(しむりょうしん) 2003年9月 第13回 今月の言葉 パート②
四無量心 |
(大須賀発蔵著「いのち分けあいしもの」より抜粋)
●「四無量心」とは仏教用語で「①慈(じ)」「②悲(ひ)」「③喜(き)」「④捨(しゃ)」の4つをさします。 仏教では、他者を援助する「利他」の心は、「慈・悲・喜・捨」の四つにあるとして、これを「四無量心」と呼んでいます。 ①「慈」・・・包む心(前月をご参照) ②「悲」・・・聴く心 (四無量心は)第二原理として、「悲」は、人々の苦しみを抜く心(抜苦・ばっく)といわれます。 「慈」が包む心であるならば、「悲」はそれとは逆に、相手の心の中にこちらの心を入れて相手の苦悩に耳を傾けるはたらきです。 そのときはじめて、外から包む理解だけではなく、相手自身の感じている内面の世界そのものを理解し共感することができます。 もし心の出会いというなら、このことをいうのでしょうし、カウンセリングの中心は、まさに相手の内面を傾聴する「悲」の心にあるといってもいいでしょう。 観音霊場を廻る巡礼で札所に詣でますと、納経帖に「大悲殿」と書いてくださるところが多いのです。「大」は絶対を表わす言葉ですから、ここでは観音様を意味します。 したがって「ここは観音様が、あなたの心の内を、よいわるいを超えて、あるがままに聴いてくださる御殿です」という意味ではないでしょうか。 味わい深いことばですが、家庭でも学校でも職場でも、大悲殿はともかく小悲殿でよいから、相手の内面に耳を傾ける雰囲気ができるなら、そこには必ず光が差し込んでくるにちがいないと思います。 こうして第一の原理の「慈」の心は、第二の「悲」の心によって深められ、さらに第三原理の「喜」の心を呼び起こしていきます。 ③「喜」・・・よみがえる心 「他の喜びをわが喜びとする心」です。 「喜」の心は、他の悲しみをわが悲しみとする「悲」の心より、遥かにむずかしいといわれています。 たしかにそのとおりと思いますが、カウンセリングの体験からすると、「慈悲」のプロセスを通過すると、そこにはおのずから「喜」の心が湧いてきます。 人はあたたかな心に包まれ、さらに心の内の真実をあるがままに理解されたとき、ほっとした安心感を味わい、それは深い喜びとして実感されるのです。 その喜びは、また聴く者の心にも等しく共感され循環されてくるのです。 それは必ずしも歓喜としての喜びではなく、枯れ芝に春の緑が芽生えるようなほっと安心を感じる静かな喜びであるかもしれません。 ④「捨」・・・自立する心 「捨」は「不憎不愛(ふぞうふあい)の心」といわれます。人を拒まず、人に執着せず、それぞれがそれぞれのいのちの色で自在に生きながら、人間としての共感をあたたかく感じあっている境地をいうのでしょう。 ちょうど畳を敷いたように、離れず、また重ならず、相互に心を接しながら、しかも自主的に主体的に生きていくのです。 人の心は力を失っているとき、憎愛のこだわりに陥ります。しかし力を回復したとき、知らず知らずこだわりは消えていて、不憎不愛の境地に立っています。 「捨」は憎愛のこだわりを捨てるという意味でしょうが、カウンセリングの体験からいえば、こだわりはエネルギーの回復とともに、おのずから消え去るものといえるようです。 カウンセリングとして「慈・悲・喜・捨」の心を辿る過程は、安易ではありません。ときとして混乱し、停滞し、絶望すらともなう光と陰の長い旅路です。 しかし陰は光を求め、光は陰に導かれながら、必ず「慈」から「捨」に向かって、洞察の旅をすすめます。 ●「いのち分けあいしもの」柏樹社刊より抜粋・・・著者の大須賀発蔵先生は、仏教思想とカウンセリングの統合に尽くされ、1987年、第21回「仏教伝道文化賞」を受賞。茨城カウンセラーセンター理事長、茨城精神保健協会会長、茨城いのちの電話理事長ほか。 ●大須賀発蔵先生は、「マンダラや華厳の教え」を、カウンセリング理論を通して現代に蘇らせた革命的な方で、その業績は画期的です。まさに仏教界における「大須賀理論」と言えます。 |
(文責:藤森弘司)
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