2023年3月15日第245回「今月の言葉」「『本物の謙虚(家康)!!!』『謙虚もどき???』

(1「真の謙虚」とはどんなものなのだろうか、ジックリと考察してみたいと思います。

 世の中の「謙虚」とは、表面的、外形的なものが多いものですが、徳川家康から、「真の謙虚」「本物の謙虚」というものを真剣に学んでみたいと思います。資料を集めてみましたので、ジックリとご検討ください。

 

≪≪6歳のとき、人質として駿府の今川義元のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて尾張に送られ、広忠の死後、今川・織田間の捕虜交換協定によって駿府に赴いた。1555年義元の館で元服し元信と名のり、今川氏の一族関口刑部少輔の娘(築山殿・つきやまどの)と結婚、1558年ごろ元康と改名。義元の敗死を機に岡崎に入城して今川氏から自立した。1561年織田信長と和睦、1563年家康と改めた直後に譜代の家臣団をも巻きこんだ三河一向一揆が起きたが、翌年これを鎮定、結果として三河一国を統。

1566年徳川と改姓。1570年姉川の戦いで信長とともに浅井・朝倉連合軍を撃破。同年10月武田信玄と絶って上杉謙信と同盟、1572年三方原の戦で信玄に大敗した。≫≫(百科事典 マイペディア)

 

≪≪家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。金地院崇伝の日記である『本光国師日記』には「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、として祀ること。そして、八州[注釈 2]鎮守となろう」と残されている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神でもある。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられている。表参道を延長していくと寛永寺の旧本堂(根本中堂)につながる。≫≫(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

(2)「『どうする家康』“アンチ”に時代考証担当が噛みついた」(週刊ポスト、2023年3月3日)

 NHK大河ドラマ『どうする家康』が意外なところで話題を呼んでいる。 

 これまでの時代劇では泰然自若の“狸親父”として描かれることが多かった主人公・徳川家康(松本潤)だが、本作では常に「どうする?」と動揺。イメージと異なる家康像に、SNS上の大河ファンの一部からは<こんな家康は違う><歴史考証がおかしい>との声があがるが、これに対し同番組の時代考証を担当する歴史学者の平山優氏が自身のツイッターで放送回ごとに反論。歴史資料を挙げながら<ドラマの感想や想いは自由ですが、史実で斬り込んでくるのは、無謀>とバッサリと論破し、“場外乱闘”状態になっているのだ。

 過去にNHK時代劇ドラマの時代考証を務めた経験がある歴史研究家の河合敦氏が語る。

 「今回の家康像は斬新だというイメージがありますが、時代考証はしっかりなされていると感じます。例えば第1回では今川義元が家康を大切にしている描写が出てくるのですが、人質として今川の元で悲惨な生活を送っていたとされていた家康が、実は客分として丁重に扱われていたという新説を採用している。」<後略>

 

**「これだけは押さえておきたい『どうする家康 キーパーソン』(1)」(ペリー荻野氏、夕刊フジ、1月24日)

 <「泣き虫若殿」から「神の君」へ一体どう変わるの!?>

 <略>なにしろ、初回「どうする桶狭間」の家康は、今川義元の人質ながら、結構楽しく暮らし、チャーミングな今川家臣の娘・瀬名と恋に落ちて結婚。幸せな日々を送っていた最中に桶狭間の戦に出陣。織田信長に義元が討たれたと知ると激しく動揺する。大髙城に取り残され、信長の軍が迫る中、どうするのかと思ったら、家臣を置き去りにして逃亡。雷雨の中で「もう嫌じゃああああ」と絶叫するって。見たこともないヤング家康なのだ。

 <略>≪性格≫弱虫、泣き虫、鼻水垂れ(妻の瀬名の評)。≪リーダーシップ≫いまいち決断力に欠ける。大髙城から逃亡したときも、家臣の本田忠勝に「恥ずかしくないのか」と叱咤される始末。≪趣味≫手作りの人形遊び。≪怖いもの≫織田信長、戦全般が苦手。<後略>

 

**「これだけは押さえておきたい『どうする家康 キーパーソン』(5)」(ペリー荻野氏、夕刊フジ、1月28日)

 <信玄・信長、義元・・・天下人へと導いた「教え」>

 毎回、「大丈夫か、この殿は」と思えるNHK大河ドラマ「どうする家康」の徳川家康。今後も三河一向一揆に手を焼き、もじゃもじゃヒゲの武田信玄と対決するなど、危機は続く。それでも家康が最終的に天下人になれたのはなぜか。一つには、いろいろな人から「教え」を受けたことが大きい。

 そのひとりが、幼少のときに出会った織田信長だ。今川の人質になるはずだった家康を拉致した織田家の「うつけ」若殿、信長はおとなしい家康を白兎と呼び、相撲をとりながらひっくり返したり、ほうり投げたりとやりたい放題。涙目の家康に「この世は地獄ぞ」と吹き込んだ。乱暴極まりないが、この時の恐怖、地獄ショックは家康の心に深く残る。

 その後、今川家に送られた家康は、義元の下で教育を受けた。ドラマでは武術などの鍛錬が描かれたが、桶狭間に出陣する直前、義元は家康に「王道と覇道」の違いをただす。家康が、武をもって治めるの覇道、徳をもって治めるの王道で、覇道は王道に及ばないと応えると、義元は信長は悪しき覇道をいく者であり、自分はいつか京にのぼり、戦のない世を作ると語るのだった。「戦のない世」というキーワードは、戦が苦手な家康の心に刺さったに違いない。

 その義元が討たれた桶狭間の戦の後、混乱の中で本領岡崎の大樹寺に入った家康は敵方に取り囲まれ、一度は切腹しようと思い詰める。思いとどまった家康は寺に掲げられた「厭離穢土 欣求浄土」という言葉をかみしめ、のちに自分の旗印とするのだ。汚れたこの世を浄土にすることを目指せという言葉を授けたのは、大樹寺の住職・登誉上人だったとも言われている。<後略>

≪≪広辞苑より「厭離穢土・欣求浄土(え<お>んりえど・ごんぐじょうど)・・・この世をけがれた世界として厭(いと)い離れること。心から喜んで浄土に往生することを願い求めること。≫≫

(3)「『どうする家康』外伝<4>」(松平定知氏、夕刊フジ、2023年1月11日)

 <「NHK大河」好評スタート>

   <涙、洟水、糞尿垂れ流しで帰城 武田騎馬軍団に大惨敗>

 <略>前述のように、三河の地は伝統的に一向宗の門徒が多い土地柄だから、家康軍の中にも一向宗の門徒がいたし、4カ寺側にも家康の家臣はいた。攻めても、攻められても家康軍は疲弊する。一揆は家康側の勝利に終わったが、このままでは家康軍は分裂、弱体化するのは目に見えている。

 だから、家康は一時追放した4カ寺側の勢力の復帰、復活を許した。さらに、一揆側に参加した「家来たち」の家康軍帰参も許した。一時は家康の身の危険も間近にあった戦闘状況だったが、この「戦後裁定」で、あの「結束力の堅い三河武士の本領」が復活した。家康の「好決断」だった。

 次は「三方ヶ原の戦い」での大惨敗である。

 この時は姓も松平から徳川に変わっていたが、この戦で徳川家康は戦国史上最強と言われた武田騎馬軍団に完膚なきまでにたたきのめされる。何せ、家康は、恐怖のため、馬の首にすがりつき、涙、洟水(はなみず)、糞尿垂れ流しで帰城した、と言われる。

 家康軍は、勢いに乗って押し寄せる武田軍を何とか食い止めようと、「徳川四天王」の一人、酒井忠次が太鼓をたたき続けたり、布の橋を峡谷に渡したりして、何とか敵の浜松城乱入は防いだが、勝敗は明らかだった。

 奇跡的に一段落した後、家康は、この時の自分の「ぶざまさ」を、自分の慢心の時の戒めとして末代まで残そうと、その恐怖の時を思い出しながら、絵師に描かせた肖像画が今日まで残されている。それが、「家康顰(しかみ)像」

 

(4今の世の中、情報は溢れています。新聞にしろ、テレビ、週刊誌、雑誌、スマホ、百科事典etc.

 大事なことは、溢れている情報をいかに活用するか、活用できるか、です。

 さて、徳川家康は、驚くほど、謙虚な人間性を獲得したように、私・藤森には推測できます。何故でしょうか?それは幼児期に「人質」の人生を生きなければならなかったことにより、「過酷・困難な脚本」を抱えながら、いかにして戦国時代を生き抜いたことか、そして、素晴らしい言葉「厭離穢土 欣求浄土」との出会いなど、色々な体験や出会いを、自分の「脚本=深層心理」と本気で関係づけて、本気、本音で日本という国を「欣求浄土」にしようとしたであろうか、その決定的な証拠が次の「家康顰(しかみ)像」です。

≪≪奇跡的に一段落した後、家康は、この時の自分の「ぶざまさ」を、自分の慢心の時の戒めとして末代まで残そうと、その恐怖の時を思い出しながら、絵師に描かせた肖像画が今日まで残されている。それが、「家康顰(しかみ)像」≫≫

 昔、私は、何かの資料で、それらしい「家康顰(しかみ)像」(漫画?)を見た記憶がありますが、戦国時代は、大将が先頭に立って戦う時代です。そういう時代に、一国の武将がこんな「絵」を描かすでしょうか。

 しかも、天下を統一した大将軍であれば、こんな情けない絵は廃棄するのではないでしょうか。にもかかわらず、「日光東照宮」を建てさせたりしたのも、偉大な存在、シンボリックな存在は「欣求浄土」するにはどうしても必要です。それでいて、「家康顰(しかみ)像」の情けない絵を廃棄しなかった家康。

 徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうと、本気で「欣求浄土」、つまり今で言えば「日本」の平和と安全を、謙虚・本気で願った・祈った偉大な人物、日本最大級に本物の「謙虚」な人間性。だからこそ260年もの平和な「江戸時代」(私は歴史のことはよく分かりませんが、世界史の中で、260年も平和な国があったのだろうか?)があり、そのために「朱子学」を取り入れた。・・・「深層心理」専門とする私・藤森には、この判断は間違いないと確信しています。

 しかし、残念ながら、私は学問が苦手なために、皆さんにしっかり理解していただくための説明が十分で無いことは情けないと思っています。が、私は、家康の素晴らしい人間性、「謙虚な人間性」の「万分の1」でも育てたいと念願しています。

 最後に、「徳川家康」と、下記の「プーチン大統領」「習近平国家主席」を、是非、比較していただければ幸いです。私たちほとんど全ての人間は、「プーチン大統領や習近平国家主席」のように「謙虚もどき」ではあっても、「深層心理」は「我欲」に溢れているものです。

 是非、下記のHPをご覧ください。

(5)「今月の言葉」2022年8月15日、第238回「<【脚本分析】と【投影】について(プーチン大統領))」

 この中の(4)「プーチンと習近平・世界でもっとも危険なふたり」の中の<レニングラードのトラウマ>

 

**「今月の言葉」2021年4月15日、第222回「ウィーケスト・リンクとは何か?㉓(『池江璃花子さん』『習近平国家主席』)」

 この中の(4)「鈴木棟一の風雲永田町」の「習主席『深圳』への思い入れ」

 <<ご参照下さい。>>