2018年7月25日第137回「トピックス」
「親日を巡る旅、カンボジアが国の紙幣に日の丸を描くまで」
自衛隊に対するいろいろな考え方がありますが、とても素晴らしい記事をネットで見つけましたので紹介します。日本は「軍隊」のイメージよりも、こういう活躍が相応しいように思えますがいかがでしょうか。<SAPIO2018年7・8月号>
紙幣は国の「顔」である。1万円札には福澤諭吉、1ドル札にはジョージ・ワシントン、人民元には毛沢東と各国を代表する人物が描かれている。だが、カンボジアはそこに日の丸を描いている。それほどまでの親日感情はなぜ生まれたのか。ジャーナリストの井上和彦氏が迫った。 |
カンボジア王国──まず思い浮かぶのは、国旗にも描かれている世界遺産アンコール・ワットやアンコール・トムだろう。
カンボジアを観光で訪れる人のほとんどがこの遺跡群を訪れ、その美しさに言葉を失い、いにしえの人々の叡智に感銘することだろう。私もその一人であったことは言うまでもない。建設機械もコンピューターもない時代によくぞこんな立派な建造物を造れたものだと感心させられる。そのカンボジアと日本との深い絆を語る際、前段階として同国の暗い歴史に触れないわけにはいかないだろう。 ◆自衛隊初のPKO カンボジアにはポル・ポト率いる共産党独裁政権による筆紙に尽くせぬほど辛い暗黒時代があった。それは同国史上最大の汚点であり、できることなら消し去りたい負の記憶だろう。だが、むしろこの共産主義の恐怖と殺戮の史実を語り継ぐことで、二度とこうした悲劇を繰り返してはならないという教訓にしているのであろう、各地にポル・ポト時代の遺跡が保存されている。 首都プノンペンにあった政治犯収容所「S21」はトゥール・スレン虐殺博物館として公開されている。そこには残酷な拷問室や独房などが当時のまま保存されており、一歩足を踏み入れると背筋が寒くなる。 他にも、各地に“キリング・フィールド”と呼ばれるポル・ポト派による虐殺現場がある。ある寺院では地中から無数の頭蓋骨が発見され、それらは誰もが見られるように安置されており、中国の支援を受けたポル・ポト政権の残虐さと共産主義の恐ろしさを後世に語り継いでいる。 カンボジアの悲劇はそれだけではなかった。20年におよぶ内戦で、隣国のベトナムや中国、そしてアメリカなどが様々な形で介入し、国土は荒廃して国民生活は困窮を極めたのだった。 1991年10月、パリ和平協定が調印され内戦が終結。同年11月、カンボジアの復興支援のため、国際連合平和維持活動(PKO)の先遣隊がやってきた。続いて1992年3月には国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が活動を開始。これを受けて日本政府も動き出した。それが自衛隊初のPKOとなった。 |
◆25年後の宿営地は
1992年6月に「国際平和協力法」、いわゆる“PKO法”が成立。8月に同法が施行されるや、その翌月には陸上自衛隊の施設大隊と停戦監視要員が、戦乱から立ち直って民主選挙を控えたカンボジアへ派遣されたのだった。 日本PKOの幕開けとなる派遣部隊は、内戦で破壊された道路や橋梁を修理するなどして復興に大きく貢献した。UNTACに派遣された陸上自衛隊員は、タケオ州を中心に第一次・第二次隊合わせて約1200名、約1年間の任務期間中に修復した道路は100km、補修した橋梁は約40橋に上ったのである。 ところが日本国内では、初のPKO任務での自衛隊海外派遣について、まるで自衛隊が対外戦争に派遣されるかのような物言いの反対論もあったと記憶している。さらに携行する武器を巡って非現実的で無責任な議論が巻き起こった結果、派遣部隊は小銃と拳銃という軽装備で任務を遂行せねばならなかったのだ(※注)。 〈※注/戦後初の自衛隊地上部隊の海外派遣とあって、反対派を抑えるために軽武装となったが、現地のゲリラよりも火力が劣るとして当初から危惧する声があった。〉 だが実際はどうだったか。筆者はあれから25年後のタケオ州を訪れた。 かつての自衛隊の宿営地は、いまはサッカー場としてきれいに整備されており、そこには平和に暮らす村人の生活があった。 当時、情報局の職員だったサオ・サリ氏はいう。 「自衛隊がやって来たときは本当に嬉しかった。自衛隊は道路や橋をつくり、あるいは修復してくれたし、村の人々とも温かい交流があった。 当時はまだ近くにポル・ポト派兵士がいたので危険でしたが、自衛隊が守ってくれていたので人々は夜でも明るくして生活できたし、安心して眠れました。もし自衛隊が来てくれなかったら、この地域の人々は安全なところに避難しなければならなかったでしょう。我々は日本の自衛隊に感謝し、その恩を忘れません」 地元の人々は自衛隊を大歓迎し、PKO派遣を“日本の侵略行為の兆候”などと捉えてはいなかったのである。実はUNTACには自衛隊だけでなく、警察官75名、選挙要員として国家・地方公務員18名、民間人23名が参加しており、まさに国を挙げてのカンボジアに対する援助だった。 こうした活動の中で、国連ボランティアの選挙監視員として活動していた中田厚仁氏と、文民警察官の高田晴行警部補が相次いでゲリラに襲撃されるなどして殉職したのである。高田警部補(殉職後、警視)は、自衛隊ではなくオランダ軍に護衛されて移動中の出来事だった。 ◆息子を「キンタロウ」と命名 そして日本のPKO部隊が当初の任務を無事終了して撤収した後、2002年(平成14年)から、元自衛官らで組織される「日本地雷処理を支援する会」(JMAS)がカンボジア各地で地雷処理を開始した。 長きに亘る内戦でばらまかれた地雷によって、いまも多くの人々が足を吹き飛ばされ、あるいは命を落としており、現代のカンボジアにとって深刻な問題となっている。 そんなカンボジアの遺棄地雷処理に、現役を引退した元自衛官が無償で汗をかこうというのだからカンボジアの人々に感謝されないわけがない。 こうしたことも含めてカンボジア人の対日感情はすこぶる良い。 ガイドを務めてくれたソフィアさんは、たいへんな親日家で、カンボジア人のご主人との間に二人の子供をもうけたが、娘には「カオリ」という日本名をつけ、息子にも「キンタロウ」とつけたという。カオリは綺麗な響きだから、キンタロウは日本の童話に出てくる金太郎のことで、親孝行で強く逞しく悪者をやっつけてくれる人になってほしいという思いから命名したのだという。 そんなソフィアさんが、こんな話をしてくれた。 「中国製のものは何でもすぐに壊れますが、日本製は丈夫で壊れません。だからカンボジア人は高くても日本製の車やバイク、電化製品を欲しがるんです。それにもし万が一壊れても、日本人はすぐにやってきて無償で直してくれたりしますが、中国はお金を要求してきます。こうしたことが大きな違いなんです。だからカンボジア人は日本が好きで感謝しているんです」 皮肉たっぷりに言うと、粗悪で安価な中国製品がカンボジア人の日本への信頼と好感度を高めてくれているというわけだ。 そんな日本への感謝の気持ちは、カンボジア紙幣が何より雄弁に物語っている。 カンボジアの紙幣500リエルの裏側には、日本のODAでメコン川に架けられた「きずな橋」「つばさ橋」と共に「日の丸」が描かれているのだ。 復興のために日本政府が行ってきた誠実な支援に対するカンボジアの感謝の気持ちが、紙幣に現れていることをどれほどの日本人が知っているだろうか。<SAPIO2018年7・8月号> |
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