「うんすい」 2003年5月 第9回 今月の言葉

 

雲水

●前月(4月の「今月の言葉」)の続きです。

「雲水(うんすい)」とは・・・・・・・(岩波国語辞典より)
①行く雲と流れる水②(雲がどことさだめなく行き、水が流れてやまないように)諸国を修行して歩く僧。行脚(あんぎゃ)僧・・・・・主に禅僧に言う。
●文字通り、必要最低限の物を持って諸国を修行して歩く僧を言います。現金を持つわけではありませんし、買いだめの食料を持参するわけではありませんので、旅の途中は、托鉢して、市井の人々に食べ物を「布施」していただきます。また、宿泊は、自分の目指すお寺に泊めていただきます。

ここで、お寺の住職は、簡単に泊めてはくれません。昔の、特に厳しいことで有名なお寺では1週間、断られ続けて、それに耐えてやっと宿泊や、修行を許されることもあったようです。ここまで極端ではないにしても、かなり厳しく断られるのが「禅宗」のしきたりです。

では何故、このようなスタイルをとるのかと言うのが、今月のテーマです。

●私達は、自分自身でどうにもならない「我」というものを、誰でも強く持っています。自分にへばりついて離れない「我」・「面子」「プライド」。これらは、時には「命」よりも大事にしたくなるほど、強烈な存在です。この「我」というものが、お世話になるお寺にも出てしまうものです。

例えば、ある「雲水」が、本山で正式な修行をしたことがあるとします。ところが、お世話になる地方のあるお寺が、本山の正式なスタイル・しきたりと違うとき、とやかく偉そうに言いたくなるクセが私たちにはあります。
そういう「我」を全て放擲して、ここのお寺のしきたりや、住職の指導に完全に従いますという心境になるために、この形式はどうしても必要になります。


1週間、冷たく断られ続けても、なお、頭を下げてお願いし続けます。外の冷たさや空腹に耐えながら、許しを請ううちに、寺の中で修行させていただけることの「ありがたさ」を、心の底から思えるようになるのものです。

●もしこのとき、物なりお金なりの蓄えがあるとき、私達は「それならば結構です」という心境になるものです。謙虚になるよりも、自分の「我」を通すことを優先してしまいます。
どんなに意地を通したくても、意地を通すだけの財力が無ければ、意地を通すこともできません。そこで初めて「謙虚な自分」と向き合うことになります。

●私達は困りきっているときはどんなものでもありがたいのに、少し余裕が出てくると、自分の「好み・気分」を優先してしまい勝ちです。そして、自分の「好みや気分」に合致しないと、「相手の方の好意来月の「今月の言葉」ご参照」よりも自分の感情を優先して、変な「我」「面子やプライド」が顔を出して、腹を立てたり、人間関係を悪くしたりするものです。
お腹がすいているときは、おにぎりだけでもありがたいのに、裕福になるとかなりのご馳走でも、(好き嫌いや味付けなどの)チョッとした行き違いから不愉快になることがあります。

「衣食足りて礼節を知る」と言われてきましたが、むしろ「衣食が足りると、ますます礼節を忘れる」、つまり、「有難さ・感謝の念」が薄れてしまうものです。

●雲水が余計なものを何も持たないということこそが修行にとって大切な条件です。所有するものが少なければ少ないほど、「我」を捨てて、謙虚な自分にならざるを得ません。私達はこのように自分を追い込まないと謙虚になれないほど、強い「我」「業」を持っています。私の記憶では、キリスト教では、ラクダが針の穴を通るよりも、金持ちが「幸せ」になるほうが難しいと言います。一個の人間と人間が向き合うという事は、一人の人間そのもの(本質)と向き合うはずなのに、私達は、その人が身につけている洋服であったり、学歴であったり、地位や財産などと向き合ってしまい勝ちです。

そのため社会的地位が高かったり、大きな財産を有していると、本人も周囲もそのパワーが優先されてしまって、謙虚にはなかなかなれないものです。

●何も持たずに生きることそのものが、ものすごい修行をしていることになります。
つまり「雲水」とは、「謙虚」になるための修行方法です。

本格的な修行僧(雲水)であれば、もっと激しい対応をしたのでしょうが、在家の人間である私に対しては、彼らにとって、軽いジャブを出した位なのでしょうが、全く事情が分からない私にとっては、ノックアウトされるくらいの衝撃でした。ここのお寺のしきたりに従い、どれだけ「理屈」を抜きに修行する「覚悟」があるのか、私の「覚悟」のほどが試されたのでした。
もしあそこで「それでは出直してきます」と言ったら、今の私は無かったでしょう。

●もし、あそこで出直したとします。また同じことが繰り返されたはずです。やがて私は「バカにしている!」と腹を立てたでしょう。人生に行き詰って、困りきっていたからこそ、この細い道を通ることができたのでした。

人一人がやっと通れる道は、大きな荷物を捨てれば通れるということでしょう。大きな荷物(我)を捨てるほどの覚悟が問われます(捨ててこそ浮かぶ瀬もあり)。

「本当の本当に本気」になったら、どんな道でも通れるのかも知れません。通れない道があったら、それはもしかしたら、本気度が不足しているのかもしれません。
そして「本当の本当に本気」になるということは、その状況に直面している自分自身に「謙虚=空」になることかもしれません。「本気度」とは、「謙虚度」のことかもしれません。

●というすばらしい体験をしたにもかかわらず私は、謙虚とは反対の「傲慢さ」のみで三十数年を生きてきましたが、そういう私がここまで生きてこられたことに、もう少し「謙虚」になりたいと思っています。意地を張ることで、生きる支えにしてきたような私でさえ、還暦が近づく今日この頃、「謙虚」さが少しは出てきたようです。
還暦後の第二の私の人生は、もう少し楽に生きたいものです。

(文責:藤森弘司)

言葉TOPへ