★★★2024年3月15日第257回「今月の言葉」≪≪「交流分析」の「人生脚本」と「照見五蘊皆空」とは何か?④(ヴェトナムの孤児についてのアメリカ人)

(1)私たち人間は、本当に、本当に、自分の「深層心理」、つまり、自分の「脚本」を本気で理解しようとしない不思議な存在です。

 単に理論的に、或いは、他人の「深層心理=ホンネ」を理解しようとすることには真剣になることがあっても、自分自身の本当の「深層心理」、「脚本」については、本気で取り組んで、理解するまでに至った人は、本当に少ないのです。

 何故でしょうか?

 一つには、私たちは「理論的」「学問的」に「物事」を理解する人間性を、生まれてからズーッと鍛えてきているために(=「知性」「教養」)、「深層心理」という見たことも、聞いたことも無い分野に「本気=真剣」に取り組む「人間性」が育っていないからです。

 しかし「理論的」「学問的」に優れていると、周囲や社会的に高く評価されます。その典型的な例が「試験」、特に「入学試験」です。○×式な単純明快な正解が高く評価されますが、正しい「深層心理」は、逆に、嫌がられてしまうと同時に、自分自身も拒否したくなるほど「素晴らしくないものという「強い傾向」があります。

 さらには「深層心理」は、今までに見たことも、まともに向かい合った事も無い・・・・・というよりも、私たちは、無視に無視を重ねて、「深層心理」という「自分のホンネ」を隠して・・・・・というよりも、「無い事」にして、長い人生を生きてきています。

 そのために「深層心理」という鉄壁の防御壁で、守りに守り切ってきて、社会的に上手く生きてきているというよりも、自らが「無い」ことにして、何十年も生きてきているために、そこまで掘り下げる「能力」が無い事が「自然」「当然」になってしまっています。

 その典型的な例が「心理学」であり、「心理学者」である可能性が極めて高いです。だから世の中には、バカバカしいことが沢山あるのです。その典型的な例が「戦争」であり、「犯罪」であり、「自民党の政治家」ではないでしょうか?

 下記の色々をご覧ください。

 

≪≪さて、私・藤森の結論(前回の「今月の言葉」です)。

 二世、三世、四世の自民党国会議員が何故、有力な議員になるのか、です。 それは「士・農・工・商」の「日本的朱子学」(拙著のp247「朱子学」「過干渉日本」と「五蘊皆空」)が最大級の影響を与えていると、私は考えています。

 日本は選挙をやっているので、「投票」でいくらでも左右させることができますが、その簡単な方法で変えることができないのは、≪≪「交流分析」の「人生脚本」と「照見五蘊皆空」とは何か?④ー③(自民党国会議員)≫≫の今回のテーマです。

 つまり、多くの日本人の「人生脚本」の中に、私が考案した「日本的朱子学」がズッシリと宿っているからだと思っています。

 つまり、私たちの多くが「理性や理屈」では色々な価値観を持っていますが、「深層心理」、つまり「人生脚本の根本」には、徳川家康が創案した「日本的朱子学」がこびりついていると、私は考えています。

 その「日本的朱子学」が表向き、崩壊したのが「明治維新」ですが、明治という時代になっても、日本人の「深層心理=人生脚本」には、私が「創案」した「日本的朱子学」がハビコッテいて、少なくとも、戦後の自民党国会議員を支えてきていると、私は考えています。

 特に、自民党国会議員の二世、三世、四世を選挙で支え続ける選挙民の根底には「日本的朱子学の価値観」が植え込まれている、あるいは、芽生えていると推測しています。

 特に、自民党の二世、三世、四世の「国会議員」は、「士・農・工・商の“士”」のように思われる「農・工・商」的な選挙民が支えているのではないかと、私は「邪推」しています。だから、自民党国会議員のハチャメチャな対応が可能になってしまっていると推測しています。≫≫

(2)「ベトナム戦争」・・・・・1960~75年の北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線とアメリカ・南ベトナム政府との戦争。周辺諸国などをも巻きこむ。(広辞苑)

 この戦争が終了した後、ベトナムに戦争孤児が多く現われました。そのベトナムの「孤児」たちを、沢山のアメリカの人たちが引き取ったことを、私・藤森の記憶に強烈な刺激として強く残っています。

 百科事典の「ブリタニカ」によれば、ベトナム戦争について・・・・・<略>1975年3月、北は中部高地で総攻撃を開始、南は大混乱に陥って壊走した。同年4月30日、北の戦車隊がサイゴンに無血入城し、この戦争は解放勢力側の勝利に終わった。戦争による人的損害は、死者がアメリカ5万8000人(うち戦闘による死者4万7000人)、南ベトナム18万5000人北ベトナム90万人負傷者がアメリカ30万3000人、南ベトナム50~57万人、北の負傷者は不明。このほか南北ベトナムで100万人以上の民間の死者が出、さらに無数の難民を生み出した。また爆撃や枯れ葉剤散布などによる国土の荒廃も著しい。<ブリタニカ>

 この悲惨な戦争後、アメリカ人は、私の記憶では、沢山の「戦争孤児」を引き受けました。
 もちろん、アメリカがかなり乱暴な攻撃を仕掛けたために、ベトナムに多くの孤児が現われてしまったのですから、当然と言えば当然のことと言えますが、しかし、文化や外形の違いがとても大きいベトナムの沢山の孤児たちを、養子として引き取ったアメリカ人を、半世紀も前の私・藤森にはとても不思議に思い、そして、素晴らしい国民だと「感嘆」したことがあります。

(3)下記は、2023年9月15日、第251回「今月の言葉」の再録です。

≪≪≪≪(1)私・藤森がアメリカに行っていた二十代の時のことです。

 あるお母さんが自宅に招待してくださったことがありました。私が家の中に入ると、応接室とでもいいましょうか、ある部屋の壁に、ご家族全員が載っている写真が貼ってありました。

 私がその写真を見ていると、お母さんが「この子は主人の連れ子です。この子は私の連れ子です。そして、この子は、主人と私の子供です」と説明してくださいました。

 それをお聞きした瞬間、私は「おっ!オッ!!おっ!!!と思いました。

 日本ならば、まず絶対にあり得ないことだと思いました。何故でしょうか?それは、私が主張している「日本的朱子学」(拙著のp247ご参照)が蔓延しているからです。

 逆に言えば、この「日本的朱子学」的な人間性から外れていれば、我が子全て(ご主人の連れ子、ご自身の連れ子、ご主人との子供)が変わらず「大切な子供」ですから、なんの拘りもなく、愛する我が子として、同等に、紹介できる訳です。

 つまり、この場合に限れば、「日本的朱子学」的な人間性が無ければ、全ての子供が同等なのです。これが「『般若心経』の神髄『無』『空』とは何か?⑤」です。≫≫≫≫

 つまり、私たちが何気なく「行動」したり、何気なく「口に出したり」することの多くは、その人の「深層心理」つまり、「交流分析の≪≪人生脚本≫≫」を現わしている(「深層心理」を投影している)ことを「理解」できる「人間性」を育てることが、私たちにはとても大切です。

よもすがら ほとけの道を たづぬれば

       わが心にぞ たづねいりける <一休禅師>

聞くままに また心なき身にしあれば

       おのれなりけり 軒の玉水  <道元禅師>

Learning ⇒ Understanding ⇒ Doing ⇒ Being

 ≪≪Understanding≫≫することが重要です。

(4)下記は、2022年8月15日、第238回「今月の言葉」の転載です。

≪≪≪≪(3)「プロファイリング 集中連載①プーチンとは何者か」(時事通信社・前モスクワ特派員・平岩貴比古氏、日刊ゲンダイ、2022年4月12日)

 <廃墟から生まれた男はなぜ自ら「ジェノサイド」に手を染めた>

 「市民60万人以上が死亡」・・・。われわれは未来の新聞を読んでいるのではない。これは第2次大戦中に史上最悪の地上戦が展開された独ソ戦で、ナチス・ドイツに900日近く包囲されたレニングラードの民間人の犠牲者だ。大半は餓死ともいわれ、ジェノサイド(集団殺害)と見なされることもある。

 このソ連第2の都市で戦後の1952年10月、一人の男の子が生まれた。

 ウラジーミル・ウラジーミロビッチ・プーチン。誕生から約70年後の2022年、隣国ウクライナを蹂躙し、国際社会を翻弄することになるロシア大統領だ。ミドルネームは「ウラジーミルの子」を意味する。

 <父は独ソ戦の傷痍軍人>

 同名の父ウラジーミルは独ソ戦の初期に傷痍軍人となったことで、逆に一命を取り留めた。母マリアは工場勤務。プーチンは、2人の兄がいたものの戦前・戦中に亡くなっている。父母が40歳を過ぎてもうけた三男で、ある意味「一人っ子」として育った。両親が過酷なレニングラード包囲戦を生き延びなければ、彼はこの世に生まれていない。

 レニングラードは文字通り、革命家レーニンの「グラード」(ロシア語で都市)。帝政ロシア時代とソ連崩壊後はサンクトペテルブルクと呼ばれている。

 新型コロナウイルス禍前は、華々しい「帝都」として欧州や日本の観光客を引き付けた。ペテルブルクっ子はやや控えめな気質ながら、首都モスクワっ子とは毛色が違う。

 大国ロシアのかつての中心、そして包囲戦で犠牲と廃墟を経験してから復興したというプライドがあるのだろう。

 ちなみにプーチン本人いわく、父方の祖父スピリドンはモスクワ郊外で、レーニンや独裁者スターリンの料理人を務めた。

 <繰り返す歴史>

 プーチンが「ウクライナという国はなかった」と言い放ち、2月24日に開始した隣国への侵攻。おびただしい数の難民・国内避難民や犠牲者を生み、ロシア軍の若き徴集兵も戦火に散っている。欧米が参戦せずともゼレンスキー政権を軍事支援する中、「第3次世界大戦」という言葉も現実味を帯びた。 

 死者の9割が銃殺によるという首都キーウ近郊ブチャでの「戦争犯罪」が取り沙汰される一方、南東部マリウポリでは、かつてのヒトラーに代わり、プーチン政権が激しい包囲戦を仕掛けた。ロシア軍がこの港湾都市を占領してしまえば、犠牲者数は闇の中だ。ウクライナ人は「移動式の火葬場」で消されることにおびえる。

 なぜ歴史は繰り返してしまうのか。(つづく)≫≫≫≫

(5)下記は、上記の(4)2022年8月15日、第238回「今月の言葉」の続きです。

 下のマスの中に(4)が書かれているのは、パソコン操作が下手な私・藤森は、枠を外せないので、枠が無いものとご理解ください。

≪≪≪≪(4「プーチンと習近平・世界でもっとも危険なふたり」(峯村健司氏・ジャーナリスト、数々の国際的スクープで知られるジャーナリスト。朝日新聞から独立後初となる本格的レポート!!週刊ポスト、2022年7月29日)

 <第4回 プーチンをウクライナ侵攻へ駆り立てた父のトラウマ>

 習近平が父親に対して抱いた複雑な想いが今日の彼に影響を与えたように、プーチンもまた、父親の影を引きずっていた・・・朝日新聞と袂を分かったジャーナリストによる連載第4回。

 <もっとも尊敬する人>

 2019年1月22日、モスクワのクレムリン(大統領府)。ロシア大統領のウラジーミル・プーチンは執務室に日本の首相、安倍晋三を招待した。プーチンはあいさつもそこそこに、執務室の奥にある小部屋に安倍を招き入れた。「私の休憩室です。どうぞ入って下さい」

 安倍が通された部屋は、プーチンが仮眠をとったり本を読んだりする時に使うプライベートな空間だった。側近にすら入室を許したことはほとんどなく、外国首脳を招客したのは、極めて異例だった。

 そのおよそ2ヶ月前のシンガポールであった首脳会談で、歯舞群島と色丹島の2島を引き渡すことが明記された1956年の日ソ共同宣言を基礎に、平和条約交渉を加速させることで合意した安倍を厚遇したようだ。

 安倍が休憩室に入ると、男性の肖像画が目に入った。その人物について安倍が尋ねると、プーチンは目を細めて説明を始めた。

 「これは私の父の肖像画です。もっとも尊敬している人物の一人です」

 27回の首脳会談をした安倍は、プーチンと父との関係についてこう振り返る。

 「雑談の中で父親との思い出話をよくしていました。『優秀な潜水艦乗りだった』と誇らしげに話していたのが印象に残っています。『私が信頼を置く人物は、自分の父親を尊敬している人です』とも言っていました」

 プーチンの父親とは、どのような人物なのだろうか。

 ロシア大統領府のホームページには、「父のウラジーミル・スピリドーノヴィチ・プーチンは、第2次世界大戦でレニングラード(現サンクトペテルブルク)の防衛に参加し、傷痍軍人となった」とだけ書かれている。

 公開情報はほとんどないが、プーチンが自らのインタビューをまとめて2000年に出版した『第一人者』(邦訳=『プーチン、自らを語る』扶桑社)の中で、出自について詳しく説明している。

 プーチンの祖父は料理人だった。ソ連を樹立したウラジーミル・レーニンと、その後任のヨシフ・スターリンの別荘で働いている。2代のソ連の指導者に料理人として使えたことから、忠実な共産党員だったことがうかがえる。

 父、ウラジーミル・スピリドーノヴィチ・プーチンは、海軍の潜水艦乗組員として兵役についた。復員後はソ連第2の都市レニングラードの車両製造工場で勤務した。1941年、ナチス・ドイツがソ連に侵攻すると、志願兵として前線に出征した。諜報活動をする内務人民委員部の部隊に所属し、ドイツ軍の背後で鉄道やインフラを破壊する特殊任務に携わった。後にプーチンが、ソ連の秘密警察、国家保安委員会(KGB)の諜報員になったのも、父の影響があったのだろう。

 <レニングラードのトラウマ>

 プーチンの父はその後、ドイツ軍がレニングラードを包囲した際にも参戦した。ドイツ軍は都市を封鎖することで陥落を狙った。900日に及ぶ兵糧攻めによって、多くの市民餓死や病死した。当時1歳だったプーチンの兄も病死した。内務人民委員部の資料によると、飢えの余り人肉を食べる市民も出たほどだった。

 プーチンの父は、レニングラード郊外のネフスキー・ピャタチョークと呼ばれる激戦地での戦闘にも参加し、片足が動かなくなるほどの重傷を負っている。この戦闘がきっかけとなり、1943年1月のドイツ軍による封鎖突破につながった。

 ソ連は連合国として勝利したにもかかわらず、犠牲者は2700万人に上る。当時の人口の1割以上を失ったことになる。中でもレニングラード包囲戦の犠牲は甚大で、死者は100万人を超えた。 

 プーチンが生まれたのは終戦から7年後の1952年。だが、独ソ戦は、プーチンの人格形成に影響を与えたようだ。≪≪藤森注:決定的!!!≫≫ 

 「父親は戦場でかなりの重傷を負った。何とか生きて帰ってきたが、何ヶ月も入院していた。母親は餓死する寸前だった。空腹の余り気を失って、他の死体と並べられたこともあった。母が生き延びたのは奇跡だと思う。私が生まれてきたことを神に感謝する

 プーチンは大戦中の両親の惨状について、こう振り返っている。

 ロシアで勤務したことがある米政府関係者からプーチンにまつわるエピソードを聞いたことがある。筆者がワシントン特派員をしていた2018年のことだ。プーチンが、面会する要人らに語る父との思い出話があるという。

 「父がレニングラード包囲戦で負傷して動けなくなっていた時、救助してくれた人がいたが、礼を言えないままだった。ある日偶然、『レニングラード市内のスーパーでその恩人と出会えた』と興奮して嬉しそうに家に帰ってきた父の姿を今でも鮮明に覚えている

 プーチンにとっては、父が負傷した戦いには、特別な思い入れがあるようだ≪≪藤森注:決定的!!!≫≫。実際、プーチンはネフスキー・ピャタチョークに、戦争を記念する博物館を2018年につくっている。「だからこそ」と、前出の米政府関係者は強調する。「レニングラード包囲戦を通じて、プーチンは戦争の悲惨さを身に染みて感じています。そのため、プーチンは全面戦争をできるだけ避け、犠牲が少ないやり方を選ぶ傾向にあると分析しています。2014年のウクライナのクリミア半島侵攻の際に激しい戦闘を避けて『ハイブリッド戦争』を選択したのも、『レニングラードのトラウマ』があったからでしょう」(ハイブリッド戦争・軍事と非軍事の境界を意図的に曖昧にした戦い方。国籍を隠した部隊を用いた作戦、サイバー攻撃による通信・重要インフラの妨害、インターネットやメディアを通じた偽情報の流布などがある)

 <父親と兄の復讐>

 ところがこの4年後、この米政府関係者の分析と予測は完全に外れることになった。

 プーチンは今年2月24日、「特別軍事作戦」と称して、ウクライナ侵攻を始めた。多くの民間人を殺害し、ウクライナ南東部のマリウポリでは、ロシア軍が地域全体を包囲して、補給路を断ち、餓死による犠牲もでている。さながらレニングラード包囲戦のようだ。

 ソ連側の一員として同じくナチス・ドイツと戦ったウクライナ大統領のウォロディミル・ゼレンスキーは5月8日のビデオ演説で、ロシア側を厳しく批判した。

 「悪が戻ってきた。別の軍服を着て、別のスローガンのもとに。だが目的は同じだ。ナチスと同じことをしている」

 前出の米政府関係者はロシアに人脈を持っており、長年分析に携わっている。にもかかわらずなぜ、プーチンの思考と行動の分析を誤ったのだろうか。今年3月に改めて見解を尋ねた。

 全面侵攻は完全に予想外でした。クリミア侵攻のやり方とは大きく異なり、同じ人物による戦争とは思えないほどです。父親や兄の復讐をするかのように、ウクライナに対してあえて残虐な行為をしているようにすら感じます

 プーチンは開戦以来、ウクライナ側を「ネオナチ」と執拗に呼称して、攻撃を続けている。さらに、独ソ戦の犠牲者を現在のロシア・ウクライナ戦争と関連づけるような言動を始めた。

 77年前にナチス・ドイツが降伏した「対独戦勝記念日」である5月9日。プーチンはモスクワの「赤の広場」で、父の遺影を持って現われた。軍服を着た若いころの白黒写真で、彫りが深い鋭い眼光は、プーチンと瓜二つだ。

 第2次大戦に従軍した兵士らをたたえ、その遺族や家族が写真を掲げて行進する「不滅の連隊」と呼ばれる行事だ。2012年に不戦と和解を願って、市民団体が始めた小さなイベントだった。

 ところが2015年にプーチンが初参加したことで様変わりする。政府がイベントを直接管理するようになり、政治色が強まった。ロシア全土で1000万人以上が参加する国威発揚のイベントへと変わった。

 <プーチン演説がはらむ矛盾>

 新型コロナの影響で3年ぶりの開催となった今年のイベントは、例年とは趣が異なった。プーチンの演説に如実に表われていた。

 「征服を許さなかった勇敢な戦勝者の世代を誇りに思い、彼らの後継者であることを誇りに思う。われわれの責務は、ナチズムを倒すことだ」

 プーチンの演説は、第2次世界大戦の犠牲者の追悼から、ウクライナ侵攻に携わっているロシア兵へのメッセージへと変わる。」

 「あなた方は祖国のために、未来のために、そして第2次世界大戦の教訓を誰も忘れることがないように戦っているのだこの世界から、迫害する者、懲罰を与える者、そしてナチスの居場所をなくすために」

 第2次世界大戦でロシアが戦ったナチス・ドイツと重ね合わせるように、ウクライナ側を「ネオナチ」と強引に結びつけている。

 そのうえで、プーチンは演説をこう締めくくった。

 「ロシアが行ったのは、侵略に備えた先制的な対応だ。それは不可欠で唯一の正しい判断だった。ロシアのために!ウラー!(万歳!)」

 ロシア兵も「ウラー!」と三唱し、プーチンの演説に応じた。 

 これまでのプーチンの演説の最後は、「勝利の日、おめでとう!」と呼びかけていた。だが今年は、プーチンは国民に団結を訴え、ウクライナへの侵略を正当化したのだ。

 だが、このプーチン演説はいくつかの矛盾をはらんでいる。

 そもそも第2次世界大戦のソ連側の犠牲者2700万人の中には、ウクライナ人も含まれている。戦勝記念日は、世界最大の犠牲者を出したソ連が、犠牲者を悼み、平和を訴えるために開かれてきた。

 一方、今年の式典では、ウクライナ侵攻によって、「ロシアの勝利」ばかりが前面に打ち出された。プーチンの思う通りに戦況が進んでいない焦りが背景にあるのだろう。「プーチンの戦争」を美化するために、父親も含めた第2次大戦の犠牲者をプロパガンダのために利用したといってもいいだろう。

 プーチンの第2次大戦の勝利と愛国主義を融合する動きは、大統領就任の直後から色濃く出ていた。

 当時ナチス・ドイツと戦ったソ連国民の心を支えたのが、ソ連の国歌だった。

 「自由な共和国の揺るぎなき連邦を偉大なるルーシ(ロシアの古名)が永遠に固める」

 勇ましい旋律で愛国主義を鼓舞している。歌詞に手を入れて完成させたのは、プーチンの祖父が料理人として仕えたスターリンで、自身を賛美する歌詞となった。しかし、スターリンの没後、歌詞が批判されて、演奏しか許されなかった時期が続いた。その後、ソ連崩壊とともに破棄された。

 プーチンが2000年に大統領になると、ソ連国家のメロディを復活させ、ロシアを讃える歌詞をつけてロシア国家を制定した。

 <独ソ戦での勝利へのこだわり>

 そのプーチンが始めたウクライナ侵攻は、収束のめどがたっていない。ロシア軍は攻勢を強める一方、ウクライナ軍も抵抗しており、泥沼化している。

 ここで一つの疑問が湧く。プーチンの「レニングラードのトラウマ」はなぜ、戦争の抑止につながらなかったのだろうか。前出の米政府関係者に尋ねた。

 「多大の犠牲を払ったからこそ独ソ戦での勝利へのこだわりが人一倍強いのでしょう。しかもプーチン本人は戦争を体験していない。父から聞いた英雄的な美談だけが記憶に残っているようです。プーチンの『トラウマ』は愛国心に昇華されたのでしょう」

 プーチン自身も、トラウマや危険を恐れず、逆に第三者に対して攻撃的な対応をする性格であることを認めている。『第一人者』の中には次のような文言がある。

 「恐怖とは、痛みに似ていて、感情の目安となる。危機的状況でうまく対応するには、熱狂的にならなければならない。こちらがビクビクすれば、相手は自分たちのほうが強いと思うようになる。そんな時に有効なのはただ1つ、攻めることだ。先手を打って、相手が立ち上がれないほどの打撃を与えねばならない。」

 欧米や日本が、ロシアに対して経済制裁を科しており、経済状況は急速に悪化している。世界銀行はロシアの今年の国内総生産(GDP)の成長率をマイナス11・2%と見込んでいる。だが、プーチンは追い込まれるほど、かえって強硬に出る可能性がある。

 プーチンはどのような出口戦略を描いているのだろうか。この米政府関係者は続ける。

 「独ソ戦は4年間にわたりました。プーチンは長期戦を覚悟しており、どれだけ犠牲を払っても戦争に勝利しなければならないと考えているはずです」

 プーチンがウクライナへの侵攻を続けられるかどうかのカギを握るのが中国の存在だろう。経済制裁によってロシアが孤立する中、中国への依存は高まっている。仮にロシアが停戦をする場合でも仲介者としての中国の役割は欠かせないからだ。

 今のところ盟友、習近平はプーチンを支える姿勢を崩していない。だが、足元の中国政府内では、習のプーチン寄りの姿勢に対して、不満の声がくすぶり始めている。(文中敬称略)

≪≪みねむら・けんじ氏・・・1974年長野県生まれ。青山学院大学国際政治経済学部卒業後、朝日新聞入社。北京・ワシントン特派員を計9年間務める。「LINE個人情報管理問題のスクープ」で2021年度新聞協会賞受賞。中国軍の空母建造計画のスクープで「ボーン・上田記念国際記者賞」(2010年度)受賞。2022年4月に退社後は青山学院大学客員教授、北海道大学公共政策学研究センター上席研究員などに就任。著書に『十三億分の一の男 中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争』(小学館)など。≫≫≫≫≫≫