2022年3月15日第233回「今月の言葉」「(中編)目指すものは『上』にあるのか?!『下』にあるのか!?③ー②」
(1)<<前回、2月15日の最後の「下記の部分」から続けます。>>
私・藤森は今、恥ずかしいほど反省だらけの毎日です。そのため、今からでも対応できる可能な限りのことを、私自身の「反省(罪の償い)」のために、「万分の一」のわずかなことですが、子ども達のプラスになることをやらせていただいています。 そしてこれを「リ・ペアレンティング=再育児療法」と名づけました。これは子ども達のためでなく、私の育児の反省、残されたわずかな「この世の私の人生」のために「対応」させていただいています(拙著のp149~150)。 そういう種々様々な体験の中で、それら≪≪上≫≫の「技能」が卓越した素晴らしい成長をしても、その反面である「本質的な人間性=脚本≪≪下≫≫」が豊かで、心地よく成長している人間は「ゼロ(限りなくゼロ)」だというのが、私の人間の本質を見る「視点=脚本=自己回復(総研)」です。 ≪≪これが、私・藤森が最も声を大にして申し上げたいこと≫≫です。この場を借りて、本音を「文章化」する機会をいただいたことに、○○様には、心より深く感謝申し上げています。 ・・・・・・・・ さて、これから極めて重要なことを、失礼を承知の上で、本音で申し上げます。≪≪次回に続きます。≫≫ |
(2)さて、ここから、「先月の続き」を書きます。
実は、ある社会的に一流・超一流の活躍をされていらっしゃる方が、M医師の「ウツを完治」させるセミナー(参加費1万円)を主催され、ご丁寧に、私をご招待くださいました。 大変ありがたいことで、感謝のお礼を申し上げた上で、「ウツを完治」するというのは、私の目指す方向とは違い過ぎるので、参加をご辞退申し上げたことから、社会的業績が一流・超一流の方と私の考え方との間に大きな「ズレ」と言ったらよいのでしょうか、「猛烈な違い」が明確になりました。 そのことがきっかけで、色々なご意見やご批判をいただきましたので、私の「未熟な体験」や「考え方」を何とか「理論化」「文章化」したいという欲望が沸いてきて、必死で取り組んだお陰で、長年、適切に≪≪言語化≫≫できなかった「拙論」を、特に学問的に未熟な私・藤森としては抜群にうまく「文章化」できたと思っています。 そういう経緯の上での拙論≪≪「上」と「下」論≫であることをご理解ください。 |
(3)≪≪私の「理解」は次の通りです≫≫
人間の「病気」を始めとする「全ての人間性」「全ての要素」は、「交流分析」の「脚本」にあります。では「脚本」とは何か?です。 「脚本」とは、ほとんど全ては「両親・夫婦(祖父母や兄弟姉妹なども含まれますが、主として、両親)」の「人間性=夫婦関係が醸し出す家庭内の雰囲気」が「投影」されたものです。 「両親・夫婦」が、毎日の生活の中でどのような環境を作ったか、全てはその環境の中で、子ども達がその「雰囲気」をどのように受け止めたか、どのように感じとったか、どのように影響されたか・・・それが子ども達の「人間性」の全ての「要素(脚本)」です。 (社会的に一流・超一流の活躍をされていらっしゃる)○○様は「育児」を完璧にやれた、夫婦関係は理想的に「円満」だったとお考えでしょうか? 私自身は、最低だったと深く反省しています。深い反省があり、私自身のために、先ほど(先月)、申し上げたように≪≪下≫≫に取り組んでいます。 ≪≪<再度、述べます>私は今、恥ずかしいほど反省だらけの毎日です。そのため、今からでも対応できる可能な限りのことを、私自身の「反省(罪の償い)」のために、「万分の一」のわずかなことですが、子ども達のプラスになることをやらせていただいています。 そしてこれを「リ・ペアレンティング=再育児療法」と名づけました。これは子ども達のためでなく、私の育児の反省、残されたわずかな「この世の人生」のために「対応」させていただいています。≫≫(拙著のp149~150) そういう世の中の普通の夫婦関係や育児のやり方の中で、「怒り」を抑圧して、「深層」に溜め込んだのが「ウツ」です。 ●「神田沙也加さん『2人の母親の決定的な違い』」(日刊ゲンダイ、12月27日) 神田沙也加さん(享年35)の訃報に接し、改めてクローズアップされたのが母・松田聖子(59)と沙也加さんの微妙な母娘関係だ。 <略>「当時の聖子は自分の奔放な私生活を棚に上げ、娘の交際を頑として許さず、沙也加さんは『ママは好き勝手やって、どうして私はダメなの!』と激しく反発しました。それに対し聖子は『タレントやミュージシャンはとにかくダメ。収入だって学生アルバイト並みだし、何より不安定だから』と、珍しく声を荒げたそうです」(芸能関係者) 聖子が理想とした娘の交際相手は、“1番目は歯医者、2番目は弁護士、3番目が実業家”だったという。聖子の価値観に振り回された沙也加さんは混乱したはずだが、聖子も娘にわざと嫌がらせをするはずはなく、理想を説いたのは聖子なりの母親としての愛情だったのだろう。ただ、それからしばらくして沙也加さんは長期休養に入る。<後略>(日刊ゲンダイ) 私・藤森を含めて、私たち親は、そのほとんど全てが「善人」です。しかし、私を含めて、育児を一生懸命にやってはいますが、多くが、二十代という若さであり、その上、乳幼児は「言語表現」が全く出来なかったり、極めて未熟であったりする年代です。 ですから、親が一生懸命「善意」で対応してはいます(理想を説いたのは聖子なりの≪≪母親としての愛情≫≫だったのだろう)が、気が付いたら、時代も状況も人間性も違う「我が子」を、親の価値観で「思い通り」に育ててしまうという「強いクセ」が出てしまいます。そのため親子の「価値観」の違いから、人格的な「歪み」が大きく出てしまいます。 そして「般若心経」は、その人の「両親」がそういう育児をするのは、「両親」の「両親」がそういう「人間性」であるからで、そうであるならば、そのまた「両親」の「両親」の「両親」・・・・つまり、それが「家系」的なもの、先祖代々のものだと言っていて、私が考える「脚本」と全く同じことを言っています。 こういう私たちの根本的な「人間性」から発症された重い「ウツ」を、セミナーのタイトルに、相手構わず、重症性も年齢も構わず「完治」させると言う言葉を使えるのは、「異常」であるか、単なる「ハウ・ツーもの」であり、「般若心経」の「無(む)」や「空(くう)」をご存知ない方である、というのが私・藤森の考えです(「無」と「空」の解説は後述します)。 西洋医学を始めとする専門家や心理関係者の多くは、「病気」の本質を、どうも、ご存知ないように、私には見受けられます。 ≪≪両親を中心にした家庭の雰囲気・環境≫≫が一人の乳幼児に、色々な刺激を与えます。これを交流分析では「ストローク」と言います。食べ物と全く同じで、このストロークが無いと人間は生きられません。 ≪≪実は、これの驚くべき「人体実験」があるのです。 1220年~1250年に在位していた神聖ローマ帝国フリードリヒ2世(フェデリーコ2世)の行った実験です。<<教育を受けていない子供が最初に話す言語を知るために、50人の赤ちゃんを集めて隔離し、乳母と看護師に命じました。「ミルクや排泄のお世話など、生命維持のお世話はするが、赤ちゃんと目を合わせたり、話しかけたり、笑いかけたりしてはならない」。育ての親から愛情を与えられなかった赤子たちは全て死んでしまった。>>(拙著のp64)≫≫⇒ ≪≪これは実験ですから極端な例ですが、こういう親の関わり方が、乳幼児の人間性のベースになります≫≫⇒ ≪≪こういう種々様々な雰囲気の中で、一人の人間の「人間性」の原型が6歳までにできあがります【交流分析の「脚本」、般若心経の「五蘊(ごうん)」】≫≫⇒ ≪≪この人間性の「原型・脚本」が小学生、中学生・・・社会人となるにつれて、「強化」されていき、その人の決定的(?)な「人格」・「固定的な人間性(?)」になっていきます≫≫ ≪≪そこで「病気」とは何か?です。「病気」とは、この「脚本」の歪み・・・「脚本」の歪み方の「種類」というか、「タイプ」というか、「クセ」というか、これらの歪みの「特徴(タイプ)」により、「ウツ的」であったり、「発達障害的」であったり、「テンカン的」であったり、種々様々な病気になったり、≪≪さらには、人間関係が拗れたり、トラブルを起こしたり、色々な事件(大阪北新地のビル4階クリニックに放火して26人の方が犠牲になった事件etc.)や,事故を起こしたり≫≫するのが、一般に(広い意味での)病気と言われるメカニズムです≫≫ ≪≪「交流分析」でいう「脚本」は、ほぼ、両親からの問題として考えますが、「両親の問題」ということは、「その両親の両親の問題」です。そして、そうであるならば、「その両親の両親の問題」ということは、「その両親の両親の両親」の問題であることは間違いありません。ということは、「般若心経」でいう「五蘊」と全く同じであるというのが、私・藤森の考えです≫≫ さて、これからが重要なポイントです。私・藤森は「深層心理」を専門としています。「深層心理」を専門としていると、少し、クライアントの方と対応していますと、このメカニズムの特徴が見えるように感じられてきます。 しかし、このメカニズムをクライアントの方にご理解いただくことは≪≪長年(30年も40年も)、その生き方で、当たり前のように生きてきたご本人にとっては≫≫不可能なほど困難なことです・・・が、しかし、やがて、少し理解されてくると、状況が徐々に改善されてきます。まるで、雪解けが始まるように、自然に改善されるかの如くに改善されてきます。 |
(4)少し「理解」ができるようになってくるということは、その方の「深層心理」というガチガチの「地盤」が少し緩んできたことを意味します。地盤が緩んでくると、今まで、全く、手が付けられなかった長年の「好ましくないクセ」が、ポツン、ポツンと感じられてきて、徐々に、「脚本」が緩んできます。
≪≪「結論」・・・例えば、「ウツ」ならば「ウツ」の方の対応をしながら、「ウツ」を治すのではなくて、「ウツ」を「発症」させている「深層心理の歪み・クセ」を改善することが「目的」であって、私からみると「ウツ」を治そうとするのは「深層心理」が全く分からない「深層心理の素人」だと、僭越ながら考えています≫≫ ≪≪≪≪さらに重要なポイントは、「ウツ」のメカニズムの中には、色々な要素が含まれていて、その色々な要素をうまく使いこなせない「人間性」が問題なのであって、「ウツ」が悪いものだという見方・・・だから「ウツを治療」するのだという見方は、「深層心理」が分かる私にとっては、完全な間違いです。色々な「要素」は、上手く使いこなせれば悪くないどころか、「ウツの要素」は、全て、「素晴らしいもの」です(拙著のp222,「サイコシンセシス」の「サブ・パーソナリティ(副人格)」と「セルフ(私)」でピッタリ説明できます)。 これを≪≪ナイフ≫≫に喩えてみます。「ナイフ」は、鉛筆を削ったり、ヒモを切ったりするのに使えば、素晴らしい「道具」になりますが、人を傷つけたりするものに使えば「危険(悪い物)」になります。要は、ナイフの使い方次第であるのと同様に、「ウツ」の方が持っている「要素」を適切に使いこなせていない結果が「ウツ」なのです。 ですから、根本は「ウツ」を治すことではなく(治す必要もなく)、「ウツ」を発症させているメカニズムを改善することで、ナイフが素晴らしい「道具」になるのと同様に、従来のままで、「ウツ」を発症させている方の「素晴らしい人間性」が現われてきます。ウツの方が持っていらっしゃる「要素」は、とても「ハートフルで素晴らしい人間性」です。 ≪≪もう一つの例え話をします。≫≫引っ越しの最中は、荷物がどうにもなりませんが、きれいに整理した後は、全て、活用できる素晴らしい家財道具です。 「ウツ」の方の「心理状態」は、引っ越しの最中のてんやわんやの状況と同じです。ですから、整理整頓されれば、「ウツ」の方の要素は全てオーケーですから、「ウツ」を治すことではなく、ウツの方がお持ちの「素晴らしい人間性の要素」を「整理整頓」(引っ越しの最中の荷物を整理)したり、ナイフの「使い方」を工夫したりして、その人の「人間性」という<要素・道具>を適切に活用できる≪≪人間性を高めること≫≫が、私の専門である≪≪自己回復(総研)≫≫を目指すということで、「回復」の度合いは、その人の目指す「問題意識」や問題に対する「意欲」や「取り組む質・量」「症状のレベル(重症度合いや年齢・20代か30代か40代か・・・)」などによって、素晴らしく成長する「度合い」は変わってきます。 そして、下手ではありますが、ここで一生懸命に説明しているものは、全て、≪≪下≫≫にあるものですが、しかし、世の中のほとんどの方は、これを≪≪上≫≫に求めて、高度な「理論化」をしてみたり、学問や書物などに答えを求めたり、とにもかくにも、立派な答えを見つけることに一生懸命になりますが、それらは全て「一般論」です。 「禅宗の宗旨(仏教のおおもと)」の「不立文字」「教化別伝」「直指人心」「見性成仏」の最初の「不立文字(ふりゅう・もんじ)」・・・真理は文字では表せない、にもかかわらず、世の中は「立文字(りゅう・もんじ)」・・・で、素晴らしい理屈を構築することに躍起になっています(今の私・藤森は、「立文字」に躍起になっています)。(拙著のp160)≫≫≫≫ |
(5)私・藤森が恥を忍んで「学歴が低い」「資格も無い」「業績もゼロ」「経済力もゼロ」と正直に言えるのは、それだけ≪≪下≫≫に対する「問題意識」や問題に対する「意欲」や「取り組む質・量」などが、≪≪種々様々な面で恵まれている「上」の人たち≫≫とは、取り組む意欲や根性のレベルが全く違ってくるために、つまらない事ではありますが、その「自信」があるために、「恥」を忍んで申し上げることができるのです。
≪≪実例を一つ申し上げます。≫≫日本に「交流分析」が入ってきたのは昭和47年頃です。昭和50年頃から、東京セルフ研究会ができて「交流分析一泊研修会」が、中野のサンプラザで、毎年、8月に80人位が参加して行なわれました。 私は昭和52年頃から約10年、参加しました。2日目からは、机を片付けてワークショップが行なわれて、私は、毎年、80人の大きな輪の真ん中に進んで、私の恥ずかしい問題を出して、「交流分析」の第一人者・杉田峰康先生のご指導を受けていました。 教室2つ分の広さで、80人の大きな輪の真ん中の椅子に座るだけで、足が震えるほどの心理的な圧迫、ほとんど「恐怖」を感じるほどの「心理状態」の中で、自分の「情けない問題」や「恥ずかしい問題」を提示して、心理的に真っ裸になる作業(ワークショップ)に取り組んできました。 しかし、10年間で、同じようにワークショップに取り組んだ全ての参加者は、自分の椅子の脇に立って、軽く取り組む程度でした。しかも、私の記憶では2年、2回までで、他の全ての参加者は取り組まないか、やっても1回だけでした。 毎年、研修の1週間前から体調が悪くなり、研修当日になると、「アッ!これがプレッシャーだったんだ」と分かるほどの猛烈・強烈な体験ができたのは、「上」を目指す才能が一切無かった(という幸運に恵まれた)からこそ、恥を忍んで必死で取り組むという「覚悟・根性」を出せたのです。今思えば、結果的に、私の人生最大の「幸運」でした。 さらには、1週間泊まり込みの「吉本式内観法」を、若い時に4回、体験しました(拙著のp146~150)。 また、曹洞宗大本山永平寺の別院(東京港区)で約3ヶ月の泊まり込みの修業(拙著のp136~145)、その他、広い意味での心理学的な「2泊3日の合宿」の取り組みなど、≪≪下≫≫を多数回、体験してきました。勿論、結果が全てですが、こういう実際の体験の「質・量」の多さだけは、多分、10本、いや5本の指に入るのではないかと推測(妄想)しています。 さて、動物は、全て、私が言うところの≪≪下≫≫だけを見て生涯を生きているのだと思われます。そこに人類の誕生と共に、≪≪上≫≫を目指し、やがて、人類の進歩・成長と共に、ほとんど全て、上だけを「目標」とするようになったのではないかと推測します(「大脳の新皮質」の肥大化)。 そこから人類を戒めるために、色々な「宗教」が誕生して、私の表現を使えば、人間を≪≪下≫≫に向けさせようとしているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか? さて、専門家が「完治」させるという考え方は、「ウツ」は悪いものである。だから「完治」(正しく)させるという考え方に覆われていますが、これは「般若心経」が説く「無(む)」や「空(くう)」を理解していない考え方で、「ウツ」は、治療する問題では全くありません。 「ナイフ」や「お金」や「娯楽的な遊び」などと同じで、活用の仕方や、楽しみ方の違い・・・それ次第です。だから「般若心経」では「無」や「空」を教えてくれています。 「田の草を取って踏み込む〔そのまま〕肥やしかな」 全ての人間は、生まれてからズッと上を見てきた、あるいは、上を見せられてきたことの一つの実例が≪≪松田聖子と神田沙也加さん≫≫、松田聖子さんは、私と同様に、娘さんのことを、多分、ご自分の体験から、一生懸命に心配してのアドバイスだったけれど、「波長」が合わなかったことから、悲惨な結果になってしまいました。 だから治療するのでも、治すものでもありません。ウツの方が有している「要素」の使い方が上手になるように練習すること≪≪結ぼれた毛糸玉も、丁寧にほぐせば、またセーターの一着も編めるように、もつれた意識のかたまり<藤森注・ウツ>も、五欲も十悪も、かたくなな自我も溶かせば自由自在に使える良識と変わります。≫≫で、ナイフの使い方と同様「ウツ」の方の生き方がとても素晴らしくなってきます。 つまり、≪≪下≫≫の使い方のご指導、つまり「深層心理」の扱い方のご指導ですから、≪≪上≫≫が猛烈に素晴らしい世の中の「専門家」や「指導者」が適切に対応できる訳がありません。そのために、世の中のほとんど全ての対応は≪≪ハウツー≫≫ものです。 先日もこんなことがありました。小学生時代に「拒食症」で苦しんだ方が小児科に通っていた頃、先生に「他の子供たちと一緒に雑談しながら、アイスクリームでも食べれば改善するのに」と、付き添っていたお母さんに言ったそうです。「上」に一流の専門家は、残念ながら「深層心理」が全く分からないので、「上」の頭で考えた立派な「知識」オンリーです。 しかし、そういう「上」がゼロの私が、地ベタを這いずるように取り組んできた「下」や「深層心理」こそが、一人の人間の「人間性」「脚本」ですから、私のような体験こそが最も相応しいのですが、「ハウツーもの」は、今すぐ簡単に理解ができ、そして簡単に納得できてしまいます。しかし、「下」の「深層心理」の問題は、その人固有の「問題」ですから、ほとんど全く理解されないために、まともな議論をすることが、ほとんど全くありません。 これが「般若心経」が説いている「無(む)」や「空(くう)」、「五蘊皆空(ごうん・かいくう)」で、物事を頭から決めてかからない「融通性」を育てることです。 <「立文字(りゅう・もんじ)」が下手なために、次回に続く予定です?> |
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