2022年2月15日第232回「今月の言葉」「(前編)目指すものは『上』にあるのか?!『下』にあるのか!?③ー①」

(1)前回≪≪1月15日第231回「今月の言葉」「”交流分析”の“脚本”とは何か?(映画”ONODA”の補充②ー②)≫≫の次の部分を転載します。

≪≪私・藤森の負け惜しみで申し上げると、私は、社会的な種々様々のことで「恵まれなかった」ことが本当に良かったと思っています。もちろん、負け惜しみですが、何もかも、恵まれなかったことで、私自身の内面に「本気」で取り組まざるを得ない・・・という「幸運」に恵まれました。≫≫

 

 さて、世の中で評価される全ての物事は≪≪上≫≫にあることをご存知でしょうか。「学問」にしても、「スポーツ」にしても、ピアノやギター・絵画などの「芸術」にしても、「会社などの経営」にしても、職人の「技術」にしても、物事のすべてが「高く評価」されるものは≪≪上≫≫にあります。

(2)さて、先日、社会的業績として、ある一流の活躍をしている方から、あることに関して、私に対して、貴重なアドバイスをくださいました。

≪≪○○様の貴重なご意見のお陰で、色々な気づきが深まり、そして貴重な資料に気付くこともできて、長年の私の考えを整理することができましたことを心より深く感謝申し上げています。
 その「認識」を理論化してみましたので、お読み賜れば幸いです。≫≫

 こういう流れの中から、私が長年、認識しながら「言語化」することができなかった「私の考え」を整理することができました。それが≪≪上≫≫≪≪下≫≫の問題です。

 大袈裟に言えば、人生「最大級」に重要な「課題」だと私は思っていますので、じっくりとご覧賜れば幸いです。

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 さて、世の中で評価される全ての物事は≪≪上≫≫にあります。

「学問」「資格」にしても、「スポーツ」にしても、ピアノやギターや絵画などの「芸術」にしても、会社などの「経営能力」にしても、職人の「技術」にしても、物事のすべて・・・種々様々な「業績」「功績」「高く評価」されるのは、自分の立ち位置の≪≪上≫≫にあります。

 しかし、「悟り」「自己回復」「無」「空」を目指す方向は、自分の立ち位置の≪≪下≫≫≪≪深層心理≫≫にあります。

 私は、「学歴(明治大学夜間部中退)は低いし、「資格」はゼロ、「社会的業績」もゼロ、「経済力」もゼロで、≪≪上≫≫を目指す「要素=人間性」の全てがゼロの人間です。

 そういう意味で、私は「存在価値が低い人間」です。

 その「存在価値が低い」私が、何とか人生をより良くしたいとジタバタした結果、唯一の「取り組むべき価値」を見いだしたのが、≪≪下≫≫≪≪深層心理≫≫でした。

≪≪2022年1月15日第231回「今月の言葉」「”交流分析”の”脚本”とは何か?(映画”ONODA”の補充②ー②)>の一部を転載します。≫≫

≪≪私・藤森の負け惜しみで申し上げると、私は、社会的な種々様々のことで「恵まれなかった」ことが本当に良かったと思っています。もちろん、負け惜しみですが、何もかも、恵まれなかったことで、私自身の内面に「本気」で取り組まざるを得ない・・・という「幸運」に恵まれました。≫≫

 

(3)その幸運に恵まれた私が「目標」としてきた≪≪下≫≫≪≪深層心理≫≫を下記に列挙します。

道元禅師(どうげん・ぜんじ、鎌倉初期の禅僧。日本の「曹洞宗」の開祖は言います。「仏道をならふとは、自己をならふなり」。

 これを私流に言うと、自分の「深層心理」を理解することです。

聞くままに また心なき身にしあれば 

            おのれなりけり 軒の玉水  <道元禅師>

私(藤森)が提唱していること、「自己回復」するということは

 「深層心理」に植え込まれた自分の「脚本を改善すること」です。

「般若心経」の極致「無」「空」を悟るのも「脚本」に植え込まれた「思い込み」、これを私は「虚(虚像)」と言っていますが、この「虚(虚像)」を作り上げている「思い込み」を「解放」して「虚(虚像)」を「実像化」することが「無」「空」を悟ることだと定義しています。

禅の公案(こうあん)に「如何是仏(いかなるか、これ、ほとけ)」があります。

 雲門(うんもん)云く「乾シケツ(かんしけつ・・糞かきべら)」・・・落とし紙、今で言うトイレット・ペーパーの無い時代は、篦(へら)で以て用便のあとを拭ったと言われています。使い方が荒ければ肛門が傷みますし、早きに失すれば便が残ります。ちょっと油断すれば指先を汚します。親切にしかも沈着を以て、緩急よろしく、一心をこめて篦になり切る。雑念妄想を一切許さず、一所に懸命、全身全霊を打ち込むところ、これこそ仏心と申せましょう。
・・・万に一つの望みもないような僥倖を外部に求める心の弱さが、案外に、インテリと自認している人達に多くあるのは、全く不思議です。 

       <「白隠禅師 坐禅和讃法話」春見文勝先生著、春秋社>

仏法遥(はるか)に非ず。心中にして則ち近し    <空海>

言って行ぜざれば 信修(しんしゅ)とするに足らず  <空海>

大智は愚なるが若(ごと)し            <空海>

十界(じっかい)の有る所、これ我が心なり       <空海>

 地獄(瞋恚しんい・怒り)餓鬼(貧欲・とんよく)畜生(愚かさ)修羅(争い事が好き)人間(四苦八苦)天上(有頂天の人の不幸を知らぬ)声聞(しょうもん・道理の法に耳を傾ける)縁覚(えんがく・自然の道理を身につける)菩薩(自分をギセイにしても、縁のある人を助ける)如来(仏・この世のものに全く執着がない世界)

よもすがら ほとけの道を たづぬれば

        わが心にぞ たづねいりける    <一休禅師>

白隠禅師「坐禅和讃」

   衆生本来仏なり 水と氷の如くにて

   水を離れて氷りなく 衆生の外に仏なし

   衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ

   譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり

   <略>

上善は水の若(ごと)し。水は善く万物を利して争わず。

  衆人の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に幾(近)し。<老子>

【【最善のあり方は、水のようなもの。水はあらゆる物に恵みを

与えながら、争うことがなく、みな厭だと思う低い所に落ちつく】】

私・藤森の日々の目標(禅語)

<脚下照顧(きゃっか・しょうこ)>・・・「履物をそろえよ」の意から、足もとに注意せよ。真理を外にではなく、自己自身の内に求めよ、の意。

 ですから、私のように「学歴」は低いし、社会的「資格」は無いし、社会的な「業績」がゼロで、経済的にも全く恵まれない人間にとって、唯一、最大の、そして一番取り組みやすい「分野」、最も恵まれた「分野」・・・それが「脚下照顧」です。

 何故ならば、≪≪上≫≫の才能に恵まれていて、社会的立場が恵まれている世の中の全ての人たちは、人間として本来、最も重要かつ大切な≪≪下≫≫≪≪深層心理≫≫の分野・・・「悟り」や「自己回復」や「無」や「空」などを下に求める「能力・才能」のエネルギーをほとんど全く「所有」していません。

 上に使い切った方が、下に才能を伸ばす「余力」や、「方向性」「人間性」を有しているわけがありません。

 しかし、もし、そういう立派なことを論じることができる場合は、「知的理解=知性や理性」、つまり、頭の良さで考えるだけの「学問」で、実体験の無い「ハウツーもの」だけです。

それは「禅宗の宗旨(仏法のおおもと)」で厳しく説いている「不立文字」(ふりゅう・もんじ)ですが、≪≪上≫≫の世界は、「立文字(りゅう・もんじ・学問や知性)」が全てです。

①不立文字(ふりゅう・もんじ・・・真理は文字では表せない)

②教化別伝きょうげ・べつでん・・・経典の文句を離れて、体験によってのみ心から心へと伝えられうるものだ)

③直指人心じきし・にんしん・・・直に自己の心をむずとつかめ、そうすれば)

④見性成仏けんしょう・じょうぶつ・・・自己自身が仏であることが分り、そのまま仏となるのだ)

       <「白隠禅師 坐禅和讃法話」春見文勝先生著、春秋社>

 そして、それは全ての物事に言えることですが、社会的業績が一流の人たちは、≪≪下≫≫≪≪深層心理≫≫さえも、自分の巨大な成功経験に照らし合わせて、「知的理解=知性や理性」を活用して、安易・安直な≪≪上≫≫から目線の「ハウツーもの」の「論理・論法」を構築して、それが絶対なものだと「自負」しています。

 しかし、それは上からの「学問」的な「理屈」や「解釈」を基に、少し下を見ただけの「チャラチャラ」した浅いもので、社会的業績が高いほど下に「実感」するような目が向くわけがありません。むしろ、≪≪下≫≫を犠牲にして≪≪上≫≫を一流にしています。

≪≪例え話をしますと、東京タワーのトップから東京全体を眺めて、「あそこは緑が少ないから公園を作ったほうがよい。あそこは人家が密集しているから、消防車が通れる太い道を作った方が良い。あそこは・・・ここは・・・」と、東京23区を改善するために立派なことを、チャラチャラと言うことは誰でもできることですが、下に降りたら、足元の2~3丁目だけでも「改善」することに一生が必用なほど困難な問題です。≫≫

 私たち人間は全て「未熟」です。世の中の全ての人間は、社会的な分野での活躍が高く評価されていますが、「交流分析」「脚本」は、そういう物事には全く影響されません。

 ですから、私が知る限りでも、一流、超一流の方々、長嶋茂雄氏、夏目漱石、芥川竜之介、太宰治、20年前の事件(東大の英文学の教授・権威と、その教授の息子も教授・権威になりましたが、孫が祖父の権威者を殺害した事件)、日産のカルロス・ゴーン氏、日大のドンの問題(日大の助成金90億円がゼロに)、日本の体操界のスーパーヒーロー内村航平選手の「異常な私生活・モラハラ」と「離婚トラブル」(週刊文春)、卓球の名人・愛ちゃんの離婚トラブル、神田沙也加さん(松田聖子の娘)の自殺、国会議員の不正や逮捕事件、学校の先生達の多くの問題行動・・・切りがありません。

 しかも、「人間性」の全く違う相手(夫婦)と、主として20代の若さでの育児や家庭生活を、毎日「本物の円満」な生活ができたり、穏やかな育児をしたりすることは不可能です。

 必ず、不満があったり、言い争いをしたり、我慢をしたり、子どもに過剰な要求をしたり・・・学問やスポーツや芸術や躾などの種々様々な物事で、口うるさく指導したり、過干渉をしたりしています。

 ○○様は、文字通りの夫婦円満な人生で、そして、素晴らしい「育児」をされた自信がおありでしょうか?

 私・藤森は今、恥ずかしいほど反省だらけの毎日です。そのため、今からでも対応できる可能な限りのことを、私自身の「反省(罪の償い)」のために、「万分の一」のわずかなことですが、子ども達のプラスになることをやらせていただいています。

 そしてこれを「リ・ペアレンティング=再育児療法」と名づけました。これは子ども達のためでなく、私の育児の反省、残されたわずかな「この世の私の人生」のために「対応」させていただいています(拙著のp149~150)

 そういう種々様々な体験の中で、それら≪≪上≫≫の「技能」が卓越した素晴らしい成長をしても、その反面である「本質的な人間性=脚本≪≪下≫≫」が豊かで、心地よく成長している人間は「ゼロ(限りなくゼロ)」だというのが、私の人間の本質を見る「視点=脚本=自己回復(総研)」です。

 ≪≪これが、私・藤森が最も声を大にして申し上げたいこと≫≫です。この場を借りて、本音を「文章化」する機会をいただいたことに、○○様には、心より深く感謝申し上げています。

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 さて、これから極めて重要なことを、失礼を承知の上で、本音で申し上げます。≪≪次回に続きます。≫≫