●前回、前々回に続いて、「自己成長」について述べます。
「自己成長」について、専門家を含めて、実に多くの方が誤解していますので、多分、どこにも書かれていないであろうことを、これから述べます(このホームページの表紙に、「⑤自己回復とは」があります。これを参照しながら読まれると、より理解ができることと思います)。
今回のことを理解されれば、何故、自己成長が難しいのか、何故、本格的に「自己成長」に取り組む人が少ないのかが分かります。
●私たちは生育暦の中で、多くの不快な体験(乳幼児にとっては耐え難い「不快」な体験)をします。
例えば、オムツが濡れた瞬間に取り替えてくれなければ、不快な環境の中で、乳児はがまんしなければなりません。お腹が空いたならば、すぐに満たしてくれなければ、空腹という不快感の中で、満たされるまでがまんしなければなりません。
また、親は子供に、教訓や忠告をガミガミ言います。自分はあまり勉強しなかったのに、子供にはついつい口うるさく言ってしまいます。その心地の悪さは、私たちも十分に体験していて、よく分かっているはずですが、ついつい口うるさくなってしまいます。
●もちろん、ガミガミ言うのも、勉強をうるさく言うのも、皆、親の愛情です。
他人がどのようであっても、私たちはそれほど心を痛めないことを考えますと、いろいろなことをうるさく言うのは、子供に対して愛情があるからこそであります。
しかし、毎日繰り返されるこの種の「過干渉」「愛情過多」は、子供にとって非常に心地が悪いもので、日本的特殊な「歪んだ人格」を作ってしまっています。
それはまるで満腹なのにさらに食べることを強要されるようなものです。しかも、毎日、毎日!!
●家庭環境がそれなりに順調であっても、このように種々様々な「不快感」を、毎日、味わわなければなりませんが、共稼ぎであったり、両親が離婚したり死別したり、病弱であったり、時間的・経済的に厳しかったり、戦争中であったりすれば、乳幼児にとって、心地の悪さはさらに厳しいものになってしまいます。
その上に、夫婦仲が悪く、家庭の雰囲気が乱れていれば(これは非常に多い)、心地の悪さは極限状態になります。
●このような耐え難い「不快感」から身を守るために(「防衛」するために)、大きな「不快感」は、無意識の中に押し込めて、感じなくしてしまいます。
これを「精神分析」では「防衛」といい、私たちはいろいろな形の「防衛」をしています(来年の「交流分析・上級講座」で、この「防衛機制」についてのセミナーを実施します。自分がどんな防衛をしているかを知ること<自分のクセを知ること>は、自己成長を目指す方にとってとても重要なことです)。
この典型的な「防衛機制」の一つに「抑圧」があります。「心地悪いもの」を無意識下に押し込めて(抑圧して)、そういうことは無いかの如くにする「メカニズム」で、これは人間である以上、誰でも無意識のうちにやっています。
●耐え難い(身がもたない)ような環境の中で生活すれば、「極端に心地悪い」ものを、自分の意識から「排除」して、それに対して、「無感覚」や「不感症」になるようにするのは当然のことです。
カリカリ・イライラしている親のガミガミを毎日聞き、学校では、先生の口うるさい指導や教訓を聞いていたならば、「脳」は「バカの壁」を作って、その状況に耐える工夫をせざるを得ません。
(そのストレスが場違いなところで発散されるのが、最近の若年層の凶悪犯罪です。現代の理解不能な事件の多くは、日頃、とても「いい子」で、周囲は、そのような犯罪を実行するようには思えないので、学校の先生たちにインタビューしても分からないはずです。)
●さて、そうやって「無感覚」「不感症」になってバカの壁を完成させた子供は、親や教師のガミガミに対して、以前のような苦痛はなく、気楽に聞くことができますので、親の期待に応える「いい子」を演じることが可能になります。いい子を演じている限り「愛」してもらえるので!
子供が「不登校」や「ウツ」や「非行」などの事件でも起こさない限り、親は自分のおかしさに気づくことができません。気づくことができないどころか、いい子で成績も良いわが子に「快感」を感じ、「幸福感」に浸りますので、「いい子」はますます強化されます。
特に乳幼児は、体も心も「順応性」が高いので、親のおかしな関わり方、歪んだ環境に合わせて、「心」や「体」を、アクロバットのように変形させて「順応」します。
「体」は固くして「無感覚」にし、「心」は可能な限り歪めて、親の「歪んだ価値観」に無条件で「順応」させます。そして、特別のチャンスが無い限り、ほとんどの人は一生その形で、体の不自由な方が、体を変形させて歩くように、心を歪めて生きます。
●そうやって変形させて10年、20年、30年と経過したならどうでしょうか。本人も周囲も、それがその人の本来の姿(本来の人格)であると認識するはずです。
本来の自分の姿だと思っている「歪んだ姿・価値観」を修正することが「本来の自己成長」です(交流分析的に言いますと、「脚本」からの解放です。「脚本」は、第1回の「今月の言葉」をご参照ください)。
しかしこれは、足の不自由な方が足を矯正されると痛いように、その方にとっては大いなる「違和感(苦痛・不快感)」を感じます。
●正しい指導を受けることが前提条件ですが、その「違和感」を感じる方向に向かうことこそが「自己成長」ですが、ほとんどの方は、「違和感」を感じると、苦痛を避けるために、「違和感」を感じない方向に向かってしまいます。
「違和感」を感じない方向は、元の「歪んだ価値観」に合致する方向です。その方向に進んでしまったら、心理学的な学問がいくら進歩しても、「自己成長」の観点から見ると、それは「自己成長」とはまったく反対で、元の「歪んだ価値観」を強化しているだけのことになってしまいます。
ここが正しい「自己成長」の難しさです。私(藤森)が長年、いろいろなセミナーや「市民講座」などに参加して、何千人という人たちを見てきましたが、ほとんど全ての人たちが、このパターンをやっています。
●信頼出来るセミナーなり、指導者に指導していただいている方は、「違和感」を感じたら、それこそ「シメタ!」と思って、勇気を出して進むことが大事です。
逆に言えば、「違和感」を感じないセミナーなり、指導の「場」は、「交流分析」でいう「ゲーム」をしていることになると言っても過言ではないと思います。
厳密に言いますと、自分の内部の何か(ユングのいう「影」)に触れて「不快感」を味わっていると思われたら、その時こそ「勇気」を出すときです。
「自己成長」に取り組んで、「苦痛」や「心地悪さ」を感じたら、それは正しい方向です。長年の「防衛」が抵抗している「いいところに来たぞ!」と、是非、喜んでください。
●ユングのいう「影」に取り組み始めた当初は、確かに、心がチクチク痛みますが、取り組まずにいるほうが遥かに苦痛は大きいです(表紙の「自己回復とは」をご参照)。
無意識下に押しやった「影」が人間関係を悪くさせたり、心の痛み(ウツや罪悪感など)を起こさせたり、アクロバット的な変形が苦しくなって身体的な病気にさせたりします。
●この不快感に比べて、取り組み始めた当初の「心の痛み」は、比較にならないほど小さいものです。
それなのに何故多くの人たちは、苦痛が大きい「元の世界」に回帰してしまうのでしょうか?
それは、長年耐えてきた苦痛のために、苦痛慣れして、マヒしてしまっているからです。何十年間も耐えてきたのでヘッチャラみたいな気分になっているために、そのことからくる様々な苦痛(心理的・身体的・人間関係的な苦痛)は、耐えて当然のような感覚になっているものです。
それに耐えているのが自分自身のように錯覚しているものです。自分らしいとでも言いましょうか。私(藤森)自身が、若いとき、そうでした。「苦痛」に耐える男のロマンみたいなものを感じていました。
●それに比べて、新しい「苦痛」は、ホンのわずかであっても、耐性ができていないために、ビックリ仰天してしまうのです。水鳥の羽ばたきに驚いて、平家の10万の大群が、一目散に逃げてしまったような!
あるいは、終戦直後の貧しさは大きくても耐えられたのに、今の時代のチョッとした貧しさには耐え難い苦痛を感じるようなものとでも言いましょうか。
●「自己回復」に取り組んだときに感じる「心の痛み」は、取り組まずに、人生の重荷を背負ったまま生きることを考えたならば、ホンのわずか、取るに足らない程度のものです。
そして、「自己回復」に取り組んだ結果の「収穫」「人生の生きやすさ」は、とてつもなく大きいものであることは、私(藤森)の実体験からも「断言」できます。 |
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