「たひをべんぜず、じひをべんぜよ」 2003年4月 第8回 今月の言葉
他非を弁せず(不弁他非)
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●私の生涯の目標がこれです。言うは易く、行なうは本当に難い言葉です。
●この色紙を丹羽先生よりいただいたのは、今から30数年前、私が今よりもさらに「未熟」だった頃のことです。人生に完全に生き詰まった私は、あるとき、どうにかして「生きたい」と思いました。 ●今でこそ、多少、「禅」に興味を持っていますが、当時は、「禅」に関して全く、何も分かりませんでした。ですから何故、「禅寺」を思いついたのか、昔も今も全く思い当たりません。しかし、とにかく、「禅寺に行こう」と思いました。ところが全く予備知識が無い私は、まず、禅とは何か、百科事典を調べました。
●その中から港区の「長谷寺」を選びました。しかし、全くの偶然とはいえ、この寺は曹洞宗・大本山永平寺の別院・・・全国には山口県と東京港区の2箇所だけの、由緒ある大きなお寺でした。 電話で事情を話すと、とても親切で、温かく受け入れてくださり、お寺に伺うと、その方が、別院の最高責任者である「監院(かんにん)様」に私を紹介してくださいました。監院様はとろけるくらいに温かく、優しい方で、私をそのまま受容してくださり、一週間後に、このお寺に住まわせていただくことになりました。 ●一週間後私は両親にウソをついて、荷物をまとめて家を出ました。夜の7時ころ、暗い中、不安を抱えながら、お寺の中に入り「今日からお世話になります藤森です」と言うと、応対の若い僧侶は「そういう話は聞いていない」と言います。 ●驚いた私は「監院様に会わせてください」と言うと、「監院様はいらっしゃらない」と言います。「それではお帰りになるまで待たせてください」と言うと、「いつ帰るか分からないので、また出直してきなさい」と言うではありませんか。
●出直すべきなのか?しかしいまさら出直す気にはなれない。どうしたらいいのか、何を言えばいいのか。私はうろたえながら、入り口で立ったまま、30分くらい粘りました。やがてその若い僧侶は、仕方ないと言う感じで、後ろの部屋で待ちなさいと、誰も居ない大きな建物(伽藍・がらん)の裏にある狭い部屋に案内してくれました。 ●なんとも心細い気持ちでいましたが、その後、誰も顔を出す人がいません。お寺の事情はまったく分かりませんので、何をどうして良いのかサッパリ分からず、やがて布団をしいて横になりましたが、なかなか眠れません。ウトウトしている間に、暗い中、誰かが、昔の小学校で使われた鐘をガランガラン鳴らしながら、廊下をドタドタと全力で走っています。「肝がつぶれる!」とはこういうことを言うのでしょう。「火事か何かなんだろうか?」「自分はどうしたらいいんだろう!?」しかし、それは一瞬のことで、すぐにまた静寂がもどりました。 やがて反対側の「伽藍」に大勢の人たちが集まってくる足音が感じられます。壁一枚隔てたところに居る私は、このまま寝ているわけにもいかず、かといって起きてもどうして良いのか、さらにわかりません。 その足音もすぐに止み、そこには大勢の人が居るはずなのに、またもとの静寂がもどりました。しばらくするとまた、大勢の人たちは微かな足音をたてながら去っていき、またシーンとした静寂が戻りました。 ●不気味な気持ち一杯で、布団の上に身を縮めて座っていました。するとそこに!!すぐそばで思い切り叩く太鼓の音がしました。もうダメです。私一人では耐えられません・・・ ●早朝の5時に鐘で学生たちを叩き起こし、それからすぐに「伽藍」で全員の坐禅が始まります。坐禅が終わると退出し、それから6時に、読経のための集合を太鼓で知らせるのでした。こういう恐ろしい初日を過して、二日目からは、駒沢大学に通う学生たちと一緒に寝起きをしながら、会社に通い、2~3ヶ月位お世話になりました。 ●毎週一回、若い僧侶と「監院様」との「禅問答」が行なわれます。当時はそういうことが全く分からない上に、もともと分かりにくい「禅問答」ですから、さらに何をしているのかサッパリ分かりませんでした。
●さて、何故、入門初日に、あのようなことがあったのか。十数年後、禅宗というものに少しは興味を持ち、本も読むようになってやっと分かりました。 <今月の言葉・第9回「雲水」>をご参照ください。 |
(文責:藤森弘司)
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