(にしゅじんしん)2002年11月第3回「今月の言葉」                 

 

二種深信

 

 法(ほう)の深信(じんしん)・機(き)の深信(じんしん)、あわせて二種深信と言います。


①法の深信とは・・・・・・生かされていることに気づくこと
②機の深信とは・・・・・・生かされていることに気づかない自分に気づくことです。

人間は、太陽・空気・水、それに他の生物の命の犠牲なしには生きられません。つまり、これらによって生かされているということは、宗教というものを離れた事実です。


このことを気づかせようと、お釈迦様は苦労されたようですが、浄土教は、生かされていることに気づかない自分というものにスポットをあてています。
自分は大したものだと考え、自分は独力で生きていると力(りき)む自分というものを徹底して見つめます。
(参考・・・井上信一先生<親鸞研究の第1人者>)

 

さて、私は「二種深信」を自分自身のために、下記のように勝手な解釈をしています。

①の「法の深信」とは、「自己成長」し、「成熟した人間」、つまり「立派な人間」になること。

②の「機の深信」とは、自分の「未熟さ」に気づくこと。
「自己成長」したい、「成熟した人間」になりたいと思いながら、私(藤森)は、相も変わらず「未熟な自分」に気づいて、恥ずかしさに、身の置き所が無い思いをすることが多いです。

 

そういうとき、「自分の未熟さ」に気づくのは、「機の深信だ!」と思えたとき、痛んだ胸のうちがいくらかでも癒される思いがします。
せめて、「立派な人間」になれなくても、「恥ずかしい自分・未熟な自分」に気づける自分でありたいと私は念願しています。

 

このことを活用して、私は次のように定義しています。
①正常な人とは・・・・自分の異常性を認識している人のことで、
②異常な人とは・・・・自分は正常であると思っている人のことである、と。

(文責:藤森弘司)

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