2024年7月15日第262回「今月の言葉」≪≪「交流分析」の「人生脚本」と「照見五蘊皆空」とは何か?⑨(空海の「十戒」について)≫≫

(1)6月15日(前回)の「今月の言葉」で「袴田巌さん」の裁判について書きましたが、ビックリ仰天の情報を手に入れました。7月8日「日刊ゲンダイ」の次の情報をジックリとご覧ください。

≪≪「週刊誌から見たニッポンの後退」(「週刊現代」「フライデー」元編集長、元木昌彦氏)≪≪日刊ゲンダイ、2024年7月8日≫≫

 <悪名高い「人質司法」を訴えた 角川元会長の勇気

 多くの冤罪を生み出してきた元凶「人質司法」は検察による“犯罪”といっていい。

 最近では、生物兵器の製造に転用可能な噴霧乾燥機を経産省の許可をとらずに輸出したとして化学機械メーカー「大川原化工機」の幹部3人が逮捕されたケースがあった。否認する3人を11カ月もの間勾留し続け、そのうちの一人相嶋静夫は深刻な胃がんで外部の病院で治療することを訴えたが、保釈請求は却下された。その後亡くなってしまった。享年72。しかも、これが違法捜査だったことが判明、検察は起訴を取り下げたのである。

 その前には、金融商品取引法違反容疑で逮捕された日産自動車前会長カルロス・ゴーンが、108日間身柄を拘束され“シャバに出た”後、人質司法を痛烈に批判したことで国際的な関心が集まった。だが、ゴーンが海外に逃亡してしまったことで、残念ながらそれ以上には広がらなかった。

 この国の検察や警察は、いったん逮捕すると「推定無罪」や憲法で保障されている「基本的人権」など無視して、弁護士も立ち会いさせず孤立させ、長時間の尋問を強要。狭い部屋に押し込め24時間監視しながら、自白を迫るのである。弁護士立ち会いを認めていない国は北朝鮮と中国だけだそうだ。この国の刑事司法は世界最低レベルということだ。

 相手が高齢でも深刻な病気持ちでも容赦はしない。保釈申請を何度出しても、検察にいいなりの裁判所はこれを認めない。追い詰められ精根尽き果てた被害者は、検察側の作文である自白調書に押印を押してしまう。なかには失意の末に拘置所内で死を選ぶ者もいる。

 最近は取り調べの可視化が義務付けられるようになったから、そんなバカなことは行われないという声がある。だが、可視化を義務付けているのは裁判員裁判対象事件などで2~3%程度だといわれる。それに検察はビデオの“改ざん”などお手の物である。

 だが、ようやくここへきて、人質司法は憲法に違反した人権侵害であると国を相手取り、訴訟を起こした男がいる。出版社KADOKAWA元会長の角川歴彦(80)である。

 角川は東京五輪のスポンサー選定を巡って五輪組織委の高橋治之に賄賂を渡した容疑で逮捕されたが、過酷な取り調べにも屈せず容疑を否認し続けた。重い心臓の病があり何度も倒れたが、保釈が認められたのは226日後だった。

 角川は週刊文春(7月4日号)で、何とか出られないかと拘置所の医務室で漏らした時、医者から「死なないとここから出られません」と吐き捨てるようにいわれたという。

 保釈後、代理人の弘中惇一郞弁護士から「これまで人質司法そのものを争う裁判はなかったけれど、戦いますか」と聞かれ、即座にやると答えた。贈収賄容疑に関しては別で争う。

 そうそうたる弁護団を組織し、人質司法が憲法や国際人権法に照らしてどれほど人権を侵害しているかを問う、わが国初の国を相手取った訴訟である。根腐れしているこの国の刑事司法を根底から変える裁判になるかもしれない。

 角川はこの問題を長年放置してきたメディアの責任も問う。

 「人質司法は、強大な力を持つ検察が主導しながら警察・検察・拘置所・裁判所・メディアが一体となって維持されている『システム』なのだ」

 人質司法の維持に一役買ってきたメディアは恥を知るがいい。(文中敬称略)≫≫
≪≪日刊ゲンダイ、2024年7月8日≫≫

 私・藤森にとっては、「検察」の想像を絶する異常さにビックリ仰天です。しかし、これは日本のエリートと言われる人たちによくある、「独断」と「偏見」や「強い思い込み」ですが、これではまるで検察官は犯罪者みたいです。

 さて、「空海」の素晴らしい言葉、次の(2)の「<己有>と<貧>」、そして、今回のテーマである(3)の「十界」、そして、(4)「平常心是道」、(5)仏教が生んだ日常語などの素晴らしい言葉をお楽しみください。

(2)≪≪己有(こう)を識(し)らず、貧(ひん)これに過(す)ぎたるは無(な)し≫≫                                                                                                                       (空海)

  どんな人でも心の中に素晴らしいものを持っています。いかなる宝物よりも貴重なものです。それなのに、それに気づかず生きている人ほど貧しい人はいません。

 私たちが最も大切にするべき豊かさとは、目に見え、手で触れられる金銭などではありません。誰もが必ず持っている優しさや慈しみなのです。それに気づけばさらに豊かに生きられるでしょう。<「心が澄みわたる『名僧の言葉』」リベラル社、発行者・隅田直樹 発売・(株)星雲社>

正にこれは、私たち人間の「深層心理」、つまり、私たち人間が育児中に植え付けられてしまう「人間性=深層心理」の怖さ≪≪貧≫≫を訴えているものだと思われます。

 この「深層心理」を乗り越えて、≪≪己有≫≫を識るというよりも、≪≪己有≫≫「回復」させると言いたいですが、「深層心理=脚本」を克服する。「脚本」に取り組んで、「自分の己有」を「回復」できるような取り組みをすることが「人生」にとって「最重要課題」だと、私・藤森も強く認識しています。

(3)≪≪十界(じっかい)の有る所これ我が心なり≫≫(空海)

1.地獄(じごく)・・・・・・・・つねに他人を責め憎む世界

2.餓鬼(がき)・・・・・・・・どんなに恵まれた状況にあっても欲求不満の世界

3.畜生(ちくしょう)・・・・・・・・弱肉強食で生きものの生命をなんとも思わない世界

4.修羅(しゅら)・・・・・・・・争いごとの大好きな世界

5.人間(にんげん)・・・・・・・・毎日を四苦八苦している世界

6.天上(てんじょう)・・・・・・・・いつも有頂天で、人の不幸など知らぬ顔の世界

7.声聞(しょうもん)・・・・・・・・お釈迦様の道理の法を信ずる人の話に耳を傾ける                      世界

8.縁覚(えんがく)・・・・・・・・坐禅をして瞑想することによって自然の道理を身につ                ける世界

9.菩薩(ぼさつ)・・・・・・・・縁のある人が苦しんでいたり困っていたりすると、自分               のことは犠牲にしても助けてあげようとする世界

10.如来(にょらい)・・・・・・・・宇宙という永遠の生命を信じて、この世のものにまっ                  たく執着がない世界

 残念ですが、「出典」が不明です。昔、私(藤森)はメモをして、この言葉を繰り返し、繰り返し、心に刻んできましたが、「出典」をメモすることを失念していました。失礼申し上げます。

 さて、「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天上」までが『人生脚本』だと言えると思います。

 そして、「声聞」のスタートから「交流分析の脚本(自分の「脚本」)」に目覚め始めて、「悟りの世界」の「五蘊皆空」を目指して、「縁覚」「菩薩」「如来」の方向に歩み始めるのではないかと私・藤森は思っています。

 私は、「私の脚本」にノタウチマワリながら、前半の人生を生きてきました。そして、やっと遅ればせながら、前半の人生で体験してきた膨大なバカバカしい「自分の生き方=人間性」に目覚め、後半の人生を必死で「声聞」と、そして、坐禅を含めて、ありとあらゆる「技法」に取り組みながら、「縁覚」に相当する「レベル」に必死・命懸けで取り組んで生きてきました。

 そういう中で、10分の1,いや百分の1,千分の1くらいは「菩薩心」が芽生えてきつつあります。そしてさらに、その万分の1・・・億分の1くらいは「如来」の人間性が芽生えてきつつある・・・きつつあるであろうことを、心の底から祈っています。

 つまり、億分の1くらいは「照見五蘊皆空」「如来」が体験できているであろうことを祈っています。

「4)≪≪平常心是道≫≫(びょうじょうしん これどう)

 「当たり前のことを、気持ちを込めて」

 仏道とは何かと問われて、馬祖道一(ばそ・どういつ)禅師は「日常のありふれた心こそ仏道である」と答えました。

 ある柔道家が、井上康生(いのうえ・こうせい)さんにお会いしたときのことです。

 彼の立ち居振る舞いの礼儀正しさや謙虚な姿勢にうたれ、なるほど、確かにだれもが尊敬する人物であるにちがいない。道を究めるとは、こういうことなのかと感動したそうです。

 乱れない心のことを平常心といいます。平常心をもってことにあたるためには、スピーチにしても何にしても、そのことが特別なことではなく、日常的なこととしてこなせるようになるまで繰り返し練習しなくてはいけません。

 そうはいっても、そんな努力など自分にはできないと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、まずは、当たり前のことを気持ちを込めてやってみることです。とるにたりない日常の細事を丁寧にこなすこと、その積み重ねで、どんな状況にあっても乱れない心が培われていくのです。

 道を究める方法とは、ありふれた日常の過ごし方にあったのです。≪≪「不安な時代、心にしみる禅語70『やさしいの教え』」著者/建長寺布教師会、ワニマガジン社≫≫

(5)<仏教が生んだ日常語>

 仏教は日本人にとって慣れ親しんだ日常的なもの。仏教用語にも日常語として定着したものがたくさんあります。<略>

 また「玄関」もそう。玄関はもともと仏教の真理に到達するための入り口のことでした。それが寺社の入り口を言い表すようになり、さらに一般家庭の入り口を示すようになったのです。(「心が澄みわたる名僧の言葉」、発行所:(株)リベラル社)