2022年7月15日第237回「今月の言葉」「『私説・日本的朱子学』『朱子学』について③ー①」

(1一流の活躍をされていらっしゃる○○様から、温かいお手紙をいただき、「貴兄の空と無に関する探求には恐れ入りました。とても私には及びません」と、有り難いお言葉を賜りました。

 「学」の無い私が、文字通りの必死、寝食を忘れるくらい「無我夢中の数ヵ月」をかけて、何とか「上と下・論」「般若心経の無と空・論」を完成させることができたのは、○○様の温かい「叱咤激励」のお陰で、心より深く感謝申し上げています。

 

***さて今回は、私の文字通りの「私説」である「朱子学」・「日本的朱子学」の正しさが、ほぼ完全に証明される(された)であろう(?)素晴らしい資料を発見しました。

 歴史に関して、私が最も尊敬している井沢元彦先生がお書きになった下記の資料。(自己流で言わせて頂くと)「深層心理」を専門とする私・藤森の「推測」を中心に書いた「日本的朱子学」が、(3)(4)(5)(6)で紹介する井沢先生の資料で、かなり正しかったことが「証明」された(?)と思っています(井沢元彦先生には、拙著をお送り申し上げています)

 

(2)拙著≪≪「交流分析」の「人生脚本」と「照見五蘊皆空」≫≫p247<【第Ⅸ章】「朱子学」「過干渉日本」と「照見五蘊皆空」>の中のp272<「朱子学」の恐ろしさをじっくりとご覧ください。>の一部をまずは、次に紹介します。

 <(6)「朱子学」の恐ろしさをじっくりとご覧ください。>p272

≪≪結果的に見て朱子学は、中国でも朝鮮でも日本でも国家の進歩を止め国民の自由な精神を失わせた、亡国の哲学であった。

 儒教の開祖である孔子は結構いいことを言っているのになあ、と疑問に思っている人も大勢いるだろう。

 孔子は、人間には優れた人とそうでない人がいる事は認めた。だからこそ人間は努力することが必要だとも言ったが、朱子のように学問を偏重し、教養のない人間はクズだと思わせるような方向に人々を導いたりはしなかった。これが社会的なシステムとなれば、儒教的教養をどれぐらい身に付けているかで官僚登用試験を行い、不合格の人間あるいは受験しない人間には、政治の参加資格を全く与えないという形になる。これが科挙であり、科挙によって権力構造が決まる朱子学体制である。

 欧米の学者は朱子以降の儒教を新儒教として、孔子以来の儒教と区別している。極めて正しいやり方である。これは世界史ではないので(興味のある方は現在小学館Webで連載中の「逆説の世界史」=購読無料=をご覧いただきたい)。ここでは孔子以来の儒教と朱子学の大きな違いを一つだけ述べておこう。

 それは激しい排他性独善性である。朱子学の基本コンセプトは、「外国には文化など存在せず、中国人も試験に合格した官僚以外はクズ」ということだ。孔子はそんな事は言っていない。

 日本はもともと儒教国ではなかった。だからこそ足軽の木下藤吉郎は関白豊臣秀吉になることができたのである。(後略)≫≫(「激闘の日本史 幕末維新編~アヘン戦争から戊辰戦争まで~」井沢元彦氏、夕刊フジ、平成25年5月28日、下線は藤森)

 私・藤森は「朱子学」も「科挙制度」も詳しくありません。ただ断片的な知識で判断すると、日本では「科挙」そのものは浸透しなかったのでしょうが、「朱子学」「科挙」の精神が、日本人の根本精神(深層心理)を成しているように思えてなりません。

 特に、幕末の長州人の深層心理に浸透し、その後、地下水に脈々と「排他性」「独善性」が住み着いています。

 太平洋戦争末期の「竹ヤリ訓練」がまさにそうですし、「戊辰戦争」における武器の優劣は強烈ですし、長州が幕末に英・米・仏・蘭と戦った「下関(馬関)戦争」なども、長州の大砲のお粗末さは、まるで大人と子供の戦いみたいでした。

 朱子学の本家・中国がアヘン戦争でハチャメチャにされたことを憂慮した高杉晋作は、「奇兵隊」という武士以外の戦力を最初に作ったのには驚きで、いつの時代にも卓越した人材はいるものです。

 朱子学の創始者の朱熹は、女真族の金王朝に自国の南宋を屈辱的な、プライドをぶっ壊されるめちゃくちゃな支配をされた子孫であるために、プライドを維持するための偏屈で高尚な理論を「防衛機制」として深層心理に構築されていたのではないだろうかと私は推測しています。「理論武装」とでも言いましょうか。

 垣内景子先生も「朱子学入門」の中で≪≪親友(張栻・ちょうしょく)ならではの忌憚のない苦言と言えようが、ここに見える朱熹の人物像は、穏やかな人格者とはほど遠いものである。朱熹は短気で怒りっぽく、怒ると相手を痛烈に批判し、しかもそれが執拗なまでにしつこかったというのは、朱熹をめぐる様々な人たちに共通の評価であったらしい。もちろん朱熹も、張栻らの率直な忠告にしたがい、多少は努力したようではある。同じく張栻は、このようにも書き送っている。

 私がつねづね憂慮していたあなたのあまりに激しすぎるご気性も、いまは穏やかになられた様子、矯正のご努力の結果とお見受けします。(『南軒集』巻二一)

 とはいえ、もって生まれた性格はそうそう変わらないもの、朱熹の気性の激しさや、その粘着質の性格は、第七章で触れたように、朱熹が体制側から煙たがれたことの一因にもなっていた。≫≫

 深層心理を専門としている私にとっては、まさに朱熹の「五蘊」や「脚本」が見えるようです。そしてそれは、女真族の金王朝にめちゃくちゃな支配をされた子孫の「脚本」を推測させてくれます。

≪≪後に仏教を痛烈に批判し、仏教に対抗できるよう儒教を再生させた朱熹も、秀才の少年時代にありがちな知的好奇心のおもむくまま、かつては「小難しそうな」仏教に魅了された一人であった。≫≫(朱子学入門)

 このように一度は仏教に魅了された天才・朱熹が、とんでもない間違いを犯しているのには驚きです。

≪≪儒教は、仏教の「無」や「空」を批判して、徹底した「有」の世界観を提示する。この世界は、仏教が言うような虚無でも幻でもなく、たしかな質感をもった「有」の世界であり、そのたしかな質感は「気」の質感にほかならないのである。「気」が有る以上、この世は有るのであり、万事万象を虚無と見なす仏教はまちがっているというのが、儒教の仏教批判なのであった。

 儒教側の仏教に対する批判の当否はともかく、仏教という外来の思想に対抗することによって、古来無自覚に前提としていた「気」の概念は、新しい儒教にとってなくてはならない武器となった。朱子学は、こうした「気」の再認識を承けて、この世のあらゆる物や事はすべて「気」のなせるもの、「気」のせいであると説明し、このたしかな手触りをもった「有」の世界における「有」なる存在としての人間について考察する。

 以下、朱熹の言葉を紹介しつつ、朱子学において様々な事象がどのように「気」によって説明されているかをみてみよう。(略)≫≫(朱子学入門)

 これには驚きました。天下の大天才であり、若い時とは言え、一度は仏教に魅了された朱熹が、仏教の「無」や「空」をこのように素人のような誤解をしているとは、本当に驚きました。

 仏教が言う「無」「空」は、儒教や朱熹が説明している「気」や「有」の説明とほぼ同じであるにもかかわらず、「虚無」と理解しているということは、「無い」とか「ゼロ」「ナッシング」だと理解していたのでしょうね。なんでも完璧に「理詰め」をする朱熹には難しかったのでしょうか。

 多分、猛烈に理詰めをした「気」を僧侶(多分、禅僧)に説明した時に、そんなものは「無い(無)」と完全否定されたのではないかと推測します。それは猛烈に理詰めをしたような「固定的なものは無い」と言われたのではないかと推測しますが、それを「虚無」「ゼロ」「ナッシング」のように受け止めた朱熹には驚きです。

≪≪このような試験偏重主義による弊害は、時代が下がるにつれて大きくなっていった。科挙に及第した官僚たちは、詩文の教養のみを君子の条件として貴び、現実の社会問題を俗事として賤しめ、治山治水など政治や経済の実務や人民の生活には無能・無関心であることを自慢する始末であった。これを象徴する詞として「ただ読書のみが崇く、それ以外は全て卑しい」という風潮が、科挙が廃止された後の20世紀前半になっても残っていた。こういった風潮による政府の無力化も、欧米列強の圧力が増すにつれて深刻な問題となっていた。・・・清末の1904年に科挙は廃止された。≫≫(ウイキペディア)

≪≪科挙制度の確立により、中国は世界に類をみない教育国家であり続けた。科挙に合格しさえすれば、だれでも政権の中枢に到達できるため、当時の中国教育の中心は科挙のためのものとなり、儒学以外の学問への興味は失われがちだった。また、科挙に合格するための教育が主流であった中国では、学習者はある程度の地位や財力を持つ者に限られた。さらに、科挙の本質は文化的支配体制の確立であったため、権威は権力と密接し、論争的・創造的学問は排除された。≫≫(ウイキペディア、下線は藤森)

 中国における「科挙制度」の弊害を読むと、日本のいろいろな試験制度は、かなり(少し)似ているように思・・・われてしまいます。

≪≪防衛省で、なかったはずの文章が次々と見つかり、驚きのニュースとして大きく報じられた。しかし、官僚を31年やっていた私にとっては、こんなことは驚きでも何でもない。どういうことか。

「優秀なはずの官僚がなぜ?」というフレーズがよく使われる。財務省や経産省などの幹部クラス9割近くは東大卒だが、それは彼らが優秀だということを意味しない。意味しているのは、彼らが大学に入る時に、テストの成績が良かったというだけである。

 さほど能力のない人間が東大に入るためには、過去問を解く受験勉強が必要だ。多くの官僚はその点では優秀だった。そのDNAは役所に入っても消えない。課題を与えられると、官僚は過去の資料探しから始める。それを並べて分析し、コピペしながら答えを作るのだ。 厚労省で地下の倉庫から捏造データの原票が見つかったというが、まさに若手官僚の大事な作業は、地下の倉庫を漁って、仕事に関係しそうな資料を探し出してくることだ。過去の資料がないと、「創造力」がない彼らはお手上げとなる。命綱である資料は保存するのが彼らの常識なのだ。(略)≫≫(「壊れる官僚たち・安倍恐怖支配」元経産官僚・古賀茂明氏、日刊ゲンダイ、平成30年4月10日、下線は藤森)

 日本には「科挙(かきょ)」が導入されなかったと言われています。事実としては導入されなかったでしょう。でも、果たして、本当にそうでしょうか。

 江戸時代には「武士」という「選良(官僚)」が朱子学を学びましたから、初めから「科挙官僚」なのです。また、太平洋戦争では、軍部の上層部はかなり(日本的)朱子学的な発想で戦争をしていたようです。

≪≪3年8カ月の太平洋戦争を5段階に分けて、第4期が「解体」の時期だと私は考える。この期間が昭和19年2月ごろから翌20年4月までとなるのだが、いわば東條首相、陸相が参謀総長を兼ね、軍政と軍令の両面を握った時期を起点に、沖縄へアメリカ軍が上陸した時までの期間である。本土決戦が始まるまでとも言える。

 この解体の期間は二つの特徴を持っている。戦場での玉砕は当たり前、そしてこの期間に特攻作戦も始まっている。兵士の命など鴻毛(こうもう)より軽いという作戦の実施である。

 もう一つが東條は、自分が軍令も兼ねたから作戦がうまくいくと豪語したが、その実、この2月から7月(東條退陣)までの期間の戦争は全て失敗し、それ以前の戦闘よりも圧倒的に戦死者が増えている。(後略)≫≫(「歴史から新元号の今を見る 日本史縦横無尽」保阪正康氏、日刊ゲンダイ、令和2年6月9日)

≪≪(略)「私は7カ月間、ガダルカナルのジャングルを逃げ回ったが、補給がないから食べ物がない。むろん武器弾薬もない。私はなんでも食べた。アリやカエルだって食べたよ。全く地獄だった。アメリカ軍はジャングルのいたるところにマイクを仕掛けていて、我々の話し声で場所を特定してそこに飛行機で爆弾を落としてくる。戦争の考え方が違っていたよ」

 日本兵は参謀の戦術の誤りで次々とこの地獄に投入された。(日本史縦横無尽、令和2年5月1日)

(略)「できもしない奪回計画、命令等の経緯のため一カ月を過ごした。その間のガダルカナル島のわが軍の苦しみと消耗は甚大であった。(略)あえて極限するならば、面子に捉われ、責任のなすり合いを行い、自ら弱音を先に吐くことを避けようとするような性格が陸海軍の中枢に凝固していた」(日本史縦横無尽、令和2年5月9日)

(略)大本営の参謀たちは奪回を言い、軍政を担っている幕僚は奪回は無理と考えていたようだが、しかし大本営の参謀たちとて内心ではもう無理と考えていた節があった。会議や打ち合わせでは、誰もが「奪回は無理。早く兵を助けなければ」とは言わないのだ。そして時間だけが過ぎていった。増援の船を出せ、出せないとの論が高じて、軍務局長の佐藤賢了と作戦部長の田中新一が殴り合いをする一幕もあった。

昭和軍人の無責任体制を見ると、あまりにも兵士の命が軽く扱われたかがわかってくる。(日本史縦横無尽、令和2年5月12日)

<略>「真相箱」では次のような質問が発せられる。

 「戦時下では、日本には堅固な防備施設があると聞かされました。それなのに、日本が負けたのはなぜですか。大本営の発表では、いつも戦局は日本に有利でした。日本という国は、嘘、偽りを言う国なのでしょうか」

 この質問への回答はとてつもなく長い。日本が負けた理由を丹念に語っていくのである。

 まずはじめにこの回答は、歴史家によって時間をかけて研究されるでしょう、という。そして答えていく。今の段階でわかること、という前提での答えである。理詰めなのだ。日本軍の兵士は立派だが、指導者がひどすぎるというのが骨子である。≫≫(「歴史から新元号の今を見る 日本史縦横無尽」保阪正康氏、日刊ゲンダイ、令和元年8月31日、下線は藤森)。

 現代日本には「科挙」に代わるものとして現在は、「国家公務員上級職試験」として、(旧一種の)「国家公務員総合職」が「科挙」に相当するものと、私は考えています。

≪≪公務員の中でキャリアと呼ばれ、各省庁の幹部候補生として、事務次官まで昇進する可能性があり、超難関、エリート官僚のイメージが強い。
 人事院は2019年6月25日、国家公務員採用総合職試験の合格者を発表し、「東京大学」が307人で、合格者を100人以上出した大学は東京大学と京都大学の2校。
 2019年度 国家公務員採用総合職試験・出身大学別合格者数(上位10位)。1位「東京大学」307人、2位「京都大学」126人、3位「早稲田大学」97人、4位「北海道大学」81人、5位「東北大学」「慶應義塾大学」各75人、7位「九州大学」66人、8位「中央大学」59人、9位「大阪大学」58人、10位「岡山大学」55人。
 国家公務員試験は、日本を代表する難関試験で、有名大学出身者がひしめき合うなか、合格率は5~6%にすぎない。
 日本三大試験は、司法試験、公認会計士試験と、この国家公務員試験一種試験と言われている。≫≫(参考・ウイキペディア)

 大前研一先生や古賀茂明氏が上記でおっしゃっている内容を読むと、「科挙」や科挙に匹敵する試験をパスして高級官僚になる人たち(主として、東大卒)は、中国における科挙を合格した官僚である「科挙官僚(かきょ・かんりょう)」にそっくりだと、私は思っています。

 私はこれを英語の文法用語を使って、「科挙官僚=過去完了」だと思っています。

≪≪「消えた年金」を修正する作業にも、使い物にならない住基ネットとマイナンバー制度の構築と維持のために、すでに数兆円もの税金が消えている。これ以上、途方もない無駄遣いを繰り返さないためにも、今度こそゼロベースで世界標準の国民データベースを構築すべきなのである。≫≫(大前研一先生)

 「科挙官僚=過去完了」であるにもかかわらず、「現在完了進行形」であることが問題ですから、現在完了進行形の「科挙官僚」を、「過去完了形」にすることが日本の改革に絶対に必要だと思っています。

 そして日本の「科挙官僚」にとっての「経書」とは、先ほどの古賀茂明氏のおっしゃることを参考にすると、<日本の「経書」=倉庫にある大量の「資料」>で、<日本の「訓詁学」=倉庫にある大量の「資料」を、現在の仕事に如何に活用するかの「工夫」>であると、私は考えています。

 そう考えると、<増改築を重ねて迷宮状態になった古い温泉旅館のような現行システムをさらに拡張する(大前研一先生)日本の「科挙官僚」の気持ちがよく理解できるのではないでしょうか。

***何故これほどめちゃくなのか、それが私・藤森が「深層心理」を働かせて「考案」した「日本的朱子学」なのです。その元の「朱子学」の創始者・「朱熹」の人格のハチャメチャさを、次の(3)(4)(5)(6)で、井沢元彦先生の素晴らしい「絶対に民主化しない“中国の歴史”」でご覧ください。

 これほどめちゃくちゃな「朱熹」や「朱子学」が日本のエリートの根底に張り巡らされている驚きです。先月の<「今月の言葉」「【脚本分析】と【投影】について①(財務省総括審議官)」>で紹介した電車内での暴行事件も、「日本的朱子学徒」の事件です。「積極財政派」に対して、財務省を中心とした「財政再建派」は、私の見るところの「日本的朱子学徒」の「思考能力」だと見ています。

 さて、これ以降は、私が尊敬する井沢元彦先生の素晴らしい「絶対に民主化しない“中国の歴史”」をお楽しみください。

(3)「絶対に民主化しない“中国の歴史”」(井沢元彦先生、夕刊フジ、2022年6月21日)

 <朱子(1)>

 <「靖康の変」で激変した中国文化>

 宋は「靖康の変(1126年)」で金に滅ぼされた。しかし皇帝欽宗の弟が南京に逃れ皇帝に即位したので、それ以後を南宋と呼び変以前の宋を今では北宋と呼ぶ。

 それにしても皇族の女性までが性奴隷にされたことを読者の皆さんはご存じだっただろうか?もちろん、これは明白な事実であって歴史にもきちんと記録されていることである。念のためだが「性奴隷」とは誇張で言っているのではない。今韓国がいわゆる「従軍慰安婦」に関して「性奴隷だった」とデタラメを世界に流し続けているが、あれは公娼制度であり、韓国の言うように一般女性を無理矢理拉致し売春婦にしたわけではない。ところが、この時の金はまさにそれを実行したのだ。念の入ったことに、わざわざ娼婦になるための訓練の場として「洗衣院」という施設を設け、そこへ少女から熟女までの主に皇族の女性たちを強制収容した。無理矢理娼婦としての訓練を受けさせられた欽宗の皇后は屈辱のあまり自殺している。

 私は、この「靖康の変」が中国史上最大の事件だと思っている。なぜならそれ以前と以後で、中国人あるいは中国文化はまったく変わったからだ。このことは世界の歴史学者の中でも認識している人は、私の知る限り存在しない。

 ここで予言しておくが、数年後、あるいは数十年後になるかもしれないが、この「靖康の変」の重要性が世界中で認識される日が必ず来る。これをテーマにハリウッド映画が作られるかもしれない。その時は誰もが自分がこの事件の重要性を発見したと言うだろうから、皆さん覚えておいてください。これは井沢元彦が既に言っていたことだ、と。残念ながらその頃には私は生きていないかもしれないか。

 では「靖康の変」はどのような影響を中国に与えたのか。アメリカでは犯罪者のプロファイリングが盛んで、子供の頃虐待されたり異常な経験をした人間が、その結果どのような犯罪に関わるかが詳しく研究されている。そのやり方を真似てみよう。

 中国を1人の青年にたとえると、どんな青年か?「靖康の変」まではおだやかで家族を愛し、それなりに豊かな家の生まれで「お坊ちゃん」といってもいい。お坊ちゃんにありがちな貧乏人を見下す姿勢は多少あったが、性格は歪んでおらず何よりも人を激しく憎んだりしない温厚な人間であった。

 ところがそこへ突然、普段から「教養が無い」とバカにしていた野蛮人が、平和な家庭に侵入してきて彼の母も妻も娘も全部拉致してしまった。しかもその野蛮人どもは娘たちと結婚すると言うのならまだしも娼婦にするために訓練している、というのだ。

 誰でも容易に想像できることだが、当然その青年は日頃の温厚さをかなぐり捨て激怒し、その野蛮人どもを激しく憎悪し、1人残らず叩き殺して自分の家族を取り戻したいと思うだろう。しかし自分は弱く相手はあまりにも強い。取り戻すことは絶対不可能で断念するしかない。

 さて、こういう状態に陥ったとき人間はどうなるか?彼等への憎しみは海よりも深いが、それを晴らす方法がないのだから、人によっては毎日酒を飲んで泥酔し悲しみと苦しみをまぎらわそうとするだろう。とにかく現実を見たくない、現在も過去も、である。

 そこで南宋はそうした人々の欲求に応えた「哲学」が生まれた。

 朱子学と言う。「朱先生の哲学」ということだ。

(4)「絶対に民主化しない“中国の歴史”」(井沢元彦先生、夕刊フジ、2022年6月22日)

 <朱子(2)>

 <学問を愛し詩人の才能も>

 ここで敢えて百科事典などに載っている朱子の項目を紹介したい。いわば朱子という人物の公式プロフィールであり、言葉を換えて言えば「歴史学界の定説」でもある。まず、それを見ていただきたい。彼の本名は朱熹(しゅき、姓は朱、名は熹)であるので、「朱子」で引くと「朱熹」の項目を見よ、などと指示されることが多い。

 「中国、南宋の哲学者。朱子学の創始者。朱子と尊称。字は元晦(げんかい)、晦庵などと号した。福建省の人。19歳で進士となり、71歳で没するまで約50年間官界に身を置いたが、出仕すること少なく、家居して学に励んだという。初め儒学を修めたが、のち仏教や老荘の学にも興味を示し、24歳の時、李○(藤森注・人偏に同)(延平)に師事するに及び、北宋の道学、ことに程○(藤森注・出せません)(伊川)の思想に接して自己の思想的方向が確立された。講友に張○(木偏に式)(南軒)・呂祖謙(東菜)を、論敵に陸九淵(象山)を得て、彼の学問は飛躍的に発展し、儒学において空前といわれる思弁哲学と実践倫理を築き上げた。(百科事典マイペディア抜粋)

 師匠やライバルの学者たちについては後で解説することにする。ちなみに進士とは宋代で特に盛んになった科挙の合格者のことで、19歳で合格したのは大変優秀だったことを示している。そういう人間は官界での出世が約束されているのだが、それにもかかわらず「学に励んだ」のは学問を愛した人物だったということだ。彼は詩人としても才能があり「偶成(ぐうせい、「たまたま出来た詩」の意味)」と題する詩は有名だ。「少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んず可からず 未だ覚めず池塘春草の夢 階前の○(藤森注・木偏に吾)葉○(藤森注・巳と己の中間の字?)に秋声(しょうねんおいやすくがくなりがたし いっすんのこういんかろんずべからず いまださめずちとうしゅんそうのゆめ かいぜんのごようすでにしゅうせい)」つまり「人生の時間はあっという間に過ぎる。だから、わずかの時間も大切にすべきだ。それなのに人間は若いころの夢にひたっていることが多い。人生はもう秋を迎えているのに」というものである。

 要するに「寸暇を惜しんで勉強しろ」ということだ。私はこの詩は余り好きではない。どことなくヒステリックというか余裕の無さというか、そういうものが感じられるからだ。しかし、かつての東アジア世界では、青少年に必ず教え込まれた詩でもあった。

 では、百科事典の説明にある「思弁(しべん)哲学と実践倫理」とは一体どういうことか?

 今度は朱子学で引いてみよう。今度は「宋学」を見よ、という指示が出る。

 「中国、宋代に興り、その時代に大きな影響力をもった儒学の総称.狭義には朱子学をさす。漢以後、儒学は文献の字句の解釈を中心として、思索の学問ではなかったが、宋代に入ると儒者も道教も仏教などの影響を受け、儒教の古典に即しつつ、人間論、宇宙論を展開した。その思想内容から性理学、理気学、道学などとも呼ばれる。(ブリタニカ国際大百科事典、小項目事典)」

 大変わかりやすい説明と言いたいところだが、実は不十分だ。たとえば幕末、高杉晋作は盟友、井上聞多(のちの馨)への伝言を頼んだ。それは「朱子学では戦にならぬ」というものだった。なぜそう言わねばならなかったのか、その理由がこの説明ではまったくわからない。

 それを説明するのが歴史家の役割である。

 

(5「絶対に民主化しない“中国の歴史”」(井沢元彦先生、夕刊フジ、2022年6月23日)

 <朱子(3)>

 <勤王の志士には味方であって敵>

 実は幕末において薩摩、長州、土佐などの勤王の志士たちにとって、最大の味方でありまた最大の敵でもあったのは朱子学であった。最大の味方とは「尊皇攘夷」というスローガンで国民が一致団結できたということである。これは両方とも朱子学の用語で、「両方(2つ)」というのは本来、尊王論と攘夷論は全く別だからだ。

 攘夷というのは、中華思想が極端に誇張されたもので、要するに中国以外の国はすべて野蛮人の国家であり野蛮人どもはすべて撃退しなければならない、という過激な思想である。どこが過激かはもうおわかりだろう。そもそも中華思想というのは中国だけが文明国であり周辺はすべて野蛮人の住む地域であるという思想であった。ただしその野蛮人が中国に対して貢ぎ物を贈りあなたの家来にしてくださいといえば、中国はそれは受け入れた。これで皇帝と国王の間に君臣関係が生じる。これが東アジア世界における国際秩序の基本であった。日本だけがこの「秩序」に反抗し「天皇」という称号を名乗ったことは既に述べた。そして幕末これは過激であるがゆえに欧米のアジア侵略に対抗するためのスローガンになった。

 つまり宋代までの中華思想は周辺国家を「野蛮人の居住区域」とはしたものの、「野蛮人だから討ち殺してしまえ」とまでは言わなかった。野蛮人でも頭を下げてくれば「家来にしてやった」のである。しかし「攘夷」とは夷(野蛮人ども)を問答無用で攘(ブチ殺せ)ということだ。ここがそれまでに比べて段違いに過激なのであり、どうしてそんなに過激になったかおわかりだろう。靖康の変があったからだ。繰り返すが朱子はこの変(というよりは大戦争)の後に、母や妻や娘を拉致されて娼婦にされたのに何の抵抗もできなかった「中国人」が建国した南宋に生まれた。生年は1130年、靖康の変のわずか4年後である。そうした「何の抵抗もできなかった中国人」の中で彼は大人になったのだ。

 中国は儒教の影響でファミリーを大切にする。逆に謀反の罪などでは九族(遠い親戚)まですべて処刑される。そういう世界だから、記録には残っていないのだが、朱子のファミリーにも性奴隷にされた女性がいた可能性は大いにある。朱子学という学問は、いや哲学というか宗教はこうした環境の中で「育成」されていたのである。

 尊王論については、孟子の理論を発展させたものである。孟子は「徳を失った王」は既に天命に反し王の資格を失っているから、それを家臣が放伐(追放か征伐)しても「忠」に反する行為ではないとした。朱子学は「忠」の対象である君主を2種類に分けた。王者と覇者である。両者とも君主ではある。しかし覇者というのは「戦争や謀略などで天下を取った者」であり、「徳を以って世を治める」王者にははるかに及ばないものであるとした。

 ならば国に2つの権力者がいる場合、覇者を排斥して王者を真の主君とせねばならない。これを尊王斥覇(そんのうせきは)と呼び、江戸時代、日本でも朱子学が盛んになると、徳川家は覇者に過ぎず、「武力を用いない」天皇家こそ王者であり真の主君だという考え方が生まれた。

 朱子学が勤王の志士の味方をし明治維新を推進したというのはそこのところだが、では敵だったというのはどこか?

(6)「絶対に民主化しない“中国の歴史”」(井沢元彦先生、夕刊フジ、2022年6月24日)

 <朱子(4)>

 <「百害あって一利無い」思想>

 朱子学が、明治維新を推進しただけでなく、逆に障害となったとはどういうことか?

 それについて述べる前に、少しこの連載の全体像を語っておきたい。まだ途中なのにと思われるだろうが、なぜ今かと言えば「朱子」の項目に入ったからだ。私は中国が「民主化しない」いや「できない」世界になってしまった最大の原因は儒教で、その中でも既に登場した董仲舒と朱子の責任が極めて重いと考えているのである。しかし、こんな考えを持っているのは、おそらく世界に私だけだろうとも思っている。では、なぜ私が他の人が思いつかないことを思いつくかと言えば、視野を広くとっているからだ。私がそういう視点を持っていることは既に武則天の項で理解していただけたと思うが、今回の話は数千年のスパンで、しかも学問の垣根を越えた広い視野で見ないと理解できないものなのである。

 たとえば哲学や思想史を研究する人々は朱子を高く評価する。なぜならば朱子はそれまでの儒教には全くなかった宇宙論を展開し認識論にも深く踏み込んだからだ。つまり、それまではどちらかと言えば政治学であり道徳論に過ぎなかった儒教を、完璧な哲学に仕上げたという評価を朱子は得ている。だから欧米ではそれまでの儒教をConfucianism(直訳すれば孔子主義、英語で孔子はConfuciusコンフューシャス)と呼び、朱子学をNeo-Confucianism(新孔子主義)と呼ぶ。朱子学が儒教を母体にしながら相当違うものになったという認識である。私もその点には異論は無い。だが単純に儒教は朱子によって「リニューアル」され「洗練された」と考えていいものだろうか?

 実は歴史学の視点に立つと、朱子学とは国家や民族の進歩を徹底的に妨げる、保守の権化のような「百害あって一利無い」思想にしか見えないのである。これが最も明確に分かるのが、実は日本の幕末の歴史だ。まさに冒頭で述べたように「明治維新の障害」だった部分なのである。

 それを象徴する人物が島津久光という男だ。腹違いの兄の島津斉彬(なりあきら)はおそらく幕末の大名の中で最も優秀で開明的な人間だったが、久光はその父の斉興(なりおき)と並んで極めて保守的で頑迷だった。斉彬は、「安政の大獄」と呼ばれた井伊直弼の強権政治に対抗し、クーデターを起こすことを計画した。まず最も信頼する家臣、西郷隆盛を根回しのため京へ派遣し、自らは西洋に学んだ技術で日本初の国産ライフル銃3000挺を製造させ、それで武装した兵を訓練して強力な軍隊を設立した。だが、よく知られているようにこ計画は実行されなかった。今か今かと主君の上洛を待っていた西郷のもとに届いたのは、健康でまだまだ若い斉彬が急死したとの知らせであった。何度も言うように、この連載は日本史ではないのでこれ以上詳しくは語れないが、私はこの斉彬の急死も保守勢力による暗殺で根底にあるのは朱子学だと考えている。興味ある方は「逆説の日本史」の方を見ていただきたい。

 ここでは世界史でも取り上げるべき久光と斉興のエピソードを紹介しよう。斉彬が薩摩いや日本のために製造した3000挺の最新鋭のライフルと、薩摩藩の戦闘力を強化するため(それも根本的には日本のため)に外国から買い入れた西洋式軍艦が、その後どうなったか、である。

 なんと、2人は軍艦を破壊しライフルは廃棄処分にしてしまったのである。