2003年11月 第15回「今月の言葉」

A chain is no stronger than its weakest link.

 

●鎖の強さは、もっとも弱い環によって決まる。
たとえ一つでも弱い環があれば、そこからちぎれることになるから、鎖の強さはその弱い環によって決まるわけ。なにごとでも効力は弱い個所によって決定されるという比喩的な意味で引用されます。有名なイギリスの探偵小説作家コナン・ドイルのことばから出たものです(英語のことわざ、秋本弘介、創元社)
●私が知っている唯一の英語のことわざです。どういうわけか、非常に印象的でしたが、心理学や自己成長に取り組んで、初めてその深い意味が分かりました。私が惹きつけられたのは次のようなことでした。

●A chain  ・・・・・ 「一本の鎖」とは、一人の人格・人間に置き換えることができます。
一人の人格・人間は、その人の一番弱い部分(劣等感コンプレックス)の弱さの度合いによって決まる、このように解釈することができます。

●私たちは、恐らく誰でも、密かに「劣等感コンプレックス」を持っているものです(奇跡的にすばらしい両親に育てられた奇跡的にすばらしい人が存在する可能性までは否定しませんが)。

●多くの方々(専門家も含めて)は、自己成長を考えるとき、今のままさらに成長しようとします。この「劣等感コンプレックス」の根源を解除するのではなく、ハウツー的に解決しようとします。
例えば、スポーツマンは、想像を絶する訓練をします。猛烈に鍛えられた肉体は、強靭な人間を作り上げたように見えます。しかし、驚くほど短命なスポーツマンが少なくありません。

●例えば「相撲取り」です。横綱になるほど肉体を鍛錬しても、還暦を迎えて、赤いフンドシを締めて「横綱の土俵入り」をする人は、本当にわずかです。
オリンピックで優秀な成績を残した選手も長寿をまっとうする人は少ないです。何故でしょうか。これは自己成長を考えるとき、非常に大事なことです。

●では、何故、上記のようなことが起きるのでしょうか。心理学や自己成長の面から考察して見たいと思います。劣等感コンプレックス、ユング心理学的には「影」、あるいは「トラウマ」などと呼ばれている、私たちが無意識界に押しやった、あるいは「抑圧」した「心の傷」は、大なり小なり、誰もが無意識界に持っているものです。

時に、思い出しては心がヒリヒリ痛みを感じるもの、思い出しては、その都度、その痛みに耐えがたくて無意識界にねじ込もうとするもの。そういう自分の中の「最も弱い部分(weakest link)」を直視するのに耐え難くて抑圧したままで「自己成長」を目指して、種々様々なことをいくら勉強し、理解しても、また、いくら肉体を鍛えても、いつか「金属疲労(?)」を起こして、「最も弱い部分」からポキッと折れてしまいます。

●では自己成長とはなんでしょうか。私の定義では「心の傷」に取り組み、解放し、その部分を温かいもの(愛)で埋め戻す(癒す)ことです。
取り組み方はいろいろありますが、「心の傷」をそのままにしての自己成長はありえません。少し悪い表現をしますと、心の傷を「隠蔽」したままで、表面的に成長したように見えても、やがてそこからポキッと折れてしまいます。

つまり、その部分(心の傷、劣等感コンプレックス)の弱さの程度よりも強くはなれない分けですから、その部分の弱さの度合い(強度)によって、その人の人間としての強さは決まることになります。

●すべての部分を、仮に100%鍛えたとしても、ある一部分が10%だとしたら、その人(A chain 1本の鎖)の強さは10%を超えることはありません。

そして、その人のストレスの限界(上記の例ですと10%)を超えると、①身体的に症状化する場合には西洋医学的な治療が必要になり、②精神症状化する場合には、精神科・神経科・心療内科、あるいはカウンセラーなどの心理的な対応が必要になり、③いじめや暴走族などの行動面に出る場合には、心理的な対応や警察的な対応が必要になります。

●別の言い方をしますと、その人の弱い部分、つまり劣等感コンプレックスをどの程度受け入れている(受容している)か否かが重要になります。自分の弱さ、いわゆる欠点と言われるような部分を受容している方は、当然、自身の未熟さを認識していますので謙虚になり、腰が低くなります。

そのため周囲から見ますと、弱い人間のように見えますが、実は内面的にしっかりと自我が確立していて、精神的にはとても「しなやか」です。
上記の例ですと、大部分が50%程度の鍛えでも、最も弱い部分(10%)を50%まで受け入れていれば、上記の人よりもはるかに内面が確立されているということになります。

●これが私の考える「本来の自己成長(等身大の自分になること)」です。

別の言い方をしますと、劣等感コンプレックスという精神面ではなかなか理解しにくいので、身体に置き換えて見ると分かりやすいと思います。

私が最も尊敬する先生方の一人で、大石順教という尼様がいらっしゃいました(1968年、80歳で亡くなりました)。17歳ころ、養父・万次郎に酔った勢いで(家族中が滅多切りされ、殺された)、大石順教先生は両腕を切り落とされたが、辛うじて生きることができ、口で描くすばらしい日本画家になりました(続・回顧妻吉後日物語、佐々木勇雄著、新世紀書房)。

●業績もすばらしいが、宗教的境地の高さは本当にすばらしい方です。もう一人の先生は、体育の先生でしたが、体育の授業中に鉄棒で頭から落ちて、首から下が全く動かなくなった「星野富弘先生」です。

星野先生は現在、有名な方ですので、多分、多くの方がご存知のことと思います。首から下が全く動かないのですから、身体的にはこれ以上の不幸は無いはずです。そして、当初は、自分に訪れた不幸に、猛烈な怒りや恨みがあったでしょう。しかし、そこを乗り越えられ、境遇を受け入れて、空前の宗教的な境地に達せられました。

●僭越ながら、お二人の先生は、精神面に喩えれば強烈な劣等感コンプレックスを乗り越えた、受け入れたことで、名僧・高僧の境地に達せられました。確かに両先生ともに、口ですばらしい絵をお描きになります。そして外面的には不自由な体で描く絵のすばらしさが目立ちますが、実際は精神性の高さがすばらしいのです。

そして、身体面の不自由さは従来のままでありながら、そのままで高い境地に達していらっしゃることです。劣等感コンプレックスも、受容してしまえば、そのままでそれは「劣等感」でなくなるんです。

●因みに、自己を確立した方を私は「水草」に喩えています。水草は、流れてくる水に、右に左にヒラヒラ、他者に迎合している、自身の主体性が無いように見えますが、しかし、川底ではしっかりと大地に根を張っていて、自分の中心は微動だにしません。

いつか私もこのような人間になりたいと願っています。

(文責:藤森弘司)

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