平成24年7月15日、第120回「今月の言葉」
マリアとサーシャという名前について(具体例①の解説・追加)

●(1)まず、前回の下記の部分を再録します。

<<<●(3)S氏から具体的なエピソードを紹介していただきました。

 ある日、外食をしようというとき、父は行きたくないと言い出す。これはよくあることで、母は、私たちだけで行こうということになり、父以外の家族・・・母、兄、S氏の3人でレストランに出かけることになった。

 藤森注・・・・・私がこの話を聞いたとき、お父さんが「行きたくない」とおっしゃったのは、チョットしたことから不機嫌になり、「俺は行かない!」とヘソを曲げたのではありませんか?
と尋ねると、S氏は、「そうなんです!」と驚いていました。家族が出かけるときには、こういうことはよくあることです。次の、S氏の
「不機嫌」は、まさに、こういう父親のパーソナリティーを受け継いだものです。>

 そこはカウンターのあるこじんまりとしたお店で、母と兄は楽しそうに「おいしい、おいしい」と、会話をしながら食べていました。
 逆に、私は、他人に見られているのがとても苦手で、どのように振る舞えば良いのかわからず、不安な気持ちがいっぱいで、不機嫌になっていました。

 別のある日、めったに外食をしない父と4人で出かけたとき、父の好きな天ぷらの食べられるそば屋に行きました。
 ところが週末で混んでいたからでしょう、料理の出るのが遅かったとき、子どもの私たちでさえ場違いに感じるほどの大声で父が、「料理の出るのが遅い」などとグチをいい始め、とても恥ずかしい思いをしました。
 
 このように、人間関係が下手で、外食が嫌いだった父から男性性を引き受けたS氏は、思い通りにならないと・・・・・職場で、カゴをブン投げたり、ふて腐れたり、乱暴な運転をしたりして、その場をメチャクチャにして、人間関係を壊してきました。

 母から女性性を引き受けた兄は、「絶対、父とは外食しない。父とお前(S氏)は似ている」と言って、母と一緒に、父とS氏をけなしていたそうです。>>>

<<<●(4)別のエピソードです。

 お店の経営について・・・・・母の父が始めた家電店を母の兄が引き継ぐ。地域に密着し、商売は繁盛。母の兄が定年を向かえ、地域に惜しまれながら閉店。

 父のほうは、父の兄が知人に頼まれ、自宅の一部を改装し、同じく家電店を始める。父が人間関係で苦労したのと同様、父の兄も人間関係が苦手で、お客様の対応に苦労したようで、数年後に閉店。

 母の実家への帰省・・・・・毎年、お盆と正月に、母、兄、私で帰省。叔母、祖母の作る手料理やいとこのお兄さんから教わる音楽や映画を観るのを楽しみにしていた・・・父は行かない

 父の実家への帰省・・・・・お盆と正月に、父、兄、私でお線香をあげに行き、あいさつだけ済ませると、宿泊なしで帰宅しました。お盆に、家族4人でお墓参りに行ったことがあるが、S氏が「すぐ帰りたい」とすごくごねた記憶があります。4人で行ったのは、おそらく1~2回のみ。いずれも小学生の頃。

 藤森注・・・・・S氏が「すぐ帰りたい」とすごくごねたとあります。いかにもS氏が帰りたがっていたように思えますが、こういう場合、もちろん、本人の気持ちもあるでしょうが、大部分は、性格傾向を受け継いだ父親の心境を代弁しているものです。ファザコンやマザコン関係が強ければ強いほど、我がことのように・・・いや、自分の感情なのか、親の感情なのか分からないほど、我がことのように感じてしまうものです。
事実、父親が参加しない母親の実家に帰省したときは、
楽しそうに過ごしています。こういうことからも、いかに父親の性格傾向を強く引き受けているかがわかります>

 借金について・・・・・父や、母の兄の叔父さんから、自分のお店を始める際に数百万円の借金をしています。

 借金について・・・・・S氏は人生に行き詰ったり、転職したりして生活に困ったとき、にお金の相談をし、何度も借金をしています。

 母親から女性性を引き受けた兄は父とファザコン関係になり、商売の開店資金に困ったとき、父(男性性)を頼り、現在、母の得意な接客業の商売を自営しています。

 父親の男性性を引き受けたS氏は母とマザコン関係となり、転職したりして生活に困ったとき、母(女性性)を頼り、現在、父と同じように、コミュニケーションの必要が少ない運転手をしています。>>>

●(2)さて、今回の部分を紹介します。

 S氏からの手紙です。

 先日、私は、藤森先生から、今まで「父の気持ちを代弁して生きてきた」という事を指摘されました。それで、初めて「代弁していた」ということが実感出来たので、小学校低学年の頃、父の実家へお墓参りをした時の事を詳細に分析してみました。

 人間関係が下手で、グズで出かけるのが嫌いな父は、ある日、母に急かされ、「行事」として仕方なく、父の実家のお墓参りに家族を連れて出かけたことがありました。
 しかし、本当は家でゆっくりテレビを見て、いつものようにゴロゴロしていたい、お酒を飲んでいたい。だから、早く用事を済ませて帰宅したいと父は考えているだろうと私は推測した・・・・・だろうと、今になって考えるとそんな気がしてきます。

 なぜならば、人付き合いが下手な父は、平日は、仕事からまっすぐ帰宅し、晩酌をしていました。週末も変わらず、朝から寝るまでゴロゴロとテレビを見て、母の言葉を借りれば、飲んべえとして過ごしていたからです。
 母は接客業のパートのために週末も出かけていたので、家族全員で出かけた事はほとんどありませんでした。

 
 お墓のところに着くと、両親は、水などを準備していました。私は、先祖のお墓を探そうとしていると、いつもケンカばかりの両親が、神聖な行事だった事もあり、初めて見るような寄り添って歩く姿に、うれしさが込み上げていたのでしょう。先祖の墓を探す事より、沢山のお墓の間の小石道で、「ジャリッ!ジャリッ!」と小石を踏む音が心地良く感じて、走り回って楽しんでいました。 
 すると、父は「走るのを止めなさい!」と叱るように言ってきました。

 それは人間関係が下手なために、普段から口癖のように、世間体を気にして言っていたことであり、また、早く用を済ませて帰宅したいがために言った言葉ではないかと想像します。

 お墓参りが済み、年1回あるかどうかの貴重な家族全員の外出なのだから、「すぐ帰宅するより、どこかに寄って行こう」と母が、必死に父に相談していましたが、人間関係の下手な父にとっては、とても煩わしく感じたのでしょう。ただ外食や寄り道をするぐらいの事なのに、のらりくらりと話を逸らせて、帰り道を歩き始めてしまいました。
 その時、父の気持ちを代弁していた私は、「つまらないから早く帰りたい」とゴネていたんだという事に、今回、初めて気付きました。

●(3)S氏の別のエピソードです。

 父が働く会社の敷地内の体育館で、会社の方が剣道の先生をしている道場があります。そこに兄が「通いたい」と言ったのがきっかけで、私も7歳の時から、2歳上の兄と一緒に週2回、稽古に通うようになり、父はその送迎だけをするようになりました。
 4年程経って中学生になった兄は、部活など学校生活が中心になりましたが、まだ11、2歳の私は、稽古が週3回になり、さらには毎月のように剣道の試合にも行くようになりました。

 ある日の稽古の前日ぐらいのことです。
 私は、友達と遊ぶのを途中で止めるのは嫌だと言ってグズった時、父に凄い不機嫌な態度をされ、私の気持ちを聞いてもらえないことがありました。
 その翌日のことです。前日と同様、剣道の稽古に行くのが嫌で嫌で堪らなくなった私は、怒られるのを覚悟で、稽古をサボれる時間になって帰宅したところ、明かりも点けず、独り薄暗い家の中で待っていた父は、家に上がろうとする私を無言のまま、凄い形相で追い出し、母が帰宅するまで家の中に入れてもらえず、私はものすごく不貞腐れていました。

 それは、唯一できる家庭サービス、と父は思っていただろう稽古の送迎に、代弁者として同じように考えているはずのお前(私)が行きたくないと言うのか、代弁者の役割を出来ないお前は家に置いとけない、出て行けと言って怒っていたのかもしれない・・・・・と、今はそのように感じられます。

●(4)S氏のさらに別のエピソードです。

 その頃、試合が近づく土曜の夜などは、特に試合稽古など厳しい稽古(剣道)を終えて、いつもより少し遅く19時半頃帰宅する事もありました。真夏で大汗をかいたり、思うような試合が出来ず気が塞いだりして、すぐ夕飯を食べられない事が多かったので、テレビを見ながらゆっくり食事をしたり、食後、母とテレビを見て落ち着きを取り戻したりすることもありました。

 そういう日の翌日の日曜日、早く起きる用がなくても、いつものように7時頃には起きていた父が、1階のカーテンを「シャーツ」と勢い良く開ける音で、2階で寝ている私が目を覚ますと、さらに父が1階でドスドスと音を立てて歩いたり、テレビの音量が大きかったりして、ソワソワしている父の様子が感じられました。

 またか、うるせーなーと思い寝ていると、やはり嫌がらせのようにわざわざ2階のカーテンまで開けに上がってきて、「いつまで寝てんだ」と、私と兄を起こしました。
 それは、私の休みの事より、父親の俺が起きてんだぞ、俺の代弁(気持ち)はどうしたんだ、忘れているぞ、と私に強制しにきたように、今は感じられます。

 そして、私、兄が起床すると、しばらくして9時半頃に母はパートに出かけ、兄も、遅めの朝食を済ませせて、すぐ、母と同じように、どこかに外出していました。
 その後、大体、父と私の二人だけが、自宅で昼ご飯を食べていました。そのおかずを、毎回のように父が好きな天ぷらなどの惣菜を買ってくるので、私はもの凄く不機嫌になって食べていました。

 それで母は父に、私の要望を聞きなさい、と言っていたように思います。しかし父は、必ず私が希望した物を買ってこなかったので、怒り心頭になって直接理由を聞くと、「これしか売ってなかった」と言われ、腹が立って食べずにいる事もありました。すると「何で食べないんだ」と逆ギレされました。
 そこまで狭い人生を生きてきた父にとっては、私は代弁者、分身であって、父と異なる好みが私にある事を理解出来なかったのだろうと、今は感じています。

●(5)別のエピソードです。

 先ほどのような自分勝手な父の対応が気になっていたであろう母が、気晴らしに、月1回程家族で外食をしようということになりました。私が小学高学年ぐらいからのことです。
 しかし、全く行こうとしない父に、毎回イライラしていた母は、兄と私を連れて3人で出かけたことがありました。

 ある日、兄弟で週1回通っていた近所の習字教室の奥さんと4人で、富士サファリパークに車で遊びに連れていってもらったことがあります。途中、近くの砂場を走り去っていく戦車を見たり、車中から色々な動物に餌を与えたりして、初めての体験にドキドキしました。
 そして、近くの池のある公園に寄った時、兄が一人でボートに乗って楽しんでいたのを母が見に行く代わりに、私は、奥さんに売店に連れていって頂き、奥さんと2人で食事をする事になりました。

 それは、兄に比べて私が自由に遊びに行かず、じっとして縮こまっていたから、奥さんが気を利かせてくれたのでした。でも、私なりにそう言われたことが逆に悔しくて、私は、男らしいところを見せようと2食分を頼んでいました。しかし、やはり2食分は無理で、どちらのお皿も完食する前に気持ちが悪くなって残してしまい、さらに情けなさを味わっていました。

 ある別の日に、母、兄、私の3人で外食をした時、父との関係で、私がいつも好きなものを食べられないことを気にしていた母は、「これ、あんた好きでしょ」「これにしなさい」と、私が好きな物をいろいろ注文してくれました。
 しかし、外食嫌いの父の姿が染み付いていたからだろうか、カウンターのあるお店で落ち着かず、やはり私は胃がもたれたり、キリキリして不機嫌になっていました。そういった嫌な思い出ばかり浮かびます。

藤森注・・・・・夫婦というのは誠に不思議なもので、父親がグズでハッキリしない(ごめんなさい)と、母親はシャキシャキした過干渉タイプになるものです。一方が内向的であれば、一方は外交的であるとか、一方が派手好みであれば、一方は地味好みであるとか・・・・・夫婦って本当に不思議なものです。
そして、兄が社交的であれば、弟は内向的になりがちです。人間は本当に
不可思議!?>

く文責:藤森弘司>

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