2019年5月15日第199回「今月の言葉」「皇統についての一考察⑥ー⑥」

(1)今回はどのように表現したら良いのか、(世界史のことは分かりませんが、でも)世界史的に見て、日本の皇室は極めて不思議な存在だと思います。それをどのようにお伝えできるか、ジックリとご覧ください。

「汚れ」「穢(けが)れ」について>(以下「日本史真髄」井沢元彦著、小学館新書)

「汚れ」とは、汚いこと。よごれ。不潔。不浄。(広辞苑、岩波書店)

「穢れ」とは、一般に罪とともに罪穢(ざいえ)という。宗教的な観念で、日常普通のものから区別して、特別なものを神聖視することをタブーtabooというが、その神聖sacreといううちにも、また清浄なものと不浄なものとがある。その不浄がすなわち穢であり、これに接触したりすることが触穢(しょくえ)である。穢はまた罪とも同一視され、それも未開や古代の社会では全く物質的に考えたもので、何か悪霊の仕業による禍または災とし、これを隔離し排除する。しかも穢はつぎつぎと伝染するが、それに一時的なものと永久的なものとある。(「国史大辞典」吉川弘文館より一部抜粋)

 この記述のポイントは二つ。一つは、ケガレとは宗教的な観念である、ということ。もう一つは、罪や災禍、悪霊の仕業と同一視され、触ると伝染するので隔離しなければならないと信じられていた、ということである。

 この二つの点を踏まえると、よごれとケガレの違いが見えてくる。

 ごく簡単に言うと、よごれというのは、客観的にその存在が証明できる不浄のことであり、ケガレとは「観念」という客観的に証明することができない不浄のことである。

 <略>

 衣服のシミは、誰が見ても汚れている場所が特定できる。日本人が見てもイスラム教徒が見てもキリスト教徒が見ても、そこに違いはない。だからこれは「よごれ」である。

 また、目に見えないものであっても、大気汚染や放射能汚染のように機器で測定できるものも「よごれ」である。誰が計測しても同じ結果が出るからだ。

 しかし、宗教的な観念である「ケガレ」は、その人が何を信仰しているかによって存在の有無が違ってくる。

 例えば豚肉。日本人もキリスト教徒も平気で豚肉を食べるが、イスラム教徒は決して口にしない。なぜなら、イスラム教の聖典である『コーラン』に、豚肉は「不浄である」と書かれているからだ。日本人にとって不浄ではない豚肉を、イスラム教徒は不浄と考えるのだから、この場合の「不浄」は、よごれではなくケガレである。

 その証拠に、イスラム教徒は豚肉を調理した器具も不浄なものとして使用しない。どんなにきれいに洗っても、科学的に汚染はまったくないと証明されたとしても、豚肉という不浄なものに接触した器具には、そのケガレが伝染していると考えるからだ。また、日本で生まれ育った日本人が、成人してから熱心なイスラム教徒になれば、その人は当然、豚肉を食べることはもちろん、豚肉を調理した器具を使うこともしない。

 よごれはその存在を客観的に証明できるが、ケガレは証明できない。

 客観的に証明はできないが、特定の信仰を持つ人々にとっては確かに存在している不浄、それがケガレなのである。

<<藤森・・・「交流分析」という心理学でいう「脚本」ととても似ています。私たちは、全員が「脚本」を持っています。この「脚本」とは、親に育てられた6歳までの生育歴の過程で、その人がどのように生きるか、その「生き方」を親に刷り込まれるという考え方です。

 お芝居の「台本」と全く同じ理解でよろしいと思います。お芝居で、いろいろ、波瀾万丈な場面がありますが、結局は、台本に書かれた結末に向かうのと同様に、私たちも、主として両親の育児の仕方を通して、人生をどのように生きるかを「刷り込ま」れます。そして、誠に不思議なことですが、「脚本」に気づいて書き換える(リ・プログラミング)という凄い取り組みをした類まれな一部の人を除いて、私たちは、ほとんど「脚本」に沿って、一生を過ごします。誠に不思議なことではありますが。

 「仏教」、特に「禅宗」は、「脚本」を書き換える作業=修行と言っても差し支えないでしょう。この見えない「脚本」に絶対的に影響されるのと同様に、見えない「ケガレ」に強い影響を受けます。>>

(2)大和朝廷による軍備・警察の撤廃と「武士」の誕生>(以下「日本史真髄」井沢元彦著、小学館新書)

 持統天皇の英断によって、確かに死穢による都の汚染という問題は解決した。しかし、日本人の心に根付いたケガレを忌み嫌う思想は、日本人を、特に身分の高い人々の心を縛り続けた。

 実は、このことが平安時代の荒廃と、それに伴う武士の誕生に深く関わっている。

 <略>

 平安時代は律令制度が用いられていた。律令制度では、行政機関として八省が設けられ、その中には現在の防衛省に相当する兵部省もあれば、警察庁と法務省の機能を併せ持った刑部省もあった。

 つまり、軍も警察も行政機関に存在していたはずなのに、なぜか、地方の反乱鎮圧に押領使・追捕使という「令外官(りょうげのかん)」が新たに任命・派遣されたということだ。

 令外官というのは、令の規定にない官職である。正式な軍隊か警察を派遣すればすむのに、なぜわざわざ令外に官職を新設して派遣したのか。

 教科書には書かれていないが、実は当時の兵部省と刑部省は有名無実で、実際にはまったく機能していなかったのだ。

 もちろん、桓武天皇が平安京を開いた頃は、政府は充分に機能し、兵部省にも刑部省にも多くの人がいた。国家の治安も決して悪いものではなかった。

 平安初期の日本は、まだ国内の政権が完全には統一されておらず、大和朝廷は東北に住む異民族「蝦夷(えみし)」と争っていた。征夷大将軍として有名な坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ・758~811年、在職797~802、804~805)が活躍したのがこの頃である。

 ちなみに坂上田村麻呂は武士ではない。朝廷官吏の一人、つまり軍人で、征夷大将軍も律令制度に規定された役職の一つである。

 大和朝廷は、こうした軍人たちの活躍もあり、八世紀末には異民族をほぼ一掃し、日本全土(北海道と沖縄を除く)の支配を完成させた。ところが、この頃から他国ではあり得ない変化が起こる。

 政権が次々と軍備を廃したのだ。このことは教科書にも記されている。

 一般民衆から徴発する兵士の質が低下したことを受けて、792(延暦11)年には東北や九州などの地域を除いて軍団と兵士とを廃止し、かわりに郡司の子弟や有力農民の志願による少数精鋭の健児(こんでい)を採用した。しかしこれらの改革は、十分な成果を上げるところまではいかなかった。(『詳説日本史B』山川出版社)

 この記述もおかしい。兵士の質が低下したのならば、訓練して軍事力の強化に努めるのが普通だ。政権が軍を廃止して民間に委託するなど、世界中どこを見ても先例のない暴挙としか言えない。

 しかし、これ以降も軍備撤廃が続き、平安中期には政府機関に兵部省・刑部省は存在しているにもかかわらず、実際にそこに配属されている兵は一人もいないという異常な状態になってしまう。

 だから、地方で反乱が起きても、鎮圧のための軍を差し向けることができず、仕方なく令外官を設けて派遣したのである。

 問題の異常さは、政府が兵部省だけでなく、現在の警察庁・法務省に相当する刑部省も同時に有名無実にしてしまったということにも見られる。

 軍隊は、戦争がなければなんとかなるが、警察がなくなったら国の治安が維持できない。実はこのことこそが、地方で紛争が多発し、武装農民である「武士」が誕生した本当の理由なのである。

 では、なぜ大和朝廷は軍備を撤廃し、治安維持に必要不可欠な警察機構までなくしてしまったのか。

 軍隊と警察、これらに共通するものを考えれば答えはすぐに分かる。

 そう、「ケガレ」を嫌ったからなのだ。軍隊は敵を殺すわけだから、死穢に触れることは避けられない。警察は犯罪者を取り締まるのだから、罪穢に触れることになる。ともにケガレを避けることができない職業なのだ。

 もともと日本人はケガレを忌避する思想を持っていたのだが、政権が安定するまでは外敵から国を守るために、死穢に触れることになったとしても戦わざるを得なかった。ごく簡単に言えば、「嫌だが仕方なく」兵部省や刑部省の任に就いていたのだ。

 それが国内が統一され、外敵がいなくなったことによって、「もう敵がいなくなったのだから、これ以上ケガレに触れるようなことはしたくない」として、軍備はおろか警察権まで手放してしまったのである。

 <略>

 こうして起きたのが、1156年(保元元)年の保元の乱だった。

 崇徳(すとく)上皇の配下には、源為義、平忠正らがつき、後白河天皇の配下には、源義朝、平清盛らがつき、武士同士が戦い雌雄を決する。まるで闘犬のような扱いである。実際、天皇も貴族も、武士の武力や資金力を必要としながら、彼らのことをケガレた存在として蔑んでいた。

 この戦いに後白河天皇方が勝ったことで、武士は表舞台で勢力を持つようになり、軍閥として勢力を拡大していった。その二大派閥が、ともに後白河天皇に与した源義朝(1123~1160年)率いる源氏と、平清盛(1118~1181年)率いる平氏である。両氏はやがて武士の棟梁の座を争って対決平治の乱・1159<平治元>年)した後、勝利した平清盛によって初めての武士政権が誕生することになるのだった。

 平氏の政権ができた時、天皇や貴族はどう思ったことだろう。

 まさに、飼い犬に手を噛まれた気がしたのではないだろうか。ケガレた武士たちが自分たちに取って代わり政権の座に就くなど、許しがたいことだったに違いない。

 そこで、彼らはこんな事態になったのは、怨霊となった「崇徳上皇」の祟りだというストーリーを作り上げた。

(3)<「憲法十七条」が説く「話し合い絶対主義」(以下「日本史真髄」井沢元彦著、小学館新書)

 第一条・・・おたがいの心が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならぬ。ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局を見通している者は少ない。だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる。しかしながら、人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何ごとも成しとげられないことはない。(『日本の名著②聖徳太子』中村元責任編集、中央公論社)

 この訳文を読むと、第一条は三つのまとまりに分かれていることが分かる。

 最初のまとまりは、「おたがいの心が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならぬ」まで。

 ようするに、お互いの心が和らいで協力し合うことが一番貴いことだ、という理想を述べている部分である。

 そして次の一文「ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局を見通している者は少ない。だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる」では、現実的な問題を提議する。

 理想はそうだが、現実問題として、人間というものはさまざまなグループを作る心理があり、そのグループ同士が争ってしまうことが常だ、というのだ。

 そこで最後の一文では解決策が述べられている。

 「しかしながら、人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何ごとも成しとげられないことはない」

 そんな世の中ではあるが、人々が上も下もなく協力して話し合いができれば、自ずと正しいところに導かれ、どんなことも成し遂げられるはずだ、というのだから、要は「話し合うこと」が解決策だということになる。

 原文で「和」と一字で書かれているものを、中村氏は「お互いの心が和らいで協力すること」と訳している。これを現代的に簡潔に表すなら、「協調」という言葉が最も近いのではないかと私は思う。

(4)<聖徳太子は仏教ではなく「話し合い教」の信者だった>(以下「日本史真髄」井沢元彦著、小学館新書)

 <略>

 古代世界における為政者の権力は絶大で、その命令は絶対である。極端なことを言えば、気にくわないやつは殺してしまえばいいので、為政者は部下と話し合う必要などない。

 聖徳太子も第三条では「天皇の命に従え」ということを述べているが、どんな憲法でも第三条より第一条の方が優先されるのがセオリーである。このことから、太子が、天皇の詔(みことのり)に従うよりも、上下の身分に関係なく互いに話し合う方が大切だと考えていたのは間違いない。これは、当時としては驚くべきことと言える。

 <略>にもかかわらず、聖徳太子はみんなで話し合って決めれば必ず正しい、と言うのだから、これは論理的におかしいと言わざるを得ない。

 これだけでも充分に変なのだが、聖徳太子はさらにおかしなことを言っている。それが「何ごとも成しとげられないことはない」という一文である。

 <略>言うまでもないが、そんなことはあり得ない。

 理屈であり得ないこと、論理的に説明できないことを信じている以上、これはもはや「宗教」あるいは「信仰」と呼ぶしかない。つまり、聖徳太子は話し合いという行為に絶対の信を置く、「話し合い教」の信者だったということだ。

 <略>こうして条文を比べてみれば、太子が天皇の詔を遵守することよりも、仏教を敬うことよりも、「和」に基づいた話し合いを絶対視していたことが分かる。

(5)<「話し合い絶対主義」は日本独自の宗教(以下「日本史真髄」井沢元彦著、小学館新書)

 第十七条・・・重大なことがらはひとりで決定してはならない。かならず多くの人びととともに論議すべきである。ちいさなことがらは大したことはないからかならずしも多くの人びとに相談する要はない。ただ重大なことがらを論議するにあたっては、あるいはもしか過失がありはしないかという疑いがある。だから多くの人びととともに論じ是非を弁(わきま)えてゆくならば、そのことがらが道理にかなうようになるのである。(『日本の名著 聖徳太子』中村元責任編集、中央公論社)

<略>たった十七条しかない中で、最初の第一条と最後の第十七条でまったく同じ趣旨のことを述べている以上、これこそが「憲法十七条」で最も重要な内容と言って間違いない。

 つまり、「(=協調性)」のもとで話し合いを行なうということだ。

 「和」。これは儒教にも仏教にもキリスト教にもイスラム教にもない、日本独自の思想である。

 なぜ「ない」と言い切れるのかというと、これらの宗教には共通するものがあり、それが話し合いで重要なことを決定することを認めないからだ。

 いわゆる「神」という人間を超越した存在である。仏教・儒教では「神」という言い方はしないが、それに等しい存在として「仏」「天」がある。

 それらには、超えることのできない人間との格差が存在している。そのため、人間はそれらに絶対的に従うべきだと考える。たとえそれらの意思が分からなくても、そこに意思も異論も差し挟んではいけないというのが彼らの考え方である。

 これと同じように、神ならぬ普通の「人」がみんなで仲良く話し合えば結果はすべて正しく、成し遂げられないことはないという聖徳太子の主張も、よくよく考えると非論理的で理不尽な主張である。 

 だからこれは「宗教」なのだ。

 しかも、日本独自の「宗教」と言っていい。

(6)<「国譲り神話」に見る「和」と話し合いのルー(以下「日本史真髄」井沢元彦著、小学館新書)

 <略>いくら為政者が、憲法で「協調性を重んじ、何事も話し合いで決めろ」と言ったとしても、日本人の感性に合わないことであれば、人々の中に浸透していかないはずだからだ。

 私はむしろ、聖徳太子の時代の日本社会が既に、「和」を保つこと、あるいは話し合いで物事を決めることが、すべてを上手くいかせる方法だと信じていたのではないかと思う。

 聖徳太子は、これこそが日本人の特徴だと気づいたからこそ、「憲法十七条」に盛り込んだのではないだろうか。

 では、なぜ聖徳太子は気がついたのか。

 おそらくそれは、彼が非常に優れた国際感覚を持った人物だったからだろう。

<略>もし「和」と話し合いが、聖徳太子の飛鳥時代に既に日本人の常識となっていたとしたら、そのルーツはもっと前にあるはずだ。

 そう考えて文献を読み直した私は、神話の中にその答えを見出した。 

 それは「国譲り神話」と呼ばれるものである。

<略>オオクニヌシから国を譲られたアマテラスは、この後に、「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の詔勅(神勅)」と呼ばれるものを出している。

<略>その意味は次のようになる。

 豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国(日本のこと)は、これからわが子孫が王として君臨すべき国である。だから私の孫であるニニギよ、お前はこの国に行って治めなさい。

 次の「さきくませ」は、英語でいうと「Be happy」、つまり、幸せであれということである。

 重要なのはその後だ。

 アマツヒツギ(漢字が出ません:天皇の子孫)がこの国で栄えることは、まさに天地が永遠に続くように続くことであるぞ、というのだからすごい自信である。

 なぜここまで自信たっぷりに言えるのかというと、話し合いで決めたからに他ならない。もちろん、私はこの神話がそのまま真実だとは思っていない。

 オオクニヌシとされる先住民族と、天孫とされる侵攻してきた民族との間に、実際には戦争があったのだろう。

 実際、オオクニヌシがいたとされる出雲(現在の島根県)の荒神谷(こうじんだに)遺跡からは、三百本以上もの銅剣が出土している。

 本当は戦争で国を奪ったのに、神話をまとめる際に天孫族の末裔である大和朝廷は、この国は話し合いで譲ってもらったのだと、美化、正当化したのだと考えられる。

 話し合いにより譲ってもらったとすれば、自分たちの統治が正当化できると考えたということだ。つまり、この神話がまとめられた時点で既に、話し合いで決めたことは必ず正しいし上手くいくということを、人々が信じていたのである。

(7)さて、何故、私(藤森)が、このようなことを長々とご紹介したのだと思われますか?

 私は、世界史は全く分からない人間です。日本史もよく分かりませんが、さらに世界史となると、サッパリ分かりません。

 世界史は分かりませんが、基本的な人間性というのは、世界中どこでも、ほぼ似ているものではないでしょうか。

 ここでいう「人間性」とは、国を征服すれば、そこを「統治」するために、「権力」を振るうはずです。「権力」を振るうためには「腕力」が必要になるはずです。そして「腕力」とは、当然のことですが「武力」です。ところが、恐らく世界史では絶対あり得ないであろうことが日本史ではあったのです。

<<<律令制度では、行政機関として八省が設けられ、その中には現在の防衛省に相当する兵部省もあれば、警察庁と法務省の機能を併せ持った刑部省もあった。>>>

<<<なぜ大和朝廷は軍備を撤廃し、治安維持に必要不可欠な警察機構までなくしてしまったのか。>>>

<<<「ケガレ」を嫌ったからなのだ。軍隊は敵を殺すわけだから、死穢に触れることは避けられない。警察は犯罪者を取り締まるのだから、罪穢に触れることになる。ともにケガレを避けることができない職業なのだ。>>>

 このような流れを辿って、世界史では、絶対にあり得ないであろうことが日本では起こったのです。

 あり得ないこととは、最高権力者が<<<軍備を撤廃し、治安維持に必要不可欠な警察機構までなくしてしまった>>>のです。

 人間は、言うまでもなく「未熟な存在」です。そのため、どうしても「理想」を説く「宗教」が必要です。私たち多くの日本人は、意識的には「仏教」や「神道」「儒教」「キリスト教」等々を信じていると思っていますが、それらの根底に深く浸透しているのは、聖徳太子の「話し合い教」ではないかと思われます。

 では何故、「話し合い教」が信じられたのであろうか?それは「ケガレ」を恐れたために、ケガレを回避するために、つまり、ケガレが発生する争いを避けるために、「話し合い教」という「宗教」が創作されたのであろうと思われます。

 そのために、為政者が武力を放棄してしまいました。そのため必然的に「武士」が起こり、腕力のある「武家政権」ができるのは当然のことです。

 しかし、その結果として、「権威」と「権力」が分かれた!!!!つまり、日本では「権威=天皇」と「権力=政府」に分かれています。こういう国が世界にあるのでしょうか?

 そのために私たちは、平成の天皇陛下、皇后陛下の「人間としての理想的なお姿」をお見せいただけたことは、お互いに未熟な存在である「人間」として、これほど有り難いことはないのではないでしょうか。

 もちろん、いろいろな「考え」があって当然です。いろいろな「思想」があって当然です。そして、いろいろな「価値観」があって当然です。

 しかし、ここで大事なことは、私たちの(多分)一般的な「癖」である「理想(的)」(完全)を「目指し」てしまうことに注意することです。

 特に、自分ではなく相手・・・政府とか国会議員、知事等々や、あるいは「我が子」に「理想(完全)」を求めると「不満」だらけになりますが、欠点だらけの人間としての「あるべき姿」を「理想(的)」とする「人間性」を育てる「訓練」が重要に思われます。

 世界の戦争は、宗教戦争がほとんどではありませんか?理想的な「神」がいながら、何故?なぜ?ナゼ?と思いませんか。そういう中で、少なくとも、平成の天皇、皇后両陛下は、私たちに、人間としての「理想的」なお姿をお示しくださった有り難さに、私(藤森)は心より感謝申し上げていますが、皆様はいかが思われますか?

<<<藤森・・・「天皇制」という言葉は使わないのですね。夕刊フジ(5月16日)「天下の暴論」で花田紀凱氏が次のように書いています。必要最低限を紹介します。

 <略>「すごく大事なことを「象徴の務め」にまかせて、考えるのを怠ってこなかったか。天皇制という、民主主義とはやや異質な仕組みを介して」・・・(と、朝日新聞の「天声人語」を紹介して)つづめて言えば「世襲に由来する」天皇制をやめろ、と言っているのだ。驚く一文ではないか。
日本共産党ですら最近は、天皇制(この共産党用語を使いたくないが便宜上使う)をあからさまには否定していない。 <略>

 と、花田氏は朝日新聞を批判しています。私(藤森)は、「天皇制」という言葉が「共産党用語」とは知らずに使っていました。>>>