2004年3月 第19回「今月の言葉」
●3月の今月の映画「アイ・ラヴ・ピース」では、アフガニスタンで地雷にあって足を失ない、「解夏」では、目が見えなくなる物語を紹介しました。 共に、体の一部の能力、機能を失う映画です。足を失い、目の機能を失い、悩み、苦しみます。 ●故池見酉次郎先生(九州大学医学部名誉教授で日本の心身医学の創始者)は、「人間は死に行く存在」とおっしゃっていました。 ●恐らく、このホームページをご覧になっている方は、50年後も生きている可能性は余り無いのではないでしょうか。少なくとも100年後には、全員、亡くなっているはずです。 ●私たちのトラブルの多くは、あたかも永遠に命があるかのような気持ちになっていることから起こることです。たとえば、明日、死ぬかもしれないとしたら、今、こだわっているほとんど全てのことは気にならなくなるはずです。 ●死を意識しながら生きるということは、「悲観的」になることでも、「虚しくなる」ことでもありません。むしろ今がより充実することです。 ●何年も患って床に伏せっていた方が、快方に向かっていたある日、外をそろりそろりと散歩をしました。そのときの外の空気の旨さ、草木の新鮮さ、一木一草に頬ずりをしたくなったと聞いたことがあります。文字通り「有り難い」心境だったと思われます。 「命」というものが少しでも実感できれば、自分の子供を前にして、「何が一番大事」なのかが自ずと分かってくるのではないでしょうか。腹いっぱい食べることに心配が無くなり、病気による死の不安が減った現代では、あたかも死なないかのようなつもりになってしまって、「死」を前にすれば価値の低いものが、逆に大切に扱われてしまっています。偏差値が高いとか低いとか、あるいは、学校に行くとか行かないとか、です。 ●さて、本題です。私たちは「死に行く存在」です。ということは、生まれたときから、目に見えなかったり、気がつかないだけのことで、実は一つ一つ、毎日、大事なものを喪失しながら生きていることになります。親を亡くしたり、配偶者や友人を亡くしたり、体力を無くしたり、視力が弱ったり、歯や毛髪を失ったり、社会的立場(退職)であったり、役職であったり、物やお金や健康であったり、手術をすれば臓器の一部であったり、交通事故で手や足を失ったり・・・・・・・。 ●年齢を重ねるということは、喪失体験の連続と言えます。ということは、年齢を重ね、いわゆる「大人」になる、あるいは「成熟」していくということは、喪失していく物や事柄をいかに「受容」していくかだと言えないでしょうか。 ●例えば、「親や子供」を亡くしたショックを生涯、「後悔」という形で持ち続けることは、よくあることです。体の機能を失って、その劣等感コンプレックスを「生涯」持ち続けることも、よくあることです。 かく言う私(藤森)自身が若いころは、「後悔」と「罪悪感」と「恨み」と「劣等感コンプレックス」の塊でした。今でも、若いころと余り変わりませんが、でも、少しは上手に「現実」を受け入れることができるようになりました。 ●私たちの人生が「喪失」の連続だとするならば、逆の言い方をすれば「受容」の連続とも言えます。 つまり「無常」・・・常ならずです。常で無いとするならば、今存在しているものの全ては、次の瞬間、喪失していることになります。その現実を、実際には受け入れながら、私たちが生きていることは、紛れも無い事実です。 つまり動物的レベルでは、現実を受け入れるというよりも、オートマチックに受け入れて生きています。野生動物は、手足を失っても、それをそのまま(オートマチックに)受け入れていて、悲劇的には生きていません。私たちも「現実」を受け入れているからこそ生きていられるのですが、悲劇的になるのは何故でしょうか。 いたずらをしているのは、人間の「大脳(解釈)」の仕業です。現実を解釈したときに、私たちは多くの現実を心理的に「受容」していないことが多いのです。これが苦しみを産みます。仏教では「貧(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」(2月の「今月の言葉」参照)です。 ●だとするならば、私たちがより良く人生を生きるためには、現実を「受容」する能力を高めることであり、現実をどのように「解釈」するかであると言えないでしょうか。 私は、20代のころ、人生は選択の毎日だと思いました。いろいろな状況の中で、いろいろな物事を択一していく連続だと思いました。 そこで、「人生とは択一だ!」と思いましたが、今なら「人生とは受容だ!」と言いたいです。 私たちは直面する現実を、実際は受け入れて生きているのですが、心理的にも「受容」できたとき、そこには「安穏」があり、「受容」しそこなっているとき、「軋轢」や「葛藤」、「恨み」や「憎しみ」があるように思えます。 |
(文責:藤森弘司)
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