2021年10月15日第228回「今月の言葉」「日本的朱子学とBBT大学」

(1)タイトルの「日本的朱子学とBBT大学」「BBT大学」は、私が密かに尊敬している天才・大前研一先生が学長をしていらっしゃる「BBT大学」「ビジネス・ブレークスルー大学」のことです(「日本的朱子学」の表現は、拙著のp247~307『「朱子学」「過干渉日本」と「五蘊皆空」』です)

 この「BBT大学」が素晴らしい「入学試験」をしていることを知り、驚いています。

 今回は、「入学試験」の最高レベル(2)(3)や「禅の宗旨」(4)、「論理学の実力者」の発言(5)を紹介しています。日本的朱子学社会ではあり得ない最高レベルですので、ジックリとご覧ください。

(2)「『ビジネス新大陸』の歩き方」(大前研一先生、週刊ポスト、令和3年8月20日)

<第747回 大学入試”迷走”でわかった 文科省は自分たちの根本的な間違いに気づいていない

 <略>思考力や判断力、表現力を問うと言いながら、結局「○かXか」を問うているのである。

 私に言わせれば、記述式で思考力を問うなら、それ自体を採点するのではなく、答案からその人の考え方を酌み取って、さらに突っ込んだ質問をぶつけ、人間性を深掘りするという手間暇をかけなければ、導入する意味が無いのである。

 最近、「ネット検索で調べるだけで考えない大学生」が問題になっている。たとえば、デジタル教科書に関する講演会で、東京大学大学院の酒井邦嘉教授は「自分で考えて咀嚼する前に調べてしまう。考えようとしない。考えるのはバカバカしい。書いてあるモノを探してくればいいんだと。それが学習なんだと勘違いしている」(東京新聞6月15日付)と苦言を呈している。

 だが、これは大学生に問題があるのではない。そういう大学生をつくってきた試験、学校、教師、文科省に問題があるのだ。

 試験や教師の質問が「正解」を求めるから、生徒・学生は手っ取り早く答えを見つけるためにスマホで検索して調べるわけで、その結果として考えなくなるのは必然である。つまり、スマホがあれば答えがわかる質問で、合否や成績を判定するというやり方自体が間違いなのだ。

 <「考える力」を見極める方法>

 私が学長を務めているBBT(ビジネス・ブレークスルー)大学の入試は文科省のやり方と全く違う。 

 <略>

<<以下は、次の(3)で詳しく紹介されています。次の(3)を読む限り、「BBT大学」は、「日本的朱子学的社会」「世の中の大学」とは比較にならない最高レベルの素晴らしい大学で、その卒業生は「超一流」であるはずです。少なくとも「一流の学生」であるはずであると、私・藤森は確信しています。

 下記の(4)では、「禅宗の宗旨」を紹介しています。さらに(5)では、「論理学」というとてつもなく難しい学問の実力者がおっしゃった貴重な「言葉」を紹介してあります。>>

(3)「『ビジネス新大陸』の歩き方」(大前研一先生、週刊ポスト、令和3年8月27日・9月3日)

<第748回 文科省任せにしない!ゼロから答えを導き出す「考える力」の磨き方

 前号では、文部科学省が2025年以降の大学入学共通テストで予定していた国語・数学の「記述式問題」導入と英語の「民間試験」活用を断念する見通しとなったことを受け、私が学長を務めているBBT(ビジネス・ブレークスルー)大学が実施している文科省とは全く違う入学試験のやり方を説明した。

 それは、まず三つのテーマ(自己PRや志望動機など)について1200字程度の小論文を書いてもらい、それに基づき、教員が個別に1時間以上かけて質疑応答を行なう。次に、誰も答えを知らない問題を課して議論し、思考力を確認していく。そういう手間暇をかけているのは、人間にとって最も重要な能力は「考える力」だと思うからである。

 面接で相手の「考える力」を見極める方法は、マッキンゼー時代の入社試験でも導入していた。たとえば「明日からコンサルタントとしてタンザニアに派遣されることになった。リュックサック1個しか持っていけない場合、何を詰め込んでいくか?」という質問をする。

 それに対し、従来の知識詰め込み型の受験勉強しかやってこなかった人間は、タンザニアの場所や気候、経済事情などがわからなかったら、頭がフリーズして答えを出すことができない。

 一方、「考える力」があって機転が利く人間は「タンザニアについて詳しくはわかりませんが、仮にアフリカ中部にある発展途上国だとすれば・・・」と、まず自分で前提条件を提示し、それに基づいて「私はこんなものを持っていきます」と答える。そのように筋道立てて行動計画や意思決定を説明できる人材を私は採用してきた。

 なぜなら、この試験で問うているのは「正解」ではなく、「こういう前提なら、私はこのように考える」と思考のロジックを組み立て、それに基づいて自分なりの答えを導き出せるかどうか、ということだからである。そういう方法で答えを見つけられる人間が、コンサルタントに向いているのだ。

 逆に言えば、テレビ番組のクイズ王のように、丸暗記した知識で答えをポンと出すのが得意な人間は、むしろコンサルタントに向いていない。コンサルティングを頼む側は、前例がなくて答えがわからない問題に直面しているから高い料金を払ってコンサルタントを雇うわけで、それに対してゼロから答えを導き出せる人間でないと、そもそも仕事が務まらないのだ。

 思考は自分に質問を重ねることで深まり、全体的・立体的につながっていく。

 具体的には、まず、その問題について前提条件を整理し、仮説を立てて解決策を考える。そして、それが起承転結で論理的に結論まで組み立てられるかどうかをデータ(証拠)に基づいて縦横斜めから検証する。これは78歳になった私自身が今でも実践している思考方法にほかならない。

 そういう考え方の「癖」を持っている人は、ビジネスの世界でも、学問の世界でも、世界のどこでも、自分の力で問題解決ができる。つまり「考える力」には無限の価値があるのだ。したがって、その能力を文科省と学校は最も重視して伸ばすべきなのである。

 前号でも述べたように、21世紀は「答えが見えない時代」である。一方、答えがある問題はスマホで検索すれば済む。普段の仕事では、あらゆる人に意見を聞いたり答えを教えてもらったりする局面ゼロから自分なりの答えを導き出せる能力が重要であり、この二つの能力のどちらに偏ってもいけないと思う。そういう前提からすると、大学入学共通テストだけでなく、今の○X式による暗記偏重の入試はすべて「百害あって一利」なしである。

 <人生観と教育観はつながっている>

 そもそも試験の方法に完璧なものはない。だから全国共通や全国一斉といった全体主義的なやり方はやめて、大学ごとに自校が求めている人材の資質や能力を示し、それに基づいた独自の入試をすればよいと思う。 

 なぜ大学が文科省お仕着せの共通テストに対して反発しないのか、私は不思議でしょうがない。

 たとえば本連載(第685回)では、①高校卒業資格センター試験(高校教育の理解度を検証するためのテスト)②書類選考(内申書とボランティア活動や社会活動などのレポート)③大学ごとの筆記試験と面接試験・・・という3段階の方法を提案した。

 最後の面接試験は受験生が多くて教員が足りないマンモス大学では難しいかもしれない。しかし、答えが見えない時代に答えを導き出せる力があるかどうかを見極めるためには面接試験が必須なので、母校の名誉を守りたいOBたちに分担してもらえばよいと思う。

 ちなみにアメリカでは、経済誌『ビジネスウイーク』が毎年、各大学の学部別に卒業生の給料ランキングを掲載している。企業社会がどの大学・学部の卒業生を必要とし、どのような人材に高い給料を払っているかということが、あからさまになっているのだ。

 そうしたシビアな世界から日本の大学は乖離しているので、今の入試のやり方だと、いつまでたっても人材は国際的に通用するレベルにならないだろう。当然、先進国の中で低位に甘んじている給料も上がらない。

 ただし、少子化が進む日本では、これから大学の淘汰が始まる。その時、大学の優劣は入学させた人材の優劣で決まるはずだから、自校が生き残っていくためには、優秀な人材の“原石”を入試で見抜く努力をしなければならない。

 そもそも人生は自分で切り拓き、人と違う道を行かないと、より良くならない。したがって、文科省や大学に自分が進む道を自分で切り拓くことができる人材の輩出を目指すという教育観があれば、そういう考え方・生き方を奨励する教育をすべきであり、試験はそのための能力を測るものにしなければならない。

 文科省は、○Xの試験に「正解」を出したかどうかで合否を決める時代がとうの昔に終わったにもかかわらず、間違った方向のまま大学入試改革をしようとしている。

 しかし、実際の人生は答えが○かXになることはほとんどなく、もっと複雑で多角的な起承転結がある。そして情報化社会が進展すればするほど、ネット検索が楽になればなるほど、「考える力」=「人間の実力」が問われ、それが人生そのものを変えていく。

 となれば、「考える力」を身につけさせることこそが、21世紀に求められる教育の最大の役目ではないだろうか。教育は「国家百年の計」なのだから。

<大前研一先生・・・1943年生まれ。マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社長、本社ディレクター等を経て、94年退社。現在、ビジネス・ブレークスルー代表取締役会長、ビジネス・ブレークスルー大学学長などを務める。最新刊『大前研一 世界の潮流2021~22』(プレジデント社)など著書多数。HPはhttp://www.kohmae.com>

 

≪≪日本もデジタル庁のトップに台湾の唐鳳(オードリー・タン行政院政務委員・無任所大臣)のような人を任命できる社会になれれば、少しは変化できるのではないでしょうか。

 オードリー氏は、<略>「トランスジェンダーで、IT天才の異名をとる彼は、マスク争奪戦を在庫量とIDカード・健康保険証とを紐づけることで平等な購入・分配を実現し一躍時の人に。」<略>(「コロナ対策優等生・台湾・感染急増のなぜ」売文家・甘粕代三氏、日刊ゲンダイ、令和3年5月22日)≫≫

≪≪私・藤森が、もし、採用担当者であれば、東大卒よりも、無条件で、BBT大卒を採用しますね。BBT大学が、これほど素晴らしい入学試験をすることに驚きですが、さらに、それらに対応できる教授などの先生方が存在することに驚きです。

 次の(4)の『坐禅和讃法話』の中の「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」<禅宗の宗旨>をジックリとご覧ください。≫≫

(4)「白隠禅師『坐禅和讃法話』春見文勝先生著、春秋社」のp136

 <自性(じしょう)>

 自性は、自己の本性(ほんしょう)、自分の本当の心、真実の自己、本来心、清浄心(しょうじょうしん)です。「衆生本来仏なり」というときの「仏」です。仏性(ぶっしょう)、真如(しんにょ)、如来(にょらい)、一霊格、尊厳なる霊性、など色々と表現方法はありますが、要は「本来無一物(むいちもつ)」のところ、「無(む)」であります。

 私たち臨済宗の禅問答で、初心者が最初に与えられる「趙州無字(じょうしゅう・むじ)」の公案の全文は、第三段で示しました。文字の上で見ている限り、趙州和尚が、「犬ころに仏性は無い」と答えたのは、「衆生本来仏なり」(白隠)、「一切衆生は悉く皆、如来の智恵徳相を具有す」(釈迦)などという仏教の根本原理に矛盾しています。しかし、趙州和尚は、あるときは「有(う)」(有る)とも答えているのです。(『趙州録』)

 ということは、「無(む)」は「有(う)」に対する相対的なものではなく、「有無(うむ)」を含んだ絶対的なものであるということです。静かに坐禅して「廻向返照」を続ければ、いままで、これが自己の実在だと考えていたもの、これが自分の本性だと思いこんでいたもの、それは結局は「無自性」であったことに、はっと気付きます。それが「無」であり、無自性ですから我もなければ彼も無い、対立の無い場所であります。このようにして、自らが自ら体験によって、はっきりつかむこと、覚(めざめ)ることを「証する」と言います。学問として論理的に証明する場ではありません。これを「直(じき)に」(じかに、ずばりと)と言います。いわゆる、文字や知識などといった介在物を入れることなく、ということです。

 白隠禅師は、「直に自性を証すれば、自性即ち無性にて」と、禅師自身のお悟りの体験を述べて、人の本心は「無」、これが真理であり、「禅」とは「無の世界観」であると説いておられるのです。

 坐禅の目的は、自性これ何ぞ、と内に向かって飛び込んで、これはこれ「無性」なりと体得するという場にまず出ることであります。これが悟りでありまして、成仏(じょうぶつ)とも作仏(さぶつ)とも申します。だから、禅宗の宗旨(しゅうし、仏法のおおもと、主旨とする教え)は、

 「不立文字ふりゅう・もんじ、真理は文字では表せない)、教外別伝きょうげ・べつでん、経典の文句を離れて、体験によってのみ心から心へと伝えられうるものだ)、直指人心じきし・にんしん、直(じき)に自己の心をむずとつかめ、そうすれば)、見性成仏けんしょう・じょうぶつ、自己自身が仏であることが分り、そのまま仏となるのだ)」(『禅源諸詮集都序』、上、『涅槃経集解』、『伝心法要』、ほか)

 経典を読んで学問をし、知識を豊富にするのでなくて、自己自身に内在する、無性(むしょう)の一霊格を発見し、それを体得して、自己の完全なる実力を発揮して縦横無尽に大活躍をすることが禅の本懐であります。

(5)私・藤森の30年来の友人・石原光則氏が、ある日、私との雑談中に、次のように言いました。

<現代科学技術は人間の思想に画一性のレールを急速に敷きつつある。>(拙著のp292)

 まさに、大前研一先生のおっしゃることや、「禅宗の宗旨」と同じ主旨のことを意味していると、私は判断しています。

 この言葉を聞いた瞬間、心理学を中心にした「般若心経」の「五蘊皆空」について書いている最中だった私は大きな刺激を受けました。

<<実験、観測による科学的結果は、誰が行なっても、何処で行なわれても、遅かれ早かれ、同じような結果に帰着するという『画一性のレールの上を走る作業』になり、このことが人間の精神に画一性をもたらす温床だとする意味に私は解釈していて、その『画一性』から解放されることこそが『五蘊皆空』です。>>(拙著のp294)

 石原光則先生は謙遜されますが、日本の「論理学」第一級の実力者でいらっしゃいます。不思議なご縁で、学の無い私・藤森とは友人として、30年来のお付き合いをさせていただいています。

 「論理学」は難しすぎて、私には全く理解できないのですが、唯一、分かったことは、「論理学の裾野にコンピューターサイエンスがある」とのことです。