2018年12月15日第194回「今月の言葉」「皇統についての一考察⑥ー①」

(1)皇統について、人それぞれの思いがあることと思われます。

 下記の新聞記事をご参考に、それぞれの思いを深めてみてはいかがでしょうか

(2)「平成と天皇」(朝日新聞、2018年10月11日)

 <手紙に応えた皇后さま>

 <オランダ女性「助力に感銘」>

 2000年5月24日、アムステルダムのホテル。オランダ訪問中の天皇、皇后両陛下によるレセプションが開かれた。皇后さまはマルゲリート・ハーマーさん(77)のもとへ額がつくくらい近寄って手を取り、「お会いできて、こんなうれしいことはありません」と話しかけた。

 第二次世界大戦中、旧日本軍はオランダ領東インド(現インドネシア)を占領し、オランダ人を収容所に抑留し男性を捕虜として強制労働させたとされる。女性を収容所から慰安所に連行したとして、戦後のBC級戦犯裁判で有罪判決を受けた旧日本軍人もいた。

 ハーマーさんはジャワ島スラバヤ生まれ。幼いころ収容所に抑留され、戦後オランダに引き揚げた経験を持つ。村山内閣のもとで1995年、元慰安婦への「償い事業」を手がけた「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」が発足すると、オランダ人被害者に対する事業実施委員会(PICN)の代表になった。女性らの訴えを聞き、79人への事業支給を橋渡しした。

 その中で、日本軍将校の子2人を産んだという女性と出会った。戦後結婚したオランダ人の夫と育てるつもりだったが、将校に連れ去られてしまったという。

 その子2人を捜してほしい、と依頼を受けたハーマーさんは98年に来日した際に捜したが、手がかりがつかめない。前任の代表のホベルト・ハウザーさん(2014年死去)との連名で、皇后さまあてに助力を求める手紙を書いた。

 そのことを皇后さまは覚えていた。手紙に書かれた女性と子ども2人の名も記憶していて、ハーマーさんに、日本赤十字社名誉総裁として「できるだけ助力したい。2人を捜すよう伝えました」と語ったという。

 数か月後に調査報告書が送られてきた。子どもは見つからなかった。だが、「手紙を読んで助力を申し出てくれた温かい言葉に感銘を受けました」とハーマーさんは振り返る。

 その1日前の5月23日、両陛下はアムステルダム中心部のダム広場にいた。オランダ到着後に直行し、戦没者記念碑への供花に臨んだ。すぐ後ろにベアトリックス女王(13年退位)。ハウザーさんも付き添った。

 ハウザーさんはインドネシアで生まれ、日本軍の収容所で4年過ごす間に母親を亡くした。オランダに引き揚げ、国軍の参謀総長を務め、PICNの初代代表となった。両陛下に付き添ったのは、つらい過去を持つハウザーさんに、あえて女王が依頼したのだった。

 日本側は、広場で抗議の声が上がることを懸念していた。東郷和彦さん(73)は前年に外務省欧亜局長に着任した際、上司からこう言われたという。「オランダ訪問は失敗できない。変なことが起きたら内閣が吹っ飛ぶかもしれない」

 <鉄柵の外 抗議の抑留被害者>
 当時、元捕虜や抑留被害者らが毎月1回、ハーグの日本大使館前で謝罪と補償を求めるデモを続けていた。駐オランダ大使だった池田維(ただし)さん(79)は毎回のようにデモの代表を大使室に招き入れて話を聞いた。4月に会った際「私たちの一部がデモをしても、女王やその賓客である天皇の威厳を傷つけはしない」との回答を得ていた。

 両陛下は花輪を捧げて目礼した。数千人が詰めかけた広場を静寂と緊張が包む。1分あまりがたち、軍楽隊が演奏を始めたが、それでも陛下はさらに数十秒、頭を上げなかった。

 銀行家として70年代から300社以上の日本企業を受け入れた親日家のロスト・オネスさん(82)は「心をうたれる瞬間だった。あの長いお辞儀が最も重要なできごとだった」。東郷さんも「祈りの気迫が広場を支配していた」と話す。

 花輪の周りには鉄柵が立てられ、夜を徹して警備がついた。抑留被害者らが白い花を1輪ずつ持って抗議に訪れたが近づけず、鉄柵の周りに花を手向けた。その場にいた中尾知代・岡山大准教授によると「父をかえせ、母をかえせ」と泣き崩れる女性もいたという。

 皇后さまは翌01年の新年に際し、こう詠んだ。

 慰霊碑は白夜に立てり君が花抗議者の花とともに置かれて

(編集委員・北野隆一)

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