2020年10月15日第216回「今月の言葉」「ウィーケスト・リンクとは何か?⑰(故・渡哲也さん)」(weakest link)
(1)渡哲也さんがこれほど素晴らしいお人柄だったとは、不肖・私(藤森)は知りませんでした。
せめて渡さんの素晴らしいお人柄の10分の1くらいが私にあれば、もう少し成長できたのにと思うほど渡さんは素晴らしい方です。 まず、渡さんの素晴らしいお人柄をご紹介したいと思います。 そして、最後に、渡さんの体調について紹介します。 私(藤森)は素晴らしいところが何も無い人間ですが、せめてものこととして、私の『ウイーケスト・リンク』を10%くらいは高められているのかなと思っています。 |
(2)「弟も畏怖した兄最強伝説」(夕刊フジ、令和2年8月16日)
<ドッキリに机蹴り上げ激怒> 空手道2段で「芸能界で最もケンカが強い男」と俳優仲間からも一目置かれていた渡瀬恒彦さん(2017年、72歳で死去)が、唯一畏怖していたのが実兄の渡哲也さんだった。 兄は青山学院大学、弟は早稲田大学でともに空手部に籍を置き、心身を鍛えた。180センチの長身に鍛え上げた肉体と甘いマスク。渉りさんが次世代のスターとして日活に入社したのも渡瀬さんが内緒で日活に書類を送ったことがきっかけだった。 「米兵3人を1人で撃退した」といった武勇伝で知られる渡瀬さんだが、若き日の渡さんも負けてはいない。 デビュー会見で瓦割りを披露したのは有名な話。デビュー当時には、失礼な態度をとった記者にアッパーカットをくらわせて気絶させたというエピソードも。 「まだ高校生のころ、兵庫県三田市の高校に通いながら大阪の高校生にまで名前が知られるほどケンカが強かったそうです。実は渡瀬さんのほうが強かったそうですが、渡さんには頭が上がらなかった」と週刊誌記者。 渡さんが石原プロに入社したのは1971年。映画の不振で多額の借金を背負っていた石原プロを救うため、180万円を持参した逸話もすごい。そして石原裕次郎さんはそれを使うことなく、渡さんを迎えたいうから熱すぎる。 とんねるずの石橋貴明(58)もその迫力にビビったひとり。かつてバラエティー番組で、渡さんに「いいジャケット着てるな、テツ」と話しかけ、肩をたたくように舘ひろし(70)に指示された石橋。恐る恐る実行すると、渡さんは机を蹴り上げて激怒。「お前になんでテツって呼ばれなくちゃいけねえんだ」とすごんだ。 「もちろんドッキリですが石橋は真っ青。それ以降、渡の顔をみると体が硬直してしまうほどのトラウマになったそうです」と先の週刊誌記者。番組空気を読んだサービス精神も忘れない、さすがの武勇伝だった。 |
(3)「ビートたけしの21世紀“毒談”」(週刊ポスト、令和2年9月4日)
<オイラの「奢りの作法」は渡哲也さん直伝なんだっての> <略> オイラの知るなかでも、渡さんほど格好いい人はなかなかいないね。 昔、ラグビーの松尾雄治の誕生日祝いで行った西麻布のメシ屋で、偶然、石原軍団の若い衆を引き連れた渡さんと鉢合わせしたことがあってさ。 オイラは面識があったんで1人で挨拶に行ったら、「おう、タケちゃん、どうしたの?一緒にいたのはラグビーの松尾だよね?」なんて聞かれたんで、「松尾は誕生日なのに祝ってくれる女もいないんで、仕方なくオイラが祝ってやってるんです」って話したんだよ。 その後、オイラは自分の席に戻ったんだけど、渡さんは後から店に来たのにすぐに店を出ちゃってさ。どうしたんだろうと思ったら、店員がいきなり松尾に花束を持ってきたんだよ。花束には、「松尾君へ 誕生日おめでとう」 って書いてあってさ。 あの短い時間でどうやって花束を用意したのか分からないけど、松尾は「渡哲也さんから花束をもらえた!」って感動しきりだったよ。で、オイラたちが勘定しようとしたら「お代も渡さんからいただいていますので」だって。 渡さんがほとんど食べないうちに先に店を出ちゃったのは、きっとそのためだったんだよな。弟の渡瀬恒彦さんから「兄貴は息子にラグビーをやらせてる」って聞いたことがあったんで、もしかしたら松尾のことを応援してくれてたのかもしれないけど、それにしても初対面の相手に格好良すぎるぜっての。<略> そんな縁もあって、オイラが映画『BROTHER』を撮る時、「ちょっとでいいので」ってお願いして大親分の役で出てもらったんだけどさ。 スタッフがみんな「渡さんが出る!」って張り切っちゃってさ。スタイリストが「監督、やっぱり大親分ですから着物ですか?」って言うから、「そうだな。着物でお願い」なんて軽く返しちゃったら何百万円もする紬を買ってきちゃって、衣装代がギャラより高くついちまったよ(笑い)。 俳優陣はもっとガチガチでさ。大杉漣さんなんて腹切って自害するシーンで、気合いが入りすぎて本当に現場で気絶しちゃったんだから。オイラは芸人だけど、俳優を生業にする人たちからしたら、渡哲也は“神様”みたいな存在だったのかもしれないね。<略> 渡さんが惚れ込んだ石原裕次郎さんってのはどんな人だったんだろうな~。実は裕次郎さんには会ったことがないんだよ。渡さんは裕次郎さんに心酔して、倒産寸前だった石原プロに全財産を持って入ったっていうからさ。あれほどの男がそこまでするなんて、一度でいいから話してみたかったね。 この前「石原軍団」の解散が発表されたばかりだったけど、渡さんは自分の死期を悟ってたんじゃないかな。 自分がいきなり亡くなって周囲の人たちが困らないように、色々と整理したかったんだと思うよ。まさに「立つ鳥跡を濁さず」ってやつだよ。 渡さんは気遣いの人だったから、最期まで自分のことより周りのことを気にしてたに違いないぜっての!ジャン、ジャン! <取材協力・井上雅義> |
(4)「渡哲也さん“男気”の原点『裕次郎譲り』」(日刊ゲンダイ、令和2年8月20日)
<目上にも目下にも紳士的> 肺炎のため10日に亡くなった俳優の渡哲也さん(享年78)。14日の石原プロによる発表から週が明けても、故人を悼む関係者からのコメントがやむことがない。そこで異口同音に語られるのは、渡さんの誠実で紳士的な人柄だ。 渡さんの「気遣い」は、石原裕次郎さんという“絶対的存在”に対してだけでなく、年齢、性別を問わず、あらゆる人に向けられていた。それはマスコミ関係者も例外ではなかった。渡さんと親交があったベテラン週刊誌記者はこう語る。 「多くの芸能人がしがちな、マスコミに対して、横柄だったり、ぞんざいだったりする態度は一度も見たことがありません。ドラマのロケに同行した若い記者にも『こっちへ来て、弁当食べてください』とか、丁寧に話しかけていました」 あるテレビ番組で、まだ若手だった木村拓哉(47)と対談したことがあった。 「その時も渡さんは、ジッと相手の目を見て、終始『木村さん』と呼びかけていました。キムタクのほうが恐縮していたのが印象的でした」(前出の記者) しかしながら、これには渡さんの原体験が関係しているという。渡さんは、青山学院大学在籍時、空手部に在籍していたが、弟の渡瀬恒彦(享年72)や空手道部の仲間が日活の新人募集に勝手に応募。それがデビューのきっかけになった。 「渡さんが日活の食堂で憧れていた裕次郎さんを見かけ、挨拶するのですが、食事中だった裕次郎さんはスッと立ち上がり『君が渡くんですか。はじめまして、石原です。頑張ってください』と握手してきたそうです。無名の新人に対する大スターの決して偉ぶることのない振る舞いに感激した渡さんは、それを自らも継承していくのです」(前出の記者) 後に日活がロマンポルノ路線に舵を切ると、渡さんは石原プロに移籍。経営難と病魔に襲われた裕次郎さんを長きにわたり支え続けることに。目上にも目下にも慕われた男気あふれる芸能界の巨星は逝ってしまった。 |
(5)「大門団長“西部警察”よりカッコいい人」(元テレ朝アナウンサー・佐々木正洋氏がしのぶ、夕刊フジ、8月18日)
<略>(スポンサーの)社長さんは渡さんのグラスにワインを注ぐついでに、僕にもワインを注いでくれた。そして一言が付け加えられた。 「佐々木さんは“ロマネコンティ”なんて飲んだことないでしょう・・・」と。すかさず渡さんは「そんなことないですよ、佐々木さんは。しょっちゅう飲んでますよ、ねえ」と僕に目をやりながら社長に返したのだ。僕は衝撃だった。石原プロにとっても大事なスポンサーの社長に言葉を返したのである。どんな些細なことでも理不尽なことは許さない堂々とした姿に圧倒された。 あれから時が流れた。この6月に盲腸の手術で入院した際、渡さんにメールした。渡さんの容体が心配だったが、直筆で手紙を書かなければ失礼だと、悪筆も手伝って筆無精をかこっていた。でも入院なら、言い訳できると文字を打った。携帯が鳴った。「渡です」。いつもの口調で渡さんからの電話だった。 「佐々木さん、頑張ってくださいね。元気になったらまた一緒に食事に行きましょう」 2,3分の電話だったが、渡さんとの最後の会話になった。あのしびれるような味のある声がいくぶん細く感じられた。今思えばご自身の体調もよくなかったのであろうに、他人の手術を心配し励ましていただいた。 強くて優しくて慈愛に満ちた渡さん。実在の渡さんは西部警察に出てくる大門団長よりカッコいい人だった。
(6)「渡哲也さん死去・78歳」(夕刊フジ、8月16日) 今月10日に肺炎のため、78歳で死去したことが明らかになった俳優、渡哲也(本名・渡瀬道彦)さん。2015年に心筋梗塞の手術を受けて以降、体調不良が長引く中、社長も務めた石原プロを来年1月に解散すると発表した直後の死。ボスと慕った石原裕次郎さんとの約束を貫いて、幕引きを見届けての旅立ちだった。これが昭和の男の引き際だ。 <「西部警察」二日酔い秘話> 渡さんの死は所属事務所が14日夜に発表。親族に看取られて息を引き取ったという。 役者として目覚ましい活躍の一方で、胸膜炎(1974年)、直腸がん(91年)など病と闘い続けてきた。2015年6月に心筋梗塞の手術を受けて以来、入退院を繰り返し、ここ数年は呼吸器疾患などで自宅療養していたという。 最後の仕事は今年6月、生前の裕次郎さんの映像と共演した宝酒造CMのナレーション録り。まさに、最後まで裕次郎さんとともに、歩いた人生だった。 先日発表された“石原軍団”の解散は、1987年7月17日に亡くなった裕次郎さんの「俺が死んだら即会社をたたみなさい」という遺言を、渡さんが貫いたのだ。自らの命が尽きる前に、石原プロの看板を裕次郎さんに返すためだった。 そこには裕次郎さんとの深い絆がある。元スポーツ紙記者のフリージャーナリスト、中野信行氏はそんな2人の絆を示すエピソードを明かす。 1984年、「西部警察PARTーⅢ」(テレビ朝日系)の最終回で、殉職した渡さん演じる大門を、裕次郎さん演じる木暮が看取るシーンの撮影前日のこと。ロケ先の博多にある石原軍団の定宿のバーで、中野氏は渡さんと酒を飲んだ。 <自分が看取られるシーン、シラフで出来ない> 「普段はあまり飲まない渡さんがその日は、私をバーに誘ったんです。渡さんはいつになく飲んでレミー・マルタンを1本空けてしまった。当然翌日は真っ青な顔で二日酔い。撮影は無事済んだけど、OKが出ると裕次郎さんが『哲はなんであんなに酒くさいんだ』と言ったほどでした」 しかし、裕次郎さんの死後、渡さんは中野氏に「実はね・・・」と言って、そのときの真相を明かしたという。 「当時から裕次郎さんは体調が悪く、体をだましだまし撮影に臨んでいた。渡さんはそれを知っていた。だからこそたとえ役とはいえ、自分が裕次郎さんに看取られるシーンを撮るなんて、とてもシラフではできなかったんだと。それほど2人の絆は深かったんです」 葬儀は故人の強い希望で14日に都内の斎場で家族葬で営まれた。 「実は2年ほど前、渡さんは、自分が死んでも大騒ぎをせずに看取ってくれと石原プロの関係者に伝えていたそうです。それが裕次郎さん、弟の渡瀬恒彦さんを見送ってきたからこその死への哲学。終わった後に大騒ぎするもんじゃないと。お別れの会も開かれないそうです。まさに“日本人のお手本”というべき人でした」と中野氏。 男がほれる男の生き方がそこにはあった。 |
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