2003年12月 第16回「今月の言葉」
人 見 知 り

●2003年11月3日の読売新聞「すまいる育児」欄に「人見知り」のことが特集されていました。少々長いですが、出来るだけ多く、記事の内容をご紹介します。

●「生後八ヶ月ごろの赤ちゃんはよく人見知りする。ママ以外の人を見た子どもに急に泣き出され、気まずい思いをすることもある。しかし、人見知りは成長の証しと前向きに受け止め、ゆっくり少しずつほかの人との関係が築ける工夫をすれば乗り切ることができる。」と見出しにありました。

「・・・知人の家を訪ねたとき、『かわいい』と言って知人が抱き上げたとたん泣き出してしまった。『申し訳ない気持ちで、おっぱいが欲しいみたいだとごまかしました』」

「日本子ども家庭総合研究所・愛育相談所」(東京)の安藤朗子さんは『ほかの人になついてくれないために疲労感を訴えたり、人見知りが激しいのは自分のせいだと自分を責めたりする人もいる』と言う」

赤ちゃんの人見知りは、一般に生後六ヶ月過ぎに始まり、八ヶ月ごろがピークといわれる。ただ個人差が大きく、早い子は四ヶ月ごろから始まり、一才ごろまで続く。反応もかなり個人差がある」

「お茶ノ水女子大助教授の菅原ますみさん(発達心理)は『人見知りは、慣れ親しんだ人を好きになった赤ちゃんが、それ以外の人に対する恐れの感情を表していること』と説明する。『大好きな人と引き離されるのではないかという不安』や『大好きな人とほかの人とのコミュニケーションのリズムに違いがあること』などが原因で起こると考えられている。」

「菅原さんは『人見知りはだれもが通る発達の過程で、やがて自然に収まる。赤ちゃんが順調に成長している証しと前向きに受け止める』ようアドバイスする。」
「人見知りの強さ、長さは、育児の環境よりも個性によるもので、これをコントロールするのは難しいという。」

「ただ、工夫次第でこの時期をうまく乗り切ることもできる。神奈川県相模原市の淵野辺保育園では、こんな方法を試みている。例えば新しく来た保育士の実習生には、おびえて泣く子の世話を無理にさせない。いつも世話している担当の保育士が赤ちゃんを抱っこして、実習生のそばに行ったり、話しかけたりする。

そのうちに、すこしずつ慣れてくるという。副園長の霜降靖代さんは『泣かれる実習生もショックを受けますが、人見知りする子だと理解してもらい、慣れるのを待ちます』と話す。」

「菅原さんは、この方法は家庭でも応用できると言う。まず祖父母や友人など周囲の人に人見知りの時期であることを告げて理解してもらい、無理に抱かせない。お母さんが相手と仲良く話していれば、やがて赤ちゃんも『大好きなお母さんが仲良くしている人だから大丈夫だ』と、警戒心を解いていくという。『人見知りをするからと、母子で家にじっとしている必要はありません』と話している。」

●(私見)さて、人見知りとはなんでしょうか?
今、あなたがゼロ才児で、乳母車の中で上向きに寝ているとします。知らない人がニューッと現われて、頭をなでようとする手が出てきたらどんな感じがするでしょうか。驚いて、ビクッとするはずです。何故なら、赤ちゃんにとってその手は巨大に大きいはずですし、いきなり顔面に見慣れない巨大な手が現れれば、驚く方が自然です。

以前、週刊誌で、駅の売店の「キオスク」の内部から撮った写真を見たことがあります。ラッシュ時、お店の中の一人の女性に向かって、四方からいくつもの手が伸びて、小銭をだしているその写真は、かなり不気味なものでした。
大人でさえそうです。ましてやほとんど母親しか知らないであろう乳児にとって、違う雰囲気の顔や手が目の前に、しかも急に現われたら驚くのは当然のことです。

理論ではなく、実際に体験してみますと、分かることが沢山あります。
私の子どもが数ヶ月の乳児のころのことです。寝ている子どもの脇を通ったとき、多分、私の乱暴な足音に驚いたのだと思います。両腕が大きく動いたことを思い出します。
また、寝ている子どもの横で新聞を読んでいて、ページをめくるときにたてたガサガサという音に同様の動きがありました。スーパーで出すビニールの袋のガサガサの音にも大きく反応したものでした。

私はこう考えました。母親のお腹の中は、母親の心理状態さえ良ければ、本当に穏やかで落ち着いた、安心のできる環境にあるものと思われます。
しかし、赤ちゃんが出産された後は、触れられる感じや周囲の音などにとても違和感を感じるのではないでしょうか。ましてや家庭がトラブッていれば、心地の悪さはなおさらのことでしょう。

でもそれなりに、母親を中心に穏やかで心地よい環境にあれば、その環境に順応して育っていくでしょう。母親の感じ、家の中の感じや雰囲気などに適応して十分に慣れてきて数ヶ月が経過したころ、散歩などで外部の人に突然、顔を近づけられたり、手が出てきて頭をなでられれば驚いて母親にしがみつくのは当然のことです。

しかし、逆に、お店を経営しているなどのために多忙であったり家庭的に恵まれなくて、結果的に、子どもの側から見れば十分に愛してもらえなかったり、十分なスキンシップが得られなかったりしたらどうであろうか。

その心地悪さ・寂しさに耐える辛さよりも、多少怖くても、触れてくれたり相手になってくれる他人の存在のほうがとてもありがたくて、その人に微笑むようにならないだろうか(人間は触れ合い・ストロークを強く求めて生きています)。

このように考えて見ますと、人見知りをするということは、母親を中心にした家族に十分に愛してもらっているという証明にならないでしょうか。

日ごろの慣れ親しんでいる家庭の雰囲気と外部の違いが分かれば、小学生が近くの森に探検するくらいに乳児にとって冒険的なことが分かるのではないでしょうか。

つまり人見知りとは、主として母親と他人とが区別できるようになったことを意味するものと思われます。もし人見知りをしないとするならば、それはいったい何を意味するでしょうか。

最近は反抗期のない若者が非常に多くなっています。「人見知り」や「反抗期」とは何を意味するのかをしっかり考え直すときにきているように思います。

(文責:藤森弘司)

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