2019年10月15日第204回「今月の言葉」「ウィーケスト・リンクとは何か?⑤(歴代の横綱について②ー②)」(weakest link)

(1)今回は、若乃花大鵬を取り上げます。

 45代の初代・若乃花は82歳で、ご存命の方々を除いて、一番の長生きです。48代の大鵬は73歳で、全体の中では長寿の部類に入ります。

 この2人に共通していることは、私の知る限り、相撲界に入る前に、共に、とても苦労していることです。 

 若乃花のことは詳しいことは分かりませんが、相撲界に入る前に、私の記憶では、物凄く重いものを運ぶ「人夫(にんぷ)(力仕事に従事する労働者。人足・・・広辞苑)さんをやっていた写真の記憶があります。

 また、大鵬は・・・
<<北海道に引き揚げてくる時だって、船4隻のうち3隻が艦砲射撃で撃沈されてるんだよ。そういうこと経てきた人間だから。>>

 「今月の映画」第189回「北の桜守り」のような体験をしていらっしゃいます。この映画のパンフレットには、大鵬の奥様と主演の吉永小百合さんの対談が載っています。

 つまり、私(藤森)が言いたいことは、相撲界に入ることで、猛烈過激な訓練が行われたと(深層心理が)感じた相撲取りは、若死にする傾向にあるように思えます。

 逆に、その前に、力士よりも猛烈な人生体験をしている力士は、比較的に長生きしているように感じます。

 私が知っているのはこの2人だけですので、果たしてどうなのか、真実は分かりませんが、私が知る2人の力士に限り、この推測は正しいように思えますがいかがでしょうか。

 大鵬の物凄い人生体験があることは、16年前の下記の週刊誌の報道をご紹介しますので、驚くべき体験をじっくりご覧ください。

(2)<「家」の履歴書・大鵬幸喜>(週刊文春、2003年5月1日~8日)

 <道内を転々、裸一貫で生きてきた私は“巨人・卵焼き”と同列ではない>

 お袋は北海道の神恵内(かもえない)で生まれたんですが、若い頃に自立を求めて樺太(現ロシア領サハリン)に渡り、敷香(しすか・ポロナイスク)の洋裁店で住み込みで修業をしてたんです。そこで私の親父であるロシア人と出逢って一緒になり、その後は上敷香でかなり大きな牧場を経営したそうです。

 <幸喜少年に父の思い出はない。昭和18年、少年が3歳の時、父はスパイ容疑で収容所に送られたからだ。>

 親父はウクライナの出身で、ロシアの10月革命(1917年)の時、亡命してきたそうです。後から調べたところによると、親父がスパイ容疑をかけられた時、ほんとは私達家族も収容所に送られるところを、親父が「私は独りだ。結婚していない」と言ったため助かったそうなんです。

 私は樺太には4歳までしかいなかったから何も覚えていない。2~3歳の時、家の前の川に落ちて流されかけたことをボンヤリ覚えてる程度で。

 <昭和20年8月、敗戦。5歳の幸喜少年は、12歳の兄、8歳の姉と共に母に連れられ最後の引き揚げ列車で敷香から大泊(おおどまり、現コルサコフ)、そこから船で北海道を目指した。>

 敷香から大泊に行く時ロシアの艦砲射撃で何度も線路を壊され、そのたんびに列車が後ろに下がって線路を直しながら進みました。無蓋車だから夜中に砲撃がピカーッと光り、その後ドーンという音。それは子供心にも覚えてます。

 そして船は小樽まで行く予定だったんだけど、お袋が途中の稚内で下りてそこから陸路を取ったので助かった。小樽に向かった船は留萌沖でロシアの魚雷に撃沈されたんです。お袋がなぜ途中から陸路にしたのかわからないけど、そのお陰で今生きてるわけだから、人間の運命って不思議ですよ。

 そして列車で岩内(いわない)、さらに山越えで20キロ歩いて神恵内。何もかも没収されてるから裸一貫で、お袋はミシンの頭だけ背負ってきたんだねぇ。やっと神恵内に着いたけども、お袋は外国人と一緒になったちゅうことで、やっぱり居づらかったんでしょう。隣町の岩内で物置小屋を借りて、どうにか4人が落ちつくわけです。そしてお袋は商家や漁師の手伝いをして、兄貴は農家の住み込み奉公にいくんです。

 <私が13の時、兄が借金して買った川湯の家が初めての“家”>

 <幸喜少年が岩内小学校に入学してまもなく母は小学校教師と再婚。その後は義父の転勤で家が転々とする。>

 2年の時は北見の在の訓子府(くんねっぷ)、3年生が知床の岩尾別、4年生が夕張の若菜、5年生が川湯、とにかく僻地ばっかり転勤するんだから。そして住んだ所は全部学校の宿直室。お袋は毎日明け方近くまでミシン洋裁をやってるから、私はお袋が寝るのと入れ違いに起きて凍てつく井戸水を汲んでみそ汁作ったり、薪割りもした。

 まもなく姉も住み込みで働きに出たから、私が手伝えることは何でもしました。学校の机を直したりモッコで土を運んで校庭を作ったり、休みの日は学校の裏の畑を耕したり。子供心に、友達は遊んでるのに自分だけ何でちゅうのはあったけど、それが宿命だからね。でも机や椅子を直すのは楽しかったよ。

 お袋の教えが「よそさんで物を食べるもんじゃない。食べたかったら家に帰ってこい」。お袋が煮てくれたカボチャやジャガイモがおやつだった。だから今の時代の親は何やってるのかなと。子供は親の背中を見て育つから、まず親が一所懸命やらなきゃ。

 夕張にいた時兄貴が帰ってきたけど、夏はサケ漁、冬は石炭運びをやってたから、家には殆どいませんでした。

 <川湯中学に入学した後、母親が離婚。兄は漁場の親方から10万円借りて家を買った。>

 これが初めての家だね。部屋は板の間と6畳と8畳。風呂は、温泉場だから、貰い湯をしたり町営の浴場に行った。古い家だったので兄貴と2人で廂(ひさし)を出したり玄関を作りました。ここが私の実家で、今でもありますよ。昭和35年、その表に兄と私で母親のために新築家を建てました。 

 この頃はいろんなスポーツをやった。卓球でも野球でも砲丸投げでも。生徒が少ないから何でもやんなきゃいけないんだよ(笑)。敷香にいた時は小児喘息だったそうだけど、小学校に入ってからは丈夫になって中学では背も170なんぼあったねぇ。その代わり痩せていたけどね。

 <中学では春夏の休みに土木工事のアルバイト。卒業後は夜間高校に通いながら営林署で働いた。仲間と相撲を取ると「痩せてるのに強いな」と皆を驚かせた。
 そして昭和31年、7月のある日・・・。>

 その日は飯場に入るので、私は迎えのトラックに自分の自転車を積もうとしてた。するとトラックに眼鏡をかけたお相撲さんが乗っていて、営林署の親方が「納谷(なや)、今日は行かんでいいから自転車を下ろせ。このお相撲さんが話があるそうだ」と。それが二所ノ関部屋の宮ノ花さんだったんです。何だろうと思ったけど私はそのまま友達の所へ行って、お袋と伯父さんが宮ノ花さんと話をしたんですね。すると翌日、伯父さんが「訓子府に二所一門が巡業に来てるから相撲見にいこう」と。

 その前の年、お相撲さんは見てるんです。友達と町に行った時、土産物屋の前にタクシーが止まって2人のお相撲さんが出てきた。そして土産物屋にいる子熊を見てたんです。土産物屋では熊の置物を彫るから子熊を飼ってるんですね。近所のおばさんに「あれ、何ていうお相撲さん?」って聞いたら「千代の山」と。それで友達と「来年相撲が来たら見にいこう」ちゅう話をした。そしたら翌年になって、相撲見に行くんじゃなしに相撲取りになったわけだよ(笑)。

 宮ノ花さんと伯父さんと一緒に汽車で訓子府の二所一門の巡業先に行ったら、二所ノ関親方が「おう、あんちゃん、来たか。上着脱げ」と。脱いだら、「うん。まあいいだろう」ちゅうて。それで「稽古見てこい」と。身にいったら関取衆が汗と泥にまみれ髪乱してやってるわけだ。「ウワー、凄いな」と思いましたよ。そして親方がご飯食べさせてくれて、しばらくしたら伯父さんが「お前、ここに残れ」って千円くれたんです。それで風呂敷と下駄を買ったかな。

 <16歳と2カ月、身長183センチ、体重70キロ。これが後の名横綱・大鵬の旅立ちである。>

 後で聞いたら、一人で帰ってきた伯父さんにお袋が「あれ?幸喜は?」と。伯父さんが「置いてきた」と言うと、お袋が「猫の子じゃあるまいし、置いてきたはないだろう」ちゅうて喧嘩になったそうです。うちの師匠が「相撲取りにするから置いていってくれ」って随分伯父に頼んだみたいで、私は知らなかったけど、お袋の所には前から他にもそんな誘いがあったそうです。

 私自身は「まぁ何とかなるべさ」だ、その当時は。ただ心の中では、そういう宿命というか、相撲取りになってもいいやちゅうのがあったかもしれない。訓子府まで巡業を見に行くわけだから、予感はしてましたね、やっぱり。

 お袋に別れの挨拶?そんな未練がましいこと思わないよ。相撲の世界に入ったって辛いと思ったことはない。だって私は相撲社会に入る前にもっともっと厳しい生活してきたんだから。北海道に引き揚げてくる時だって、船4隻のうち3隻が艦砲射撃で撃沈されてるんだよ。そういうこと経てきた人間だから。

 <母の死後、妻に「お姑(かあ)さんから預かってる」と初めて父の写真を>

 <二所一門の巡業は徐々に南下し上野に着いたのは8月半ばの早朝。そして両国の二所ノ関部屋で修業生活が始まった。>

 初めは大広間に大勢で寝て、段階によって3人部屋、個室と上がっていくんです。私なんか最初は稽古場に板の台を敷いて寝てましたよ。朝稽古やるから、みんなより1時間以上早く起きて台を上げなきゃいけない。意地悪な先輩もいたけど、親切にしてくれた兄弟子もたくさんいましたよ。

 <入門1年で三段目に昇進、羽織と雪駄が許された。>

 羽織はいいけど、雪駄は三段目でもおおっぴらに履いて歩くちゅうのはちょっとできなかったね。だから新聞紙に包んで持っていって近くの公園で履き替えて、帰りはまた履き替える。早く上がってるから、そのぐらい謙虚な気持ちがなきゃいけないんだよね。

 <昭和33年大阪場所、三段目で全勝優勝、賞金1万円を母に送る。翌年新十両となり、親方が漢籍から取り「大鵬」の四股名に。
 昭和35年初場所、新入幕。柏戸に敗れて連勝は11で止まるが12勝3敗で敢闘賞。1日に四股500回、鉄砲2000回の猛稽古を続けた。3月には映画「次郎物語」に出演。>

 最初はサボったこともあります。四股500回、鉄砲2000回、親方に「やったか?」って聞かれたら、やってなくても「やりました」って言う。だけど自分の心に嘘はつけないから自然と身体がやるようになるんです。そして地位が上がれば上がるほど稽古の量を増やしましたよ。

 でも映画に出た頃は人気が先行して、それに追いつくのが精一杯という感じだったね。

 <昭和35年11月、東関脇、13勝2敗で初優勝。そして翌年9月、先輩の柏戸と同時に第48代横綱に昇進。世に言う“柏鵬時代”の幕開けである。>

 相撲の社会というのは因果な社会ですよ。序ノ口に付いて、序二段、三段、幕下、十両、前頭、小結、関脇、大関、横綱と十段ある。その狭き門を競り上がっていって、大関、横綱になるためにはご飯も喉を通らない、眠れない日を過ごすんですよ。協会から使者が来て、「審判部理事会満場一致であなたは横綱に推挙されました」と言われ、「謹んで有り難くお受け致します。横綱の名に恥じぬよう・・・」って口上を述べる時、何を考えるかというと、「ヤッター」でも「嬉しい」でもない。やめることを考えたんだ。横綱の責任を果たせなきゃやめるしかない。いつやめても悔いのないよう努力して終わりますという決意で口上を述べるんだ。それだけ責任がグーッと肩にかかってくるんですよ。横綱になれば協会の代表、国技の代表になるわけだから。

 <横綱になった時は体重が135キロ。「大鵬は一晩寝るごとに強くなる」といわれたほど強く、勝ち続け、昭和41年から42年にかけて史上初の6連勝。あの“巨人・大鵬・玉子焼き”の言葉が生まれた。

 巨人は既に出来上がった選手をお金で集めるんだから強いのは当然です。でも私は裸一貫の生身一つでやってきた。一緒にはならない。玉子焼きだって当時は滅多に食べられない御馳走だった。ただ、日本人が好きなものの代表としてそういう言葉ができたことは大変光栄だと思ってます。

 <芳子夫人と結婚したのは昭和42年5月。25回目の優勝と誕生日の翌日だった。港区麻布のマンションで仮住まいをしている間に、現在の江東区清澄に家を新築。1階は広い応接間、6畳2つと4畳半、水屋、予備室。2階に寝室、8畳と6畳の客間、8畳の居間、お手伝いさんの部屋、台所、風呂、納戸。横綱にふさわしい邸宅だった。

 お袋は安心なんかしません。親は自分の子供に対しては一生心配で心配で、ましてや相撲取ってれば毎日仏様に拝んでますよ。横綱になったからって私は親にいい恰好はさせないし、兄貴だって「大鵬のお兄さん」と言われて自由なことできないんだから、逆にくるしめてるかもしれない。親はいつも頭下げっ放しですよ。一歩も二歩も遜(へりくだ)って「お蔭様で」と言う。これ、親に大変苦労をかけてるわけ。

 お袋が偉かったと思うのは、絶対表に出てこなかったことだね。私が女房と結婚した時、お袋が何て言ったと思う?「芳子さん、よく来てくれた」って。私の親父は外国人だからお袋には負い目がある。私はお袋が死んでから初めて親父の写真を見たんですよ。女房が「これ、お姑さんから預かってる」って見せてくれた。それだけお袋は女房を信頼してたわけだ。私は家を建ててお袋を招(よ)んでも、「この家は俺と芳子の家なんだから、何かする時は必ず芳子に訊いてからやってくれ」と言ってました。私からお袋に小遣いをやったことは一度もない。私が女房を怒鳴ったりすると、お袋は私の後援会長に電話して「旦那さん、あれじゃ嫁が可哀相だから旦那さんから幸喜を叱ってやって下さい。幸喜は息子でありながらもう私の手の届かない所にいっちゃってるから」と。だから親ちゅうのはたとえ息子が総理大臣になっても、一生心配です。

 <自分の32回優勝より娘婿貴闘力の優勝が嬉しかった>

 <昭和46年5月場所の5日目、当時小結の貴ノ花(現・二子山親方)に寄り切られ引退を決意。6日目、土俵にはアナウンスが流れた、「横綱大鵬は引退のため土俵入りはありません」。
 15年間で残した勝率、実に8割3分8厘、優勝32回。未だに破る者なき前人未到の大記録である。>

 一番嬉しかった時?うーん、いつかねぇ・・・。私達の場合、嬉しいって喜んでる暇はないんだよ。優勝して土俵の上で賞状貰ってる時も、考えるのは来場所のことなんだ。今場所優勝したら来場所はそれ以上の技量を要求される。対戦相手も物凄くこっちを研究してくるわけだから。

 「大鵬は優勝するのが当たり前」、そう思われるほど辛いことはないよ。10年間横綱を張ったけど、その間安心して眠ったことはない。だから嬉しいと言えば、娘婿の貴闘力が平成12年の3月場所で優勝した時だね。今場所負けたらやめさすって言われてたのが最後の最後に優勝できたのは神がかりだ。これは私の32回の優勝より価値があるよ。

 <昭和46年12月、大改築して大鵬部屋を設立。今年引退した貴闘力は大嶽親方となり、後継者となるべく、現在親方修行中だ。>

 私が相撲社会に入る時思ったのは、「この社会に骨を埋めよう」ということだけ。そして必死で稽古を続けた。でも「大鵬は天才だ、当然横綱になる人間だ」と言われた。「努力した」って言ってもらったことがない・・・。人間ちゅうのは、他人じゃない、自分との闘いなんだね。死ぬまで自分との闘いだ。それが、私が裸で学んできたことなんですよ。(取材・構成 斎藤明美)

(3)大鵬幸喜(こうき・大鵬部屋親方)

 1940(昭和15)年、旧樺太生まれ。本名:納谷幸喜。父はロシア人。16歳で二所ノ関部屋にスカウトされ、59年十両入り、四股名を「大鵬」に。60年新入幕し大関に。翌年21歳3カ月の史上最年少(当時)で横綱昇進、同時期の横綱柏戸と共に、“柏鵬時代”を築く。71年引退。優勝32回の記録は未だ破られていない。77年脳梗塞で倒れたが不屈の闘病で回復。大嶽親方(元・貴闘力)は娘婿。(2003年5月1日・8日週刊文春)