2004年1月 第17回「今月の言葉」
●最近では珍しい200万部を超え(たらしい)大ベストセラー、養老孟司著「バカの壁」(新潮新書)680円。 私は、この本が売れている理由は題名にあると思っています。話をしているとき、「それはバカの壁だよ!」と一言で言える良さ、便利さが受けているように思えますがいかがでしょうか。 「流行語大賞」的な価値があると思っています。●第一章「バカの壁」とは何か・・・・「話せばわかる」は大嘘 薬学部というのは、女子が六割強と、女子の方が多い。そういう場で、この番組の「話してもわからない」ということを大学で痛感した例があります。イギリスBBC放送が制作した、ある夫婦の妊娠から出産までを詳細に追ったドキュメンタリー番組を、北里大学薬学部の学生に見せた時のことです。感想を学生に求めた結果が、非常に面白かった。男子学生と女子学生とで、はっきりと異なる反応が出たのです。 ビデオを見た女子学生のほとんどは「大変勉強になりました。新しい発見が沢山ありました」という感想でした。 一方、それに対して、男子学生は皆一様に「こんなことは既に保険の授業で知っているようなことばかりだ」という答え。同じものを見ても正反対といってもよいくらいの違いが出てきたのです。 ●これは一体どういうことなのでしょうか。同じ大学の同じ学部ですから、少なくとも偏差値的な知的レベルに男女差は無い。だとしたら、どこからこの違いが生じるのか。 その答えは、与えられた情報に対する姿勢の問題だ、ということです。要するに、男というものは、「出産」ということについて実感を持ちたくない。だから同じビデオを見ても、女子のような発見が出来なかった、むしろ積極的に発見をしようとしなかったということです。 ●つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の「バカの壁」です。このエピソードは物の見事に人間のわがまま勝手を示しています。 同じビデオを一緒に見ても、男子は「全部知っている」と言い、女子はディテールまで見て「新しい発見をした」という。明らかに男子は、あえて細部に目をつぶって、「そんなの知ってましたよ」と言っているだけなのです。 私たちが日頃、安易に「知っている」ということの実態は、実はそんな程度なのだということです。ビデオを見た際の男女の反応の差というのはかっこうの例でしょう。 ●第七章の中に「東大のバカ学生」の項目があります。一番印象に残っている酷い例は、東京大学での口述試験での体験。頭の骨を二個、机の上に置いて、学生に「この二つの骨の違いを言いなさい」と聞いたことがある。 すると、ある学生が、一分ぐらい黙った挙句に、答えは「先生、こっちのほうが大きいです」。「おまえ、幼稚園の入園試験でリンゴの大きさを比べているんじゃないぞ」思わず言ってしまったのですが、そういう学生が実際にいる。愕然、呆然でした。・・・・実物から物を考える習慣がゼロだということがよくわかった。 ・・・・思いつくままにいくらでも言えるはずです。それが「大きいです」でおしまい。「こっちのほうが大きいです」と幼稚園児なみです。これでは教師をやる気がなくなってしまう。そんな学生が東大を出て何年かしたら、偉いお医者さんだ、ということになるのだとすれば、責任が持てない。教師としてちゃんと教えろなんて言ったら、一人につきっ切りにならざるをえない。そんなコメディみたいなことには付き合えない。・・・・・ まだ、他の大学なら許せるかもしれない。ああ、そういう子もいるかもしれないな、と思う余地はあるが、あれだけ偏差値が高いなどと言って天下の受験生が目白押しになって入ってくるようなところに、そういうのがいるとなると、人間の選別方法そのものが何かおかしいという風にも思ってしまう。 本書にも「話せばわかるは大嘘」とありますが、もう一歩進めて、「話してわかるわけがない!」と私(藤森)は言いたいです。「わかった!」と思うのは錯覚で、それは厳密には、相手の話す意味は、自分の体験に照らしあわすとこういうことに「相当するらしい」という意味であって、相手の意味することを理解したのではありません。 ここに実は大きな誤解があり、多くのトラブルの原因にもなっています。自分が「自己流」に解釈したことを、多くの場合、相手がそのような意味で言ったという強い思い込みがあります。 ■このことを理解するには、一人の人間の歴史というものを考える必要があります。例えば、今ここに40歳同士の一組の夫婦がいるとしましょう。まず、この二人の生まれた場所が違います。北海道と九州ほどの違いは少ないかもしれませんが、いずれにしましても、地域・場所が違います。 さらに、それぞれの両親の性格・人格が違います。経済的な違いもあるでしょう。通った小学校や中学校の校風や先生の人間性の違いも大きいでしょう。 友人や隣人の違いや学校の成績や趣味や食べ物や読んだ本の違いなど・など・など、40歳になるまでに体験した物事の一部が似ていることはあるかもしれませんが、同じものなど一つもありません。 ■同じものが一つもない二人が同じ屋根の下で生活を始めたからといって、お互い何が一体理解できるでしょうか。相手を理解するということは、自分が40歳までに体験した総合として集大成されている「自分という存在」、そういう自分が体験してきた文化・歴史を参考にして判断し、考えて出した結論であって、相手を理解したのではありません。 ですから「夫婦」というものは、相手を理解できないもの同士が、わからないままに、相手を少しでも思いやりあう関係ではないでしょうか。テレビのチャンネルから、食べ物から、趣味・好みなど様々なものが違うもの同士が、フィフティ・フィフティの関係で半分を譲り合い、そして相手の好みを「好みそのままに受け止め合う関係」ではないでしょうか。 私自身、結婚した当時、妻が、私の主張することを余りに理解しないことに腹を立てたり、唖然呆然としました。その当時、私の主張を理解できない妻は「バカ」だからだと思っていました。 しかし、よくよく考えて見ますと、わからない妻のほうが正解であって、理解させようとした私のほうが「バカ」だったのです。 ■毎日一緒に生活をしている夫婦でさえ、理解不能なんですから、それ以外の人を理解したと思うことは限り無く「妄想」に近いです。ここから出発すれば人間関係は本当に「楽」になるのですが、私自身、すぐにそれを忘れて相手を理解させたくなってしまいます。 自分の主張が、いかに相手に理解されないか・・・・・ということがわからない方には、こんな質問はいかがでしょうか。 「あなたは、相手の方が、あなたを理解できないことを『理解』できますか?」。 多くの場合、自分は相手を理解できないが、相手は自分を理解すべきだという思い込みがあります。 ■「色(カラー)」について考えてみましょう。 私たちは通常、赤・青・黄色・黒・白などせいぜい10個前後の表現しか持っていないのではないでしょうか。 つまり色の種類は無限大に存在するのに、私たちは10~20個程度の色分けしかできませんから、相手の表現する色を、無限大にある色の「一覧表」から取り出すのは、偶然を除いて、不可能です。 相手の方が何かを伝えようとすることは、ほとんどこれと同じことです。その方が体験したことをもとに、何かを伝えようとするわけですが、その体験がない人にとって、ある程度の理解はできても、その実感は理解不能ではないでしょうか。 ■昔、力道山という著名なプロレスラーがいました。 あるとき、歯科治療で歯を抜かなければならなくなったとき、試合があるので麻酔をかけると危険だということで、「麻酔無し」で歯を抜いたそうです。 このことをあなたは理解できますか?私には理解不能です。口中血だらけになりながら、ペンチのような道具で、歯を抜く姿は、私の想像を絶します。 *戦国時代、敵に囲まれた武将が、切った腹の中から臓物を取り出して、敵に投げつけたとのことですが、これも私には理解不能です。私には腹も切れないし、切ったとしても、臓物を取り出すどころか、その前に悶絶してしまうでしょう。 *幕末・土佐の武市半平太は、切腹の命令に、三文字切りをしたそうです。腹を切った刀を抜いて、反対側に刺して切る、そしてもう一度抜いて切るという恐ろしい切腹で、藩主に対する怒りを表現しました。私ならば、一刻も早く首を切り落としてもらって、楽になる道を考えるでしょう。 ■お釈迦様は、「千人の聴衆に、千万語を費やして話した時、たった一人でも、千万語の中の一言だけでも心にとめて帰れば、望外の喜びだと思わなければならない。そう思わなくて、四十五年も伝道の遊行がつづけられようか」とおっしゃっています(瀬戸内寂聴著「釈迦」新潮社、1、900円)。 ■私たちは、程度の違いがあるだけで、「バカの壁」を厚くしながら生きているのかもしれません。人と人の間には「バカの壁」という「コミュニケーション・ギャップ」が絶対的に存在するのだという認識こそが重要です。そうすれば複数の人に対して、ましてや一度に多数の人を指導し、教育的理解をさせることが、限り無く不可能なことであることに気がつくでしょう。 それを前提に対応するのと、理解すべきだという誤った認識から出発するのでは、その場に大きな差ができます。それは、理解されにくいことを少しでも理解していただくにはどうしたら良いかという工夫が生まれますが、理解すべきであり、理解できることだという認識から出発すると、指導する側の「自己満足」に終わってしまいます。 さて、こういう状態を「バカの壁」と一言で表現できるようになったことの業績はとても大きいものがあります。そういう意味では、この本は永遠のベストセラーかもしれません。特筆すべき業績です。 ■このように書き終わってから、偶然にも、1月1日付け「夕刊フジ」の新聞を見ると、私と同じことが述べられていました。 養老孟司「バカの壁」が、それこそバカ当たりしており、著者や出版社は、語りおろしが新しい言文一致体を生み、読みやすくなったのを大きな理由にあげている。 私はむしろ表題と新書スタイル、著名な学者という3つのせいではないかと思っている。同じ趣旨のことを明快に長年書きつづけた山本夏彦氏の本は、初めはほとんど売れなかったからである(かねやんの2003年ベストセラー、赤提灯「バカの壁」タイトルの勝利、金田浩一呂)。 |
(文責:藤森弘司)
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