2023年7月15日第249回「今月の言葉」「『般若心経』の神髄『無』や『空』とは何か?③」
(1)<『般若心経』の神髄『無』や『空』>を「体得」することは、実は、極めて簡単なことなのです。極めて簡単なことであるにも関わらず、何故、困難を極めるのでしょうか? それが今回の「課題」です。 それは、1年前の2022年2月15日第232回~234回「今月の言葉」「目指すものは『上』にあるのか?!『下』にあるのか!?①・②・③」で述べたように、私たちが周囲から褒められるもの、高い評価を得られるものの全てが「上」にあるからです。 ですから、私たちが「頑張る」「努力する」ものの「目標」の全てが「上」にあります。つまり、この世に誕生してから、私たちが少しでも頑張ったり、努力したりして、親を始めとして、周囲から褒められる物事の全てが「上」にありますので、私たちの全ては「上」を目指す「人間性」が備わり、その人間性を少しでも多く鍛えようとしながら、私たちは一生を過ごします。 スポーツを見ても、ピアノやギターなどの楽器類にしても、芸術にしても、学問にしても、社会的な活動にしても、将棋や碁にしても、何もかも、私・藤森の「理論」、「定義」で言えば、それらの全ては、「上」にあります。 しかし、私が知る限り、例えば「禅宗」などの「悟りの心境」は「上」ではなく「下」にあります。 しかし、世の中のほとんど全ての人たち、特に「上の世界」で一流、超一流を達成した先生方は、一生をかけて取り組んできた「上の心境」を活用しながら、全くの別世界である「下の世界」をも、「上の世界」の理論や定義を活用して、「下の世界(無・空)」とは「真逆(有)の世界」を「投影」しまくります。だからおっしゃることは極めて「立派」であり、理論も豊富かつ高尚・完璧なことをおっしゃいますが、完全に「空理・空論」なのです。 しかし、私・藤森が創案した「日本的朱子学」(拙著のp247)が強烈に、日本人の特にエリート層の「深層心理」に根強くというよりも「強烈」に根を張っているために、一つ、一つの物事の「真理」を考えるのではなく、社会的により高い立場や、エリートであるなどの「高級な人間性」が、物事の全ての「正邪」を「理論的」に決めてしまう強烈な傾向が、日本人の「深層心理」に根深く、根強く、張り巡らされていることを、私は「発見(日本的朱子学)」しました。 ですから、ほぼ必ず、一流、超一流のエリートマンの周囲は「イエスマン」に囲まれています。そしてその典型例が、自民党の二世、三世、どころか四世の国会議員です。そして、今や日本の国会議員、有力な自民党国会議員の多くが二世、三世、四世の議員で溢れています(私の知る限り、世界的に見て、この点は、日本はかなり特殊な国ではないかと思っています・・・「日本的朱子学」の最大の特徴のように感じています)。 さて、そういう日本的社会の中で、エリートと「真逆」の人生(どん底の人生)を生きてきた私・藤森は、つくづくと「こだわりがありすぎる」人間だと、この年になって・・・そしてある一流の活躍をしていらっしゃる方からいただいた「貴重なご助言」のお陰で、やっと自分を正しく「認識」できるようになりました。 一流、超一流の活躍をされていらっしゃる方の貴重なご助言(第246回の「今月の言葉」)・・・≪≪2度にわたる長文の“悟”に対する解説レポートをいただき、ありがとうございました。人生の先輩として上からの目線で感想を述べますことをお許しください。 さて、貴兄が度々書かれる自身の過去について縷々述べられていることは重々承知はしていますが、こだわりがありすぎる感がしております。 今ここ(而今)は全時間、全空間に証せられている自分であり全てを肯定した上で、こだわりや評価は不要なことではないかと思います。≫≫ このようにご助言くださり、余りにも私をドンピシャリに言い当てていらっしゃることに、本当に驚きました・・・こだわりの強烈な私・藤森には切ない疑問なのですが、「全てを肯定した上で」とありますので、私の「こだわり」も肯定してくださっていることと邪推しています? 私は本当に「こだわりがありすぎる」ことを、最近になってやっと、しっかりと、○○様のお陰で、本当にしっかり認識できるようになりました。その「ありすぎるこだわり」があったために、今の私が考える・・・「私の想像」では考えられない、文字通り「想像を絶する」ことに足を震わせながら取り組んでこられたことが、かなりしっかりと理解できるようになってきました。
若い時に、妻と一緒に両親と同居して、そして見送りました。その後、妻の両親と同居して、見送りました。そして、施設に入所していた兄を35年間、お世話をして、5年前に見送ることができました。 今思うと、「こだわりがありすぎる」私は、地ベタを這いずりながらの対応・・・4人の両親と、施設に入所していた兄に対して、反省だらけの自分自身に身が縮こまる思いです。 その私が「こだわって、こだわって、こだわり過ぎた」人間性、すがりつくような、ちっちゃな人間性だったために、さらに、さらにこだわって取り組んできたのが次の(2)や(3)です。 |
(2)下記の≪≪≫≫内は、拙著のp136~138です。
≪≪(1)丹羽廉芳先生(禅師・元大本山永平寺・管長)<p136> <他非を弁ぜず 自非を弁ぜよ> 私の生涯の目標がこれです。言うは易く、行なうは本当に難い言葉です。 この色紙を丹羽先生よりいただいたのは、今から半世紀前、私が今よりもさらに、さらに「未熟」だった頃のことです。人生に行き詰まった私は、あるとき、どうにかして「生きたい」と思いました(今思うと何も行き詰まっていませんでした。ただ頭の中だけのことだったのです)。 今でこそ、多少、「禅」に興味を持っていますが、当時は、「禅」に関して全く、何も分かりませんでした。ですから何故、「禅寺」を思いついたのか、昔も今も全く思い当たりません。 その中から港区の「長谷寺」を選びました。しかし、全くの偶然とはいえ、この寺は曹洞宗・大本山永平寺の別院・・・全国には山口県と東京港区の2箇所だけの、由緒ある大きなお寺でした。 電話で事情を話すと、とても親切で、温かく受け入れてくださり、お寺に伺うと、その方が、別院の最高責任者である「監院(かんにん)様」に私を紹介してくださいました。監院様はとろけるくらいに温かく、優しい方で、私をそのまま受容してくださり、一週間後に、このお寺に住まわせていただくことになりました(温かい愛)。 一週間後私は両親にウソをついて、荷物をまとめて家を出ました。夜の7時ころ、暗い中、不安を抱えながら、お寺の中に入り、玄関で「今日からお世話になります藤森です」と言うと、応対の若い僧侶は「そういう話は聞いていない」と言います。 出直すべきなのか?しかしいまさら出直す気にはなれない。どうしたらいいのか、何を言えばいいのか。私はうろたえながら、入り口で立ったまま、30分くらい粘りました。やがてその若い僧侶は、仕方ないと言う感じで、後ろの部屋で待ちなさいと、誰も居ない大きな建物(伽藍・がらん)の裏にある狭い部屋に案内してくれました。 その後、私は、ウトウトしている間に・・・・文字通りの「地獄」を体験しました。 |
(3)次に、2022年3月15日第233回「今月の言葉」「(中編)目指すものは『上』にあるのか?!『下』にあるのか!?③ー②」の中の(5)の中の一部分を下記の≪≪≪ ≫≫≫内に転載します。
≪≪≪(5)私・藤森が恥を忍んで「学歴が低い」「資格も無い」「業績もゼロ」「経済力もゼロ」と正直に言えるのは、それだけ≪≪下≫≫に対する「問題意識」や問題に対する「意欲」や「取り組む質・量」などが、≪≪種々様々な面で恵まれている「上」の人たち≫≫とは、取り組む意欲や根性のレベルが全く違ってくるために、つまらない事ではありますが、その「自信」があるために、「恥」を忍んで申し上げることができるのです。 ≪≪実例を一つ申し上げます。≫≫日本に「交流分析」が入ってきたのは昭和47年頃です。昭和50年頃から、東京セルフ研究会ができて「交流分析一泊研修会」が、中野のサンプラザで、毎年、8月に80人位が参加して行なわれました。 私は昭和52年頃から約10年、参加しました。2日目からは、机を片付けてワークショップが行なわれて、私は、毎年、80人の大きな輪の真ん中に進んで、私の恥ずかしい問題を出して、「交流分析」の第一人者・杉田峰康先生のご指導を受けていました。 教室2つ分の広さで、80人の大きな輪の真ん中の椅子に座るだけで、足が震えるほどの心理的な圧迫、ほとんど「恐怖」を感じるほどの「心理状態」の中で、自分の「情けない問題」や「恥ずかしい問題」を提示して、心理的に真っ裸になる作業(ワークショップ)に取り組んできました。 しかし、10年間で、同じようにワークショップに取り組んだ全ての参加者は、自分の椅子の脇に立って、軽く取り組む程度でした。しかも、私の記憶では2年、2回までで、他の全ての参加者は取り組まないか、やっても1回だけでした。 毎年、研修の1週間前から体調が悪くなり、研修当日になると、「アッ!これがプレッシャーだったんだ」と分かるほどの猛烈・強烈な体験ができたのは、「上」を目指す才能が一切無かった(という幸運に恵まれた)からこそ、恥を忍んで必死で取り組むという「覚悟・根性」を出せたのです。今思えば、結果的に、私の人生最大の「幸運」でした。≫≫≫
80人の大きな輪の真ん中に座るだけで、「身の毛がよだつ」思いですが、さらにその上に、自分の「恥」を晒すのですから、文字通りの「地獄のような体験」、「自己成長」「自己回復」を目指す私が、こだわって、こだわって、こだわりぬいた結果の「ド?ド?ド?根性」でした。 ≪≪さて、貴兄が度々書かれる自身の過去について縷々述べられていることは重々承知はしていますが、こだわりがありすぎる感がしております。≫≫ |
(4)こだわりがありすぎた未熟でアホな私は、自分を何とかしたいとさらにこだわり続けました。
サラリーマンを続けながら、1週間、泊まり込みの合宿・修行の「吉本式内観法」(拙著のp146)は4回、体験しました。創始者で、奈良県の吉本伊信先生のところで2回、また、禅宗に興味を持っていたので、愛知県にある「禅寺」での「吉本式内観法」を2回、体験しました。 その他に、1泊2日の「種々様々」の研修を何回、何十回も体験しました。また、自宅で一人、2時間の「吉本式内観法」を多数回、実践しました。 *道元禅師(どうげん・ぜんじ、鎌倉初期の禅僧。日本の「曹洞宗」の開祖)は言います。「仏道をならふとは、自己をならふなり」。 *聞くままに また心なき身にしあれば おのれなりけり 軒の玉水 <道元禅師> *私(藤森)が提唱していること、「自己回復」するということは、「深層心理」に植え込まれた自分の「見たことも、感じたことも無い(?)自分自身」の「『脚本(深層心理)』を改善すること」です≪≪「自己回復」の代わりに、世の中のほとんど全てで言われているのが「自己実現」です。この両者の違いは、このHPの表紙に書かれています。≫≫。 *「般若心経」の極致「無」や「空」を悟るのも「脚本」に植え込まれた「思い込み」、これを私は「虚(虚像)」と言っていますが、この「虚(虚像)」を作り上げている「思い込み」を「解放」して「虚(虚像)」を「実像化」することが「無」や「空」を悟ることだと定義しています。 ***しかし、世の中のほとんど全てのエリートは、己の「脚本(深層心理)」に植え込まれた「思い込み」、これを私は「虚(虚像)」と言っていますが、この「虚(虚像)」を作り上げている自己の思い込を全く理解しておらず、その「思い込み」を、私のような「未熟でアホな人間」に投影して、蔑んだり、高尚なアドバイスを送ってきたりします。 「仏道をならふとは、自己をならふなり」(道元禅師) 「脚本分析するとは、自己をならふなり」(交流分析) 「自己成長・自己回復するとは、自己をならふなり」(藤森弘司) |
(5)*禅の公案(こうあん)に「如何是仏(いかなるか、これ、ほとけ)」があります。
雲門(うんもん)云く「乾シケツ(かんしけつ・・糞かきべら)」・・・落とし紙、今で言うトイレット・ペーパーの無い時代は、篦(へら)で以て用便のあとを拭ったと言われています。使い方が荒ければ肛門が傷みますし、早きに失すれば便が残ります。ちょっと油断すれば指先を汚します。親切にしかも沈着を以て、緩急よろしく、一心をこめて篦になり切る。雑念妄想を一切許さず、一所に懸命、全身全霊を打ち込むところ、これこそ仏心と申せましょう。 *仏法遥(はるか)に非ず。心中にして則ち近し <空海> *言って行ぜざれば 信修(しんしゅ)とするに足らず <空海> *大智は愚なるが若(ごと)し <空海>大智は優秀なるが若(ごと)し<???藤森> *十界(じっかい)の有る所、これ我が心なり <空海> 地獄(瞋恚しんい・怒り)・餓鬼(貧欲・とんよく)・畜生(愚かさ)・修羅(争い事が好き)・人間(四苦八苦)・天上(有頂天の人の不幸を知らぬ)・声聞(しょうもん・道理の法に耳を傾ける)・縁覚(えんがく・自然の道理を身につける)・菩薩(自分をギセイにしても、縁のある人を助ける)・如来(仏・この世のものに全く執着がない世界) *よもすがら ほとけの道を たづぬれば わが心にぞ たづねいりける <一休禅師> *それは「禅宗の宗旨(仏法のおおもと)」で厳しく説いている「不立文字」(ふりゅう・もんじ)ですが、≪≪上≫≫の世界は、「立文字(りゅう・もんじ・学問や知性)」が全てです。 ①不立文字(ふりゅう・もんじ・・・真理は文字では表せない) ②教化別伝(きょうげ・べつでん・・・経典の文句を離れて、体験によってのみ心から心へと伝えられうるものだ) ③直指人心(じきし・にんしん・・・直に自己の心をむずとつかめ、そうすれば) ④見性成仏(けんしょう・じょうぶつ・・・自己自身が仏であることが分り、そのまま仏となるのだ)<「白隠禅師 坐禅和讃法話」春見文勝先生著、春秋社> ***今回の答え・・・「職人さんの技術」は、色々な資料や統計なども参考にするでしょうが、結局は、「自分固有の技術」を向上させることだと思っています・・・これにこだわりがありすぎた未熟でアホな私・藤森は、自分を何とかしたいとさらにこだわり続けたアホの「極致」ではあります。 しかし、「超一流の先生方」は、「色々な資料や統計」などを、我がもの顔に、「自分固有の技術」みたいに思いこんで、恥じない人たちのことだと、私は理解しています <本日の新聞(7月15日、夕刊フジ、大前研一先生)> 7日の日経新聞に「ニトリ、全社員の8割にIT国家資格」という記事があった。家具・日用品販売大手のニトリホールディングスが、2025年までに約18,000人の社員の8割に情報処理に関する国家資格「ITパスポート」を取得してもらうようにするというもの。・・・ ま、やらないよりもやった方がいいかもしれないが、そんなことをやらせる時間があるのだったら、別のことに力を割く方がいいという気もする。・・・ だいたい、会社が何か資格を取得しろと言って、うまくいった例は聞いたことがない。10年ほど前に「公用語を英語にします」と表明したユニクロのファーストリテイリングとか楽天は、どうなったか。・・・・≪≪私・藤森が一番言いたいことに、とても似ているように感じます。≫≫ |
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