2019年4月15日第198回「今月の言葉」「皇統についての一考察⑥ー⑤」

(1)「歴史から新元号の今を見る 日本史縦横無尽(6)」(保阪正康、日刊ゲンダイ、4月9日)

 <戦前の軍事指導者は昭和天皇と憲法を軽視して暴走した>  

 平成の天皇は在位30年の折のお言葉でも、「平成という時代には戦争がなっかった」ことに触れ、声を震わせられた。このお言葉はご自身の在位期間に戦争がなかった事実にのみ触れられているように受け止められたが、実際はもっと歴史的な広がりを持っているように思われる。私の判断では、先帝の昭和天皇だけではなく、明治、大正の両天皇にも報告しているように感じられた。 いずれの天皇も自らの時代の戦争には消極的であった。時には戦いは避けたいと発言し続けている。にもかかわらず戦争は起こった。平成の天皇はそのことを無念に思いながら、このお言葉を国民に伝えたように、私には思われる。

 <略>

 初めに昭和天皇と太平洋戦争について触れるならば、昭和天皇はこの戦争に強いためらいを持っていた。対米英戦争に突入することへのためらいは、もともと天皇やその周辺、そして宮中官僚たちがアメリカ、イギリスに近親的な感情を持っていたためだ。

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 日米交渉の期間、天皇は外交交渉での解決に期待している。それがことごとく挫折していくのは軍事指導者たちの恫喝まがいの主張のためだった。この間のやりとり自体、日本の軍事は実は、天皇を実に軽視していたことがわかってくる。大日本帝国憲法より、軍内法規が日本を支配している構図が浮かび上がってくるのだ。

(2)「歴史から新元号の今を見る 日本史縦横無尽(7)」(保阪正康、日刊ゲンダイ、4月10日)

 <「戦争しないと国が滅びる」と天皇に詰め寄った軍人たち>  

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 天皇(制)について、客観的に分析していくと、近現代の天皇には目的が明確である。その目的は、皇統を守るという一事である。この目的のために手段がある。大きくいうと、それには3点がある。

 第1は、祈りと儀式である。これは民の安寧を願っての祈り、さらには皇祖の霊を労わるさまざまな儀式がそうである。

 第2が御製(和歌)を詠むなどの文化、伝統を守るといった役割である。

 第3は、皇位の継承者を残すことにより、代替わりを円滑に進めることが、期待されている。このほかにそれぞれの時代に課せられた政治との関わりも手段といっていいだろう。

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 軍事の側は次第に対米英戦に傾き開戦を主張する。しかし近衛文麿首相や外務省などは、外交交渉を説く。天皇はこちらの側に立って、主戦派と確かに距離を置いている。

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 私には軍事の側がむろん礼を尽くしているとはいえ、わかりやすく言うなら「ここで戦争を選ばなければ、この国は滅びますよ」とか「戦争を選択すべきです」と詰め寄っていることがわかる。皇統を守る手段に、戦争をと強硬に主張していた。

 天皇はとまどい、「本当に戦争しかないのか」としきりに確認している。議事録の行間からは、そのようなやりとりがうかがえる。そう読み抜くことで、私たちは昭和史に全く新しい視点があることに気がつく。

 そうした視点の一つが、昭和天皇を好戦主義者とか和平主義者と見るのは誤りで、皇統を守るのが主眼点であり、その目的に忠実だった。国体護持は開戦時からの柱だと軍事指導者たちは主張していたことになる。

(3)「歴史から新元号の今を見る 日本史縦横無尽(8)」(保阪正康、日刊ゲンダイ、4月11日) 

 <天皇のためなら何をやってもいいと「大善」を妄信>  

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 昭和10年代の軍事指導者は2つの考えに拘束されていた。

 その1つは、国を一等国に仕立て上げ、そのことにより自らをこの国の功労者として名を残そうというのであった。

 もう1つは、戦争を政治の延長ではなく、事実上、事業と同様に見ていたことであった。戦争のプロフェッショナルという歪んだ自負を持っていた。軍事が国家の中でどのような位置づけがされるべきか、そんなことは考えもしない戦争屋という言い方もできた。それがこの国の不幸だったのである。

 付け加えておけば、第2次世界大戦でこんな考えの軍人が主導権を握った国はない。

 軍事指導者たちの2つの考えは、天皇の軍隊であるにもかかわらず、天皇に従うというのではなく、天皇の意思よりも自分たちが軍事的実績を上げて、天皇を名君主に育てようとの屈折した心理を土台にしていた。

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 青年将校による国家改造運動も盛んである。昭和天皇の意思や考え方など全く無視している。昭和40年代から50年代にかけて、当時の軍人たちに話を聞いていて、彼らが思い違いをしていたことがわかった。当時、軍内では大善と小善という語が囁かれていたそうだ。

 大善というのは、天皇陛下のお心持ちの一歩前に出て、天皇のために軍事的既成事実を作り上げることだった。

 小善というのは、軍人勅諭に定められたことのみを果たす軍人である。即位した時は26歳の昭和天皇を名君主に育て上げるという考えは、つまりは自分たちが、天皇のためになると思うなら何をやっても許されるというのが、軍事指導者への道筋だったのである。

 そのことがわかると、太平洋戦争に入っていく軍事指導者の独りよがりの心理状態が鮮明になってくる。

<ほさか・まさやす氏・・・1939年、北海道生まれ。同志社大卒。編集者を経て「死なう団事件」でデビュー。「昭和天皇」など著書多数。2004年、一連の昭和史研究で菊池寛賞>

(4)「白隠禅師 坐禅和讃法話」(春見文勝著、春秋社、1991年刊)

  <略>

 臨済禅師は・・・・・

 即ち、万人、悟れば無心の心境で、その時は、釈迦の見る目は私の見る目、釈迦が嗅ぐ香は私が嗅ぐ香、釈迦の真知は私の真知、総てが永遠普遍であります。

 智慧と言えば、どうしても知的な響きがしますが、自己と他己とが一体であるということは、同時に慈悲の面が忘れられてはならないことを意味しています。『仏教語大辞典』(中村元著)によりますと、「は、さとりを導くもの、さとりにおいて現れるもの。は、世の中に向かって発現するもの、差別(しゃべつ)・相対の世界においてはたらくものである」と説明がしてあります。

 昭和天皇が窮屈なモーニングをお召しになって起立され、その右側に開襟シャツを着て、尊大にパイプをくわえたマッカーサー元帥が並び立つ新聞写真を今でもはっきりと思い出します。日本が連合軍に無条件降伏をした年の9月27日、元帥の執務室で撮られたものです。天皇が会見を申し込まれ、お見えになるなら会おうということで実現した会見だからです。天皇は会談にあたって、

 「今度の戦争の責任は、陸海軍大元帥であった私のみにあって、軍人、政治家、財界人、国民にその責任はありません。思いのままに処分してください。ただ一つお願いしたいことは、現在食糧不足で困窮している六千万人の日本国民が、飢え死にしないように、どうか米国から食糧を送っていただきたい。この風呂敷包みの中に私の個人財産の目録があります。これを今あなたにお預けするので、ご自由にお使いください。今日はこのお願いのみでお伺いしました」

 と、静かに淡々と語られたということです。

 このお言葉を聞いて、マッカーサー元帥の横柄な態度は一変し、言葉も急に丁寧になり、天皇ご到着の際は出迎えもしなかったのに、お帰りの時は、謹厳な態度で玄関までお見送りし、抱きかかえるようにして車にお乗せしたと言われます。そして、側近の者たちに、しみじみと語って云く、

 「ああ、何という立派な態度だ。東西古今、敗者と勝者の長が会見する時は、必ず敗者の長はその助命と、財産隠匿の為の嘆願をするのが常だ。戦争責任を自分一人でかぶり、生命(いのち)を投げ出し、更に全財産をもって六千万の国民の飢えを救わんとされた天皇は、有史以来初めての敗者の長だろう。日本に天皇制を無くしてはならない」

 と。それ以来、厚く天皇を擁護したと、故吉田元首相はじめ他の人たちは語っています。

 ここまでに至ると、もうこれは英知とか良識とかでは片づきません。人の為に己れを全くかえりみない「仏の慈悲」、「生まれながらの智慧」であって、正に真慧、仏智であります。

 智慧は、一即一切(いちそく・いっさい)、一切即一(いっさい・そく・いち)のところから生じます。まず、深い禅定によって、小我(しょうが)を捨て切ることです。
 「生也全機現(しょうや・ぜんきげん)、死也全機現」(『圜悟録』、十七)
生は仏性(ぶっしょう)の全機の現れ、死もまた同じです。だから、禅では、
「大死(だいし)一番、絶後再び甦(よみがえ)る」ということをやかましく言います。

<春見文勝先生・・・1905年岐阜県生まれ。法政大学卒業。円福寺僧堂掛搭。泥龍窟井沢寛州老師に嗣法。海清寺僧堂師家を経て、1990年4月より、臨済宗妙心寺派管長兼全日本仏教会会長。海清寺及び妙心寺塔頭東海庵住職兼務>

 

(5)もう1回延長して、日本の皇統の特異・・・素晴らしい点をご紹介したいと思います。