2004年5月20日 第22回「今月の言葉」

今回より、「今月の言葉」は毎月15日過ぎに掲載します。そのため5月2日に続いて今月は2回目になります。
月初が「今月の映画」、15日過ぎに「今月の言葉」です。
自己成長について part②

●前回に続いて、「自己成長」について述べます。
 人格の成長は視覚的に、あるいは、感覚的に分かりにくいために、実に不思議なことが沢山あります。
  他のほとんどすべてのものは、実際に体験するなり、見学をすれば、その人の実力はある程度は感覚できるものです。
  野球にしても、柔道にしても、絵画にしても、音楽にしても、料理にしても、学問にしても・・・スポーツにせよ、芸術にせよ、武道にせよ、ものづくりの職人技術にせよ、種々様々な分野は、少しそれを練習した方ならば、ある程度は適切にその人の実力・技量は判断できるものと思われます。

●ところが人格成長に関してだけは、摩訶不思議なほど、多くの場合に誤解されています。
  なぜ、このような誤解が生じるのでしょうか。それは、前回で述べました「脳作業」と「実践」の違いがわからないためであるというのが、私(藤森)の考えです。

●さて、この世の中のすべてのものは、数限りの無い練習によって習得されています。くどいようですが、多くの方が誤解していることですので、再度、説明します。
  私たちは、ごく普通に、当たり前に歩いていますが、幼児のときに何度も何度も転んだり倒れたりしながら、歩行練習をして上手になりました。
  言葉を覚えるのも同様です。何を言っているのかサッパリ分からない乳児の頃、母親を中心にして周囲が、気が遠くなるほどの対応をして練習をしてきた結果のものです。
  剣道ならば、何万回、何十万回、何百万回という量の素振りをしてきたでしょう。野球の素振りも同様です。小説家であれば、ダンボール箱に何個分の原稿があるかもしれません。料理にしても、華道にしても、太極拳にしても・・・・。
  すべてのものは、改めて解説するまでもなく、大変な量の練習の結果、その技術を習得しています。

●しかるに、何ゆえに、人格成長だけは「学問」だけで習得できるのでしょうか。 心理学なり宗教なり哲学なりを学問として学んだ方、主として「学者」は、その学問に関しては、非常に優れた、素晴らしい方であることは事実です。
  しかしその学問は、私の言う「脳作業」です。「脳作業能力」は抜群にすばらしいことですし、それが「学者」の本分です。
  ところが「自己成長」に取り組む方は、自己成長という「技術」を体得しようとするわけですから、職人的な練習が必要なのに、「脳作業」を中心にやってしまうのは本当に不思議です。
 「学者」はご自分が専門とする「学問」を論理的に説明できることの優秀者であって、それをこなせるかどうかはまったく別問題です。むしろこなせるかどうかを「学者」に問うことは失礼なことです。
  野球解説者に向かって、「それではあなたはそれをできますか?」とは誰も言わないのと同様です。
詩や小説の批評家が、批判した作品以上のものが書けるでしょうか。答えは「ノー」です。

●「宗教学者」や「心理学者」は、それぞれを学問的・論理的に他者、主として学生などに説明できる優秀な人のことで、それをできるかどうかと質問したら、それは失礼というものです。
  もちろん、例外的に、自分の専門分野に取り組んで、体得することはあっても、「学者」の本分は、できるか否かではなく、より多くのことを知っていて、より適切に論理的に説明できるか否かが問われるものです。
  経営評論家が実際に経営をしても、成功するのは難しいとも言われています。
つまり、実際にそのことができる「職人(実践家)」と、その分野を幅広く、深く、論理的に解説できる「学者(脳作業者)」とは明確に区別すべきです。

●すべての場合、このように言えるはずですが、なぜ、宗教とか心理学などの分野は「宗教学者」や「心理学者」が、実践的にも体験的にも十分な習得者であるかの如くに誤解されるのでしょうか。本当に不思議なことです。
  私の定義に沿えば、「学者」は「脳作業」の第一人者であり、「職人」は「実践」の第一人者です。理想を言えば、この両者をバランスよく身につけていることでしょうが、実際は非常に難しく、どちらかに大きく傾いているものです。

●「学者」の作業は、一般論であり、抽象的で、一定不変の情報です(一般論で抽象的な部分は、英語の不定冠詞の「a」に相当するかもしれません)。
  これに対して「職人」の作業は、特殊であり、具体的で、一定でない情報です(特殊で具体的な部分は、英語の定冠詞「the」に相当するかもしれません)。
  一定でない情報とは、例えばものづくりであれば、こうすれば良いという一定の情報は無いという意味です。一定の情報は参考にするが、毎回、自分で工夫し、微調整しながら対応するはずで、一定であれば、誰でも名人級のものを作れるということになります。
  これに対して、学問的な一定不変の情報とは、試験の問題がそうで、答えが決まっています。誰でも、○は○、×は×です。質問者と違った答えをすれば、採点はゼロになってしまいます。

●例えば、育児書がそうです。育児書を書いている専門家が、実際に育児が上手であるかどうかです(学者であり、脳作業者)。
  もしそれを問うならば、何人も子育てをした年配のお母さんのほうがはるかに上手なはずです(職人であり、実践者)。
  剣道には「剣道形」というのがあります。相手がこのように来たら、このように対応するという「形」です。少し剣道をやれば、この形を覚えるのはそれほど難しいことではありません。しかし、これを実際の試合などで活用するには何年、何十年という練習が必要です。

●医学部の学生が、医学を学問的に学んでも、それが実際に治療する能力として発揮するには、現場での職人的な訓練が重要です。実際に患者を治療する医者は、皆、医療の職人です。特に、外科医の訓練は、まさに職人的な訓練が重要なようです。
「医学」は学者的な学問で、「医者」は医療の職人です。鍼灸師にしても整体指圧師にしても、学者的な学問を学んでから、実際に治療の体験を繰り返して、職人としての実力・勘を身につけていくものです。

●このように、学者と職人は非常に大きな相違がありますが、精神世界、特に「自己成長」「人格成長」においては、多く一般に誤解されて、ゴッチャに考えられています。
  多くの場合、学者的な学問を十分に学んでから職人的な技術を身につけます。
そして、職人的な技術を中心に体験する方が「職人」で、そのまま学問を中心に脳作業する方が「学者」です。
  能力があって両方を十分に身につけるという方も居ないわけではありませんが、そういう方は非常に貴重・稀で天才的な方であって、ほとんどすべての場合は、「学者的」か「職人的」か明確です。

●本を読んだり、講演会で聴いたり、セミナーで学ぶことが自己成長であると錯覚している人が多いのにはビックリ仰天します。
「本」も「講演会」も「セミナー」も、自己成長を目指す「その人」が対象にはなっていません。つまり一般論です。
  その「一般論」であり「抽象的」であり「一定不変」の情報を、いかにして自分固有の具体的な課題に「変換・翻訳」するか、つまり、自分という「特殊」で「具体的」で「時々刻々と変化」する存在に、どのように変換して活用するかが問われるのであって、一般論を聴いて、感動しても、それをそのままにしておいたのでは、時間と共に消えていってしまいます。
  精々、聴かないよりは良い程度になりかねません(聴いているだけで、偶然に、自分の内面の課題にぶつかって花開くということも、稀にはありますが)。

●このことをさらに具体的に説明します。
  一般論だけで自己成長しようとする人は、「線路脇に立っている人が投げるボール(一定不変の情報)を、走っている電車の窓から身(常時変化している自分)を乗り出して、ボールをキャッチしようとするようなものです」。ボールがキャッチされることは、偶然を除いて、ありません。
  これと同様に、自分自身が対象となっていない「一般論」や「育児書」や「講演会」などの一定不変の情報を自己成長に役立てるには、常に変動して止まない自分固有の、特殊な課題に「変換」できるようになるための大いなる練習が必要です。

●「カウンセリング」や他の種々の心理的な技法もまったく同様です。対象が人間ですから、専門家が自分自身と取り組むという「実践」、それもより深い経験が必要です。
  少なくとも「自分自身」の人間としての「未熟さ」に気づいていなくてもよいのでしょうか。カウンセラーなどの心理の専門家は、人間として「立派」だからカウンセラーであるのでしょうか。
  もしそうだとすると、クライエントの方を操作的に指導してしまいます。
少なくとも自分自身と十分に取り組んで、自分の未熟さを「痛感」している人が「カウンセラー」などの心理の専門家になる資格があると、私(藤森)は思っています。
  天才的な方は別にして、私たちは、お互い皆、未熟で自己中心的な存在だと思います。少なくとも私自身はそのように自覚しています。

●自分自身と本格的に取り組めば、取り組むほど、自分の未熟さが自覚されてきます。それが「職人(実践家)」と「学者(脳作業者)」の混同・誤解になっているのではないかと思われます。
  「言うは易く、行なうは難し」

●セミナーなどで、いろいろな取り組みをすることがありますが、ほとんどは一般論的であったり、他者のサンプルを見せてもらうだけの場合が多いようです。
  自分自身の具体的な課題を提示して、それを基に深く掘り下げるという体験をする方は少ないです。さらにそれを繰り返し体験して、本格的な自己成長に結びつける人は、極めて少ないですし、そのような取り組みをするワークショップそのものが、そして、それを適切に指導できる専門家が、さらにさらに少ないのが現状です。
「自己成長」に関しては、いくら述べても述べきらない感じがしています。今後も機会を見つけて、この不思議な世界を、いろいろな角度から、いろいろと述べていきたいと思っています。

(文責:藤森弘司)

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