「しのそうぎょうにおよばざれども、もこをしんじゅつとするなり」2003年3月 第7回 今月の言葉

 

師の操行におよばざれども慕古を心術とするなり

「正法眼蔵栢樹子」
 

●横浜市港南区の「貞昌院」というお寺に掲示されていたものを、亀野住職のご好意で、資料をいただきました。それを基に、述べさせていただきます。

●道元(どうげん)禅師(ぜんじ)が、中国の趙州(じょうしゅう)禅師の故事に想いを馳せて、感想と説法をまとめた「正法眼蔵栢樹子(しょうぼうげんぞうはくじゅし)」の文中のことばです。

趙州禅師は唐の時代の人で、当時としてはかなりの高齢の61歳で出家されました。そして、ひたすら真実の道を求めて旅する中、師匠となる南泉(なんせん)禅師にめぐり合い、お釈迦様から37代目の法を継がれました。

その修行生活は、木の実を拾って食べるほど窮乏したそうですが、修行に対しては厳格で、僅かな時間も無駄にしないで坐禅に励まれ、多くの門弟を育てました。
道元禅師は、この句で、「趙州禅師のように厳しく徹底した禅の境涯には及ばないけれども、古人の徳行に敬慕すること(慕古・・もこ)を心の糧としていきたい」と説かれています。

●私は、この言葉に接することができて救われました。私自身は、多少の経験はありますが、気持ちばかりで怠け者の毎日を過ごしています。そして、年ばかりが加わって、もうすぐ「還暦」を迎えるまでになってしまいました。未熟な自分に、反省というよりも「後悔」に近い毎日です。
そんな私でもできること、それがこの「慕古」です。厳しい修行こそできない「怠け者」の私でも、責めて、ここまで私を育ててくださった先生方を「尊敬」する気持ち(謙虚な自分)を忘れずにいたいと思っています。
そうすれば、立派な人間になれないまでも、人生を大きく踏み外すことはないのではないかと、希望的に思っています。

 

(文責:藤森弘司)

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