2005年1月15日 第30回「今月の言葉」
「自業自得」とは何か?

●12月31日の「今月の映画」、「今、会いにゆきます」で、「無分別」をご紹介すると申し上げましたが、「無分別」は来月とさせていただきます。
さて、「自業自得」とはどういう意味でしょうか。
多分、多くの方は「悪い意味」に捉えていらっしゃると思いますが、実はこれは「悟りの心境」を表わしています。○華厳経・入法界品(にゅうほっかいぼん)というのがあります。

 善財童子(ぜんざいどうじ)という童子が、文殊菩薩にすすめられて、はじめに会う方が徳雲比丘(とくうんびく)という方です。
 その方が悟られた境地を、念仏門として二十いくつかの法門(教え)をあげているわけです。その中の一つが「自業に住する念仏門」です。

○これは私たちがいま生きているいのちのはたらきは、たとえ塵のようなちいさなものでもそれぞれ宇宙を形成するためのはたらきとして受け持っている姿であり、そのいのちのはたらき自体は、誰にも重ならない独自な大切なはたらきです。
 それをまさにわがいのちのはたらきとして引き受けて、そこを生きぬくことが仏さまの世界に心がとどくための入口ですよ、といっているのではないかと思うのです。

○では、どうして自業に住することが、仏さまの世界に心を運ぶことになるのかということが次に言われています。

「衆生(しゅじょう)の積重(しゃくじゅう)するところの業(ごう)に随(したが)いて、一切の諸仏はその影像(ようぞう)を現じて、覚悟せしむることを知るが故に」と引き続き記されているのです。

○わがいのちの独自なはたらきを、それを自業として引き受けて生きるとき、あえていえば、“自業を自得していく”といいますか、そのときには仏さまが直接の姿ではなく、いわば化身(けしん)して、私たちには見えない影の姿として寄り添ってくれていて、そして私たちを悟りの世界に導いてくれるからだと記されているのです。
 端的にいいますと、自分の業を引き受けて、つまり自業を自得していくときに、深い宗教的境地が開けてくるのだということをいっているのだと思います。
(以上の○の部分は、名著・大須賀発蔵先生の「心の架け橋」・・・カウンセリングと東洋の智恵をつなぐ・・・柏樹社より。大須賀先生は、今年の4月に、セミナーでご指導いただくことになっています。)

●このように「自業自得する」こと(自業自得)は、徳雲比丘という方が悟られた心境です。
私たちは皆違います。このことに異論を挟む方は、多分、いないでしょう。
皆、一人一人、違う「背景」を背負いながら生きています。その違いをそのまま無条件で引き受けて生きることが大切です。
でも私たちはついつい不満が先になってしまいます。そして不思議なことに恵まれれば恵まれるほど、むしろ些細なことに不満が増大しがちです。
自分に与えられた条件をそのまま、そのままに受けとめて生きていきたいものです。

<文責:藤森弘司>

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