しています。「理論・理屈」よりも、目の前にいらっしゃる方が、実際に自己成長(自己回復)されることをお手伝いしています。
●そのため、もともと浅学非才である上に、一つ一つのことを、五臓六腑に染み渡るような理解を第一に取り組んできましたので、純粋学問的な勉強は、まったく恥ずかしいレベルです。
そのような浅学非才の私の述べることであることをご理解いただいて、不十分なところは、是非、メールなどでご助言いただければ幸いです。
●さて、本題の「無分別」について「私見」を述べます。
私たちは、誕生時は皆、「無分別」です。そこから主として「両親」との関わりから、いろいろなことに対しての「価値観」、つまり「分別」がついてきます。
やがて私たちは色々なことを、「良いか悪いか」という「価値観」、つまり「分別」して物事を判断するようになりますが、その「分別・価値観」は正しいのか疑ってみる必要があります。
それを徹底的にチェックするのが「認知療法」です(17年10月9日のセミナー「認知療法と武士道精神」ご参照)。
実は私たちは、いろいろな汚染された価値観を、正しい価値観だと錯覚しているものです。そういう価値観が自分の「大人としての分別」だと思っているのが、私たち人間の姿だと言っても過言ではありません。
●例えば、勉強をしない我が子に、こういうことを言わないでしょうか、「勉強をしないと、将来どうなると思っているの?!」。
そういう親御さんに、「ではあなたは、どうなるかわかりますか?」と尋ねると、ご本人は「わからない」と言います。勉強をさせたい!勉強をしないと将来が心配だという気持ちはよくわかりますが、勉強をしない子が必ずしも悪い人生を生きるということは誰にもわからないはずですが、でも私たちはついこのようなことを言いたくなるものです。
つまり、「勉強をしない子はダメだ!」という間違った「分別」がついてしまっているんです。
●また、学校へ行かないとダメ、ノンビリ屋はダメ、宿題をしないとダメ、スポーツできないとダメ、乱暴な子はダメ、朝、時間通りに起きてこない子はダメ、散らかす子はダメ、だらしない子はダメ・・・・・・!!!!。
このようなダメ、ダメの環境の中で育つと、その子は将来、何かをやって上手く行かないときに、自分はダメだ、ダメだと、自分いじめをして、自らを苦しめてしまいます。
●その子の、そのことが本当にダメなのではなくて、ダメだ、ダメだと言われて育つことこそが、その子をダメにしていることがわかります。
ダメだと思っている人の多くが、実は素晴らしい要素を含んで持っているものです。
つまりダメだからダメだと思っているのではなく、ダメだ!ダメだ!といわれ続けてきた結果として、ダメな自分を確認する生き方(これを「交流分析」では「ラケット感情」といいます)を選んでしまうために、ダメになっているということに気づくことが大切です。
●例えば、100のことができる人が、150を目標にすれば、必ずダメな自分を確認できるはずです。200、300を目標にすれば、これはもう完璧です。そうやって自分いじめをするための「生き方」(クセ)に気づくことが大切です。
●「無分別」は、仏教用語ですが、私たちは上記のように、汚染された価値観を身につけていますので、身につけた価値観を、もう一度、価値付けしない価値観(無分別)に立ち返ることを意味しているのだと思います。
幼児のように、何が良くて、何が悪いかを全く理解できない段階では、とにもかくにも、何か、よりどころとなる「価値観・分別」をつける必要があります。
幼児は、鳩に上げたポップコーンを大地から拾って平気で食べたり、箸や歯ブラシを親子で平気で共用していても、ある年令になると、汚いと言い出します。
●さて、自分の身についた「価値観・分別」を、一度チェックしてみませんか。一度「無分別」の状態に戻してみませんか?いろいろなことに気づき、いろいろな物事が、新たに見えてくることと思います。
それは「無分別」という「分別」といっても良いでしょうし、「分別力の極致」が「無分別」といっても良いのではないでしょうか。「無分別」は「分別」がつかないということでは決してありません。 |
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