2019年1月15日第195回「今月の言葉」「皇統についての一考察⑥ー②」

(1)「オンナに言わせろ記者21人のリレーコラム(12月19日、夕刊フジ)

 <両陛下 障害者に心を寄せられ>

 来年4月末に迫った天皇陛下のご譲位まで、残すところ4ヶ月余り、両陛下がこれまで継続してこられた恒例の公務が次々と、“最後の機会”となっていく。

 宮内庁担当記者として、人々と触れ合われる両陛下の優しいお顔をみるにつけ、寂しさが増す今日このごろだ。

 先日の取材現場でも、胸に迫る場面があった。両陛下は6日、例年と同じく、障害者週間(12月3~9日)に合わせて、障害者施設を訪問された。今年は東京都国立市にある知的障害者の福祉施設「滝乃川学園」で、高齢の女性たちが洗濯物をたたむ作業などをご覧になった。

 「きれいにたためましたね」「こっちは難しそうね」と、にこやかに励まされる天皇陛下。皇后さまも「お仕事、見せてくださる?」と一人一人の作業を見守られた。

 その中で、皇后さまの顔を不思議そうに見つめる一人の女性がいた。
女性「お名前は?」
皇后さま「美智子です」
女性「正田美智子さん!知ってる!馬車に乗ってた」「23日、誕生日。2月の、赤ちゃん、浩宮徳仁さん」
皇后さま「ずいぶん前のことを覚えていてくれて、ありがとう」

 気さくに、臨機応変に、優しくすべてを受け止められる。皇后さまのお人柄がにじみ出るようなやりとりだった。

 視察を終えた両陛下が出発される際には、子供から大人まで学園の多くの利用者が見送りに駆けつけた。両陛下は一人一人と手を握り、言葉を交わされていく。

 「みなさんお元気で。さようなら」。手を振って別れを惜しまれる陛下に、一人の少年が突然、駆け寄った。

 ジャンプして掌を重ね合わせて、ハイタッチ。陛下の笑顔に赤みが増していった。

 誰も取り残されることのないように・・・。そんな願いを持ち続けられた陛下と皇后さま。「聖上」「聖母」とお呼びしたくなる。印象的なシーンだった。

<藤森注・・・抜群のタイミングで、素晴らしい資料が新聞に掲載されましたので、2回の予定を3回にしました。下記の「推古天皇」の素晴らしさをご堪能ください>

(2)「続・天皇の日本史(41)(井沢元彦、夕刊フジ、1月9日)

 <推古天皇①>

 蘇我馬子は刺客を送り崇峻(天皇)を暗殺した。これは「日本書紀」に明記してある事実である。しかし逆に「日本書紀」に書いてあるからこそ、100%信じていいのかという疑問も出てくる。なぜならこの国家による「正史」は、最終的に蘇我氏を滅ぼし天皇家の絶対性が確立されてから成立したものだからだ。つまり「勝てば官軍」で天皇家に都合のいいように真実をねじ曲げている可能性はないとはいえない。

 しかしこのあたりの記述は私は信頼していいいと思っている。外国人なら「天皇を殺したのだから、皇族も皆殺しにして自分が天皇になればいいじゃないか」と必ず考えるだろうが、日本はそうはいかない。「神のDNA」を持った天皇家にとってかわるというのは、日本では既に不可能で「大逆臣」蘇我馬子ですら、それができなかったという状況がきちんと記録されているからである。

 ではどうするか?崇峻に代わる新しい「操り人形」を天皇として立てるしかない。馬子が選んだのは亡き 敏達(天皇)の皇后であった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、別名・炊屋姫、かしきやひめ)であった。彼女は欽明(天皇)の娘だから「神のDNA」を持っており、母は蘇我堅塩媛つまり蘇我一族で馬子から見れば実の姪(めい)にあたる。

 問題は女性であることだ。日本ではこの時まで女帝は存在しなかった。いや東アジア全体でもこの時点で女帝が存在した国はない。そうした痕跡があるとすれば唯一日本だけであった。ほかならぬ邪馬台国の女王卑弥呼である。これは中国の歴史書に記録されている。そして天皇家はアマテラスという女神を祖先にもつことは神話に明記されている。

 私は現実の存在であった卑弥呼がのちに神話化されてアマテラスになったのだと考えているが、天皇家は男系相続になっても、アマテラスは実は男性だった、などとは決して主張しなかった。男系を絶対とする儒教を信奉する中国や朝鮮とはまったく違う社会だったということだ。こうした女系(母系)を重んじる社会だからこそ、馬子の「陰謀」も成功した。

 馬子は周囲の反対を押し切って額田部皇女を皇位につかせたのである。第33代推古天皇の誕生だ。既にのべたように初代神武以来初めてのことだ。あの神功皇后ですらあくまで「皇后」であって天皇ではないのに、推古は女性の身で初めて天皇になったのである。

 ここで一言お断りしておかねばならない。これまで初代神武から便宜上「天皇」という称号で呼んできた。しかし天皇という称号ができたのは後世のことで、正式には「大王」あるいは「オオキミ」「スメラミコト」と呼ぶべきである。しかし、どうやらこの推古天皇あたりから「天皇という称号が用いられるようになったらしいのだ。

 どうしてそれが言えるかを述べる前に、推古の皇太子について述べておこう。彼女は男子を産んでいる。だから本当ならその男子が皇太子となるべきなのだが、どうやら若くして亡くなったらしい。そこで彼女はやむを得ず兄の子つまり甥(おい)を皇太子に指名した。それが厩戸(うまやど)皇子のちに聖徳太子とよばれる男子である。

<井沢元彦氏・・・1954年、愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局入社。80年『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞受賞。独自の歴史観からの作品が人気。好評連載単行本化『天皇の日本史』(KADOKAWA)、『コミック版 逆説の日本史』『日本史真髄』(小学館)など著書多数。>

(3)「続・天皇の日本史(42)(井沢元彦、夕刊フジ、1月10日)

 <推古天皇②>

 蘇我馬子が厩戸皇子(うまやどのみこ、聖徳太子)ではなく、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、別名・炊屋姫)つまり推古天皇を担ぎ上げたのは、実の姪(姉の子)でもある彼女の方が男子よりも扱いやすいと思ったからだろう。だからこそ、初代神武天皇以来、男子がなるものと決まっていた天皇に、無理やり彼女を即位させた。「操り人形」にするつもりだったのだ。

 ところが推古天皇は馬子の思惑に反して、天皇になったことに大いに誇りを持ち、蘇我一族の干渉を排除する姿勢を取った。なぜそんなことが言えるのか?ここは馬子の立場に立って考えてみよう。

 馬子は何とかして天皇家に代わって蘇我氏の天下にしようと思っていたことは確かである。結局最終的に蘇我氏は中大兄皇子(天智天皇)に滅ぼされるのだが、中大兄は明らかに蘇我氏の野望を怖れていた。しかし前々から何度も述べているように、蘇我氏の野望の実現は他の国のように簡単にはいかない。意向に逆らう崇峻は殺したものの、中国のように一足飛びに皇族を皆殺しにするわけにはいかない。蘇我氏は「神のDNA」を持っていないからだ。

 ではどうしたら天皇家の天下を乗っ取れるか?それは天皇家をさまざまな手段で衰えさせていくことだろう。実はのちに藤原氏がやった手である。ただ藤原氏と違うのは、藤原氏はあくまで天皇家は立てて実験を奪うことに専念したが、蘇我氏は天皇家を滅ぼすところまで考えていたのではないか。一足飛びには無理だが、自分たちの意向に逆らう皇族は次々と粛清し家系としての天皇家を弱らせ、最終的に「根絶やし」にすることを考えていたのではないかと思う。先の長い話だが、最後の天皇に「今後、日本は蘇我氏に託す」と言わせれば、「神のご命令である」ということで乗っ取り計画は完了する。私は蘇我氏はそこまで考えていたのではないかと思っている。

 では、そうした計画を実現しようと考えている馬子にとって天皇家に「やってほしくないこと」は何だろうか。まず、天皇という地位の権威が高まることだろう。ただでさえ「神の子孫」という権威があるのにそれに加えて何か新しい権威が加われば、臣下に過ぎない蘇我氏との格差はさらに開いてしまう。もうひとつは天皇の政府である朝廷の機構が整い機能することだろう。それは「同族会社」から「株式会社」になるようなもので、蘇我氏以外の氏族が登用されることであり、結果的に蘇我氏独占の体制が崩れることになる。蘇我氏にとっては大バクチを打ってライバル物部氏を追い落としたのに、せっかくの苦心が無駄になってしまう。

 ところが、この馬子あるいは蘇我氏にとって最も「やってほしくないこと」を果断に実行したのが、ほかならぬ推古なのである。だからこそ、推古は馬子の「操り人形」などではなく、むしろ天皇の歴史全体から見ても名君であるとすら言えるのである。

 では、具体的に推古は何をやったのか。天皇の権威の強化について言えば、それは隋、つまり大陸にあった超大国「中国」へ、使者を派遣したことだが、それが、ただの遣隋使ではなかったことは、もうご存じのはずである。

(4)「続・天皇の日本史(43)(井沢元彦、夕刊フジ、1月11日)

 <推古天皇③>

 遣隋使とは「隋に派遣された使者」のことを言う。だから「遣隋使の派遣」などという言い方は「馬から落馬」と同じで重言なのだが、肝心なことはこれが東アジア史において極めて重大な意味を持っているということだ。その意味については何度か解説した。しかし重要なことなので、ここは復習の意味もかねて、もう一度解説しよう。それが実は推古の業績を明確にすることでもあるからだ。

 隋というのは、まさに推古の時代「中国」を支配していた王朝のことである。江戸時代というのは徳川家が「日本」を支配していた時代だというのとよく似ている。王朝はその後、唐、宋、元、明、清と変わったが、国名としては中国である。そして中国とは「中華の国」、つまり世界唯一の文明国であるということだ。

 「世界最高」と表現する人がいるがこれは間違いで「世界唯一」である。世界最高という言い方をすると、最高ではないが中国以外の国にも文化があることになってしまう。「中国以外には文化などない」という傲慢な思想が中華思想である。念のためだが、中国から見ればもちろんローマ帝国にも文化などないのである。だからこそ中華帝国の最後の王朝の清はアヘン戦争でイギリスに惨敗したにもかかわらず、西洋文明を正面から認めようとせず結局滅んだ。中華思想が亡国の原因となったのである。

 中国以外には文化がないとすると、中国以外の地域はすべて野蛮であることになる。「野蛮国」ではない。これも誤解している人がいるが、中国以外には文化だけでなくもないのである。あるのは野蛮人が住んでいる地域に過ぎない。では、そうした地域が「世界で唯一の国」の中国から「国」として認められるためにはどうしたらいいだろう?

 これも何度も解説したようにそうした野蛮な地域の一角をまとめた首長が、中国皇帝に使者を送り貢物をささげ、「私の支配している地域を中国の傘下である国と認め、私をその国の王にしてください」と願い出ればいい。皇帝は「よくぞ来た。殊勝な心掛けである。お前をその国の王と認めよう」と褒美として貢物の何倍もの物品を下賜(かし)し、国王の称号を認めてくれる。

 朝鮮半島の国家は新羅以来、高麗も朝鮮もすべて王国であり、首長は国王だった。琉球も近代まではそうだった。そして日本も古代においては、卑弥呼の時代も「雄略天皇」の時代も首長は国王だった。現代の日本人は彼のことを「雄略天皇」と呼ぶが、この時代「天皇」という称号などなく、彼は日本国内では「ワカタケル大王」であり、国際的には「倭国王の武(倭の武王)」であった。

 もちろんそれは中国皇帝の臣下ということだ。武は中国皇帝に上奏文をささげ、倭国王に任命してもらったのだから、そもそも「皇帝」という神聖な地位を象徴する文字の一つである「皇」の字は野蛮国の首長が決して用いてはならないのである。東アジアでは中国皇帝が絶対的な君主で、皇帝と野蛮な地域の首長が対等ということはあり得ない。

 しかし、この絶対的なルールを破ったのが、推古であった。具体的には彼女の皇太子である聖徳太子が当時の中国皇帝に「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す」という完全な「タメ口」の国書を出したのだが、もちろんそれは日本の「元首」である推古の了解なしにできることではない。

(5)「続・天皇の日本史(44)(井沢元彦、夕刊フジ、1月12日)

 <推古天皇④>

 つまり推古は日本の「スメラミコト」を、「世界の支配者」である中国皇帝と対等な地位に引き上げたのである。一昔前は「天皇」という称号も推古から用いられるようになった、というのが定説であったが、最近はその少し後の天武天皇だという説が有力のようだ。しかし、仮に「天皇」という称号が作られたのは天武の時代だったとしても、そうした東アジアの常識にまったく反する称号づくりを可能にしたのは推古の「対等宣言」があったからこそだ。

 実は極めて危険な賭けでもあった。もし中国大陸と陸続きの朝鮮半島の国家、たとえば新羅の国王が同じことをすれば、中国は激怒し膺懲(ようちょう=こらしめること)の征伐軍を派遣し、そんな国王を殺し、国まで滅ぼすかも知れない。

 しかし、日本と大陸の間には深い海がある。それもあって推古の「中国何するものぞ」という「ツッパリ外交」はとりあえず無事だった。では、なぜそんなことをしたのかといえば、「天皇」いや正確に言えば日本国内では神の子孫が代々世襲していたスメラミコトの地位を、国際的にも高めるためだったろう。前に述べた「蘇我馬子が嫌がること」、つまり蘇我氏の「天下取り」に大きく待ったをかける行為である。

 もちろん、この「常識破りの遣隋使」とともに、推古の皇太子であり摂政(せっしょう、天皇代理)でもあった聖徳太子の政治として記録されている「十七条憲法」の発布、「冠位十二階」の制定も当然この路線に沿ったものだ。「十七条憲法」によって内政が強化され、「冠位十二階」によって各豪族から有能な人材が公平に登用されるようになれば、蘇我氏の専横体制は大きく揺らぐからである。これらの政策を立案したのは聖徳太子だが、日本国のトップである推古の承認無くして実行はできない。つまり推古の政策なのである。

 有名な話が伝えられている。馬子は既に述べたように推古の母方の叔父だ。その馬子があるとき推古に地方の支配権を要求した。その時、推古は「叔父だからといって、公地を私人に譲ったら、私は後世から愚かな女と批判され、あなたも不忠の臣と非難されるだろう」と拒絶したというのだ。公私混同しない、まさに名君といっていいだろう。

 現在、今後の「女帝誕生」の可能性については批判的な意見もあるが、日本では推古といい、この後「首都固定」という大偉業を成し遂げた持統といい(この点については「天皇の日本史」KADOKAWA刊を参照されたい)、画期的な大改革を成し遂げたのは女帝であるケースが多い。女性はそれまでの常識に縛られず果断な決断ができるからだろう。もっともこの推古の「日中対等外交」は少し後の時代に、中国(唐)と戦争(663年、白村江の戦い)に及ぶという事態も招いた。「倭王武(雄略天皇)」の時代には到底考えられないことである。

 また推古の少しあと、新羅にも善徳女王という女帝が誕生した。日本以上に男系絶対の朝鮮半島で女帝が誕生したのは、「推古のマネ」としか言いようがない。何でもすべて朝鮮半島がオリジナルで日本はそれをマネしたにすぎない、というのは現代韓国でも主張されていることだが、そんな主張は正しくないことがこの一件でもわかる。推古(即位593年)が先で善徳(即位632年)が後だからだ。<この項おわり>

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