2004年11月15日 第28回「今月の言葉」
武士道精神について

●10月31日の今月の映画「隠し剣 鬼の爪」の続きとしてお読みください。
「武士道」には、時代的に3つに区分できることが分かりました。

①徳川政権になって、剣による争い、つまりいくさが収束するまでの時期・・・・武士道
②徳川政権がスタートしてから明治新政府がスタートするまでの時期・・・・士道
③明治時代、私的な争いを除いて、「剣」による戦がない時期・・・・明治武士道
概ね、このように言えるのではないでしょうか。

●そして、①の時代は、折口信夫氏によれば、「武士道は、此を歴史的に眺めるのには、二つに分けて考えねばならぬ。山鹿素行(江戸前期の儒学者・兵学者、広辞苑より)以後のものは、士道であって、其以前のものは、前にも言うた『野ぶし・山ぶし』に系統を持つ、『ごろつき』の道徳である」(ごろつきの話)。

 ここで初めて気がついたのですが、「野ぶし」「山ぶし」というのは共に「武士」だったのですね。つまり「野武士」「山武士」であり、「野武士」の士道であり、「山武士」の士道とも言えるのではないでしょうか。
 広辞苑によりますと、「野伏」「山伏」と書いてあり、①山野に野宿して修行する僧②山野に隠れ伏す軍勢③(「野武士」とも書く)中世、落武者を脅迫し甲冑などをはぎ取った農民の武装集団。また、山賊の類。野ぶせり。
 とあります。

●士道論者(上記の②)は、戦闘者(上記の①)の武士道を、私情に溺れて道を忘れたものとして厳しく批判するが、一方で、戦国乱世に理想の武士像を見いだす武士道論者たちは、魂の抜けた理屈だけの議論であると、士道を蔑視する。
 武士道と士道の対立は、こと主従関係のとらえ方をめぐって鮮明にあらわれている。
 たとえば、山本常朝の「葉隠」武士道は、心情的一体を主従関係の理想ととらえ、主君と共に死ぬという究極の思いを熱く語る。
 また、大久保忠教(ただたか)は「三河物語」の中で、譜代の家来は「よくてもあしくても、御家之犬」であると述べ、何があっても主君を捨ててはならぬと説く。

●一方、士道論者山鹿素行は、主君の後を追う殉死・追腹(おいばら)を否定し、士は私的思い入れのために死ぬべきではないと主張する。素行は、主君が道に背いた場合、主君のもとを去ることをも肯定するのである。
 山鹿素行以後の士道と、それ以前の武士道とは、おおよそ似ても似つかぬものだ。一方は君子の道徳、一方は「ごろつき」の道徳というくらい、二つの間には深い断絶がある。
 折口の言わんとするのは、そういうことであろう。これは確かに、一理ある考え方だと思われる。

●しかし、にもかかわらず本書(武士道の逆襲)は、さまざまに異なってみえる武士道と士道とを、根本的には一つのものとして取り扱っていきたい。それは、次のような理由からである。
 士道は、儒教的理論によって、武士のあり方を説明する思想である。だがそれは、儒教的理論による説明なのであって、儒教道徳そのものではない。説明されている当のものは、建前上とはいえ、二本差しの戦闘者たる武士である。
 素行が実際にイメージしているのは、たとえば次のような武士の姿である。

 賎ヶ岳の合戦で、柴田勝家方は敗色濃厚であった。このとき勝家の家来毛受(めんじゅ)庄助は、自分が敵を引き受けて戦うので、主君の名前と旗印を借用したいと申し出る。共に死のうと言い張る勝家を強引に追い立て、馬印を奪い取った庄助は、自ら柴田勝家を名乗って戦死した。この働きによって勝家は、北の庄の城に落ち延びることができた。

 要するに、素行の士道論は、戦場における戦闘者の働きを、儒教的道徳によって説明し直したものなのである。

●第27回の「今月の映画」の紹介の中で、死に物狂いの中に、忠孝が「自らこもる」ことの具体例として、次の紹介をしました。
「顔面の皮の剥(はぎ)やうの事。顔を竪横に切裁(きりたち)、小便を仕懸、草鞋にてふみこくり候えば、はげ申候由、行寂和尚京都にて承り候との咄也。秘蔵の事也」
「顔面の皮の剥やう」とは、もちろん敵の死体を陵辱する話ではあるまい。単なる残虐行為を、僧侶がわざわざ秘伝として伝えるというのはどこかおかしいし、まして己の手柄を誇示するためなら、それが誰の首であるかがはっきりわかるようにしておかねばまるまい。

 鎌倉の材木座海岸から、新田義貞軍と鎌倉幕府の戦いの戦死者と考えられる、多数の人骨が発掘されたのは有名な話である。
 そうして、その内、相当数の頭蓋骨に顔の皮を剥いだ際に出来たと見られる削り傷があったという。
 山本博文は、これを、「敗戦の中で大将の首を敵に確認させないため、従者が自害した主人の顔の皮をすべて剥いだ」ものと推定している(サラリーマン武士道、講談社現代新書)。

●主人が討たれるような戦いは、負けいくさの場合が多いと考えられるから、なおさら戦死者を気づかっている余裕はない。
 おそらく自分が生き延びるだけで精一杯という状況に違いない。その中でなお、討死した主君や味方の首を気づかいうるのは、その者が並々ならぬ勇猛な武士だということでもある。
 いうまでもなく、水のないときに小便で代用するのも、戦場の常法である。戦闘者として己れを磨いた者だけが持ちうる知恵と美徳。忠孝というのも、そのことを措いてはないのだというのが、「葉隠」的な武士道の基本思想なのである。

●儒教的な士道は、戦闘者として乱世を生き抜いた武士たちの精神を、太平の世にふさわしい人倫道徳によって説明しようとした。一方で、武士道は、乱世の武士の精神そのものをとらえ、継承しようとする。
 説明しとらえ直そうとしたにせよ、直接体現しようとしたにせよ、両者がめざしている理想の当体は、かつて存在した優秀な武士たち自身の思想や行動にある。
みずからが優れた武士となるために、かつての武士たちを手本にするという点で、武士道と士道は全く一つなのである。
 ・・・・そういうわけで、本書(武士道の逆襲)では、「葉隠」的武士道と、儒教的士道とを、根本的には一つの「武士道」として取り扱う。・・・本書が全く別物として考えるのは、ただ一つ、武士道(武士道・士道)明治武士道(明治国家体制を根拠として生まれた、近代思想。大日本帝国臣民を近代文明の担い手たらしめるために作為された、国民道徳思想の一つ。明治武士道では、しばしば「武士道」と「大和魂」が同一視される)の区別である。

●・・・武士のイメージの中で、とりわけ根本的なのは、第一の戦う者という要件である。刀は武士の魂といわれるように、他のさまざまな稼業と武士とを区別する標識は、何といっても刀を抜いて戦うという一点に存するからである。
 江戸時代の武士道書「葉隠」の、さまざまな解説が入り乱れている有名な一節・・・・
「武士道と云うは、死ぬことと見付けたり。二つ二つの場にて、早く死方(しぬかた)に片付くばかり也。別に子細なし。胸すわって進む也。」
 ここでいわれる「死ぬ事」が具体的に指している事態が、刀を抜いて切りかかっていくことだという点である。あれかこれかのぎりぎりの場面での決着は、刀を抜いて切りかかるという仕方でつけるのが武士のやり方で、それ以外にない(「別に子細なし」)。

●・・・「葉隠」は、あえて「死ぬ事」という過激な言葉でいいあらわす。そこには、太平の世に慣れた元禄武士たちの油断を衝くという意図も込められていたであろう。
 ・・・・要するに自分以外のものの力に頼って自分を守れると考えたのは、武士といえども例外ではなかったからである。武士道書は、無意識に生じる他への依存心を、しばしば強烈な言葉で戒める。
 ・・・武田信玄の家中では、「血もつかざる素喧嘩」、つまり刀を抜かず、殺傷沙汰にならない喧嘩は、武士のすべきことではないと蔑(さげす)まれた(「甲陽軍艦」)。

●・・・・「余五を討ち取るとは、大したものだ。ところで、余五の首は、しっかり鞍に結いつけてきただろうな」
「ない」と答えると、それならすぐにここを出て行ってもらいたいと言う。
・・・・求めているのは説明ではなく、事実である。説明に命はあずけられぬ。自らの一族の存亡を懸けられるのは、ただ一つ、事実だけだ。これが、「長(おとな)武者」の思想であり、さらには武士道全般の判断基準でもある。

●武士は、よく泣く。
「たけき武士は、いづれも涙もろし」(「甲陽軍艦」)
 いつわりかざりのきかない、掛け値なしの実力稼業。それは、情緒、感動においてもむきだしのあるがままに生きることである。

●・・・もしこれが、合戦であったらどうであろうか。相手の刀が頭上に振り下ろされるとき、身や妻子の安全を心配している余裕はあるだろうか。「鬼にも神にも取り合はむ」という覚悟で切りかかっていくほかはあるまい。
 ・・・・・河内守源頼信が説いているのは、いささか陳腐な言い方をすれば、常在戦場という観念である。徳川太平の世に多用された言葉でいえば、「覚悟」の問題である。「只今がその時、その時が只今」(「葉隠」)という精神である。

●・・・・武士は、普段から実力を養うこと以上に(それは、当然の前提である)、実力をいかにタイミングをのがさずに、有効に発動できるか否かに神経を使った。いいかえれば、持てる力を、どれだけ効果的に表現できるかが、最重要な課題とされた。
 実力は、表現されてこそ実力である。逆にいえば、表現のさま、表現の仕方を見れば、その武士の実力のほどは知られる。

●「弓矢取る身は、仮にも名こそ惜しう候へ」「敵の首を取るといふは、われも名のって聞かせ、敵にも名のらせて、首取ったればこそ大功なれ」(平家物語)などというように、古来武士は、「名」にこだわってきた。
 武士の重んずる「名」とは、武功、名誉、評判などさまざまな意味合いを含む言葉であるが、その根本は、端的に個人の名前(固有名詞)を指している。
 その人に所属するあらゆる力、いいかえれば一人の武士の全存在を表示するものが、その人の名前であると考えられたからである。ここでいう「名」とは、東洋の「身(み)」に近いのではないかと思われます(藤森)。

「名ある者」とは、自分の力で自分を立てる者のことだ。そういう者として「人に知られて」いた者が、今になって俄かに他に依存するのは、醜態以外の何物でもない。

●武士のあるべき姿にこだわる勇者たちは、一般に名利に恬淡としている。自分が自分であればそれでよしとするこの流儀は、純粋化していくと、ときに、一切の名利に執着しないという武士像を生み出していく。仏教説話集などにしばしば見られる、一切を投げ出して突然出家する武士というのがそれである。

 すぐれた大将は、僧侶と気が合うのだという「甲陽軍艦」の言葉がある。
 己れが己れであることの確証を求めて、血みどろになって名利を追求するのが武士の姿である。しかし、一方で自己が自らをよしと認めたときには、何の未練もなく一切を捨て切れるのもまた、武士の本質である。

<以上は「武士道の逆襲」菅野覚明著、講談社現代新書より><文責:藤森弘司>

言葉TOPへ