(しむりょうしん) 2003年8月 第12回 今月の言葉 パート①

 

四無量心

 

②ー①  (大須賀発蔵著「いのち分けあいしもの」より抜粋)

 

●「四無量心」とは仏教用語で「①慈(じ)」「②悲(ひ)」「③喜(き)」「④捨(しゃ)」の4つをさします。

仏教では、他者を援助する「利他」の心は、「慈・悲・喜・捨」の四つにあるとして、これを「四無量心」と呼んでいます。

私(大須賀発蔵先生)はささやかながら、日常のカウンセリング活動の中で、この四無量心がカウンセリングの展開過程を見事に教えていることに気づき、深い感動を覚えております。

この四つは援助が成り立つためにたどらなければならない、心のプロセスを示しているのです。しかも「慈・悲・喜・捨」の順序は、必ず慈に始まって捨に帰結する秩序であり、一つも欠くことのできない、まさに入れ替えることのできないシステムを構成しています。そしてこれは、カウンセリングとまったく同じ過程なのです。

①「慈」・・・包む心
四無量心は、「慈」を第一原理としてはじまります。古来、慈は「人々に楽を与える心(与楽)」といわれますが、一言にいえば「相手をあたたかく包む心」です。
人間は母の胎内にあたたかく包まれる体験をとおして、はじめて他者の愛を感じました。したがって、なによりも先に、他者の心に包まれているフィーリングのないところでは、心を通わせることができません。

ですから、「包む心」こそ第一の原理なのです。

●母にして子を包む心のない者はおりません。教師と生徒とを考えても同様でしょう。しかし私(大須賀発蔵先生)など、カウンセリングの場面をとおして悲しく思うことは、母が子を包むつもりで、実際には子の心を縛りつけている場合が非常に多いということです。

ここでは、せっかくの愛が愛として伝わらないばかりか、むしろ拒絶されていることさえあるのです。相手を縛らずに、柔らかくあたたかく包むということは、とてもむずかしいことですが、ここを出発点としない限り、心の成長をめざすかかわりは、すべてはじまらないといえるでしょう。

●あるお母さんはご主人を亡くされたあと、高校生の娘さんの心のゆれに苦しんだのですが、やがてこう述懐いたしました。

「私は自分が一生懸命に生きて、その姿を真似させれば、子どもは立派に育つと思ってきました。しかしそれは、私の色で娘を塗りつぶすことをしていたのです。

世間では母親のことをおふくろといいますが、私の心には子どもを包む袋がありませんでした。でも、ようやく薄い袋ができました。わが子といえども、異なったいのちの色があるんですね。異なったいのちを包んでこそ、おふくろだったんですね」。

●悟った人の心ならともかく、煩悩に苦しんでいる未熟な私たちは、どうしてもこの過ちを犯してしまいます。そこで第二の「悲」の過程は、ことさらに重要になるところです。

その前にもう一度確認しておきたいことは、カウンセリング関係の中では、包む心が届いているときは、相手もまたこちらを包んでいるのです。共に包みあっているのです。その自利利他円満ともいうべき相互循環の関係を、私たちは敏感に感じとっていなければなりません。

そうでないと、私たちは愛を一方的に与えているような錯覚に陥りやすいのです。したがって、「包む心」は、さらに「包みあう心」として、平等な関係に立っていくのです。

●「いのち分けあいしもの」柏樹社刊より抜粋・・・著者の大須賀発蔵先生は、仏教思想とカウンセリングの統合に尽くされ、1987年、第21回「仏教伝道文化賞」を受賞。茨城カウンセリングセンター理事長、茨城精神保健協会会長、茨城いのちの電話理事長ほか。

●大須賀発蔵先生は、「マンダラや華厳の教え」を、カウンセリング理論を通して現代に蘇らせた革命的な方で、その業績は画期的です。まさに仏教界における「大須賀理論」と言えます。

難解な仏教の叡智が、大須賀先生の長年の深いカウンセリング体験を通して、分かりやすく、合理的に新解釈されました。そのすばらしさは抜群で、大須賀理論に触れた方はどなたでも、仏教観を一変させることでしょう、驚嘆の一言です。私自身が長年、大須賀先生にご指導いただき、先生の偉大な業績の一端に触れさせていただきました。

 

(文責:藤森弘司)

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