2005年10月15日 第39回「今月の言葉」
「洗脳と自己成長」について
パート②

●第36回の今月の言葉「洗脳と脚本について」の中の、下記の部分を再掲載します。

「対談・・・洗脳実験の病理が潜む日本社会」<苫米地英人(脳機能学者)・宮崎哲弥(評論家)>
苫米地・・・電話で精神を操作することは、もちろん技術的に可能。「洗脳原論(苫米地著、春秋社)」では、それはアンカーと呼んでいる手法ですが。
 エリクソンの本を読むと、何十年も経ったアンカーが効いている例というのがあります。自分の女学生の弟子に、「将来、握手したら眠る」というアンカーをかけておいた。その後何十年かして、その女学生が有名な先生になったときに、あるとき学会でエリクソンと会って握手したら、本当に寝てしまったということです。だからエリクソン級のうまい催眠は、それぐらいの長さで効くわけです。
 それどころか、日本のある有名なカルトは、同じような手法を使っているんではないかと。あるとき某国から指令が下ると、その信者が一斉蜂起して、自殺的な攻撃に出ることも考えられます。
 もっと言えば、反カルト団体を装って、じつはそのカルトがコントロールしているという例がアメリカではある。信者自身は解けたと思わされて、実際信者を脱会させたかもしれない。でもアンカーを解かずに表面だけ脱会させて一般市民に戻しているとしたら、アンカーを作動させるような指令が出たとき、いきなり過激な行動に出たりしても不思議ではないですね。

苫米地・・・・・「洗脳原論」のひとつの結論として、とりあえず日本では、メジャーレリジョンである仏教を信じたらどうだろうかと思いました。宗教の世界には、それなりに縄張りがありますよね。・・・日本は今、ほとんどロシアのように宗教的縄張りがない状態に等しい。
宮崎・・・・・そこに力の空白があるわけですね。ヴァキュームになっているから、カルトでもオカルトでも何でもかまわず吸引してしまう。だから、その真空を別のもので充填してしまえばよいのです。
苫米地・・・・・じゃあ何で充填しようかというときに、・・今の日本社会では精神科医よりも、お坊さんのほうがその役割を果たせると思いますね。変なお坊さんもなかにはいるから、一概には言えないけど。
宮崎・・・・・文化の伝承性や親和性を考えれば、やはり仏教が有望でしょうね。日本人の行動様式や行動文法の基本は、やはり仏教的世界観です。まあ仏教といっても、私の信奉する「縁起と空の仏教」というよりは、「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」的なアニミズムと無常の時間観念が主流ですけどね。
苫米地・・・・・いちばん怖いのは、宗教の空白。それを埋めるものであったら、社会の伝統宗教のなかで、メジャーなものを受け入れることに何の問題もありません。
宮崎・・・・・まあ仏教でいえば、やはり根本に立ち戻れ、開祖ブッダや大乗八宗の祖ナーガールジュナにかえれ、というのが私の立場です。
そのうえで、個々人の精神の中核に生じた空洞を埋めていくことができれば、やがて社会を安定状態に導くことができるのではないでしょうか。

●これから述べる事は、多分、ほとんど全く語られていないことですので、うまく表現できるかどうか、チャレンジしてみようと思います。もし適切な文献や情報をご存知の方がいらっしゃったら、是非、私(藤森)に教えてください。
 さて、上記対談の中の・・・・・
 <エリクソンの本を読むと、何十年も経ったアンカーが効いている例というのがあります。自分の女学生の弟子に、「将来、握手したら眠る」というアンカーをかけておいた。その後何十年かして、その女学生が有名な先生になったときに、あるとき学会でエリクソンと会って握手したら、本当に寝てしまったということです。だからエリクソン級のうまい催眠は、それぐらいの長さで効くわけです。>

また、次のくだり・・・・
 <もっと言えば、反カルト団体を装って、じつはそのカルトがコントロールしているという例がアメリカではある。信者自身は解けたと思わされて、実際信者を脱会させたかもしれない。でもアンカーを解かずに表面だけ脱会させて一般市民に戻しているとしたら、アンカーを作動させるような指令が出たとき、いきなり過激な行動に出たりしても不思議ではないですね。>

 前回(第38回)の「今月の言葉」「洗脳と自己成長」で私(藤森)は次のように述べました・・・・・
 <さて、結論です。今回の「洗脳と自己成長」のテーマですが、交流分析で言う「脚本」とは、「洗脳」のことで、つまり私たちは両親や「環境」から「洗脳」されています。
生まれたときの、完全な無防備状態で、脳が白紙の状態での洗脳は、成人になってからの「洗脳」とは桁違いに効果的になされます。「脳」が無防備で「白紙」の状態の「洗脳」は、完璧に行なわれてしまいます。>

 上記の「催眠」とか、また「カルト」のコントロールと全く同じ事が、実は、私たちは両親からなされています。それは私が考える「洗脳」で、交流分析では「脚本」といいます。状況的には「洗脳」のほうが相応しいのではないでしょうか?
またエリクソンの例でいいますと・・・・・
 <自分の女学生の弟子に、「将来、握手したら眠る」というアンカーをかけておいた。その後何十年かして、その女学生が有名な先生になったときに、あるとき学会でエリクソンと会って握手したら、本当に寝てしまった>

 これは自立し独立して生活しているように見える人(一般の人にはこのように見えるものです)が、例えば親の死に際して、親の仕事を引き継ぐなどはこの例であると私は考えています。政治の世界で、父親が急死したために選挙に出るなども同様で、「アンカーが効いている」という表現ができると言えるのではないでしょうか?
親が病気で倒れたとき、自分の仕事を捨てて、親の家業を継ぐという話はよく聞きます。結婚に反対されて、両親の勧める相手と結婚するなどもそうでしょう。
進学や職業や趣味なども、本人の意向よりも親の意向が優先するということはよくあることです。自分の好きな道を進もうとしたり、自立・独立しようとした時、母親が寂しそうな顔をしたために、その道を断念するなどは、皆、アンカーが効いている証拠です。

 私たちは「催眠」・「洗脳」にかかっているために、親の発する言葉の一言一言が赤の他人とは違う拘束力を発揮します。特に強い拘束力があるものは「罪悪感」です。子供に罪悪感を持たせることで、親は強力な拘束力を発揮します。アンカーを最も効かせるものの一つが「罪悪感」だと私は思っています。
両親の「アンカー」・「脚本」・「洗脳」がいかに強力かを理解する良い機会は、親の「死」です。親の「死」の後に、私たちはいかに「アンカー」が効いているかを知らされます。特に「罪悪感」という強烈なアンカーを!!

●次に、私たちの目に見えないために、ほとんど全く理解されていない課題が、次の部分です。
<苫米地・・・・・「洗脳原論」のひとつの結論として、とりあえず日本では、メジャーレリジョンである仏教を信じたらどうだろうかと思いました。宗教の世界には、それなりに縄張りがありますよね。・・・日本は今、ほとんどロシアのように宗教的縄張りがない状態に等しい。
宮崎・・・・・そこに力の空白があるわけですね。ヴァキュームになっているから、カルトでもオカルトでも何でもかまわず吸引してしまう。だから、その真空を別のもので充填してしまえばよいのです。>

 ここのところはある意味で、現代の最も重要なところかもしれません。いつの時代でも私たちは精神的に未熟な存在です。そして(心理的・精神的)心はスカスカ状態です。
しかし、50年以上前の時代は、生きるのに精一杯であったために、私たちはまず「命」を大事にしてきました。ところがその時代と比べると現代は、「疫病」や「飢餓」や「戦争」などによる「死」の恐れが、極端に少なくなりました。
その結果、人生において何が「価値観」の上位に来たかといえば、「学校の成績」や「学歴」や「会社の良し悪し」や「ブランド品」などがより重要な位置を占めるようになりました。

 しかし、これらは「心のスカスカ」を埋めてくれるものではありません。「心のスカスカ」は「虚しさ」を感じるもので、スカスカの度合いが大きければ大きいほど、虚しさも比例して大きくなります。
 そしてこの虚しさに耐えがたくて、私たちは無意識的に「代替品」で埋め合わせようとします。その「代替品」が社会的に評価を得られるようなものであればその人は「社会的立場」を良くしますが、社会的に好ましくないことであれば「社会的立場」を悪くします(ダメ人間とか頑固とか、あるいは非行や悪人などと呼ばれるタイプ)。
 しかし、「心のスカスカ」つまり「生きる虚しさ」を「代替品」で埋めようとする観点から見ると、両者の動機は同じものです。

 「疫病」や「飢餓」や「戦争」などによる「死」の恐れが強い時代は、「命」を守る事、生きる事に必死で、日々、心のスカスカを感じている心理的・体力的・時間的なゆとりがあまりありませんでした。
 しかし、日々において「死」の恐れが少なく、経済的に豊かになると、心のスカスカが表面化してきます。そこで「心のスカスカ」からくる「虚しさ」を少しでも埋め合わせようと、「成績」や「学歴」や「ブランド品」や色々なものを「収集」したり、「飲酒」や「薬物」などの「代替品」を求めるようになります。
 特に、電化や少子化で暇のできた母親が、夫に対する不満の捌け口として、一人か二人の子供に口うるさく勉強などを干渉し、より高度な学歴を求めると、子供は「自分自身」を虚しくして、親の求めに応じて、「心のスカスカ」状態をさらに悪化させてしまいます。
 その結果、「オカルトチック」なものや「カルトチック」な刺激的なものに強く魅かれるようになります。それらが個人的な範囲の問題ならば良いのですが、社会的にネガティブな働きかけをするような個人であったり団体などになると、大事件が起こります。

 さて上記対談の表現を借りるならば、「宗教的縄張りがない状態」つまり「ヴァキューム」になっているので、カルトでもオカルトでも何でもかまわず吸引してしまいます。ここが非常に危険なところで、現代は案外、高学歴でいわゆる一流と言われる分野の人のほうが人間的に「?」が付く事が多い可能性があります。
 勉強々々で「遊び」が少なく、親の希望に沿う代わりに自分の人間性を狭めて生きて、心のスカスカを増幅させている可能性があります。それが最近の奇怪な事件で、周囲の人はまさかあの人が、というケースが多くなりました。
 その点、若いときに、いわゆる「悪」をやってきた人のほうが、その後、意外に「ハートフルな人間」になる傾向にあるようです。むしろ「善」のみで生きてきた、いわゆる優秀な人のほうが「危険」を直感させます。

●さて、最も重要なことが次の部分です。
<苫米地・・・・・じゃあ何で充填しようかというときに、・・今の日本社会では
精神科医よりも、お坊さんのほうがその役割を果たせると思いますね。変なお坊さんもなかにはいるから、一概には言えないけど。
宮崎・・・・・文化の伝承性や親和性を考えれば、やはり
仏教が有望でしょうね。日本人の行動様式や行動文法の基本は、やはり仏教的世界観です。まあ仏教といっても、私の信奉する「縁起と空の仏教」というよりは、「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」的なアニミズムと無常の時間観念が主流ですけどね。
苫米地・・・・・いちばん怖いのは、宗教の
空白。それを埋めるものであったら、社会の伝統宗教のなかで、メジャーなものを受け入れることに何の問題もありません。
宮崎・・・・・まあ仏教でいえば、やはり根本に立ち戻れ、開祖ブッダや大乗八宗の祖ナーガールジュナにかえれ、というのが私の立場です。
そのうえで、個々人の精神の中核に生じた
空洞を埋めていくことができれば、やがて社会を安定状態に導くことができるのではないでしょうか。>

さて、人間は皆、大なり小なり、心をスカスカにさせて生きています。それを痛烈に感じたのが「お釈迦様」ではないかと私(藤森)は思います。王子としての生活に虚しさを感じて出家されたのではないでしょうか。
誰でもが持っているこの虚しさを埋めて、心を「充実」させる最善の方法は後述するとして、これ以外の一般にいわれている最善の方法が「宗教」です。
しかし、宗教と言っても色々あります。何の宗教を信じたら良いのでしょうか?ここが問題です。私はひとつひとつの宗教の良し悪しを論ずる資格はまったくありませんし、知りません。
ただひとつの目安があります。それは伝統がある宗教ならば、ひとまず安心であると言えるのではないでしょうか。新興の宗教が悪いということは決してありません。全ての宗教は、その初めにおいて「新興宗教」です。また、当初はかなり「迫害」されている可能性があります。

 ですから新興の宗教が悪いという意味ではなく、判断する事が難しいという意味で、伝統がある宗教、特に何千年もの伝統がある宗教であるならば、少なくとも評価が定まっているし、淘汰されずに残ったのですから、すばらしいものがあることは間違いありません。
 そういう意味で、心のスカスカを埋める手段として、伝統ある宗教は一番良い方法と言えます。伝統ある宗教の教えで心のスカスカを埋めることは、世間一般においては「最善」と言えます。

●これからが結論です。
もし、あなたが本格的な「自己成長」に取り組んでいる(防衛の内側に取り組んでいる)非常に稀で貴重な方であるならば、心のスカスカを埋める本当に本当の「最善」の方法があります。
その前に、心のスカスカとは一体なんでしょうか?それは「親に愛された実感」の乏しさで、それは決して物質的なものではありません。物質的なものも含まれるでしょうが、大部分は「愛」、つまり「精神的なもの」を意味します。
よく親は「甘やかした」と言いますが、この「甘やかす」ということの「実体」は、実は、親の思い通りにしたという意味とほとんど同じです。子供を中心にして甘えられるようにしたというのであればすばらしいのですが、残念ながら親の側の都合で、物質的に色々な事を豊富にしてあげたということが「実体」です。

 ここでいう「親に愛された実感」というのは、そのような種類のものではありません。言葉で簡単に表現できるものではありませんが、ひとまず、簡単に述べるならば、「質の良い精神的な愛情」であって、物質的なものではありません。
 この愛情の実感の乏しさが「虚しさ」、心のスカスカです。

 さて、いよいよ結論です。私たちは例外なく、皆、心がスカスカ状態であり、両親から受けた「愛の実感」は乏しいものです。
ではどうしたら良いでしょうか。両親が亡くなっている方はもちろん、生きている方でも、もう実際に両親から「質の良い愛情」をもらうのは無理です。
ではどうしたら良いでしょうか。ここで非常に重要な事は「実感」であって、「事実」を問題にしていないことです。もし「事実」を問題にしているならば、もらっていないものは永遠に不可能です。
しかし、ここで問題にしているのは「実感」です。「実感」という「感覚」ですから、自分の「感性」あるいは「感受性」を磨けば、受け取り損ねていた「実感」が得られることになります。

 この点で、宗教においても、心理学においても、一つや二つ、三つ、四つのものでは全く歯が立ちません。あらゆるものを総動員して、一人の人間の本当の意味での「自立」「自己成長」「自己回復」に取り組めば、十分に可能です。
 それを全て述べることは、ここでは非常に難しいので、一つのヒントとして、「今月の言葉」、第10回「発信愛と受信愛」、第11回「温かい愛と冷たい愛をご参照ください。
私たちの受信機であるアンテナの質を向上させれば、今まで気がつかなかった親の愛情がドンドン受信できるようになります。そして受信できた量に比例して、私たちの「虚しさ」は薄れて、より「充実した人生」を生きる事ができるようになります。

私たちが親の愛をもらったという「実感」が乏しいのは、乳幼児期や少年期で、人間として未熟だったために、性能の悪い「受信機」で受信したための「誤解」であったのです。
しかし、何十年も経過している上に、「防衛」という強力な要塞の中に「本音」を閉じ込めてしまっていますので、それを掘り返えして「誤解」を解くのが非常に難しいのです。
パキスタンで大地震がありました。テレビを見ますと、瓦礫を取り除いて、生き埋めになっている人たちを救出するのがいかに困難であるかがよくわかります。
 瓦礫を取り除くために重機を始め、鉄筋を切断する機械や、その他、色々な機材が必要です。その上に、被害に遭った人たちのために、テントや毛布、食料や医薬品、怪我した人を搬送するためのヘリコプター等々。

 パキスタン軍、国連、NPOの人たち、世界中の軍隊や特殊部隊、医者や看護婦などが続々と現地に到着して活動しています。
 あの様子を見ていると、一人の人間が真に、本当に、本格的に「自己成長」を目指す様子を彷彿とさせてくれます。一般の方はもちろん、専門家さえもがあまりに安易に考えすぎていて、一つや二つ、三つ程度の心理学や心理技法で、クライエントの方を「安直」に対応しすぎている風潮には、私は「義憤」を感じています。

 何故、そういうことが行われるかと言えば、専門家自身が本格的な「自己成長」に取り組んでいない(自己の「防衛」の内側に取り組んでいない)ために、「知らぬが仏」同然の分野になってしまっているからです。
「自己成長」に取り組むということは「理論」ではありません。「実践」であり「職人」の世界であって、「学者」的な理論や学問の世界ではありません。もちろん、理論や学問は非常に参考になりますが、取り組むときは、それらが「実践」されていて、「職人」として対応できる「専門家(職人・技術者)」であるべきです。
全ての分野でこのことは常識ですが、心理・精神世界は、目に見えないものですから、信じられないようなことが数多く行なわれています。

 誤解のないように強調しておきますが、このことは専門家としての実力を問うているのではありません。自己成長するための「方向性」を問うています。方向がわからなかったり、方向が間違っていたりすれば、自己成長に取り組んでいること自体がおかしなものになってしまいます。

 偶然、うまい方向に進んで、効果を上げるということがあるかもしれませんが、それではまるでギャンブルです。どういう方向に進めば良いのかが明確であり、それを達成するための「技法・技術」を、その瞬間、瞬間に相応しく適応できるだけの「質・量」を体得していなければ困ります。
そしてその方向は、今回の言葉を使って説明するならば、「洗脳」を解く事です。防衛の中に「洗脳」された自分が閉じ込められているのに、その外側に「洗脳」とは違う情報を入れても、混乱するだけです。

 方向が明確でないものの典型的な例は「自己実現」です。心理学の世界では常識的に使われていますが、「自己実現を目指す」とは、現在の自分は「自己実現」していないことを意味します。つまり「未実現」です。

 それでは「実現」するためにはどうしたら良いのでしょうか?あるいは、どこへ行けば良いのでしょうか?「自己実現を目指す」のですから、その方向が明確でなければ、偶然以外は、ただ右往左往するだけということになってしまいます。
 そして方向が明確でないのですから、専門家は専門とする分野の一つや二つの心理学や心理技法を、クライエントの方がどんな状況(症状)であっても適用してしまうということになり、そして現実は、このような摩訶不思議なことになってしまっています(第38回のパート①「私の知り合いのウツの看護婦さんの例がそうです」)。

 私(藤森)が見るところでは、非常に多くの方が、「防衛」の外側のものに取り組んでいますので、色々気づきが深まったように思えても、やがて防衛の内側から「反乱」されてしまいます。ダイエットのリバウンドなどが顕著な例です。肝心要なことは「防衛」の内側を「解放」して、外側の自分と統合することです。
防衛の内側のものに取り組むのですから何が出てくるかわかりません。いかなる状況にも対応できるように、可能な限りの準備、心構えを十分にすることが必要です(大地震の対応と同様に)。

 一人の方を長年にわたって自己成長のお手伝いをしていると、人間の心というのは「多重層」になっていることがわかります。海岸で貝殻を拾い集めるように、ご本人自身も気がつかなかった色々な事が、ご自身の成長するレベルに合わせて思い出されたり、空白が埋められたり、受けとめ方が変化したりして、竹の節を一つ一つ抜いていくように「気づき」が深まっていきます。
あるいはまた本当の本音、一番のポイントを表現するのに自我がまだ耐えられない、あるいはまだ言いたくないという場合、それを無理に出させるようなことはせず、「時(間)」を大事にしながら、「時薬(ときぐすり)」が効いてくるのを待つと、やがて熟柿が自然に落ちるように、自然の流れで無理なく一番のポイントが話せるようになります(放し始めます・手放し始めます)。

 こういう流れには無理がないので、ダイエットのリバウンドのようなことは絶対にありません。そしてこのような気づきが深まったり、長年、防衛をしていた(つまり自分に対しても隠していた)自分自身を受けとめられる、受容できるようになった量に比例して「洗脳」は解除されて、本来の瑞々しいご自身を回復されていきます。これが「自己回復」です。
くれぐれも、「自己実現」と間違わないでください。「自己実現」という言葉は、未熟な学者の「洗脳」された表現で、「空理・空論」です。

<文責:藤森弘司>

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